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2013年9月30日月曜日

「盤双六をする遊女とお客」の屏風絵(国宝)について考える。


                    盤双六を楽しむ遊女と若い客

 盤双六(ばんすごろく),英語でいえばBackgammon,日本の古くからのこの遊びを知っている人はいまではほとんどいないらしい。それもそのはず,徳川幕府が徹底的に弾圧をくわえ,天保年間(1830~33)に消滅してしまった,といわれている。それほどにこの盤双六はむかしから大流行していて,江戸時代に入ってもその勢いが収まらないでいた。幕府はこの傾向をこころよしとせず,徹底的に取り締まり,とうとう姿を消すにいたったという。

 この謎の盤双六,もともとはインド発祥の波羅塞戯(ばらそくぎ)。盤上遊戯としては,いま確認されているかぎりでは,世界最古のものらしい。日本には中国経由で仏教とともに伝わった,という。采棒(木または竹,のちに六面体のサイコロとなる)を振って,でた目の数に応じて石の位置取りをし,相手の石の邪魔をしながら,早く自分の石を相手陣営に全部送り込んだ方が勝ち。ルールはかんたんだが,その駆け引きには含蓄があり,なかなか奥の深い遊びらしい。

 
 元来は神聖なる占い用の呪具だったが,世俗の世界に取り入れられると博奕(賭博)の道具と化した。以来,大人気で,各地で大流行したという。『日本書紀』にも,あまりに流行したために禁令を発した,と記されているほどだ。清少納言の『枕草子』には「つれづれ慰むもの」のひとつとして数えられている。鎌倉時代や室町時代には絵巻物にも数多く描かれるようになり,その人気ぶりが忍ばれる。戦国時代には留守を預かる武家の女性たちが気晴らしに楽しんだ,ともいう。そうして,江戸時代に入っても衰えることはなかった。そこで,幕府は強権を発令して禁止し,とうとう廃絶に追い込んだ,という。そして,いまや幻の遊戯と成り果ててしまったという次第である。

 この絵の出どころは,彦根屏風(国宝)。彦根城主であった井伊家に代々伝わった六曲一双の屏風という意味でこの名が残る。描かれたのは寛永年間(1624~44)で,狩野派の画家の手になると考えられているが,詳細は不明。江戸初期の室内男女の遊楽のさまを写したもの。初期風俗画のなかでは傑作の部類だという。

 さて,この絵に注目してみよう。左側に立て膝で座り,采棒を右手にもっている女性は,どうみても鉄火場で腕をあげたプロの姐御さんのように見受けられる。まだうら若い,お人好し風の男性は,女性のもつ采棒に見とれている。もう,すっかり姐御の術中にはまっているかのように,間抜けた顔をしている。おそらくは,正面奥の女性が遊女で,姐御と二人で色仕掛けに彩られたあの手この手で若者のこころを誑かしているに違いない。

 この場所は遊廓の一室。いろいろの室内遊戯が用意されていたようで,歌舞音曲とともに,飲食したりして一夜を楽しむ。ここでの盤双六は,間違いなく「賭ごと」として行われていたといってよいだろう。いわゆるサイコロ賭博の勝った・負けたの単純な勝負の世界とは違って,男女の色事のなかでの「賭ごと」は,あの手この手の千変万化の応酬があって,人情の機微に富んだものだったのではないかと想像される。

 こうした色事を含む遊びこそ,全知全能をかけた男女の互酬性の表出である。つまり,お互いの全存在を賭けた,まるでポトラッチのような「贈与」なのだ。すなわち,「生」の琴線に触れる,命懸けの消尽なのだ。だからこそ,一度でも,このエクスターズの味を占めてしまったが最後,足が抜けられなくなってしまう。

 たかが盤双六などと思うことなかれ。フロイト流に考えれば,盤双六はセックスそのものだ,ということになる。その意味では,江戸時代初期の遊廓では,セックスの前哨戦として盤双六が重要な役割をはたしていたのかもしれない。しかし,フロイトは,逆に,あまりに盤双六に熱中してしまうと,セックスレスに陥る危険がある,と警告を発している。

 それにしても,人間という「生きもの」は謎だらけで奥が深い。どこまでいっても解明不能だ。だからこそ,あれこれ試行錯誤しながら,いくつになっても生きられるのかも知れない。

 というところで,今日はおしまい。




  
 

2013年8月26日月曜日

18世紀に描かれたローマのコロッセウム(円形闘技場)。



 連載「絵画にみるスポーツ施設の原風景」第27回(『SF』月刊体育施設,8月号,P.18.)は古代ローマのコロッセウムを取り上げてみました。典拠文献は,The Colosseum by Philippo Coarelli Gian Luca Gregori, Leonardo Lombardi, Silvia Orlandi, Rossella Rea, and Cinzia Vismara edited by Ada Gabucci, translated by Mary Becker, The J.Paul Getty Museum, 2001. です。この絵画にはつぎのようなキャプションを書きました。

