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2015年8月27日木曜日

出雲大社の存在は明治以後,にびっくり!NHK・ぶらタモリの「出雲」で知る。恥ずかしい。

 8月24日(月)の夜に放映されたNHKテレビの「ぶらタモリ」という番組を,遅い夕食をとりながら,ぼんやりと眺めていた。一瞬,チャンネルを変えようかとおもったが,旅先が「出雲大社」だということがわかったので,ちょっとだけ覗いてみて,面白くなかったら変えればいいとおもいながら眺めていた。そうしたら,驚くべき「事実」を知り,びっくり仰天してしまった。

 出雲大社は,明治以前は存在しなかった,というのである。そして,明治以前まで存在したのは杵築大社だ,と。この杵築大社が明治になって出雲大社と改称したのだ,という。おやおや,である。わたしの頭のなかでは,出雲大社は古代からずっとあって,それがこんにちまで継承されてきたのだ,ということになっていた。しかし,そうではない,というのだ。

 そこで慌てて,出雲大社について調べてみた。すると,つぎのようなことがわかった。

 1871(明治4)年,杵築大社を出雲大社と改称。官幣大社に列格。大正時代に勅祭社となる。現在は神社本庁包括に属する別表神社。宗教法人出雲大社教の宗祠。出雲国一の宮。

 これをみるかぎり,わたしがむかしから出雲大社が存在したと信じてきたのは,それは杵築大社のことだった。なぜ,こんなことが起きたのか。その責任は,古代史を語る研究者や作家たちにある。なぜなら,古代出雲を語る記述の最初のところで杵築大社(のちの出雲大社)と断り書きをしていても,あとは,全部,出雲大社で押し通してしまっているからだ。そそっかしい読者のわたしは,杵築大社と呼ばれた時代は創建当時のわずかな期間のことであって,そのあとすぐに出雲大社になったものと勘違いしてしまったのだ。

 たとえば,こうだ。国譲り神話のなかで,オオクニヌシを祀るための大きな社殿を建造した,という話がでてくる。その名前は杵築大社,のちの出雲大社のことである。そして,この出雲大社を守る国造には・・・,という調子で,このあとの説明では,すべて出雲大社という名称を用いている。だから,杵築大社という名称は記憶のなかのかなた遠くに消えてしまう。そして,出雲大社という名称だけが鮮明に残ってしまう。

 こんなことも知らないまま,こんにちまで生きてきたことが恥ずかしい。

 テレビをみていてびっくり仰天したことが,もう一つある。それは「縁結びの神様」として全国に知られるようになったのも,これまた明治以後のことだ,というのである。杵築大社を出雲大社と改称したのをきっかけにして,この出雲大社の存在を全国に知ってもらうために,出雲大社に所属する御師(おし)たちが暦やお札を全国に配ってあるいた。そのときの宣伝文句に八百万の神様が集まる大社にことよせて,「縁結び」の神様である,と言いふらしたのが大当たりして,一気に知られるようになった,という。折しも,鉄道時代がやってきて,出雲大社の近くまで鉄道を引いたので,全国から鉄道を使って参拝客が押し寄せるようになった,と。それはそれはたいへんな賑わいで,町も大いに栄えた,という。

 こうして出雲大社は全国にその名が知られるようになった,というのである。いやはや,伝統はいともかんたんに「創造」されてしまうものなのだ,という典型的な例。わたしたちの多くは,この「創造」された伝統を丸飲みして信じてしまっていた,という次第。

 思い込みというものは恐ろしい。これから気をつけなくては・・・・。くわばら,くわばら。

2015年8月22日土曜日

溝口神社。伊勢神宮の分霊社。しかも,安産祈願の神社。おやっ?なにかあるな?

 溝の口に引っ越してきて間もないころ,そう17年ほど前のこと,近所を散歩していて「溝口神社」に出会い,へえーっ「溝の口」を守る神社があるんだ,という程度の認識ですっかり忘れていた。しかし,沖縄に嫁いだ娘から「溝口神社」は安産祈願の神社で有名なんだと聞かされ,びっくり。あわてて再度,確認のためにでかけてみた。

 もう少し樹木に囲まれた瀟洒な神社だとおもっていたら,どっこい丸裸の小さな社殿がぽつんと建っていた。もっとも裏道から突然,この社殿の前に立ったので,なおさら驚いた。左側に,社殿に似合わないほど立派な社務所があって,ご祈祷の案内やお札などがずらりと並んでいる。しばらく境内でたたずんでいたら,結構,入れ代わり立ち代わりしてお参りにくる人がいる。しかも,そのうちの半数ほどは社務所に向かい,なにやらお話をしている。なるほど,かなり有名な神社なのだと納得。

ふとみると,小さな提灯がぶら下がっていて,よくみると側面に「伊勢神宮の分霊社」と書いてある。えっ?まさか?とびっくり。

どうして?といぶかりながら参道を歩いていたら,溝口神社の案内板があった。そこには「川崎の祈願所」とあり,御祭神は「天照皇大神」と「日本武尊」とある。そして,「神社のいわれ」が縷々詳しく述べられている。それによれば,もともとは「赤城大明神」(「赤城社」)として建てられた神仏混淆の古社であり(1709年),明治になって神仏分離の令によりこの地域の総鎮守として祀るために,新たに伊勢神宮から分霊を迎え,祭神を天照皇大神と日本武尊とし,社名も溝口神社と改めた,とある。

 
明治維新による神仏分離令なるものの実態のひとつの例がここにある,と初めて知り感動。そうか,天皇制の基盤をさらに確固たるものにするための神仏分離令だったのだ,と。そして,伊勢神宮の分霊社は,そんなに多くどこにでもつくれるものではなかったはずなので,この地域では珍重され,大事にされて,多くの信者をもつことになったのだろう,とこれはわたしの想像。
 
その隣には「ご祈祷」の案内板がある。それによれば筆頭が「安産祈願」,つづいて「お宮参り」,「七五三詣」とある。いずれも「子ども」関連である。これが明治以後のことだとすれば,やはり,ここにも富国強兵を支える人材確保,いわゆる「生めよ殖やせよ」政策の反映をみる思いがする。看板を付け替えた神社にはこんな背景も読み取ることができる。いやはや驚くべき発見。

 
そんなことを思いながら参道を歩いていると,狛犬さんに出会う。こちらもよくみると「子持ち」の狛犬さんだ。なるほど,これで,この神社のなりたちがみえてきた。子孫繁栄と国家安泰がセットとなって,伊勢神宮の分霊社を全国にばらまいていった,その一つがこの「溝口神社」だったのだ。つまりは,明治政府の国策の一環として,この神社は機能した,というわけだ。いまは寂れてしまっているが,いっときは相当に繁盛した神社だったに違いない。

 
神社の参道の入口には,「例大祭」のポスターが掲示してあった。9月12,13日とある。どんなお祭りをするのか,ことしは顔を出してみようかとおもう。とりわけ,神社の中での祈願がどのように執り行われるのか,知りたいところだ。できれば,聞き取りもしてみよう。

 
この神社は,旧大山街道に面している。落語の「大山詣」でも知られるように,江戸時代には,江戸の庶民が精進落としも兼ねて,多くの人が大山神社(神奈川県厚木市?)をめざした。その大山街道からこの神社の参道がついていて,その奥まったところに社殿(当時は,「赤城社」)があったことになる。たぶん,大山詣での旅人も,この赤城社に立ち寄り,一休みしながら,旅の無事を祈願したことだろう。


〔追記〕
安産祈願の神社としては,水天宮と溝口神社とが並び称せられているとも聞き,いささか驚いてもいます。それほどの神社であるとしたら,これまでの経緯を調べてみる必要がある,と考えています。なにゆえに「赤城社」を「溝口神社」に社名を変えたのか,もっと深い理由がありそうだからです。なにかが隠されている・・・・そんな予感がいっぱい・・・・。
 

2015年4月3日金曜日

「飛鳥の原に百済の花が咲きました」(Hong-june You)。韓国からのまなざし,強烈なインパクト。

 「飛鳥は百済のコントロール下にあった」とは言っていませんが,内容はまさにそのままの印象です。韓国の美術史の専門家(Hong-june You)の眼には,飛鳥は百済の支配下にあった,とみえているようです。飛鳥時代に飛鳥の各地に残された,これだけの仏教文化の影響をみれば一目瞭然ではないか,と言外に含ませています。

 この韓国の研究者のまなざしは,一瞬,虚をつかれ,びっくりさせられますが,それでもなお,なるほどと納得させられてしまいます。そういう説得力を持ち合わせています。単なる紀行文のかたちを借りた著者の強烈なメッセージは,大成功と言っていいでしょう。

 正直に告白しておけば,古代史がひっくり返る,そんな印象です。そして,そのようにみた方がはるかに自然でもあります。しかし,その実態をいかに隠蔽・排除するか,そして,万世一系の天皇制をいかに正当化するか,知恵者・藤原不比等はあらんかぎりの手段をつくして,記紀編纂の仕事に取り組んだ,という見方がますます正当性を帯びてきます。

 やはり,すべての謎は蘇我4代にわたる大王の存在をいかにして矮小化し,否定するか,そして,その実態をいかに隠すか,そこに尽きるようにおもいます。それでもなお隠しきれずに露呈してしまうものが,あとを絶ちません。

 その筆頭が,石舞台,すなわち蘇我馬子の墓。それも,「そう言われている」というだけで,断定はされていません。なぜ?もし,違うとしたら,では,蘇我馬子の墓はどこにあるのか,それすらわかってはいません。なぜ,これほどの大王の墓が特定できないのか,そこにすべてが集約されているようにおもいます。

