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2016年1月28日木曜日

甘利大臣,立派。さあ,こんどは首相の任命責任だ。

 「政治家は結果責任だ。政治家としての矜持を貫くことにした。」

 立派なものです。見上げたものです。自民党の中にも,そして,閣僚の中にも,こんな立派な政治家がいるではないか。やはり,嘘をつきとおすには高い教養が邪魔をしたか。いまからおもえば,もうすでに,TPP交渉で疲れ切っていたようにもおもいます。TPP交渉中のテレビに映る顔つきがどんどん悪くなり,白髪も一気に増えました。アベ政権のもとでの嘘つき政治にほとほと嫌気が差していたのではないでしょうか。

 今日(28日)の午前中の,衆議院で行われている党首による質疑応答をテレビでみていたら,時折,映し出される甘利大臣の顔から張りつめた緊張感というか,輝きが消えていました。これはどうにもならないということを覚悟し,腹をくくったな,と密かに推測してしまいました。もう,完全に精気が消えていたからです。

 かくなる上は,政治家・甘利明として,矜持を貫き,きちんとした説明責任を果たしていただきたい。そして,ことの真相を明らかにして,それ相応の責任をとっていただきたいとおもいます。ここまできたら,たぶん,やってくれるでしょう。根が真面目そうな人にみえますから。

 それに引き換え,アベ君は,もう,どうしようもないアホンダラ。嘘はたくさん連発して言いつづければ,それが道理となる,とでもおもっているのでしょうか。丸見えの嘘をついて,しかも居直るのですから,これはもはや嘘をついているという自覚もなにもない,たんなるアホンダラでしかありません。もし,嘘をついているという自覚があって,あの態度が保てるとしたら,もはや,病気以外のなにものでもありません。

 さあ,どうする,アベ君。後任を決めればそれでいい,という問題ではありませんよ。「任命責任はわたしにある」と明言したのですから。もっとも,これもまた明々白々なる嘘をついたのかもしれません。言っておいて,あとは無視をすればいい・・・と。でも,なんらかの「任命責任」を明らかにしないことには野党が許さないでしょう。これから緊迫した国会がつづくことになりそうです。また,そうでなくては奇怪しいわけですが・・・・。

 でも,すり替え,誤魔化し,脅し,の名手でもあるお代官さまと越後屋のコンビ,すなわち,アベ+スガの「悪」のもたれ合いコンビ。なにをやらかすか,わかったものではありません。わたしたちの眼に見えないところでやりたい放題。とりわけ,メディア操作。今回だって,甘利大臣は「はめられた」のだと予防線を張りました。それにメディアはほいほいと乗って,じゃんじゃかこの情報を流していました。たとえ,「はめられ」ようが,どうしようが,悪いことは悪いことであって,「はめられた」から責任がないという問題ではありません。が,こんな小手先の手練・手管でかわそうとしたのは官邸だった,という情報も流れています。もっとも,こちらの情報はネット上のものですが・・・。

 いずれにしても,こうなったら,そろそろ水戸黄門さまのお出ましの番です。いでよ,自民党の水戸黄門。いまこそ,襟を糺すべきとき。長老のだれでもいい。骨のある長老はいるではないですか。自民党という政党の屋台骨を建て直すためにも,そして,日本国を救うためにも,蛮勇をふるって立ち上がってほしい。

 こんな大ピンチに立っても,なお,アベ・シンゾウにすべてを託すというのでしょうか。そして,選挙に勝てればそれでいいとお考えでしょうか。

 そうは問屋が卸しません。もはや,国民だって黙ってはいません。甘利大臣の「矜持」をもってすれば,ほかにも辞表を提出しなくてはならない閣僚がいます。当然のことながら,そちらにも点火して,大きな議論が沸き起こること必定です。また,そうなくてはなりません。政界浄化のためにも。国民は黙ってはいません。

 これから選挙に向けて,ますます政界は流動的になっていくはずです。そして,その幕開けが,自民党・閣僚のオウン・ゴールではじまるとは,いささか意外でしたが,なるほどなぁ,ともおもいます。さあ,わたしたちも手綱を緩めてはなりません。

 いざ,鎌倉,です。立ち上がりましょう。できるところから・・・・。

2015年12月30日水曜日

騙されてたまるか。「フクシマ」こそが最大の政治課題だ。

 敗戦後70年。この時間はわたしの人生そのものだ。国民学校2年生で玉音放送を聞いた。そのあとの記憶は鮮明だ。国民学校が小学校になった。しかし,教科書もない。ノートもない。釘一本持って学校に通う。算数の計算は運動場の土がノート代わりだった。計算が終わると,足で消して,また,つぎの計算をする。やがて,新聞をもっと小さく折り畳んだ状態の教科書がとどく。それを竹箆で切って,表紙をつけて,ページがめくれるようにする。全部,自分の手仕事だった。出来上がると嬉しかった。そして,むさぼるようにして読んだ。空襲で焼け出され,読む本はなにもなかったから。

 1950年。新制中学1年生のとき,朝鮮戦争がはじまった。恐ろしくて鳥肌が立ったことを覚えている。日本はどうなるのか,と心配で仕方がなかった。しかし,戦争景気とかやらで,物資が少しずつ出回るようになって,食べるものも着るものもなんとか間に合うようになってきた。

 そのあとは,とにかく頑張ればなんとかなるという夢と希望に満ちた時代がつづく。中学,高校を終えて東京へ。1956年。まだ,米の配給時代で,米穀通帳をもって上京。外食券食堂で食費を切り詰めて暮らしていた。大学のキャンパスでは教科書法案の反対闘争が展開されていた。耳を傾けているうちに,気づいたら,日比谷の野外公会堂にも足を運んでいた。

 政治も不安定で,政党再編が繰り返され,なんとも頼りない時代だった。安保闘争の嵐が激しく吹きまくり,政権の交代も頻繁だった。が,それでも,どの政権も憲法9条だけは死守する姿勢を示してきた。そして,自衛権の行使も容認しない,という姿勢が貫かれた。この軸だけはぶれなかった。歴代自民党政権も,この姿勢にゆるぎはなかった。

 にもかかわらず,70年にわたる日本の「財産」を,たったひとつの気まぐれ政権によって全部失うことになろうとは・・・・?いったい,だれが,想像できただろうか。

 アベ政権は,閣議決定という姑息なやり方で,憲法解釈の変更を打ち出した。憲法の解釈が閣議で決定できるとなれば,もはや,立憲政治は不要だ。なにからなにまで,政府官邸のやりたい放題だ。そうして,とうとう,安保法制まで議会のルールを無視して(議事録も残せないやり方で),暴力的に決定してしまった。なにがなんでも「戦争のできる国」にしたかった,この本音を最後まで隠しとおして(嘘をつきとおして),押し切った。

 蓋を開けてみれば,恐るべき額の防衛費が計上され,辺野古の新基地建設も民意を無視して,これまた暴力的に強引に推し進めている。

 こうした政治の暴走は,じつは,とんでもない「演出」であって,もっとも重要な政治課題を隠蔽・排除するためのもっとも効果的な装置として仕組まれたのではなかったか,とわたしは考えている。

 なにを隠そう,この大騒動の陰に,人類史に残る大問題である「フクシマ」が追いやられ,隠蔽されてしまい,人びとの意識から遠ざかってしまった。しかも,手も足も出せないまま,「フクシマ」の実態はますます悪化の一途をたどっている。にもかかわらず,そこで起きている事実は,その大半が「秘密・保護」されてしまっている。国民がなにも知らない間に,放射能汚染は,日々,拡散していくばかりである。もはや,日本列島の隅々にいたるまで,その程度の差はあれ,放射能に汚染されていないところはないとすら言われはじめている。太平洋に至っては,垂れ流しの最悪の状態が,いまもつづいている。