 ふつうにはコロッセウムと呼ばれているローマの円形闘技場。描いたのはロシアの画家フィヨードル・マトヴェイエフ(Fjodor Matveiev 1707~1739)。なんとものどかな風景のなかに廃墟のままコロッセウムが描かれています。これが18世紀初めのコロッセウムの姿だったのでしょう。

 こんにちのわたしたちの眼には迫力満点の巨大なコロッセウムの写真のイメージが鮮烈に刷り込まれています。実際に現地に尋ねてみますと,もっと迫力があります。いまは,ローマの市街地となっていて,コロッセウムの周囲は幹線道路がとりまき,多くの車が走りまわっています。わたしたち観光客は,地下鉄から地上に出てきた瞬間に,すぐ目の前にコロッセウムを仰ぎみることになります。びっくり仰天してしまいます。

 高さ48.5m,長径188m,短径156m。こんな楕円形の巨大な,しかも崩壊状態の建造物が目の前に迫ってきます。思わず足を止め,あとずさりしそうになります。収容能力は約5万人。ティトゥスにより80年に完成しました。

 ここで剣闘や人間と野獣の,血で血を洗うような凄惨な格闘が演じられました。ときには,アリーナに水をはって軍船を浮かべ,海戦ゲームまでもが演じられました。しかも,驚くべきことに,そのアリーナの下は剣闘士や野獣を収納する部屋が無数につくられています。

 こんな巨大な円形闘技場(アンフィテアター)が,イタリアの各地に建造されたばかりではなく,ローマ帝国の植民地のいたるところに建造されていました。この円形闘技場と同時に,キルクスと呼ばれる四頭立ての馬車(戦車)による競技場も建造されていました。しかも,ローマには大浴場まで建造されていました。それも巨大な体育館を何個もつなぎ合わせたような大きさです。

 これらは皇帝ネロに象徴されるように,まさに皇帝権力の偉大さを見せつけるための,みごとなまでの民衆懐柔のための文化装置でした。有名な「パンとサーカスを」という民衆の欲望を,もののみごとに表現することばも,こういう背景から生まれてきました。

 皇帝の思惑どおりに,ローマ市民を飽食と娯楽に熱中させ,余分なことはなにも考えない「思考停止」状態に導き,いともかんたんに市民たちの「自発的隷従」を手に入れたという次第です。

 以上です。

 こんな図像を提示したのも,じつは,世界陸上や甲子園野球の熱戦にうつつをぬかしているわたしたち日本人もまた,古代ローマのコロッセウムで「パンとサーカス」を求めたローマ人たちと,基本的にはなにも変わってはいないということを意識したからです。フクシマの現状はますます深刻化し,土地を追われた人びとの帰郷の夢はいまもなおはたせないままです。一方,沖縄の基地負担はますます増大し,ついにはオスプレイが当たり前のように本土上空をも飛び回るようになりました。そういった政府にとって都合の悪い情況に蓋をするには,大きなスポーツ・イベントが大いに役立つことを,安倍政権は充分に計算し,折り込み済みのようです。

 こんにちの巨大なスポーツ・イベントは(オリンピック招致情報はもちろんのこと),多くの日本人の「思考停止」と「自発的隷従」を生み出すための偉大なる文化装置として大いに貢献している,と言いたかったわけです。スポーツはもはや,単なる遊び・娯楽では済まされないとてつもなく大きな存在になってきていることを,少しでもわかっていただければ・・・・と切に願っているところです。

2013年5月31日金曜日

アルフレッド・シスレーの「河辺」(ハンプトンコートのテムズ河)の絵からなにを連想しますか。


 この絵は,フランス印象派の画家アルフレッド・シスレー(Alfred Sisley 1839-1899)が,1870年代に描いた「河辺」(ハンプトンコートのテムズ河)というタイトルの絵です。シスレーが,父親の倒産と死を機に,両親の故郷イギリスに移住したばかりのころに描いた絵です。かれは早くから画家をめざしますが,本格的に多作になるのは,イギリスに移住してからだと言われています。

 印象派といえば,ふたつのことがわたしの脳裏に浮かんできます。

 ひとつは,色の問題であり,もうひとつは,自然と人間との関係です。前者については,絵画の対象そのものに色があるのではなくて,光を受けてはじめて対象の色が現れる,という考え方です。たとえば,陰となる対象は,対象そのものが黒い色をもっているのではなくて,たまたま光が当たらないために黒くみえるだけであって,光が当たれば,その光の強さ,角度によって色が刻々と変化していくのだ,という考え方です。ですから,印象派の画家たちは陰影をも色で表現しようと努めます。