 
だれか,都合の悪い人が,必死になって隠したのです。蘇我一族の墓は寄ってたかって破壊したか,土を積んで隠してしまったに違いありません。

 石舞台とはよく名づけたものです。この場に立って考えてみると,いろいろのことが透けてみえてきます。たとえば,このロケーションの良さ。飛鳥の中でも一等地です。後ろに山を背負い,川が流れ,眼下に飛鳥平野が一望のもとです。風水から考えても文句なしの条件が整っています。しかも,この一等地に,墓らしきものがあるのはこの石舞台だけです。こんなところに墓(古墳)を,しかも巨大な墓(古墳)をつくることができた大王は,どう考えてみても蘇我馬子くらいしか考えられません。なのに,そのような伝承すら残ってはいないというのですから,よくもまあ,ここまで徹底して,その痕跡を消したものだと感心してしまいます。

 この石舞台も長い間,土に埋もれ,小高い丘になっていたようです。そして,灌木が生い茂っていたようです。しかし,長い歳月を経て,土は少しずつ雨水に流され,巨大な岩が姿をあらわすことになります。そして,いつの頃かに,盗掘され,石室の中には遺骨も宝石らしきものも,なにも残ってはいません。単なる空洞だけです。虚しいかぎりです。

 蘇我馬子と同時代にともに天皇を支えたといわれる聖徳太子の誕生寺・橘寺は,この石舞台のはるか下に位置しています。しかも,聖徳太子の墓は,なんと飛鳥ではなく,山一つ越えた難波にあります。これもまた,大きな謎です。

 そして,飛鳥の原の中心に位置して大きな役割をはたした寺,それこそが飛鳥寺です。仏教伝来の中心です。いまでこそ小さな寺にしかみえませんが,その遺構をみると,当時にあっては巨大な伽藍が立ち並んでいたことがわかります。そのシンボルともいうべき飛鳥大仏はいまも健在です。そして,異様な雰囲気をかもしだしています。手を伸ばせばとどきそうな至近距離というのも,この飛鳥大仏の魅力の一つといっていいでしょう。

 この飛鳥寺を中心にして,周囲にさまざまな仏教文化の花が咲き誇ることになります。その一つひとつを尋ね歩きながら,著者のHong-june You は「飛鳥の原に百済の花が咲きました」と宣言します。詳しいことは省略しますが,この本を読んで,わたしの飛鳥を見る眼は一変してしまいました。そして,もう一度,全部,自分の足で歩きながら,「百済の花」をみてまわりたいとおもっています。そういう距離に全部,そろっているのですから。

 とてもとても不思議な本です。ぜひ,ご一読をお薦めします。
 立ち位置が違うだけで,こうも古代史の見方が変わるものか,といういい見本です。
 そして,古代史はまだまだ謎だらけだということもよくわかります。

 ということは,いま,学校で教えている日本の古代史は,いったい,だれのために,だれが書いた歴史なのか,ということも大問題となってきます。

 歴史認識ほど恐ろしいものはありません。それはいまも隣国との紛争の種となってつづいているのですから。

2014年11月12日水曜日

蘇我馬子,蝦夷,入鹿。このネーミングの不思議と乙巳の乱・大化の改新。その謎に迫る。その2.

 「蘇我馬子,蝦夷,入鹿」という蘇我一族の三代にわたる名前を,はじめて教科書でみたとき,なにか妙な気分になりました。古代の日本人,それもエリートたちが,こんな妙な名前をもっていて,しかも,この名前にプライドをもっていたのだろうか,と。と同時に名字にも不思議なものを感じました。「蘇我」・・・「蘇るわれ」。わたしのイメージは,一度,死んだ人が命を吹き返す,蘇生する,というものでした。我が蘇生する・・・・なにかあるな,と。

 のちになって,『古事記』のなかに,オオクニヌシの長男コトシロヌシが国譲りを承認したのちに,海に向かって駆け出し「宙返り」をして海に消えていった,という記述に接します。このことの意味がなんのことやら,長い間,わかりませんでした。しかし,この逸話を「コトシロヌシは国譲りを認めたあと,寝返って,相手のニニギノミコトの側についた」という記述に接し,ハッと虚をつかれたことがありました。それからしばらくして,「蘇我」とはこのコトシロヌシの寝返ったことの隠喩ではないか,と閃くことがありました。そうか,「蘇我」とは出雲のもう一つの顔なのか,と。

 この仮説を立てて推理してみますと,いろいろのことが,わたしなりにすんなりと理解できるようになってきました。以下の推論は,その延長線上にあるものです。

 馬子・・・「うまこ」。馬小屋で生まれたという伝承のあるイエス・キリスト。その伝承とあまりにも酷似している聖徳太子の出自。なにか,そこに謎が含まれているのではないか,と予感する。
 蝦夷・・・「えみし」。文字通り,これは「えぞ」の読み替え。外来の人。よそ者のイメージ。どこか天皇家の本筋からはまったく別の存在であり,中央から排除しようという意図を感じ取ることができます。この時代にあっては,北方に住み,天皇にまつろわぬ人びとの代名詞でもありました。
 入鹿・・・「いるか」。ことここにいたっては,もはや,意味不明。少なくとも,人間のイメージはない。しかも,動物にもいない。あるとすれば「海豚」(いるか)の当て字。だとすれば,入鹿は,人間と交信することができる海の哺乳類として,むかしから人間に近い存在。そのイメージでこの名を冠したとしたら・・・・。

 この親子三代は,時代的には,推古天皇から斉明天皇にいたる女帝たちを支えていた一族だということになります。しかも,馬子を筆頭にその権力を乱用・悪用し,かずかずの悪事を重ねた,というレッテルが貼られています。しかし,この時期と,聖徳太子が素晴らしい政治を展開した,という伝承とはぴったりと重なる時期です。

 しかも,近年になって,聖徳太子不在説が登場し,いまではこの説を否定する根拠が見当たらず,定説となりつつあります。この議論はいろいろに波紋を呼んでいますが,さらに,最近の議論では,聖徳太子を蘇我蝦夷に当てはめると,話の筋がすっきりする,というところにいたっています。これらの話は,本来ならば,もっと詳細に論ずる必要がありますが,ここではとりあえず,この程度にしておきます。

 そんなことを考えていたら,つい最近になって『聖徳太子は天皇だった』(渡辺康則著,大空出版)という新聞広告に出会いました。そのコピーによると「万葉集に登場する軍王は斉明天皇の恋人であり,蘇我蝦夷であり,天皇だった。『万葉史観』が誘う日本書紀が隠蔽した事実とは?!」とあります。わたしは,これをみた瞬間に,やはりそうだったのか,となんの疑念もなくすんなりと納得してしまいました。

 そして,不可解きわまりない「乙巳の乱」は,まぎれもなくクーデターだった,と。蘇我一族を抹殺・抹消するための,中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデターであった,と。

 斉明天皇に仕えていた蘇我入鹿は,宮中で中大兄皇子に切りつけられ,殺されてしまいます。この知らせを聞いた父親の蝦夷は「もはやこれまで」と観念して,自害してしまいます。その上で,中大兄皇子は蘇我一族を皆殺しにしてしまいます。つまり,蘇我一族の血をひく者たちをすべて(女子どもの)抹殺してしまいます。これが「乙巳の乱」というわけです。

 しかし,斉明天皇は中大兄皇子の母親です。しかも,入鹿の父親である蝦夷は斉明天皇の恋人であったとなれば,ことはそれほど単純ではなくなってきます。三代にわたる蘇我一族は相当に優秀な人物たちであったようで,素晴らしい業績を数多く残していて,絶大なる信頼をえていたように,わたしにはみえてきます。しかも,三代目の入鹿も若くしてその頭角を表していたようです。となると,中大兄皇子が,母親の斉明天皇のあとを引き継いで天皇になるチャンスはほとんどない,あるいは,大いに邪魔な存在である,と判断したとしても不思議ではありません。そこで,中臣鎌足と謀議を諮り,入鹿殺害に及んだ,というストーリーが浮上してきます。

 この「乙巳の乱」が,そのまま事実として歴史に記録され,記憶として残されると困るのは,のちに天智天皇となる中大兄皇子です。ですから,蘇我一族の善政を,聖徳太子という架空の人物を創出し,この人物にすべてかぶせ,蘇我一族を悪者に仕立てあげる,という悪知恵が登場します。その仕掛け人が,藤原不比等です。

 この藤原不比等もまた謎多き人物です。一説によれば,藤原不比等は天智天皇の子どもだとのこと。つまり,天智天皇が宮中に入れることのできない女性が身ごもったことを知り,この女性を中臣鎌足の妻として押しつけます。そして「生まれてきた子どもが女の子であったら,おれに返せ。もし,男の子であったら,お前の子どもとして育てろ」という密約があった,と。そうしたら男の子であった。だが,その子どもに中臣姓を名乗らせるのは忍びない,ということで鎌足に藤原姓を与え,中臣とは一線を画すことにしました。こうして中臣の血筋ではない,まったく新たな貴族・藤原不比等が誕生した,というわけです。

 ですから,のちの持統天皇とは腹違いの姉弟であった,ということになります。天智天皇と天武天皇は斉明天皇の子どもで兄弟だ,ということになっていますが,この二人の関係もじつに複雑怪奇です。たとえば,天智天皇は自分の娘3人を天武天皇の妻にしています。そのうちの一人が持統天皇です。つまり,藤原不比等は,天智天皇を父に,天武天皇を叔父に,持統天皇とは腹違いの姉弟という関係の中で育ちます。しかし,天皇にはなれない系譜なので,もっぱら天皇を支援する側にまわります。そして,藤原不比等は自分の娘たちを天皇家に送り込む戦略にでます(ここにも面白い話が満載ですが割愛)。

 かくして,藤原不比等は万世一系の天皇制を磐石なものにするために『日本書紀』の編纂にとりかかります。そのためには,なにがなんでも「乙巳の乱」を正当化する必要があります。そのために至りついたアイディアが「聖徳太子の創造」です。蘇我一族の善政をすべて聖徳太子の事跡として讃え,持ち上げておいて,あとは蘇我一族を悪者に仕立てあげればそれで万事OK,という空恐ろしい陰謀です。

 しかし,この陰謀がもののみごとに成功し,藤原一族は権勢をほしいままにして繁栄をつづけます。そして,その流れはこんにちの天皇制護持にまでつながっています。

 というところで,今日のところはここまでとします。このあとは,大化の改新と律令制の謎に迫ってみたいと思います。このアイディアはどこからでてくるのか,という問題です。では,その3.で。 

2014年11月11日火曜日

蘇我馬子,蝦夷,入鹿。このネーミングの不思議と乙巳の乱・大化の改新。その謎に迫る。その1.