 いま,わたしたちが直面している最大の政治課題は「フクシマ」だ。これを最優先して取り組まなければならない。なのに,アベ政権は放置したまま,なにもしようとはしない。いわゆる「原子力ムラ」の圧力に屈したまま,いや,それどころか一心同体となって,原発再稼働に走り,原発の輸出に熱をあげている始末だ。

 こんな暴走に歯止めがかからない。司法まで圧力をかけて,完全に支配下に収めてしまっている。政権の都合の悪い判決を出した裁判長および裁判官は,すべて「左遷」。出世の道を塞がれてしまっている。だから,みんな黙って,政権の顔色だけをうかがっている。

 もはや,世も末だ。

 しかし,こんなことは,この政権を倒して,別の理想を掲げる政権を誕生させれば,まだ,なんとかなる。少々,時間がかかるが・・・・。しかし,「フクシマ」は半永久的に手も足も出せないのだ。それでも,いま,できることはある。その,いま「できる」ことに全力投球をするのが政治の仕事ではないのか。それを放置したままである。無責任のお手本を,いまの政権は率先している。

 その結果は,世の中の「乱れ」である。倫理も道徳も規範もどこかにすっ飛んでしまったかのような「事件」が連日ニュースを賑わせている。すべては,政治の「貧困」に起因する。総理大臣が嘘ばっかり言いつづけていても,責任を追及されない。それどころか支持率もさがらないという。

 無意識のうちに,みんな「狂って」しまっていて,そのことに気づいていない。みんな間違っているが,自分だけは確かだと信じて疑わない,それほどに狂ってしまっている。

 騙されてたまるか。「フクシマ」こそが最大の政治課題だ。しかも,喫緊の課題だ。

 ことしも,あと二日で暮れていく。このことを肝に銘じて,新年を迎えたい。

2015年12月1日火曜日

いま,辺野古では国家(=アベ政権)による「暴力」が野放しにされている!!

 いま,辺野古では,連日,国家による「暴力」が野放しにされたままになっている。早朝から,おじい,おばあたちが座り込みをして,裁判の結果がでるまでの間の,工事の中止を訴えている。それを,問答無用とばかりに,本土から送り込まれた機動隊が情け容赦なく「ごぼう抜き」にして排除し,工事をつづけている。なかには怪我人もでて,救急車で病院に運ばれる人もでている。無抵抗の「非暴力」の座り込みをしている老人たちを。

 一方,辺野古の海では,海上保安庁の保安員たちが,小さなカヌーを漕いで抗議している沖縄県民の人びとを海に突き落とし,海中に頭を押さえつけたりして,過剰な警備(=暴力)を行っている。カヌーを漕いでいた人に「死ぬかとおもった」と言わせるほどの,しつこい「暴力」である。こんなことが国家の名のもとで平然と行われている。

 これらの「暴力」行為は,連日,写真入りで,『琉球新報』や『沖縄タイムス』では大きく取り上げられ,詳細に報道されている。沖縄県民にとっては大問題となっていて,日本政府に対する不信感はますます増大するばかりだ。知らぬは本土でのほほんと平和惚けした生活を送っている本土のヤマトンチュだけである。

 なぜか。本土の大手メディア(全国紙,テレビ,など)は,この事実を一切無視して,蓋をしたまま伝えていないからだ。日本政府にとって都合の悪い報道をすると「偏向報道だ」と,すぐに政府自民党から強烈なプレッシャーがかかる。そのプレッシャーのかけ方も,日毎に露骨になってきている。この事実すらもほとんど報道されてはいない。しかし,SNSでは,大問題になっていて,大きな論議を生んでいる。

 テレビからは,名だたる評論家(正論を吐く人)たちが,つぎつぎに姿を消している。そして,政府自民党の都合のいいことしか言わない人だけが,テレビや新聞で生き残っている。いま,テレビに登場している評論家・解説者の部類は,すべて政府自民党の代弁者にすぎない。消された評論家たちはどこにいったのか。みんな,SNSで,FBやブログをとおして激しく抗議の声をあげている。多少の温度差はあるものの,それぞれの立場から,しっかりとした根拠を提示して,激しく政府自民党を批判している。

 しかし,残念ながら,SNSの情報とは無縁の生活を送っている人たちが,圧倒的多数を占めているのが現状だ。だから,アベ政権の支持率が,いまごろになってまたぞろ上がってきているという。この調査の方法も結果も怪しいものだが・・・。こうして,アベ・ファシズムはとどまるところを知らないまま,ますます凶暴化し,暴走しはじめている。

 ただ,唯一の救いは,若者たちの圧倒的多数は,新聞(全国紙)やテレビから離脱し,SNS情報に傾斜しつつあるということだ。選挙権が18歳までさがったけれども,この若者たちのうち,選挙権を重く受け止めている若者たちは,もっぱらSNSをとおして情報を収集し,真面目に勉強しているという。これもまた救いのひとつだ。こういう若者たちの輪が広がっていくと,これまでの選挙行動とはまた違った新しい展開が期待できそうだ。

 いま,辺野古で繰り広げられている「暴力」に対しては,さまざまな分野からの新たな批判が生まれていることも救いのひとつだ。たとえば,昨日(11月29日)は,日比谷野外公会堂では抗議集会が開かれ,そのあと銀座に向かって4500人がデモを繰り広げている。この情報を沖縄2紙は,一面トップにカラー写真つきで大きく取り上げている。辺野古のキャンプシュワブの抗議現場には,加藤登紀子や大江健三郎さんなどの著名人も応援にかけつけている。アフリカ・セネガルからやってきたヒップホップ集団<クルギ>も現場に駆けつけ,抗議の声を挙げている。アメリカの上院議員が辺野古で起きていることは,アメリカにもその責任の一端がある,とアメリカの新聞で発言したことも沖縄2紙で報じられている。また,アメリカの最大手の労働組合も,正式に抗議声明を発表した,という。その他,外国の学者・有識者たちの集団もまた,抗議声明を出している。

 こうした情報もまた,SNSでは,ごくふつうに流れている。もちろん,沖縄2紙(『琉球新報』と『沖縄タイムス』)では,いつも大きなニュースとして報じられている。これらの情報をまったく無視して,流そうとはしないのは本土のメディアだけである。いまや,本土は完全なる情報管理社会と化している。日々,戦時体制にますます近づいている。おまけに,「共同謀議」を取り締まる法案を議会にかける準備までしているという。こうなったら,もはや,おしまいである。

 アベ政権は,完全に,戦争をやる気でいる。そのための言論統制の備えを着々と進めているとしかいいようがない。だから,辺野古で野放しにされている「暴力」などは,アベ政権にとっては当たり前のことをやっているだけだ。これから,もっと厳しく取り締まる,そういう体勢に入りつつある。沖縄の離島にも自衛隊基地を増設したり,ミサイルの発射基地をつくろうとしていたり,矢継ぎ早やにつぎからつぎへと新手を繰り出してくる。

 70年前の戦争を記憶しているわたしとしては「恐ろしさ」で「からだがふるえる」思いである。だから,なんとしてでも辺野古の工事はストップさせなくてはならないし,基地廃絶に向けてわずかに残る命を役立てる以外にはない。そして,憲法9条を旗印にして,世界に向けて「不戦」を呼びかけ,「非暴力」こそが最大の「武器」であることを訴えていかなくてはならない。