 わたしが最初に驚いたのは,空の色と水の色でした。こんなにも色鮮やかな空も水もみたことはありません。わたしの小学校時代の絵の描き方は,もっぱら写真のように描く,いわゆる写実でした。しかも,空は空色,水は水色と決まっていました。それ以外の色を塗ることは考えられませんでした。これが「写実」といえるかどうかは問題ですが・・・。ですから,空も水もひとつの色を塗れば,それで終わりでした。しかし,印象派の画家たちの描く空や水は,なんと豊かな色をしていることか,とまずはそのことに驚きました。

 対象は光を受けて色を発する,というこの考え方は,それまでの自然をみるわたしの眼に革命を起こしました。そして,なにより自然と真っ正面から向き合うことの重要さを教えてくれました。しかも,時々刻々と自然の色は変化しつづけているということを全身で,じかに感じたときの感動はいまも忘れることはできません(南アルプス・北岳山頂から眺めた夕景,三浦半島葉山のレストランから眺めた富士山の夕景,など)。そういう眼でシスレーのこの絵を眺めてみますと,あきることなく,ぞんぶんに楽しむことができます。

 もうひとつの自然と人間との関係については,以下のとおりです。シスレーよりも少し前に,マネが『草上の昼食』(1863年,オルセー美術館蔵)という勇名な絵を発表してセンセーションを巻き起こします。郊外の森のなかの草の上に坐って昼食をとっている紳士たちのなかに,ひとりだけ裸婦が横たわっている,あの絵です。絵画のなかの裸婦もまた,大自然のなかに放り出されることによって,それまでとはまったく違った美しい「色」を発するようになります。新たなるオブジェの登場です。マネが着目したのはそこでしょう。しかも,そうすることによって,本来が自然であるべき人間の身体がふたたび自然のなかに融合していく,その瞬間,瞬間のもっとも美しい裸婦を描き込むことがマネにとってのひとつの大きな実験だったのでしょう。

 この絵が引き金となって,多くの印象派と呼ばれる画家たちが登場し,活動するようになります。しかし,マネ自身は印象派の画家たちと活動をともにすることはありませんでした。が,マネの描いた『睡蓮』(大作で,しかも,いくつものヴァリエーションを生み出した)は,のちの印象派の画家たちに大きな影響を与えることになりました。

 自然と人間との関係をどのように認識するか。この問題は,当時の人びとの暮らし方にも大きな変化を与えました。たとえば,家のなかに閉じ籠もりがちであった若い女性たちが,装いも新たにした軽やかなデザインのおしゃれをして,積極的に野外に飛び出してくるようになりました。ちょうど,この時代に,ローン・テニスやクロッケーや自転車やハイキング・登山が大流行します。その原動力となったのは,活動的な軽装の若い女性たちでした。自転車に乗るための専用の女性用ファッションの誕生は,のちのスポーツ服のさきがけとなりました。

 そのきっかけをつくったのは,印象派の画家たちではなかったか,というのがわたしの仮説です。このシスレーの絵も,人物は小さく描かれていますが,野外にでて散策したり,ボートを浮かべて漕いでみたり,ヨットを浮かべたり,という当時の最先端の流行の対象(オブジェ)が描き込まれています。もはや,人物もまた,大自然の放つ光のなかに溶け込んでしまって,たんなる色の一部と化しています。こういう自然と人間の一体感が,19世紀末から20世紀初頭にかけてのスポーツの隆盛と無縁であったとは考えられません。

 こんな風に,スポーツ史・スポーツ文化論的なアングルから絵画作品を楽しむのも一興かと,ちかごろはしみじみおもいます。

 なお,このシスレーの絵に注目して,こんなことを書いたのは理由があってのことです。いま,ある雑誌(『SF』Sports Facility,体育施設出版)で「絵画にみるスポーツ施設の原風景」という連載を隔月で担当しています。その締め切りが昨日(30日)でした。それを書き上げて,原稿を送信したのですが,字数がほんのわずかなキャプション程度のものでしかありませんでしたので,その欲求不満をここで解消しようと考えた次第です。これだけの分量の文章を書いておけば,わたしの頭のなかを駆けめぐっていることがらのおおよそのことは吐き出せた,とこれは自己満足。というか,ひとつのメモリーとして整理できた,とやはり自己満足。

 みなさんは,この絵をどのようにご覧になり,この文章をどのように読まれたでしょうか。ご意見などお聞かせいただければ幸いです。