 雑誌『世界』(12月号)の特集「報道崩壊」を読んでいたら,突如として,『日本書紀』『古事記』のことが脳裏に浮かび,つぎからつぎへと疑問が湧いてきて,とうとう抑えようがない衝動につき動かされてしまいました。その経緯をかんたんに説明しておきますと,以下のようになります。

 以前から,藤原不比等という人物の存在が気がかりになっていました。その根幹にある疑念は「記紀」の編纂のねらいはなにであったのかという点にあります。つまり,日本古代の「正史」を意図的・計画的に改竄・構築し,それを敷衍させなければならなかった理由はなにか,ということです。もっと踏み込んでおけば,どうしても隠蔽・排除しなければならない歴史の真実があったのではないか,というのがわたしの仮説です。

 それは乙巳の乱であり,大化の改新であり,律令制の基礎固めであり,万世一系の天皇制の確立,等々であります。つまり,これらがなにを意味しているのか,という問題に突き当たっていきます。その根底にあるわたしの問題意識は,国譲りにはじまる新しい統治者とオオクニヌシを崇める出雲族との「妥協」(「手打ち」)という名の対立抗争の内実と,その「尾」を断ち切ること,にあるのではないか,というのが第一点。そのためにこそ,歴史の真実とはまったく異なる新たな「歴史物語」(「記紀」)を捏造し,それを「正史」として位置づけること,つまり,歴史の真実を覆い隠すこと,にあるというのが第二点。この二点に集約することができます。

 もう少し踏み込んでおけば,以下のようになります。垂仁天皇によって取り立てられた出雲族のノミノスクネの末裔である菅原道真が,なにゆえに藤原一族によって「冤罪」をかけられ,太宰府に流されることになったのか。つまり,天皇制を確立し,それを護持することでみずからの存在理由を明確にしようとする藤原一族にとって,それ以前から隠然たる勢力を,それも全国ネットで維持している出雲族の存在が邪魔で仕方がなかったのではなかったか。その出雲族抹殺のはじまりが「乙巳の乱」であり,その幕引きが「太宰府流し」ではなかったか。しかし,それだけでは終わりませんでした。むしろ,深い深い怨恨を残すことになったというべきでしょう。

 たとえば,「河童伝承」もその陰の部分の表出であり,いまも隠然たる勢力をもつ神社のネットワーク,そこに深く結びついていると思われる古武術の系譜(弓術,剣術,など),垣内(かいと)や氏子組織,神社の祭祀,など挙げていけは際限がありません。それらの多くは,わたしの仮説では,出雲族の流れをくむものです。「一宮」「二宮」「三宮」といった制度の中核には,「オオクニヌシ」が厳然として存在しています。そのことの意味がどれだけ意識されているかどうかは別にして,そういうシステムがいまも生きているという事実は注目すべきではないか,と考えています。

 こんなことを考えていると,このたびの出雲大社と天皇家との婚姻は,まさに青天の霹靂であり,長い葛藤の歴史に終止符を打つ,象徴的なできごとであった,ということができるでしょう。あるいはまた,表と裏の顔があって,じつは裏ではしっかりとした絆で結ばれていたことの表出にすぎない,ということもできるでしょう。いずれにしても,出雲族と天皇家の,国譲り以来の「和合」がかなった,歴史的事件でした。

 と,話が脱線したところで,この稿はここまでとしたいと思います。本題のテーマに入る前の導入で終わってしまいましたが,この「つづき」は別稿に委ねたいと思います。とりあえず,これにて。

2014年10月29日水曜日

「小野の里」(小野妹子,小野篁,小野小町,小野道風,などゆかりの地)をフィールドワークしてきました。

 びわ湖の西岸を走る湖西線の沿線に,「小野」という駅があります。つぎの駅が「和邇」。このふたつの駅の間の山側に,いわゆる「小野の里」とよばれる地域が広がっています。たった一駅の区間ですので,ハイキング・コースとして知られ,ふたつの駅ではハイキング・コースの絵地図を用意しています。駅員さんに声をかけるとすぐに手わたしてくれます。

 健脚者であれば,もっと山側に分け入っていくと,古い古墳群が点在していますし,そのむかし和邇一族が鉄の加工を行っていたという蹈鞴(タタラ)の遺跡も残っているとのことです。このタタラ遺跡は,この地域の古代史の謎を解くためのキー・ポジションのひとつでもあります。なぜ,この地にタタラ遺跡が残されたのか。当時の日本には鉄鉱石から鉄を抽出する技術はまだありませんから,鉄のかたまりを朝鮮半島から運び,この地で鉄の加工を行ったというのです。ですから,なぜ,この地で?という疑問が湧いてきます。

 わたしたちは総勢5人。そのうちのひとりは「小野」姓。しかも,かれの家系図には小野篁がその祖であると明記されていて,大事に保存されている,といいます。しかも,かれがその小野家のご当主でもあります。かれ自身もまた半信半疑ながら,ひょとしたら,という期待もあっての参加です。ですから,単なる「小野の里」めぐりでは済まされません。おのずからなる緊張感もただよっていました。そんなわけで,これまでに経験したことのないフィールド・ワークになりました。

 同行者のもうひとりは「河童研究者」。タタラを支えていたのは和邇一族。その和邇から分離独立したのが小野一族。となれば,朝廷の中央と密接な関係にあった小野一族(小野妹子を筆頭に)が,あるときからその存在が曖昧になり,分散離散していく運命をたどることになる,この経緯をしっかりと分析していくと,「河童」との接点もなきにしもあらず,というわけです。

 わたしの仮説では,天智天皇が大津宮を造営し,その地で天皇に着任したこと(なぜ,この地でなければならなかったのか,という点についてはまた別の機会に),そして,3年後には病没,その直後には,弟であるのちの天武天皇に滅ぼされたこと(壬申の乱,これもまた説明不能な暗い陰の部分がありますが,これもいずれまた),このとと小野一族が深くかかわっていたのではないか,というのが一つ。もう一つは,小野神社の社務所で仕事をしていた古老の人から聞いた話。それは,南北戦争のときに小野一族は後醍醐天皇側につき,敗戦とともに離散してしまった,というもの。その結果として,「小野に小野なし」といわれるように,小野の里に小野姓を名乗る家系は一軒もない,とのこと。

 となると,これは出雲族と同じで,国譲りのあとは,全国に離散していったこととよく似ています。しかし,出雲族には知恵者がいて,崇神天皇(神武天皇と同一人物説あり)以下の天皇と手を結び(そのうちのひとりがノミノスクネ),天皇家にまつろった一族は栄華をきわめ,まつろわなかった一族はエタ・ヒミンとなり,さらに差別された一族は「河童」にされてしまいます。

 こんなことを考えてみますと,「小野に小野なし」と伝承されてきたということは,小野姓を名乗ること自体が反天皇ということを意味することになり,したがって,小野姓を捨てて別姓を名乗るか,それとも小野姓を名乗りつつ隠れ里に蟄居するか,のいずれかの選択を迫られたのではないかと考えることができます。

 まあ,こんなことを考えながら,「河童研究者」の車に便乗して,小野姓を名乗る研究者仲間と一緒に「小野の里」をめぐりました。駅でもらった絵地図によれば,和邇駅をスタートとするハイキング・コースになっていますが,わたしたちがもらった絵地図は小野駅でしたので,そのハイキング・コースを逆に移動することになりました。最初に行ったところは唐臼山古墳(小野妹子が埋葬されていたところと考えられており,その遺跡を中心に,いまは小野妹子公園と呼ばれています)。この地は深い感動を覚えました。いずれ写真を提示しながら,くわしく感想を書いてみたいと思っています。

 つぎにたどりついたのは小野道風神社。大きなお寺の横の路地を入った突き当たりのところにありました。どちらかといえば瀟洒なこじんまりとした神社でした。ここでのくわしい感想もまた,別の機会に。

 つぎは小野神社・小野篁神社。ここは境内も大きく,しっかりとした構えの神社でした。いかにも小野一族の祖霊を祀る神社といった風格を備えていました。ここで,社務所にいた古老から小野一族に関する伝承をいろいろと聞かせていただきました。これは偶然でしたが,なかなかのインフォーマントとしての役割を果たしてくださいました。ありがたいことです。それは,同行した小野姓を名乗る,わたしたちの研究者仲間のお蔭でした。家系図の話もしてありましたので,当然のことながら,古老の弁にも熱が入ります。

 最後に到達した神社が「天皇神社」。これがどういう性格の神社なのか,あちこち眺めまわしましたが,つかめないままでした。同名の神社も聞いたことがありませんし,不思議な神社でした。なぜ,「天皇神社」などという名の神社がこの地に存在するのか。なにか,隠された伝承でもあるのでは・・・?と想像をたくましくしています。

 トータルの感想を書いておけば,さらなる予備調査をした上で,確かなインフォーマントをみつけてインタヴューをしてみたい,その上で,もう一度,自分の脚でこの地を歩いてみたい,としみじみ思いました。