 いま,それをしないで,いつ,可能なのか。気持ちばかりが焦ってくる。まずは,声を挙げていこう。できるところから。

2015年11月28日土曜日

前倒しTPP対策は,剥き出しの選挙運動そのもの。

 TPP問題に関して,政府はめちゃくちゃなことを始めている。しかも,よくよく考えてみると,みごとなまでの計算・打算がそこには働いている。恐るべし,アベ政権。こんなことまでやるのかと,もはやことばを失ってしまう。しかも,そのシナリオを新聞・テレビなどの大手メディアはみてみぬふりをしている。一蓮托生,日本丸沈没に向かってまっしぐら・・・・。

 いまの,わたしの眼にはそのようにみえて仕方がないのだが・・・・。
 その理由について,述べておこう。

 
11月26日(木)の東京新聞は,上の写真のような記事をかかげている。

 まずは,この記事のツカミの部分を引用しておこう。

 政府は25日,環太平洋連携協定(TPP)への対策をまとめ,「総合的なTPP 関連政策大綱」として発表した。中小企業の製品や農産品の輸出支援と,安価な農産品の流入で打撃が予想される農業関係者への影響緩和策が柱。農業の収益力を高めるための対策など,政府が対応を急ぐ政策は,年末に編成する2015年度補正予算案や16年度当初予算案に盛り込む。さらに対策を検討し,来年秋をめどに追加する。

 すでに,民主党からは「影響の試算もないのに補正予算を視野に入れた対策をまとめるのは(来夏の参院選に向けた)自民党の選挙対策だ」という批判が出ており,国会審議での対立は必至だ,と東京新聞は報じている。

 そのとおりで,政府自民党は,TPPを旗印にかかげ,さっさと選挙運動を始めている,としか思えない。それも,すべて「空手形」を切っているだけの,「みせかけ」であり,税金を使っての「金のばらまき」(買収=選挙違反)に一意専心しているだけの話だから,あきれてしまう。わたしがこのように考える根拠をいくつか挙げておこう。

 ひとつには,もし仮に,TPPの条約が締結されるとしても,まだ2,3年先のことになること。大筋合意と言っているのは日本だけ。まだまだ,これから詰めなくてはならない大問題が,どの国にも山積している。だから,大筋合意どころの話ではないのだ。それらが,かりにまとまったとしても,各国の議会の承認を得なくてはならない。とりわけ,アメリカの次期大統領候補は,いずれの党も「TPP反対」の意思を表明している。ほかの国も最終的には降りればいいと考えているところも少なくない,という。日本は,「アメリカ様」次第で,どちらにも転ぶ。つまり,TPPが成立するかどうかも,まったく定かではなく,むしろ,怪しいということだ。わたしの個人的な推測では,最終的に空中分解する,とおもっている。政府自民党もどちらでもいい,と考えているに違いない。だって,「アメリカ様」次第なのだから。

 ふたつには,TPP条約が成立する前に,国家が税金を用いてTPP対策を講ずることは禁止されているということ。もし,それをやった場合,外国企業の不利益が生じた場合には,あとで罰金を払わなくてはならないという「ISDS」条項があること。このことを政府自民党は百も承知の上で,完全に無視している。そして,さっさと予算化して,中小企業や農業への支援を現実化しようというのだ。要するに,来夏の参院選の票集めのための金のばらまき(買収行為)だ。要するに,選挙に勝ってしまえば,あとはTPPがどうなろうと構わない,というのが政府自民党のスタンスだ。

 
こんな「ISDS」条項を無視するようなことを,政府自民党が平気でやってしまう背景には,どうせ,TPPはつぶれる,という見通しに立っているからだとしか言いようがない。そして,選挙に勝つためには手段を選ばず・・・ということだ。議席だけ確保してしまえば,あとはこちらのもの,という発想だ。その点,TPPは,利用するにはまことに都合のいいツールなのだ。どうせ,つぶれてしまうのだから・・・・。

 
みっつには,臨時国会をスルーした最大の理由は,このTPP政策大綱をつくり,国会承認をとりつけるための準備をするためだったということ。憲法を無視してまでも,臨時国会の開催をスルーしたのはこのためだった。たとえ,このTPP政策大綱が,「焼き直し」や根拠を欠く目標であろうが,とにかく提示して,予算化してしまえばそれでいいのだ。国会での答弁は,戦争法案(安保法制)のときと同じように,同じことを何回も何回も繰り返し答弁して,時間を稼ぎながらごまかしてしまえばいい,と学習済みである。またもや,空疎な国会論議がはじまる。それでも,数の論理で押し切ってしまおう,というのだ。

 というような具合で,まだまだ,問題点を挙げていけばきりがないほどだ。

 要するに,過去の自民党政権が慎重に構えてきた危ない橋を,憲法を無視してまでも平気で渡ってしまおう,という戦後日本の最悪の政治が,またまた,アベ政権によって展開されようとしているのだ。このことをしっかりと胸に刻んで,これからの推移を見届けていくことが肝要だ。まあ,つぎからつぎへと,国民に「猫騙し」をかけて,一気呵成に押し切ってしまおうというのだ。自民党内部にも,相当に,反対論があると聞く。しかし,公言できないのは,小選挙区制での党公認を確保するためだという。小選挙区制が,ファシズムを生みだすツールになるとは・・・・。たかが制度,されで制度。制度,恐るべし。

 もはや,歯止めの効かなくなってしまった日本丸狂想曲はどこまで鳴り響いていこうとしているのだろうか。このまま放置しておくことは,われわれ国民の怠慢だ。立て,そして,声をあげよ。

 自由と民主主義を守るために。それは「今だ!」。

2015年11月27日金曜日

一票の格差・違憲状態判決。「合憲」とした裁判官2名=桜井龍子と池上政幸の名前を覚えておこう。



ご覧のとおり,11月26日(木)の東京新聞一面トップの記事です。「一票の格差」をめぐる最高裁の判決です。もう聞き飽きてしまうほど「違憲状態」という言葉が耳に残っています。そして,またもや「違憲状態」。最高裁判決としては連続して3回目となります。もう,いい加減にしてくれ,というのがわたしの本音です。

 この記事のツカミの部分は新聞から借用することにします。

 「一票の格差」が最大2・13倍だった昨年12月の衆院選は有権者の一票の価値が不平等で違憲だとして,二つの弁護士グループが選挙無効(やり直し)を求めた計17件の訴訟の上告審判決で,最高裁大法廷(裁判長・寺田逸郎長官)は25日,「違憲状態」との判断を示した。選挙無効の請求は退けた。最高裁が衆院選を違憲状態と判断したのは,最大格差2・30倍だった2009年衆院選以降,3回連続。」

 きめのこまかな議論はここではできませんが,とりあえず,わたしが重視したい点だけをとりあげておきたいとおもいます。

 もっとも大きなポイントは,「2・13倍」の一票の格差を「合憲」だと判断した裁判官が2人もいた,という事実です。これまでの最高裁判決では「合憲」とした人はひとりもいませんでした。が,今回は「2人」もいた,ということはわたしには衝撃でした。「どうして?・・・・・」と。

 今回の最高裁で判断を下した裁判官は14人。その内,出身別にみてみますと,裁判官が6人,弁護士が4人,検察官が2人,そして,行政官と学者が各1人,の計14名。この中で「合憲」と判断した裁判官は,桜井龍子(行政官)と池上政幸(検察官)の2名。どうして,2倍以上もの格差がある選挙制度を「合憲」とするのか,その根拠がわかりません。

 同じひとりの人間を,一方は一人前とみなし,他方は半人前以下としかみなさない,こんな不合理が世の中で認められる道理はありません。これは,まぎれもなき「人権」の問題です。厳密に言えば「基本的人権」の侵害です。それを国家が国民に対して強要しているのですから,話になりません。