 以上,とりあえずのご報告まで。詳しくはまたのちほど。

2014年7月8日火曜日

いただいた「蹴鞠」の手拭いを事務所に飾りました。ちょっといい感じ。

 しばらく前にいただいた「蹴鞠」の手拭いを,事務所の一角に飾ってみました。隣の能面「延命冠者」さんとさりげなくいい具合にシンクロ。とても気に入ってます。


 これまで長い間,柿の実の熟した手拭いを上野の国立博物館のミュージアム・ショップでみつけ,飾ってありました。これも奈良の法隆寺の「柿食えば・・・・」を思い出させる雰囲気があって,とても気に入っていました。ですが,やはり長い間,同じものを眺めていますと,少しずつ平凡な感じになっていました。



 面白いもので,たった一点,壁面を飾る手拭いひとつで,事務所の雰囲気が「パッ」と一変してしまいました。これぞアートの力とでもいうのでしょうか。

 この二つのアート作品を眺めていましたら,妄想が妄想を生んで,とてつもなく面白い空想の世界を遊ぶことができるようになってきました。一つは蹴鞠にまつわる逸話。もう一つは能の世界のいまとむかし。あるいは,能楽が足利義満に見出される「前」と「後」の「投企の時間」(J=P.デュピュイ)。

 最初に蹴鞠にまつわる逸話。よく知られるように「大化の改新」は中大兄皇子と中臣鎌足とが,談山神社で蹴鞠をしながら談合し,そこからはじまったという逸話。その談合の内実は,蘇我入鹿をだまし討ちにすること,そこからはじまってつぎは・・・,という具合に連鎖していきます。が,この話はここでは割愛。そして,その後がこれまた大問題。

 中大兄皇子はのちの天智天皇。そして,天智は自分の子を宿した女性を中臣鎌足に下賜し,生まれた子どもが藤原不比等。天智と鎌足は蘇我一族を全滅させ,大化の改新から律令国家へと大きく舵を切った,時の中心人物。そして,天武の時代になって,不比等はそれ以前の歴史の改竄に着手(記紀の編纂・異説あり)。それが「正史」としてみなされ,持統へとバトンタッチされて,日本の国家としての屋台骨を築き,以後の日本の歴史に大きな影響を与えることになります。こうした大和朝廷と藤原一族の結託の話。

 こんなことを考えながら,この蹴鞠の手拭いを眺めて,妄想の世界を楽しんでいます。

 もう一つは能面の延命冠者。つまり,能楽の世界。足利義満によって観阿弥・世阿弥親子が見出され,中央権力の注目を集めるまでの能楽は,猿楽,散楽と呼ばれ地方の神社の祭礼を巡りながら曲芸にも似た演芸をみせて小銭を稼ぐどさ回り芸でした。しかも,名前からも明らかなように,いわゆる世にいう阿弥衆でした。それ以前はもっと身分の低い芸能集団の繰り出す芸にすぎませんでした。

 つまり,義満の「前」と「後」とでは月とスッポンほどの違いがありました。その流れがいまの能楽界を形成しています。その気位の高さは恐るべきものがあります。しかし,その気位の高さばかりを鼻にかけ,芸の研鑽がおろそかにするあまり,一部の名手を除けば芸が荒れてしまい,どこかに破局の音がするとまで噂されています。

 この「前」と「後」の間のあまりの溝の深さが意味するもの・・・・,別の言い方をすれば,破局の「前」と「後」の間の時間,これはJ=P,デュピュイのいうところの「投企の時間」とどのようにかかわってくるのだろうか,などという具合に想像力をたくましくしているところです。

 これからしばらくの間は,楽しみがつきることはなさそうです。
 ときには,こんな話も骨休めに・・・・。これもまた「投企の時間」?

2014年5月24日土曜日

野口雨情・覚書。「橘」─「楠」姓から「野口」姓へ。三河・加茂郡野口村に縁故。

 北茨城市に旅にでる機会があって,野口雨情の生家を尋ねました。この生家の屋敷内に「野口雨情生家資料館」を建てて,雨情の直系の孫にあたる野口不二子さんが管理されています。わたしが尋ねたときには不二子さんはご不在で,その婿養子になられた旦那さんがガイドをしてくださいました。

 驚いたのは,野口雨情の祖先はたどっていくと,楠正季(正成の弟)にゆきつくということ,しかも,楠一族の祖は橘諸兄だというのです。その家系図が掛け軸になって掛けてあって,たしかにそのように書いてありました。橘諸兄といえば,母は橘三千代。その夫は藤原不比等。橘諸兄の父は敏達天皇の子孫である大宰師美努王。光明皇后(夫は聖武天皇)の異父兄。本命からは少しはずれるものの藤原一族の末端に位置づく人物です。のちに,藤原不比等の4人の息子がことごとく病死してしまったので,急遽,その穴埋めとして朝廷の左大臣として取り立てられます。そして,ついには聖武天皇を支える重鎮として大きな業績を残すことになります。

 この橘諸兄の末裔が楠一族だそうで(これには異説も多い),その頂点に立つ楠正成の弟の正季が野口雨情の祖だというのです。が,この楠一族は南北朝時代の南朝・後醍醐天皇に味方し,湊川の合戦で敗れて,逃げ落ちていきます。そして,ついには身分を隠して,三河・加茂郡野口村(現・豊田市野口町,いまも飯田街道沿いの小さな町)に逃げ込みます。そこで,追手の目をくらますために楠の姓を捨てて,野口姓を名乗ります。このときから野口家がはじまります。

 それからさらに時代がくだって,江戸時代に入り,楠一族の残党が北茨城に隠れ住んでいるという話を頼りに移住し,こんにちの磯原に定住することになります。そして,初代水戸藩主徳川頼房(家康の第11男)に取り立てられ,郷士として仕えることになります。水戸黄門さんも野口雨情の祖先を可愛がり(水戸学によって楠正成は「悪党」から一気に「勤皇の志士」に引き上げられます),しばしば磯原の野口家を訪れ,海を眺めて楽しみ,とうとう「観海亭」と命名したといいます。それが,こんにちの雨情生家のもとだというのです。

 そして,以後,野口家からは数々の名士が誕生し,各界で活躍をし,その名を残しているといいます。その最後に登場したのが野口雨情というわけです。

 こんなことがわかってきますと,三河出身のわたしとしては,とても他人事とは思えなくなってしまいました。ので,帰り際に,野口不二子著『野口雨情伝──郷愁と童心の詩人』を買ってきました。これから中を読んでみようと思っています。

 そして,ふと気づくのは,童謡はいろいろの人がつくった歌もふくめて,ずいぶん馴染んできたはずですが,いまも記憶していて歌えるのは野口雨情の童謡ばかりです。そして,その歌詞をよくよく考えてみますと,ふつうの日本語とはいささか趣を異にしていることがわかります。ちょっと変な日本語という感じなのですが,なぜか,すんなりとからだの中にしみ込んできます。そして,そのままこころの奥深くに定着し,記憶されてしまいます。野口雨情の「童心」のままに作詩された歌詞がそのままわたしのこころを捉えて離さない,そんな感覚です。

 伝記には「CD」がついていますので,あとで歌詞を堪能しながら,ゆっくり聞いてみようと思います。ちらりと本の中を覗いてみましたら,野口雨情のヒット曲のほとんどは中山晋平が作曲していることがわかります。なるほど,この名コンビが,あの数々のヒット曲を生んだのだ,と納得してしまいます。

 北茨城市の旅で,思いがけない発見をすることになり,とても満足しています。北茨城市といえば,岡倉天心の六角堂があります。ここも尋ねました。こちらについては,また,いずれ書いてみたいと思います。

2014年3月25日火曜日

history はhis storyと読める。では、her story は?(今福龍太)

 29日(土)の研究会(「今福龍太氏を囲む会」)が近づいてきましたので,そろそろ研究会に向けて準備に入っています。今回のメイン・テーマは『映像の歴史哲学』(多木浩二著,今福龍太編,みすず書房,2013年)をどう読むか,にありますので,まずはこのテクストを徹底的に読み込むことからはじめています。

 しかし,このテクストを読めば読むほどに,たとえば,ヴァルター・ベンヤミンの思想・哲学をどう受け止めるか,そして,多木浩二さんがベンヤミンの思想・哲学のどこに,どのように共振・共鳴しているのか,というところに入っていかざるをえません。しかも,この二人の共振・共鳴関係の間に今福さんが割って入り,いろいろとコメントを差し挟みつつ,多木さんを挑発しつつさらなる思考の深みへと入り込もうとしています。この童心にかえったかのような「知」の戯れにも似た「からみ」のなかで,今福さんはつぎのようなコメントを付しています。

 英語で歴史を表す「ヒストリー」historyという言葉には,あたかも歴史学者による実証主義歴史学の原理を裏打ちするかのような,出来過ぎた地口を含んでもいる。すなわち「history」とは「his story」と読めるからである。たしかに公式の歴史とは男がつくってきた物語であるともいえる。統治や戦争,経済や法律も含め,歴史を構成するあらゆる権力的な要件は,たしかに男性的なロジックによって支えられてきた。男が歴史 history という公的な概念をつくりあげたのであれば,それはまさに「彼の」his「物語」storyにほかならないともいえるのである。だからこそ,フェミニズム思想はそれを転倒させて「her story」(=彼女の物語)を立ち上げようとした。このように語ることはむろん言葉の彩にすぎないが,「歴史」なる概念を批判的に読み替えるときの,それは機知ある跳躍台になりうる。(P.91~92.)

 このコメントは,多木さんが「タイタニック号」のできごとを事例に歴史を語る,その語りの巧みさに触発されて今福さんが反応したものです。多木さんは,タイタニック号のできごとは,「沈没」という「事件」として歴史にその名が残されることになったが,そのとき「溺死」した人びとの歴史は掻き消されてしまっている,と語ります。こうして,歴史はつねに「強者」の語りに終始し,「弱者」の歴史は抹消されてきた,と。そして,ほんとうの「歴史」は「溺死」した死者たちの「物語」の方にあるのではないのか,と問いかけます。そこに今福さんは「歴史」と「溺死」という「音」の近似が,ほんとうの「歴史」が「溺死」してしまうという強烈なイメージを引き寄せ,真実への覚醒をもたらす力があることに注目します。そして,つぎのように語ります。

 言葉による比喩の力には,現実というものの足かせを振り切ってイメージの真実へとたどりつく飛躍の力が秘められていることを,彼は静かに教えようとしたのであろう。(P.93.)

 さて,ひるがえってスポーツの「歴史」はどのように語られてきたのだろうか。問題意識をここに引きつけたときに,スポーツ史研究の分野ではほとんど「歴史哲学」についての議論がなされてこなかった事実に直面し,青ざめてしまいます。そこで語られてきたスポーツの歴史とはいったいなんなのか。なんのために,だれのために,なにを語ろうとしてきたのか。それはもっぱら実証主義歴史学を隠れ蓑にして,いかにもアカデミックな研究をしている「ふり」をしてきただけの話ではないのか。そして,学会もまたそれを「是」としてきました。その近代アカデミズムの虚構,つまり,実証主義歴史学が,いま,音をたててくずれ落ちようとしています。にもかかわらず,そのことに気づくどころか,ますます保身に走る研究者が圧倒的多数を占めています。まことに残念な話ではありますが・・・・。これが現実です。

 しかしながら,少なくとも,わたしたちの研究会に参加してくる研究者仲間は,そこからの「離脱」と,新たなる「知」の地平への「移動」を,はっきりと自覚して研究会を重ねています。その一環として今回は「今福龍太氏を囲む会」を企画し,さらなる飛躍の糸口を見出そうという次第です。しかも,1936年のベルリン・オリンピックを撮影したレニ・リーフェンシュタールの『オリンピア』を題材にして,多木さんがベンヤミンの「歴史哲学」と共振・共鳴しながら,「映像」に秘められた「力」を読み解こうとされた『映像の歴史哲学』がテクストです。

 さて,わたしたちのささやかな,でも大まじめな「挑発」を受けて,今福さんがどのような「レクチュア」を展開してくださるのか,いまから楽しみです。そのために,残る三日間,真剣に準備をしたいと思っています。

2012年11月25日日曜日

折口信夫著『日本芸能史六講』(講談社学術文庫)を読む。

 旅にでるときにもっていく本が何冊かある。それは,わたしの好きな本で,しかもすでに何回も読み返している本ばかりだ。だから,通読するなどという野暮なことはもはやしない。旅のつれづれに,ふと本を取り出して,パッと開いたところを読む。それが不思議に,ちょうど読みたかったところであることが多い。ときには,ピン・ポイントで,長年考えつづけてきたテーマに新しい解決策を指し示してくれるような,まことに示唆に富むところと遭遇することがある。思わず「ウォッ!」と快哉を叫びたくなる。至福のときである。

 今回の「48会」に出席するために名古屋を往復するにあたり,2冊ほど文庫本をザックのなかにしのばせておいた。その一冊が折口信夫の『日本芸能史六講』(講談社学術文庫)だった。もう一冊は,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』(湯浅博雄訳,ちくま学芸文庫)である。この二冊に共通しているのは,どこから読みはじめても,すっと深いところに入り込むことができ,そのつど日常のわたしではないわたしに出会うことができるということだ。生きている喜びとは,新たなわたしに出会うことなのだろう,としみじみ思う。ほのぼのとしたエクスターズである。

 新幹線に乗ると,しばらくはぼんやりと車窓の景色を眺めている。いつも見慣れた景色ばかりなのに,ところどころで「エッ」と思わせるような新しい発見がある。が,そういう発見がないとすぐに飽きてくるので,おのずからザックのなかに手を滑り込ませる。そして,手が勝手に一冊を選んでとりだしてくる。ここが肝心なところである。どちらが出てくるかはわからない。つまり,眼でみて判断することを放棄して,手の触覚にゆだねるということ。主体性の放棄。運を天にまかせるということ。大げさにいえば自己を天命にゆだねるということ。計算も打算もない正義の根拠。なんのことはない,一か八かの「賭け」である。

 今回は,行きも帰りも,なぜか,わたしの「手」が探り当てたのは『日本藝能史六講』だった。

 そして,最初に開いたところには藝能か態藝か,能藝か態藝か,という議論がなされている。そして,能という文字は,態という文字の下の心が省略されて用いられるようになったらしい,と折口は推測し,その根拠をいくつか提示している。しかも,もともとの「態」の意味は「しぐさ」であり,「ものまね」のことだったという。たとえば,後花園天皇の時代(吉野朝)にできたといわれる『下学集』の藝態門には,風流(ふりゅう),早歌(はやうた),曲舞(くせまい),反ばい(へんばい・ばいは門構えの中に下という漢字)・申楽・田楽・松囃(まつばやし)・傀儡(くぐつ)・蹴鞠(けまり)・笠懸(かさがけ)・犬追物(いぬおうもの)といったものが,ひとまとめにされているという。つまり,これらが「藝態」の内容。しかも,この「態」という文字を「のう」と読ませていたかもしれない,と。

 わたしのひらめきは,そうか,こんにちの芸能のルーツをたどっていくと,それは「ものまね」にゆきつくのか,ということ。その「ものまね」のはじまりは降臨した神を演ずること,つまり,神の「ものまね」だったこと,その神を迎える「ぬし」を演ずること,さらに,ぬしは神を喜ばせるために即興の歌を歌う,それにつられるようにして神が舞い踊る。このようにしてこんにちの芸能は発生したのではないか,と傍証を挙げながら類推していく。

 しかも,こうした類推の仕方は折口特有の方法であって,これを「発生学風」と名づけ,この方法こそが近代のアカデミズムの限界を突破していくために必要なのだ,という。

 ここからひらめいたことは,なんと,ザックのなかにもう一冊しのばせていたジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』のことである。この本のなかでバタイユが展開した方法も,まさしく折口のいう「発生学風」の方法なのだ。サルからヒトになり,さらに人間となるときに,人間の存在の仕方になにが起きたのかというテーマの謎解きは,厳密にいえばだれも実証できないことだ。つまり,近代のアカデミズムの方法では不可能である。しかし,その限界を超えでていくためには,いくつかの仮説を提示しつつ,その仮説の向こうに見え隠れしてくることがらについて類推していくことが必要になる。そして,ヒトがいかにして「発生」し,人間がどのような契機で「発生」するかを傍証で固めていく。いまのところはそのような方法しか存在しないのだから,それに頼るしかない。もちろん,それが正しいという根拠はない。同時に,それが間違いであるという根拠もない。したがって,多くの人が支持するかどうかだけだ。近代のアカデミズムの実証の限界を超えでていくためには,折口のいう「発生学風」という方法をとるしか,いまのところないのだ。

 わたしがいま必死で取り組んでいる「スポーツ的なるもの」と「宗教的なるもの」との類縁性の問題も,その発生の「場」のアナロジーとなっていく。つまり,折口のいう「発生学風」な手法をとらざるをえない。だから,折口のこのテクスト『日本藝能史六講』にぐいぐい引き込まれていくというわけである。そして,読めば読むほどに,「スポーツ的なるもの」の発生の場も,折口のいう「藝能」の発生する「場」にあった,と納得できる。

 そんなわけで,このテクストもまた,わたしにとっては大事な座右の書なのである。これからも,なにかと思考が行き詰まってしまったときには,必ず繙くことになる書であることは間違いない。そして,そのつど,なんらかの新たな思考のヒントを提示してくれるはずである。これまでもそうであったように。

2012年11月23日金曜日

「相撲の起源は芸能である」(折口信夫説)。

  折口信夫の名著のひとつに『日本芸能史六講』(講談社学術文庫)がある。この本の第四講に「相撲の起源は芸能である」ことの根拠が,かなり詳しく述べられている。しかも,そこには驚くべき根拠が提示されている。

 わたしはかねてから「相撲は芸能である」という立場をとってきた。そのつど,その根拠もいくつか提示してきたつもりである。しかし,世の中には「相撲は神事である」と信じて疑わない人が多い。日本相撲協会がそういう立場に立ち,それを前面に押し出していることもよく知られているとおりである。だから,ジャーナリストの多くも,その立場からの報道をくり返す。単なる垂れ流しである。みずから「相撲とはなにか」と問い,あまたある相撲の研究書を繙こうとはしない。せいぜい評論家の意見を取材する程度だ。そして,この評論家の多くもまた日本相撲協会の片棒を担ぐ。食っていくための箍をはずすことはできない。こうして,相撲神事説が再生産されていく。

 たとえば,八百長問題が大きな話題になったときも,相撲神事説とフェアプレイ精神の立場から,ポピュリズムを煽り立てるような報道がつづいた。朝青龍事件のときには,恥ずかしくて顔を覆いたくなるようなゼノフォビアまで登場し,世を挙げてバッシングにこれつとめたことを,よもや忘れてはいまい。