 それと対極にあるのが,「違憲」という判断をくだした3人の裁判官です。もっとも良心的で,常識に基づく判断だ,とわたしは受け止めています。こういう裁判官がもっと増えてきて,「違憲判決」を出すくらいにならないと,日本という国家はなし崩し的に沈没していってしまいます。少々,荒療治でもいい,選挙の無効を宣言し,選挙のやり直しを命ずるくらいの判決がほしいものです。

 
その点,「違憲状態」と判断した残りの9名の裁判官は「日和見主義者」としかいいようがありません。一見したところ,いかにも良識的であるかのようにみえますが,じつは,責任をとらない「無責任主義者」でしかありません。ここに,いまの日本国家に蔓延している病弊の根源がある,とわたしは考えています。司法がこんなことでは,どうにもなりません。やはり,厳正な法律のもとで,「是々非々」の立場を貫いてほしいものです。

 こんなことでは,政治家の思うつぼです。そして,国会の彌縫策がいつまでもつづく,国民を馬鹿にした政治を,司法が「公認」しているようなものです。この「悪」のスパイラルを断ち切ることこそ,最高裁判所の最大の義務ではないのか,と腹立たしくなってきます。これでは,せっかくの「三権分立」の制度が泣いています。

 こうなったら,もはや,国民が声を挙げる以外にはありません。どこも頼りにはなりません。「駄目」なものは「ダメ」と国民の側からはっきり主張しなくてはなりません。そして,選挙で,その意思を明確に反映させることです。政治家の意識を変革させるには,この手しかありません。

 憲法を勝手に解釈して,政治を行おうという政権がのさばっているのですから・・・・。この政権に天誅をくだす決意が国民には必要です。

 少なくとも「合憲」と判断した二人の裁判官には,つぎの選挙で,しっかりと「×」をつけることを忘れないようにしましょう。

2015年11月14日土曜日

「一億総狂気化社会」。ひらめいた瞬間,「からだがふるえる」。

 一昨日のブログの最後のところで,勢い余って「一億総狂気化社会」ということばが閃きました。が,その瞬間,戦慄が走りました。こんなことばが閃いたのも,なにを隠そう,「一億総活躍社会」などという絵空事を大まじめに政権構想にかかげる総理大臣のうさん臭さが,もはや我慢できなくなってきていたからです。わたしたちの世代であれば,まっさきに思い出すのは第二次世界大戦中のことば「一億火の玉」です。国民全員が「火の玉」となって,鬼畜米英を打ち倒す・・・・これが国是として掲げられたのです。そして,このことばに真っ向から異を唱える人間はだれもいませんでした。もちろん,異を唱えることはだれもできなかった,というのが実情だったのでしょう。

 しかし,もう一歩踏み込んでおけば,「一億火の玉」といわれて,どこか変だなぁとおもいつつ「だんまり」を決め込んでいた,というのがより事実に近かったのではないか,とわたしは考えています。だれだって,変なことは変だ,と気づくはずです。しかし,それを口にすることが憚られる,そんな空気の前に,みんな跪いてしまったというのが,より事実に近かったのではないでしょうか。そうこうしているうちに「自発的隷従」に走る人間が登場し,組織化され(「向こう三軒両隣」),もはや動かしがたい力となって人々の言動を拘束することになっていったのでしょう。

 ああ,「一億総活躍社会」とは,「一億火の玉」と同根ではないか,そして,これこそがまさに「一億総狂気化社会」と同義ではないか,と閃いたという次第です。

 「一億総活躍社会」とは,そのための「助走」にすぎません。すぐに脳裏に浮かぶことは,集団的自衛権を行使して自衛隊員が海外の戦場に派遣されることになれば,当然のことながら自衛隊員が大量に必要とされるようになります。人員をどこから確保するのか。まずは,失業中の若者に動員がかかります。なぜなら,「一億総活躍社会」の一員として,国家の急務に貢献するのは当たり前であって,なにをうろうろと働きもせずに無駄な日を過ごしているのか,それは「国賊」のすることだ,というようなことにいともかんたんになりかねないからです。

 そのためのお膳立てが,この「一億総活躍社会」というスローガンには見え隠れしているようにわたしにはみえてしまいます。だから,このスローガンこそ「一億総狂気化社会」へと突入していくための入口ではないか・・・・と。

 「一億総狂気化社会」を生みだすきっかけは,きわめて単純なものです。それは「命」の軽視です。いまや,だれもが,口先では「命」が大事といいますが,やっていることは「命」の軽視です。それがもっとも顕著に現れているのが原発の再稼働です。一度,壊れてしまったら多くの人々の命を犠牲にしなくてはならない恐るべき文明の利器であることは,フクシマでしっかりと学んだはずです。にもかかわらず,性懲りもなく原発再稼働に向けて国を挙げて一目散です。

 政権にとって重要なのは,命よりも経済(金)なのです。それも目先の経済(金)です。ですから,総理大臣が率先して,原発を外国にも売りに歩いています。事故があったら日本が全責任をもつ,とまで約束して・・・。まさに,日本の総理大臣は「死の商人」と化してしまいました。これを,政府与党の議員のだれも止めようとはしません。

 「狂気」と化したのは総理大臣だけではありません。政府与党の議員,全員が「狂気」と化してしまっているのです。そこから繰り出される政治スローガンのひとつが「一億総活躍社会」という発想です。この人たちに共通していることは,「命」の軽視です。だから,自衛隊員が海外の戦闘に巻き込まれて犠牲になることも辞さない。それよりも「集団的自衛権」の行使容認の方が大事なのです。なぜ? 強い日本国を復活させるために。

 その強い日本国の復活をめざしている母体こそが「日本会議」という妖怪・化け物です。この組織が徐々にその姿をさらけ出すようになってきました。こうなってきますと,「一億火の玉」はもうすぐそこです。戦争は,一触即発ではじまります。はじまったら,もはや止めようがありません。なぜ?戦争こそ,一瞬にして「一億総狂気化社会」を形成する特効薬なのですから。「一億総活躍社会」の究極の姿が戦時体制そのものなのですから。

 「命」の軽視が人を狂気と化すための前提条件であることは,一昨日のブログに書いたドイツの精神科医たちが始めた「T4」作戦という大量殺戮が,なによりの証拠です。狂気に知性はなんの役にも立たないということの証拠でもあります。狂気の歯止めとなる最大の武器は,情緒豊かな感性です。人の「命」をなによりも優先させなくてはならないとする感性です。もっと言ってしまえば,生きものとしての動物的「本能」です。すなわち,「動物性」。

 その対極にある「人間性」は,いざとなれば「命」を軽視して平然としていられます。しかし,「動物性」は,どこまでも「生きる」ことが最優先されます。自己の「命」が大切であると同様に他者の「命」もまた大切なものであることを知っています。同種の動物間での死闘は,例外を除いて,滅多にみられないのがそのなによりもの証拠です。

 結論。「一億総狂気化社会」に歯止めをかけるのは「動物性」(動物的感性)。「一億総活躍社会」の行き着くゴールは「戦争」。以上。

※文章,いささか乱調。お許しのほどを。

2015年11月11日水曜日

「TPP,合意したした詐欺」。嘘ばっか。『世界』12月号より。

 『世界』12月号に,TPPに関する二つの論文が掲載されています。ひとつは,首藤信彦:アトランタに仕組まれた「TPP大筋合意」,もうひとつは,内田聖子:市民社会の価値とTPP──実態を覆い隠すご祝儀報道。これらの論文はきわめて明解にTPPの問題点を洗い出してくれています。これを読んで,日本の政府はいったいなにを考え,なにをやっているのか,というその背景がまるみえになってきました。まことにタイムリーな企画で,助かりました。

 といいますのは,「TPP,大筋合意」とにぎにぎしく報道され,とうとうそんなことになってしまったのか,とわたしは落胆していました。これはえらいこっちゃ,と。それにしても,なにが,どのように「大筋合意」したのか,その具体的な内容がさっぱりわかりませんでした。なのに,メディアの大半は熱烈歓迎のお祭り騒ぎでした。