 しかし,わたしは相撲は芸能であると考えているので,八百長も大相撲のうち,という立場に立つ。八百長も芸能にとっては大事な「芸」のうちのひとつだから。ただし,バレるような,下手な八百長をやればお客さんが来なくなるだけのこと。だから,絶対にバレないような八百長を仕組まなくてはならない。ときには,見え見えの八百長なのに,それが立派な「芸」になっていて,お客さんから大きな拍手をもらえるようなときもある。かつては,そういう相撲もみられて,じつに楽しかった。力士とお客さんとの呼吸が合うと,その場になんともいえない一体感が生まれ,場所全体が別次元に移行していく。まるで,名優の演ずる素晴らしい歌舞伎芝居をみているような気分になることもあった。もちろん,升席でお酒を飲みながらの見物は,むしろ相撲の方が芸能の伝統を守っているとさえ言えるほどだ。

 そういう相撲はいまは望むべくもない。やせこけた,自分だけが正しいという,エゴイスティックで,自己満足的な正義感の強い人が増えたせいだ。そういう人たちの言っていることは間違いではない。しかし,大局的にみると,矛盾だらけの文化のもつ豊穣さをぶち壊してしまうことになり,なんとも寂しいかぎりである。その結果,文化としてはまことに貧相なものに堕してしまうことになる。大相撲も,すでに,そうなって久しい。

 興業主が「大相撲は神事だ」というのだから神事でもかまわないが,それをみて楽しむ側は,大相撲のもつもっと深い芸能性を楽しんだって一向にかまわないはずだ。しかも,その精神は立派にいまも生きているのだから。

 さて,前置きが長くなってしまったが,本題の折口信夫説をごくかんたんに紹介しておこう。

 第四講の小見出しはキー・ワード風に,あそび,田遊び,えぶり,相撲,わざをぎ,こひ,田楽,猿楽,能,座,とならんでいて,この順番に講義が展開している。

 これをみただけで,相撲があそびや田楽,猿楽,能,などと同列に取り扱われていることがわかる。そんなバカなという人は,相撲には「しょっきり」と呼ばれる相撲があることを思い出していただきたい。これなどは猿楽そのものだ。みているお客さんが大笑いするように仕組んである。勝負などどこ吹く風とばかりに,現実にはありえないような相撲をとって,お客さんを喜ばせる。これが相撲の原型なのだと折口信夫は力説する。つまり,相撲は「あそび」にその起源を求めることができるのだ,と。

 もともと古い和語の「あそび」は,「鎮魂の動作」を意味していた,という。古代の天皇が「野遊び」をするのは,「鎮魂の動作」としての意味がその根底に宿っている。同時に,大自然の「霊力」をわがものとする身振りでもある。これだけではなく,折口信夫は,わたしですら驚くような説を惜しみなく展開している。たとえば,以下のようである。

 「楽器を鳴らすこと,舞踊すること,または野獣狩りをすること,鳥・魚を獲ることをもあそびと言ふ語で表していますが,これは鎮魂の目的であるからです。つまり鳥,獣を獲ったり,魚を釣ったりするのは悦ぶためだといふ風に解釈されますが,そういう生き物が人間の霊魂を保存しているから其を迎えて鎮魂するのです。」

 「・・・・楽はあそびなのですから,田楽も田遊びも同じことになるわけですが,田遊びは田に於て鎮魂を行ったといふことではっきりしています。つまり田を出来るだけ踏みつけ,その田を掻きならして田に適当な魂をおちつけ,ぢっとさせておき,立派な稲を作るといふことなのであります。」

 「・・・ところが田遊び以前の田に関係した行事が考えられます。─中略─。演劇の昔の伝統を尋ねて行くと妙なことに他には行かないで相撲に行ってしまふことです。これは日本の演劇の正当なものなのです。宮廷では七月に相撲(すまひ)の節会(せちえ)といふものを行ひ,其時期が相撲の季節となりました。そしてこれはどうしても演劇にならなければならなかったのですが,途中から演劇の芽ばえが起こって来て,相撲はその方面に伸びなかったのです。」

 「・・・蹴速(けはや)のふみ殺された所は「腰折田」と称して残ったといふことですが,これはその通りの動作が行はれておったところなのでせう。地方に行きますと,囃田(はやしだ)とか鼓田(つづみだ)とか舞田(まいた)といふ名称の田がありますが,それは其処(そこ)に行って田植の時に芸能の行はれる事の意味なのです。」

 とまあ,こんな具合に眼からうろこが落ちるような話がつぎからつぎへと登場する。たとえば,野見宿禰と当麻蹴速の相撲の真意について(まれびとの来臨),大国主命(おおくにぬしのみこと)の国譲りの相撲について(手を取る・・・相手の魂を招きこふ動作,この「こふ」が「こひ」(恋)となる,など),米の豊作を予祝する儀礼としての相撲について,などなど。これらはすべて年占いであり,演劇として演じられたものだと折口信夫は,じつに軽妙にその裏側の複雑な仕組みにいたるまでをわかりやすく説いている。

 この他にも,たくさんの相撲=芸能を裏づける話がでてくる。あとは,テクストに直接あたって確認してみていただきたい。その方が面白いこと請け合い。

 最後にひとこと触れておきたいことは以下のとおり。

 意外なことに,相撲と能とは,同じルーツから枝分かれした芸能であった,ということ。すなわち,田遊びという鎮魂のための芸能が,ひとつは相撲となり,もうひとつは田楽,猿楽,能楽となっていく,というわけである。このあたりのことは,調べていけば無尽蔵に面白い話がでてくるはずである。こんごの課題としておく。

2012年6月3日日曜日

「健全な身体に健全な精神を与え給えと祈るがいい」(ユウェナーリス)・考。

 待望の『ローマ諷刺詩集』(ペルシウス/ユウェナーリス作,国原吉之助訳,岩波文庫)が刊行された。書店で,まずは,問題の箇所を確認してから購入。

 これほど多くの人に膾炙され,まるで俚諺のように馴染んだことばもあるまい。
 しかし,原典ではどのような文脈のなかでこのことばが語られているのか,長い間,アンテナを張っていたがわからなかった。だれもそこまで踏み込む人もいなかったということか。もちろん,ラテン語の読める専門家はとうにご承知だったはず。でも,とりたてて議論されることもなく,こんにちに至っているのだろう。だから,最初の誤訳が質されないまま,孫引きの連鎖がつづき,間違った解釈がこんにちもなお生きている。

 そして,多くの誤解のなかで,あるいは,誤解のままで人びとの記憶にとどまっている。
 かく申すわたしもそのひとりだ。

 「健全なる身体に健全なる精神が宿る」と,まずは教えられた。わたしの学生時代のテクストにはこのように書いてあった。この間違いは,どうやらH.スペンサーの『教育論』の扉に「健全なる身体に健全なる精神が宿る」と書いたことに発端があるらしい(少なくとも,日本では)。やがて,体育やスポーツの歴史を専門に勉強するようになって,もうひとつの解釈をドイツ語文献のなかでみつけた。

 それによると,「健全なる身体に健全なる精神が宿ることが望ましい」とユヴェナリウス(ドイツ語読み)は言った,とある。なるほど,「望ましい」という理想を述べたものだったのか,とそれなりに感動し,納得した。そして,以後,わたしは自分が書く文章には,かならず「宿る」と断定したのではなくて,「望ましい」とユヴェナリウスは言っているのだ,と注釈をつけることにした。しかし,これもまた間違いだった。

 今回,ラテン語の原典からの翻訳が国原吉之助によって実現した。お蔭で,わたしのようなものでも国原訳の「ユウェナーリス」の諷刺詩を読むことができるようになった。喜び勇んで,すぐに書店に走った。しかし,溝の口の書店にくるまでにはいささか時間がかかった。それがようやく手に入った。

 その国原訳の258ページに表題に書いたように「健全な身体に健全な精神を与え給えと祈るがいい」という一文が登場する。わたしはこれを読んで,じつは,ギョッとした。健全なる精神が「宿る」などという文意はどこにも見当たらないではないか。「宿ることが望ましい」とも書いてない。「与え給えと祈るがいい」とある。

 いったい,だれが,だれに,なんのために「与え給えと祈る」必要があるのか。

 詳しく書くと長くなるので,ごく簡単に要点だけを書いておこう。
 ユウェナーリスの諷刺詩は第一歌から第十六歌まである。その中の第十歌の最後のところにこの文言が登場する。第十歌の見出しは「人間の願望の空しさ」とある。人間は,みんなさまざまな願望をいだき,それを追い求める。しかし,その願望が満たされはじめると,とたんに慢心を起こし,その慢心によって身をくずしていく。願望をいだかなくても,生まれたときから与えられている美徳は,もっと危険だ。美人はその美しさのゆえに身を崩し,美形で身体頑健な男性は,それだけの理由で身をくずしてしまう。

 いつの世も,いつまでも若くて健康で美しいことは理想である。それは,女性だけではなく男性も同じである。だから,どのようにして「若さ」を保つかといろいろに工夫をする。しかし,いくら頑張ったところで,人間はやがて死んでしまうのだ。だから,そんなことは無駄だ。つまり,みんな神様の意のままになるしかないのだから。だから,人間にできることは,神様に向って,わたしにもっとも必要なものを「与えて」くださいと祈るしかないのだ。

 と,おおよそ,このようなことをいくつもの諷刺をまじえて,ユウェナーリスは説いている。そして,最後に,この決まり文句に到達する。どのような文脈でそこに到達するのか,その前段もふくめて引用しておこう。

 「我々は精神の盲目的な衝動に駆られて,そして空(むな)しい欲望に誘われて,結婚の相手を求め,妻の産む子を願う。しかし神々は,生まれた子がどんな少年になるか,妻がどんな女になるかは,お見通しなのだ。それでもあなたが,神々に何かをお願いしたいのならば,そして小さなお社に,純白に輝く豚(ぶた)の内臓と小さな腸詰をお供えしたいのなら,どうか,健全なる身体に健全な精神を与え給えと祈るがいい。」

 こういうコンテクストのなかで登場するのだ。わたしは驚いて眼をみはった。なんということだ,と。驚くではないか。結婚願望の男が,神様に向って,生まれてくる子どもをどんな子どもにしてほしいか,結婚相手の女性をどんな女にしてほしいかを祈る内容なのだ。つまり,「健全なる身体に健全なる精神を与え給え」と。

 これだけではない。ここで求められている「精神」とはどのようなものかを,ユウェナーリスはつぎのように書いている。

 「いかなる苦しみにも耐えられる精神を。怒りを知らぬ,無欲恬淡な精神を。サルダナバーロス王の情痴淫蕩,酒池肉林,奢侈栄華よりも,ヘーラクレースの艱難辛苦や奮励努力こそ,いっそう望ましいものと信じるような精神を祈願し給え。」

 この事実を知って,わたしは唖然としてしまった。
 これまで物知り顔に,さもわかったようなふりをして,何回,「健全なる身体に健全なる精神が宿る」ことが望ましい,と書いてきたことか。そして,それが,さも,スポーツマンたるものの理想であるかのように。わたしは恥ずかしい。

 ここからさきの論考は,いつか,きちんとした形で,お詫びを兼ねて,展開してみたいとおもう。大いなる修正を加えて。これは大論文になりそうだ。

 やはり,原典をきちんと確認しないといけない,といまごろになって骨の髄まで染み込んでくる。国原吉之助さんにこころからの謝辞を捧げます。ありがとうございました。

2010年11月17日水曜日

観阿弥・世阿弥は時宗の阿弥衆だった。徳川家康の祖先も阿弥衆だった。その2.

 まず,「阿弥衆」を調べてみた。そこにはつぎのようなことがらが書かれている。少し長いが,精確を期すために全体を引用しておく。
 「中世から近世初頭にかけて,時宗教団に客寮衆(客寮とも)というのが従属していた。僧俗の中間的存在で,剃髪法衣の姿は僧に似て,妻子を養い諸芸に従事するところは俗である。時宗では男性は僧俗ともに<阿弥陀仏>の阿弥陀仏号を称し,省略して<何阿>(阿号)を用いる。これに対して客寮は<何阿弥>(阿弥号)と呼ばれた。僧は決して阿弥号を用いない。客寮は,南北朝時代に敗残者や世間のあぶれ者が教団の保護を求めたのにはじまる。衆僧の給仕や雑用を勤めた。また鉦(かね)を打ち和讃念仏を称(とな)えながら家々をまわり,信施を受けて世を渡った客寮が鉦打ち聖(ひじり)である。妻子を養うために農耕や商い・諸芸に従事するものもあった。彼等は時宗寺院の内あるいはその周辺に住み,藤沢の客寮,七条の客寮などと呼ばれ,身分的には僧尼同様に諸役・諸税が免除されたので,室町時代にはその数はかなり多かったと考えられる。京都の寺院所属の客寮衆の中には,将軍や大名に仕え同朋(どうぼう)衆となり,芸能の達者も現れた。茶の能阿弥,花道の台阿弥,作庭の善阿弥・相阿弥,能の観阿弥など,いわゆる阿弥号を称する人々は,時宗の僧と考えられているが,実は客寮衆もしくはその子や孫とみるべきであろう。」
 以上のように,能の観阿弥・世阿弥親子も,じつは,時宗教団に従属する客寮衆であったことが明らかとなる。つまり,その出自は南北朝時代の戦の敗残者や世間のあぶれ者であったというわけである。
 世阿弥の父親の観阿弥については,山田猿楽美濃大夫の養子の三男で,長兄が宝生大夫であるということまではわかっているが,さて,その「養子」がどういう人であったかは不明である。しかも,その養子の長子が宝生大夫であり,三男が観阿弥として活躍したことを考えれば,その父親の出自がわからないはずはない。しかし,それもわからないとなると,観阿弥の父親という人はどういう人であったのか,ということが大きな疑問となってくる。しかも,観阿弥は山田猿楽美濃大夫の一座からも離れ,大和猿楽結崎座に所属して活動をしている。なにゆえに,このような行動をとり,しかも,観阿弥を名乗ったのか。すなわち,時宗教団に身を寄せなくてはならなかった理由はなにか,ということである。
 いずれにしても,観阿弥を名乗ったということは,僧でもなく俗でもない中間の身分を生きる道を選んだということを意味している。あえて「世間のあぶれ者」の道を選んだ理由があるはずだ。さきに引用した『仏教辞典』の記述から類推できることは,以下のようなことだ。
 簡単に言ってしまえば,猿楽だけでは食っていけなかった。だから,時宗に身を寄せて,諸役や諸税を免除してもらい,その代わりに「衆僧の給仕や雑用を勤め」,必要とあらば「鉦を打ち和讃念仏を称えながら家々をまわり,信施を受けて世を渡」る道を選ぶしかなかったのではないのか。その傍ら,「農耕や商い・諸芸に従事するものもあった」という次第だ。だから,言ってしまえば,猿楽を支えた一座の集団は,僧でもない,俗でもない,いわゆる「世間のあぶれ者」によって構成されていた,という実態が浮上してくる。
 そういう集団の中から,観阿弥のような才能のある人物が現れ,猿楽から能楽への道が開かれていく。そして,さらには,世阿弥のような天才が登場することによって,時の将軍足利義満によって取り立てられ,同朋衆として庇護をうけることになる。
 だいぶ回り道をしてしまったが,これとまったく同じようなことが,徳川家康の家系にも影を落としている,という事実が今回のわたしのびっくり仰天の知見だった。そのことを,宮城谷昌光さんの『古城の風景・Ⅰ』(新潮文庫)が教えてくれたのである。
 そこで,もう一度,この『古城の風景・Ⅰ』の記述に立ち返って考えてみることにしよう。
 徳川家康の出自である松平氏の始祖は親氏(ちかうじ)。かれは徳阿弥と称し,父の有親(長阿弥)と一緒に三河にやってきて称名寺に身を寄せた。この親子,すなわち長阿弥と徳阿弥は連歌の達者で,子の徳阿弥は連歌によって運命を啓(ひら)くことになる。
 「父の没後,徳阿弥は矢作(やはぎ)川をさかのぼるかたちで松平郷にはいり,その村の小豪族というべき松平太郎左衛門尉信重(さえもんのじょうのぶしげ)が催した連歌の会をたまたま見物したところ,歌を書きとめる役になってもらいたいと懇望されてその役をつとめたことが縁となり,女婿(じょせい)となって松平家にはいったのである。」
 こうして徳阿弥は松平親氏として,松平一門の始祖となる。この家系の直系の子孫として徳川家康が誕生する。以後,松平家と連歌は切っても切れない関係がつづく。たとえば,つぎのような話を宮城谷昌光さんは紹介している。
 「称名寺は,連歌師の宗牧を迎えたことからわかるように,連歌興行がしばしばおこなわれた寺のようで,天文(てんぶん)十一年(1542年)に広忠に嫡子(ちゃくし)(注・家康のこと)が生まれたあと,広忠は称名寺の連歌の会に出席して歌を詠(よ)んだ。その歌は,広忠が夢のなかで得たものなので,
 『夢想の連歌』
 と,よばれることになる。その歌の脇句である,
   めくりはひろき園のちよ竹
 から,広忠の嫡子の幼名には,竹千代,がよい,と称名寺の住持である其阿(ごあ)が選定したとつたえられる。」
 家康の幼名である竹千代の名もまた連歌がとりもつ縁によっていることがわかる。宮城谷昌光さんは,さらに,つぎのように書き加えている。
 「重要なことは,親氏は連歌によって開運したということであり,以後,松平家は連歌に招福の力があると信じたにちがいないことである」,と。
 このようにして,徳川家康を輩出した松平氏の始祖親氏は連歌を得意とする阿弥衆であった,というわたしとしては刮目すべき事実を知ることになる。
 阿弥衆は,世間のはずれ者とか流れ者として蔑まれたりしているが,じつは,きわめて重要な芸能の伝播者であり,文化の担い手であったのだ。このことがわたしのいいたいことの第一点。氏素性は,いまの世の中でも,とかく話題となり,それなりの扱い方をされているが,そんなものはほとんどなんの意味もないということ,これが第二点。
 大事なのは,その人の持っている才能(才覚)と努力。その才能(才覚)をいかに見出し,つかまえ,伸ばしていくか,その持続力(努力)が意味をもつ。阿弥衆だから身分が低いとか,家元だから偉いとか,そんなことはどうでもいいことだ。あくまでも,持ち合わせた才能(才覚)をどこまで伸ばすことができるか,これが重要だとおもう。持ち合わせが少なければ少ないなりに伸ばす「努力」が大事だ,とわたしは考える。
 こんなことを,観阿弥・世阿弥(=観世流の始祖),長阿弥・徳阿弥(=徳川家康の始祖)の二組みの親子の存在をとおして,しみじみと考えた次第である。

2010年11月15日月曜日

観阿弥・世阿弥は時宗の阿弥衆だった。徳川家康の祖先も阿弥衆だった。その1.