 それを見越したように,政府は,あたかもTPP締結は時間の問題であるかのごとく振る舞い,その対応を急ぎ,TPP対策予算まで組みました。しかし,SNSを流れる情報などによれば,「大筋合意」をしたとしても,各論の具体的条項の詰めをし,「文書合意」を経て,各国の議会で承認をえるまでには,早くて2年,遅ければ4年はかかるだろう,ということがわかってきました。加えて,アメリカの次期大統領候補たちは,両陣営ともにTPPには反対の立場を鮮明にしています。となると,TPPは成立不能になるという可能性までちらつきはじめています。

 となると,TPP対策予算はだれのため,なんのためのものか,という疑念が湧いてきます。そこで,思いついたのが,政府自民党の深慮遠謀のさきにあるものは,来年の参議院選挙のための軍資金ではないか,というものでした。このことは,このブログでも書きました。でも,そのときは自分でも半信半疑でした。

 しかし,上記の二つの論文を読んで,わたしの推測がズバリそのものであったことが判明しました。やっぱりそうだったのか,と。

 ここでは,二つの論文を取り上げて,ひとつずつ論評するということはしないことにします。いささか乱暴ですが,二つひっくるめて,なにを言っているのか,という結論的なことだけを述べておきたいとおもいます。

 ひとことで言ってしまえば,「TPP合意したした詐欺」だ,ということです。そして,政府自民党が仕掛けた「情報操作」は「嘘ばっか」だった,ということです。この「嘘ばっか」は佐野洋子の短編集のタイトルを借りました。この作品の書き出しは「桃太郎には桃次郎という弟がいました」というものです。まさしく「嘘ばっか」を創作した作品です。つまり,政府がやったことはこれとまったく同じだということです。つまり,存在しない「桃次郎」を想定して,ひとつの物語を仕組んだというわけです。それは「詐欺」にも等しい行為だ,と。だから,今回の政府の演出した情報操作は「TPP合意したした詐欺」と呼ぶにふさわしい,というわけです。

 どういうことかといえば,以下のとおりです。

 「大筋合意」は日本政府だけが編み出したことば(=嘘)にすぎない,ということです。その根拠は,「大筋合意」をした声明文すら,どこにも存在しないからです。日本政府が勝手にそう決めつけただけのことです。この種の決めつけは,なにも日本政府だけではないようです。どの国も,みんな,自分たちにとって都合のいい部分だけを強調して,わが国はTPP交渉の場においてかく戦かえり,といった勝利宣言をしている,と上記の二つの論文が教えてくれます。つまり,どの国も,TPP交渉は政局の道具にされている,ということです。

 すなわち,どの国も「桃次郎」を創作して,都合のいいように宣伝をしたにすぎません。だとしたら,「大筋」どころか,ほとんどなにも決まってはいないに等しい,というのが現実のようです。もちろん,何点かは,詰めた議論が展開され,それなりの「落としどころ」をみつけて解散したようです。しかし,その「落としどころ」に,アメリカ国内では猛反発が起きている,そのために次期大統領候補は両陣営ともに「反対」を表明するにいたった,というのです。

 ひるがえって,日本はどのような交渉をしたのか。情けないことに,日本はほとんどの条項を丸飲みして,聖域を守るどころか,放棄してまでして,交渉分裂回避に全力を挙げていたというのが実態だった,と二つの論文は強調しています。

 ここでも,集団的自衛権と同じように,日本は徹底してアメリカの「ポチ」であることを高らかに宣言したも同然であった,というのです。

 主権国家としての日本はどこに行ってしまったのでしょうか。わたしたちはこれまで気づかないできてしまいましたが,どうやら「サンフランシスコ条約」は見せかけのものであって,その裏で結ばれた「日米地位協定」にしばられたままの,言ってしまえば,アメリカの植民地にすぎなかったのではないか,そして,いまもなお,この「日米地位協定」のもとに完全に支配されているではないか・・・・と。だから,沖縄の米軍基地問題はまさに,この「日米地位協定」の産物にすぎないのだ,と。すなわち,辺野古問題で,日本政府が,沖縄県民の民意を無視してまで強硬策をとらなければならない背景には,この「日米地位協定」があるからだ・・・・と考えざるをえません。

 もうそろそろ多くの国民が目覚めて,アメリカの「ポチ」であることから離脱する道を模索しないことには,この国の行く末は哀れとしかいいようがありません。

 窓の外では,木枯らしに近い「秋風」が吹いています。 

2015年10月30日金曜日

この国はもはや「無法」状態。だれも責任をとらない。日本国,一気に崩壊か。

 運動会の組体操で事故が多発し,大きな話題になっています。人間ピラミッドやタワーは,運動会の人気プログラムで,多くの学校で実施されているようです。しかし,組体操とはいかなるものかという専門的な訓練を受けた教師はほとんどいないため,子どもたちの能力の限界を見極めることができず,事故があとを絶ちません。にもかかわらず,だれも責任をとろうとはしません。教育委員会も校長も指導に当たった教員も,俺は悪くない,と責任をなすり合っています。

 学校問題でいえば,これは氷山の一角にすぎません。

 ことほど左様に,社会もまた乱れにみだれてきました。わずか,ここ数年の間に。急激に。

 なぜでしょう。

 ひとことで言えば,「3・11」以後,未来に夢も希望もいだけなくなってしまったからです。みんなその場しのぎの刹那主義に走るようになってしまいました。そして,切羽詰まって,身動きとれなくなってしまうと,「自爆」してしまいます。「だれでもいいから殺してみたかった」という具合に。あるいは,横領,詐欺,データの改竄・・・・等々,きりがありません。

 言ってしまえば,未来の不在。

 この元凶をたどっていきますと,新自由主義経済に行き着きます。フリードマンが仕掛けた人間不在の経済優先主義。これがノーベル賞を受けた経済理論だったことが悲劇のはじまり。アメリカが一気に新自由主義経済にその舵を切り換えてしまいます。その結果,その余波は全世界に拡散し,日本もそっくり取り込まれてしまいました。

 とりわけ,小泉政権の郵政民営化あたりから顕著になってきました。いまは,アベノミクスがそれです。しかも,「新三本の矢」なる絵空事のような経済政策を打ち出して,国民の眼を欺こうとしています。なにがなんでも景気をよくするためには,原発を再稼働させ,外国に売りに出し,それでも足りないので税率を高くし,さらに武器を生産・輸出したり,戦争ができるようにして非常事態で切り抜けようというわけです。そのためには,憲法の曲解解釈を閣議決定して,無法状態をつくりだしました。もはや,政府のやりたい放題です。憲法を無視する方法を編み出した以上は,もはや怖いものはなにもありません。憲法の下にある法令など屁の河童です。

 たとえば,辺野古問題をみていれば,もはや,日本国は「無法」状態であることがよくわかります。翁長知事による工事差し止め要請に対して,政府は,法律を悪用して(使えない法律を使って),むりやり翁長知事の「工事差し止め」効力の無効措置をとり,工事を再開しています。この措置に対しては,「普天間・辺野古問題を考える会」(代表・宮本憲一)が「知事判断を支持する」という声明を発表し,強く抗議をしました。また,行政法学者93名による「行政法違反」(政府のとった手続の不当性)を指摘した声明を発表しました。その一方では,辺野古3区に対して,政府が直接,地域振興補助金を交付するという,とんでもない暴挙にでました。これは,明らかに「地方自治法」違反です。それでも,政府は知らん顔です。さらに,熊本県でのオスプレイの飛行訓練は地元の賛成が得られないので見送るという(スガ官房長官)。熊本県民の民意は尊重するが,沖縄県民の民意は無視。これがアベ政権のやり方。これでは長年にわたる「沖縄差別」が,いまもなお,露骨に行われているとしかいいようがありません。

 ことほど左様に,いまのアベ政権は憲法も法律も無視して,自分のやりたい放題がつづいています。「丁寧に説明する」と約束した舌の根も乾かないうちに,野党の要請する臨時国会はスルーして,喫緊の課題が山積しているのに(たとえば,TPP問題,など),すべて蓋をして知らん顔。これもとんでもないことで,立派な憲法違反です。「丁寧に時間をかけて説明する」と約束したアベ君は,またもや大嘘をついて,外遊に必死です。そして,金の大盤振る舞い。冗談じゃあない。国内には貧困家庭がいっぱいあって,食事もまともにできない子どもたちが「6人に1人」もいるというのに。あるいは,原発事故のために故郷を追われて放浪している人たちがいっぱいいるというのに。あるいはまた,ブラック企業にこき使われて,残業手当てももらえないまま,泣き寝入りしている若者たちがごまんといるというのに。

 主要メディアも政権のいいなりなので,こうした「無法」状態にあることを批判しようともしない。だから,多くの国民も,なにも知らないまま,自分のことで精一杯。ジャーナリズム死して,残るは山河のみ。人間はみんな「事物」と化してしまいました。

 こんなデタラメな政治が行われているのに,いやいや政府による立派な「犯罪行為」が行われているのに,野放しのままです。政治のトップから末端にいたるまで,まさに「無法」状態。これをいいことに「ばれなきゃあ丸儲け」とばかりに,守銭奴たちは,だれもかしこも「悪」の道に走り出してしまっています。

 これでは,一気に,日本国が崩壊してしまうのは必定。いな,もう立派に崩壊しています。あとは,戦争状態に持ち込んで,国民の眼を欺き,逃げ切ろうという算段なのでしょうか。おそらく,アベ政権は,政治的なトラブルが起きてにっちもさっちもいかなくなったら,すぐにも自衛隊を海外に派遣して,非常事態を出来させる暴挙にでることでしょう。そうなったら取り返しのつかないことになってしまいます。それではわたしたち国民が困るので,その前に,「お腹が痛くなって」,政権を投げ出してほしいものです。

 こんな危険な状態になっているというのに,野党は野党で,目先の利害打算に眼を奪われていて,大局を見失っているようにおもいます。唯一,共産党だけが,現段階では正常な見識を示しているようにおもいます。

 たったひとりの人間が狂ってしまったからとんでもないことになってしまったとおもっていたら,どっこい,気づいてみたらわれわれもみんな狂ってしまっていた,というのが現状のようです。こうして,独裁政治が独走し,ファシズムが全体を覆うようになっていくのでしょう。空恐ろしいことが現在進行形で進展していることに,わたしたちはもっともっとナーバスにならなくてはなりません。

 SESLDs の若者たちは,しっかりと,ここに照準を当てて,つぎなる戦略に取り組んでいるようにおもいます。わたしたち大人はもっと頑張らなくてはいけません。黙っていることは,現段階では,アベ政権支持と同じことを意味します。もし,そうでないのであれば,自分の声をあげるか,行動にでる以外にはないのです。

 わたしは,いま,こんな風に考えていることを宣言します。10月30日。大場亀三郎(これはわたしのペンネーム)。

2015年10月4日日曜日

運動会の組体操・巨大ピラミッドは,なぜ,やめられないのか。

 運動会の人気プログラムのひとつ。組体操の巨大ピラミッド。10段組みから11段組みへと挑戦する時代に突入。となると,怪我をする危険も増大する。現に,程度の差はあれ,事故もかなり起きている。でも,他の教材よりは怪我の確率は高くない。が,怪我は確率の問題ではない。そういうリスクと教育的価値とのバランスの問題だ。

 折も折,巨大ピラミッドの考案者であるよしのよしお先生が指導する「10段ピラミッド」が,運動会の本番で崩れ落ち,怪我人が二人でた。その動画がYouTubeで流れて,話題騒然。即刻,やめるべきだという意見が噴出している。

 この動画は何種類も流れているので,それらを可能なかぎりチェックしてみた。そのうちのもっとも詳細に描写されている動画をみると,よしのよしお先生の談話まで入っているものがあった。それによると,ことしは「11段ピラミッド」に挑戦しようということで練習をしてきたが,まだ,少し無理だと判断し,本番は「10段ピラミッド」にした。生徒たちは「10段」ならいつもできているので,大丈夫と考えたらしい。そこに油断があった,とよしの先生。

 「11段」の練習では,何回も崩れている。だから,本番は諦めたという。ということは,何回も崩れているのに怪我人はでなかったようだ。実際にも,巨大ピラミッドの練習中には,何回も何回も崩れているはずだ。それでも,怪我人はほとんどでないのが現実なのだ。なのに,目標を1段下げた「10段」で崩れて怪我人がでた。これは,よしの先生をはじめ指導してきた先生方,そして,生徒たち,それに父兄も含めて驚き,ショックを受けたことは間違いないだろう。

 世間では,この崩れた瞬間の動画と怪我人がでたという事実だけをとらえて,即刻,中止すべきだ,といかにもまっとうな批判の声をあげる。しかし,このような怪我は,もう,ずいぶん前からあちこちで発生していて,組体操の巨大ピラミッドは中止すべきだ,という意見が出されていた。そして,その是非論もかなり議論されてきた。

 にもかかわらず,運動会の組体操・巨大ピラミッドはやめられない。なぜか。

 その理由は「達成感」にある。運動会の本番で成功したときの達成感は,第三者のわたしたちが想像する以上の,とてつもなく大きなものがある,ということだ。先生と生徒と父兄のこころがひとつに結ばれ,その喜びを分かち合う瞬間だ。この感動はなにものにも代えがたい大きなものがある,ということだ。現代のこの時代・社会にあって,先生と生徒と父兄が一体になって取組み,感動を分かち合える唯一の文化と言ってもいいだろう。

 よしの先生の学校では,もう何年にもわたって,運動会でこの巨大ピラミッドに挑戦してきた。最初は低い「7段」くらいから成功させ,徐々に,その技量を高め,そのノウハウを蓄積して,いまや「11段」に取り組むまでにいたっている。ということは,この小学校に入学したときから,下級生は毎年,この巨大ピラミッドをみて感動し,やがて,5,6年生になったら自分たちもやるんだと憧れてきたはずだ。その期待を受けて,よしの先生は低学年からやさしい組体操の指導に取り組んでいる。二人組みの体操や三人組みの体操などを順序を追って指導している。そして,その成果を学年ごとに運動会で発表している。そういう低学年からの蓄積があって,上級生になって初めて「10段」から「11段」への挑戦が可能となる。

 父兄たちも毎年,その成果の発表を楽しみにしている。父兄以外の近所の住民たちも,その時間になると見物に集ってくるという。そして,これまで怪我人はでなかった。だから,それをみたすべての人が感動し,その喜びを分かち合ってきた。

 しかし,ことしはとうとう怪我人がでてしまった。すると,こうした長年の実績を無視して,世間は寄ってたかって叩く。これはあまりに無責任,かつ表層的で,不毛ではないか。

 もっと多面的・重層的に,この組体操・巨大ピラミッドが内包する問題について客観的な議論を重ねていくべきではないのか。そうして,なんらかの善後策が講じられるところまでもちこむことこそが喫緊の課題ではないのか。そのための建設的な議論の場が,一刻も早く設定されることを期待したい。単なる誹謗中傷を重ねているときではない。