 こんにち能楽師と呼ばれる人たちは,わたしの感覚では,どこか特権階級化していて,特別の身分を保証されているかのようにみえる。しかし,その遠祖をたどると意外なところからでてきた人たちだ,ということを知って驚く。もちろん,これはわたしの不勉強のなせるわざであって,能楽に詳しい人たちにとっては常識であるのだろう。
 2年ほど前に,今福さんから「戸井田道三」という人の存在を教えてもらい(詳しくは,『IPHIGENEIA』<ISC・21>版,創刊号,2009年,鼎談「現代の能面」,P.7~49.を参照のこと),この人の本を買い集めて,かなり熱心に能楽のことについて勉強したつもりでいた。たとえば,『能芸論』などは,眼からうろこということばがぴったりするほど,新しい発見の連続であった。その中にも,能楽師の出自は,きわめて身分の低い人たち,というよりは寄る辺なき身分の流浪の民であった,というような意味のことが記述されていて,それだけはぼんやりと記憶していた。しかし,あまり厳密には,どういう出自の人たちであったのか,ということまでは記憶していなかった。
 それが,ひょんな拍子に,意外なところから「あー,そうだったのか」ということを知り,あわてて関係の辞典類で確認して,なるほど,と得心するにいたる,そんなことが最近あった。
 「48会」という会が年に1回開催され,その会に出席するために,先日(13日)に愛知県の岡崎市に行ってきた。この会は,いまから36年前に,わたしが愛知教育大学に赴任したときの,最初のゼミ生たちの集まりである。わたしも,まだ若く,36歳だった。だから,わたしも含めてゼミ生たちも,海のものとも山のものともわからない,まったくの未知数の世界にさまよっていたころの出会いが,お互いに強烈であったことは事実で,それが懐かしくて集まってくる。いまや,その大半は,小中学校の校長先生になっている。立派なものである。もちろん,管理職を忌避して,平教員の醍醐味を保持している人もいる。これまた,なかなか味があっていい。それぞれがまことに個性的にいまを生きている。こういう人たちに年に1回会うだけで,わたしは一年分の元気をもらうことができる。だから,毎年,楽しみにしている集まりである。
 で,そこに出席するために,新幹線の中で読もうと思って持ち込んだ本が,わたしの大好きな宮城谷昌光の書いたエッセイ集『古城の風景』Ⅰ.菅沼の城,奥平の城,松平の城(新潮文庫)である。三河出身の徳川家康ファンにとっては,この本は必読である。せっかく,岡崎市に行くのだから,もし,なにかの話題になったときに,そのあふれんばかりの教養(虚養?)を披瀝せん,と密かに仕込みを兼ねて,新幹線のなかで読みはじめた。こういうエッセイは,自分の好きなところから拾い読みをはじめるのが,わたしのやり方。そうしたら,P.291に「大給城」(おぎゅうじょう)という大見出しがある。こんな城は知らないなぁ,と思ってまずはそこから読みはじめる。知らなくても不思議ではない。碧南市にある,という。同じ三河地方でも,豊橋市に育ったわたしからすれば碧南市はほとんど盲点のようなところ。まるで馴染みがないのだ。だから,そこに眼が惹きつけられたのだろう。
 これがなんと神さまのお導きだったのだ。その中に「称名寺」というお寺の話がでてくる。
 「当寺の創建は1339年大浜政所を司(つかさど)る声阿(しょうあ)を開基とし,もとあった天台宗の寺を時宗に改めたとする」
 という寺でもらった「称名寺の文化財」というパンフレットの文章を紹介している。それにつづけて宮城谷さんはつぎのように解説をしていく。
 「1339年は南北朝期で,暦応(りゃくおう)2年(延元4年)である。声阿は,境内の案内板には,声阿弥陀仏(しょうあみだぶつ)とある。この寺の本尊は阿弥陀如来である。境内には,由緒(ゆいしょ)が書かれた石碑も建てられていて,そこには,松平氏の始祖である親氏(ちかうじ)(出身地は不明)が徳阿弥と称し,父の有親(ありちか)(長阿弥)とともに放浪して,三河にはいり,この称名寺にきて,有親はここで逝去(せいきょ)した,というように伝説が披展(ひてん)されている。」
 さて,この記述がわたしには大変な発見であった。そして,意外な発見であった。
 なぜなら,松平の始祖である親氏とは,徳川家康の祖先であるからだ。その親氏が,徳阿弥と称する阿弥衆であった,というのだから。
 宮城谷さんも調べたという『仏教辞典』(岩波書店)で,わたしも調べてみた。(つづく)。

2010年11月12日金曜日

中国の嵩山少林寺と日本の嵩山正宗寺との関係について

 わたしの郷里である豊橋市(愛知県)に嵩山(すせ)町という地名があって,少林寺拳法で知られる中国の嵩山(すうざん)少林寺と同じだなぁ,と長い間,漠然とおもっていた。
 嵩山(すせ)町は豊橋市のはずれの山裾にある。「嵩山の蛇穴」と呼ばれる鍾乳洞があって,小学校の遠足(小学校の運動場から蛇穴まで往復,全部,徒歩で歩いたほんとうの遠足)ででかけた記憶がある。蛇穴の中で大冒険をした記憶も甦ってくる。
 この山一つ越えていけば隣の静岡県である。その県境にある峠を「本坂峠」と呼び,むかしは姫街道の抜け道であった。つまり,東海道を通ると,新居の関所があって,役所の発行する関所札をもたない非公式の旅をする人たちは通過できなかった。とりわけ,「入り鉄砲に出女」は徹底的に取り調べが行われたという。そのため,多くの女性たちがこの抜け道をとおったというので,姫街道という名が残っている。
 高校生になると,友だちと連れ立って,正月の早朝に自転車を走らせ本坂峠を登って初日の出を拝みに行った。これは3年間,欠かさずでかけた。その往復のたびに,正宗寺(しょうじゅじ)という立派な構えの寺の山門の前を通過する。この正宗寺の住職が,わたしの通った高校の漢文の教師をしていた。名前は「金仙先生」。すこぶる変わった名前だったので,この先生の祖先は日本人ではないのではないか,という噂が流れていた。そこで,父に尋ねたことがある。父もまた僧職でありながら,同じ高校の教師をしていたから,なにか知っているだろうとおもったからだ。しかし,父は笑いながら「そういう風にいう人もいるが,まさか・・・」と受け付けなかった。
 その後,わたしが愛知教育大学に赴任して,刈谷市に住むようになったころには,両親を誘って花見がてら車でよくこの正宗寺にでかけたものである。桜の名所でもあったから。そのたびに,なんと立派な構えの寺なんだろう,と感心したものである。いまでも,機会があれば行ってみたいとおもう寺である。こんな田舎の辺鄙なところに,どうしてこんなに立派なお寺があるのだろうか,と不思議で仕方がなかった。
 が,その謎が解けたのである。つい最近,文庫化された宮城谷昌光の『古城の風景Ⅰ』─菅沼の城,奥平の城,松平の城─(新潮文庫)の中に,つぎのようなくだりがある。
 「豊橋市の石巻(いしまき)山から東北にむかうと,すせ,とよばれている地区がある。すせ,はふつう州瀬という字をあてるはずでじくが,ここは嵩山と書かれる。
 東に険峻(けんしゅん)な山〇(さんらん)があり,そこを通る本坂(ほんざか)とよばれる山径(いまはトンネルもある)をたどってゆくと,静岡県の三ヶ日(みっかび)町にはいる。私は豊橋市内にある高等学校に通っていたが,市内の名所旧蹟(きゅうせき)に昏(くら)く,三ヶ日町に居を転ずるまで,石巻山も嵩山も,みたことがなかった。」
 宮城谷さんは,わたしの高校の後輩にあたり,当時は,蒲郡市から通学していた人である。そんな縁故もあって,いつしか,わたしは宮城谷さんのファンになった。最初に読んだのが,たしか『太公望』だったと記憶する。中国の歴史小説を得意とされるが,最近になって,郷土の歴史小説に新境地を開かれ,『風は山河より』(全6巻)や『新三河物語』(全4巻)など,徳川家康を中心とした戦国時代のものを書かれるようになり,わたしとしては眼が離せなくなった。
 今回の『古城の風景』も同様である。すべて,三河地方の古城の話である。
 前置きが長くなっているが,ここからが真打ちの登場である。
 「鎌倉時代に南宋の禅僧である日顔(にちがん)が渡来して,なんとこの地にきたのである。足を停めた日顔は,
 ──ここは嵩山の少林寺に似ている。
 と,おもったらしい。
 それゆえ山を嵩山と名づけ,山中に庵室(あんしつ)を結んで三十年もとどまった。その間に正宗(しょうじゅう)寺が建立(こんりゅう)されたのであろう。日顔は嘉暦(かりゃく)二年(一三二七年)に示寂(じじゃく)したといわれる。その嘉暦二年という年は,鎌倉幕府が滅亡する六年前にあたる。室町時代の正宗寺は壮観であったにちがいない。なにしろ塔頭(たっちゅう)が十二坊あり,末寺が六十あるいは百余をかぞえたという。戦国時代には,近くの豪族である西郷(さいごう)氏の篤(あつ)い庇護(ひご)をうけ,以後,何度も火災に遭うも,そのつど再建され,現在の伽藍(がらん)は江戸時代の嘉永(かえい)年間に建てられたものである。」
 これで,わたしの長い間の疑問はすべて瓦解した。納得である。
 宮城谷さんの時代には,「金仙先生」はいらっしゃらなかったのか,あるいは,正宗寺の住職であるということをご存知ないのか,この話はでてこない。ちなみに,熊谷直実の子孫が三河にながれてきて,宇利城の城主となる話のところでは,「思い返してみれば,私が通った豊橋の高校の校長は熊谷先生であった。たぶん豊橋に熊谷さんはすくなくあるまい」とわざわざ述べているほどである。だから,もし,知っていたら書いたはずで,ひょっとしたら「金仙」という名字の由来まで調べてくれたかもしれない。
 というようなわけで,達磨大師の嵩山少林寺と,愛知県豊橋市の嵩山正宗寺とは,深いふかい縁故に結ばれていたのである。ただ,残念なことは,日顔さんが嵩山少林寺で修行した禅僧ではなかったことだ。もし,そうであったら,日本の少林寺拳法の発祥の寺として,その名を残したに違いない。それにしても意外なつながりがあるものだ。
 わたしの抱いた,ほんとうに素朴な疑問が,そのまま正解であったとは・・・・。
 だから,歴史の謎解きはやめられない,という次第。