 かつて,高校体操部の部員として組体操を運動会で披露した経験をもち,かつ,体育の教師として組体操を指導した経験もあり,さらには,教員養成大学で組体操の指導の仕方を教えた経験をもつ者として,今回のこの問題は,安易に看過するわけにはいかない。慎重に,だれもが納得のできる善後策を真剣に模索すべきだ,と考える。

2015年9月26日土曜日

なぜ,森喜朗会長の責任は問われないのか。新国立競技場・第三者委員会報告。

 腰砕けの第三者委員会の報告。これが,わたしの第一印象でした。

 問われるべきは,森喜朗組織委員会会長である,とにらんでいたからです。新国立競技場をめぐる一連の不祥事の背景には,いつも森会長の陰がちらついていました。この恐るべきドンの存在は格別で,文部科学大臣といえども,ましてやJSC(日本スポーツ振興センター)理事長などにいたっては,平身低頭,言われるがままだったのではないか。

 もちろん,組織のトップである文部科学大臣と,それに連なるJSC理事長に責任があることは,だれの眼にも明白でした。ですから,この二人の責任を明確に指摘したという点では,第三者委員会(正式には,新国立整備計画経緯検証委員会)を評価したいとおもいます。しかし,この二人とも,手も足も出せない存在であり,その発言力が莫大であった森喜朗会長の責任が問われなかった,というのはどう考えてみても納得がいきません。

 「新国立・検証報告書要旨」なる記事が,9月25日の東京新聞に掲載されていましたので,それらをしっかりとチェックしてみました。いくつかの問題点が指摘されていますが,なかでも,つぎの文言がわたしの関心事を裏づけてくれていました。すなわち,有識者会議(正式には,国立競技場将来構想有識者会議)の存在です。

 「有識者会議はJSC理事長の諮問機関の位置付けにもかかわらず,メンバーが重鎮ぞろいで,実質的に重要事項の承認機関となっていた。JSCの意思決定を遅らせる要因の一つになっていた」。

 重要なことは,すべてこの有識者会議で決めていた,と第三者委員会は判断しているのです。にもかかわらず,この有識者会議のメンバーの「聞き取り」調査は行っていないのです。つまり,第三者委員会といえども,有識者会議に手を出すことはできなかった,ということです。この有識者会議のメンバーは全部で14名。各界のトップが顔を揃えています。それでも政治的発言力からいっても群を抜いており,その中心的な役割をはたしたのが,森喜朗会長です。

 詳しいことは省略しますが,これまでの経緯をみていても,ポイント,ポイントには森喜朗会長の名が登場し,その影響力の大きさはだれの眼にも明らかでした。有名なところでは,ラグビーのワールド・カップを開催する会場にせよ,とごねたこともありました。

 それはともかくとして,第三者委員会のメンバーは6名。委員長は東大名誉教授(柏木昇),そして,公認会計士,弁護士,アスリート,京大教授,それに経済同友会専務理事(横尾敬介)が加わっています。これは,どうみても森喜朗会長と横尾経済同友会専務理事との連携プレーがあったな,とおもわざるをえません。

 有識者会議のメンバーの聞き取り調査をしなかった理由を問われた柏木委員長はつぎのように答えています。
 1.第三者委員会のメンバーのなかから,有識者会議のメンバーの聞き取り調査をせよ,という声はあがらなかった。
 2.もし,それをやるとしたら,時間も金も膨大なものになってしまう。
 3.期限を切られた短期間では不可能だった。

 これらをみれば,最初から,第三者委員会の検証には限界があって,しかも,その筋書きもできあがっていた,とおもわざるを得ません。要するに,身内同士の馴れ合いのお手打ち式だった,ということです。ですから,文部科学大臣とJSC理事長という組織のトップの責任を指摘するにとどめ,諸悪の根源には蓋をしたまま閉じてしまった,という次第です。このシナリオもまた,森喜朗会長の指示どおりだったのではないか,とわたしなどは勘繰ってしまいます。

 なお,東京新聞は,第三者委員会の検証について,28日朝刊に特集紙面を掲載する,と予告していますので,それを読んで,さらに考えてみたいとおもいます。

 というところで,今日はここまで。

2015年9月20日日曜日

さあ,これから「アベ・ファシズム」と「立憲デモクラシー」の闘いのはじまりだ。

 とうとう,アベ政権のファシズムを確立するための「アベ・クーデター」に押し切られてしまいました。クーデターの仕上げは,いうまでもなく参議院・特別委員会での強行採決でした。採決を進めるはずの委員長の声は聞こえず,議事録にも採決の記載なし,もちろん「可決」宣言もなし。こんなデタラメが,良識の府・参議院で行われたのです。すべて,自民党政権の筋書きどおり。意図的・計画的な「犯罪」です。にもかかわらず,ジャーナリズムは「可決成立」と書き立てました。

 この一部始終を,国民はテレビをとおして監視していました。

 国会というところは,いつから「治外法権」の場になったのでしょうか。

 これから,「戦争法案無効」の裁判闘争がはじまることは必須ですが,それには長い時間がかかってしまいます。

 ほんとうに,アベ政権はやることが卑劣そのものです。しかも,あまりにもお粗末です。

 野球でいえば,延長線ののち,時間切れ寸前の最終回で,突如として審判が「暴走」したのと同じです。ストライクをボールといい,アウトをセーフといい,怒った観客が球場になだれ込み,もちろん,審判もどこにいるのかわからない状態に陥り,まさに試合不能となった間に,塁にいた走者がホームに駆け込み,サヨナラ勝ちと審判が,野球場の<外>で判定した,というのと同じです。

 試合不成立はだれの眼にも明らかです。

 戦争法案も採決不成立はだれの眼にも明らかです。

 にもかかわらず,戦争法案は実効性のあるものとして,世の中を闊歩していくことになります。が,そんなことを国民が許すはずもありません。ほんとうの闘いはこれからです。憲法とはなにか,民主主義とはなにか,議会制民主主義とはなにか,といった根源的な問いが投げかけられたのですから。多くの国民が政治の暴力に気づき,立憲デモクラシーの危機に「目覚め」ました。

 さあ,これからは「アベ・ファシズム」と「立憲デモクラシー」の闘いのはじまりです。国家の主権はわれわれ国民にあるということを強く自覚して,一人でも多くの国民が立ち上がること,このことが不可欠です。

 まずは,来年の選挙に向けて,できるところからはじめましょう。もはや,沈黙は金なり,などという時代ではありません。いやなことはいやだ,と声を挙げないことには「アベ・ファシズム」はどこまでも「暴走」をつづけていくこと必定です。

 国家の存亡にかかわる重大事です。気持ちを引き締めて,みずからの意思を表明していきましょう。息長く。

2015年9月19日土曜日

アベ政権は戦後最悪。憲法を無視。国会のルールも無視して「やりたい放題」。これは「クーデター」」だ。

 「ポツダム宣言」は読んでいません。「憲法」も精読はしていません。こんなことを国会の審議のなかで平然と言ってのけた総理大臣は,過去にいたでしょうか。それでいて,勝手に自分たちの都合のいいように憲法解釈をし,それを閣議決定して,戦争をできる国にするための「戦争法案」を提出する。しかも,最後までこの法案の法的根拠の正当性を説明できないまま,それどころか,まったく根拠のない法案だということが明白になったにもかかわらず,国会のルールを無視して「強行採決」に走り,議事録も残せない採決を,「可決」したと偽り,そのまま参議院の議決に持ち込む。おそらく,今夜半,いや早朝には可決成立させることになるのでしょう。

 こんな無茶苦茶なことをする政権はかつて存在したでしょうか。

 国家の根幹にかかわる憲法を無視し,議会制民主主義を踏みにじり,立法のための最低限の手続も約束事も無視して,議席の数のみを頼りに,あともどり不可能な最悪の悪法「戦争法案」を成立させようというのです。

 つまり,「戦争のできない国」を「戦争のできる国」へと大転換させようというのです。すなわち,国家としてのあり方を180度転換させようというのです。

 これは「クーデター」としかいいようがありません。

 反立憲主義,反民主主義,反平和主義,反知性主義・・・・いくつ並べても足りないほどの無知蒙昧な政治が,多くの民意を無視して展開されています。こんな醜態をさらけ出す政治が,なんの根拠もない「合法性」を騙り,「暴力」的に展開されています。

 今夜(18日)もまた,多くの人びとが国会前に集結して,一日中,「戦争法案,絶対反対」「民主主義って,なんだ」「これだ」「アベは,辞めろ」「いますぐ,退陣」「賛成議員は,落選させよう」などと声を挙げています。この声が国会の中にも聞こえているといいます。おそらく,賛成議員の多くはこころのなかで怯えているに違いありません。逆に,反対議員の背中を押し,勇気を与えていることは間違いありません。

 明日(19日)からは,第二ステージの抗議集会へと進展していくことになるでしょう。まずは,この「戦争法案無効」の闘い(憲法98条による)がはじまることでしょう。そして,少なくとも,来年の選挙まで持ち込み,自民・公明両党,ならびにそれに追随する政党を徹底的に批判し,「賛成議員落選」運動が激烈に展開されることになるでしょう。

 それほどの「怒り」を,われわれ国民に与えたのは,アベ君,君なんだよ,とはっきり「NO」をつきつけていくことにしましょう。

 今夜は「怒り」に震えて,眠れそうもありません。
 のみならず,今夜も夜を徹して声を挙げつづけるであろうSEALDsの若者たちの情熱をおもうと,ますます眠ってなどいられません。少なくとも,念力だけでも,国会前に向けて送りつづけたいとおもいます。

2015年9月18日金曜日

あの「強行採決」の結果を,だれが「可決」と認めるのか。議事録もない,なにも確認できない「採決」は「無効」だ。

17日の参議院・特別委員会の一部始終をテレビでしっかりとみていました。委員長不信任動議が否決され,委員長が委員長席に着席したところから,委員長席に佐藤正久理事が歩みより,それを契機にして与党議員がいっせいに委員長席に駆け寄り,委員長席を取り囲む。遅れて,野党議員が委員長席に駆け込む。そして,大混乱となる。

そのあとは,委員長がなにを言っているのか,なにも聞こえない。佐藤理事が委員長を囲む輪のなかに頭を突っ込むようにして,なにかを聞き取り,それを与党議員に「立て」と手で合図。与党議員はその合図に呼応して,立ち上がり,ばんざいと拍手。あとは,野党の議員もふくめて全議員が立ちっぱなしのまま。なにが,どのように議決されたのかは,与党議員も野党議員もなにもわからないまま,大混乱がつづく。

委員長席の周囲を,ボディ・ガードよろしく固めた与党議員は,からだを張って委員長を守っただけで,賛成の意思表示もしていない。ただ,野党議員の抗議から委員長を守っていただけだ。国会の守衛さんと変わらない。この中には,バッジをつけていない「人」もいた,という。佐藤理事は,途中で,野党議員に強烈なパンチを見舞ってもいる。こうなると,「ビデオ判定」が必要となる。

委員長の声も聞こえない,早々に安倍総理は退場してそこにはいない,議員による賛成を示す「起立」も判然としない(ずっと立ちっぱなし),議事録もない,もちろん,委員長には賛成議員を確認することもできない,しかも,「よって本案は可決されました」という委員長の宣言も聞こえない,そのまま委員長は国会の守衛さんに守られて委員会室を退場。

 こんな議決の仕方は,前代未聞だ。しかも,これで「可決」された,とメディアは報道する。いったい,なにを根拠に「可決」されたというのか,わたしには理解できない。委員長がたったひとりで,「可決」と判断し,参議院議長に報告すれば,それで「可決」となるとでもいうのだろうか。

 ここは少なくとも「議事録」を確認し,「議事録」が存在しない場合には,この「可決」は「無効」として,採決のやり直しをすべきではないのか。その手続をも「無視」して,参議院では「可決」を当たり前のこととして,最終議決に入ろうとしている(これを書いているこのとき,まさに,進行中)。

 いま,行われている大相撲でも,行司の軍配にたいして勝負審判は「ものいい」をつけることができる。そして,土俵の上にあがって協議をする。意見が分かれた場合には,「ビデオ判定」が行われる。それでも,「判定」が分かれる場合には,「取り直し」となる。

 これが,ものごとが判然としない場合の,世の中のひとつのモデルだ。大勢の人が納得する上で,必要不可欠な手段なのだ。

 参議院・特別委員会の「強行採決」は,どう考えてみても,委員長も,それを取り巻いていた議員も,議員席にいた議員も,だれひとりとして,「採決」の結果を確認することはできなかったことは明々白々である。したがって,これは「仕切り直し」以外の方法はない。この手続を「無視」して,かりに参議院で「可決」されたとしても,この法案はなんの根拠ももたないことになる。孫末代までも「禍根」を残すことになる。

 こんなことを放置しておいていいのか。ジャーナリズムはなにをしているのか。怒りを籠めて,訴えたい。断じて許せない。もはや,日本の国会は「無法地帯」と化してしまっている。

2015年8月15日土曜日

「安倍談話」,聞いてあきれる。本気なら,安保法案を直ちに撤回せよ。

 よくもまあ,しゃあしゃあと,恥ずかしげもなく,こんな「談話」を閣議決定して公表したものだ,とあきれかえってしまった。借りもののことばを多用し,さも,自分のことばであるかのごとく振る舞い,当面の批判をうまくかわすことに専念していて,アベ・シンゾウの生のことばがどこにも見当たらない。だから,言っていることが矛盾だらけで,どこか白々しい。力のない,ふわふわの,いかにもこの人らしい表現がつづく。かとおもうと,あっと驚くような名文のフレーズがとってつけたように突然,現れる。つまり,その場をしのげばそれでいい,という本音が丸見えなのだ。

 したがって,訴えるものがなにもない。またまた,嘘つきシンちゃんの面目躍如というところ。

 もし,この「談話」がアベ・シンゾウの本気の表明であるのなら,直ちに「安保法案」を撤回せよ。それがスジというものだ。この「談話」はそういう趣旨のものだ。

 もう一度,繰り返すが,熟慮の末の「安倍談話」であるのなら,「安保法案」が間違っていた,とまずは謝罪し,しかるのちにこの法案を撤回すべきだ。それなら,この「談話」を信じよう。そして,アベ・シンゾウを支持してやろうではないか。

 でないならば,嘘の上塗りを,また,やらかした,ただ,それだけのもの。単なる猿芝居。その場しのぎのためなら,どんな嘘でも平気でつく。この人の特技である。いや,持病である。正常な神経の持ち主にはできない芸当だから。

 さて,この「安倍談話」を国際社会はどう受け止めるだろうか。英語,中国語,朝鮮語,などにも翻訳して公表すると聞いている。これまでの歴代の「談話」に比べると,かなり饒舌になっている。その分,これまでのアベ政治との矛盾も多く露呈することになった。したがって,当然のことながら,その「矛盾」をつく論評が噴出することになろう。それに対して官邸はどのように対応していくことになるのか。その応答の仕方いかんによっては,もはや,どうにもならない「信頼」の失墜を招きかねない。もはや,失うべき「信頼」などないに等しいのだが・・・。そういう批判の糸口が満載の「談話」になっている,というのがわたしの読解だ。

 その意味では,まことに稚拙な作文だ。あれもこれも,とりあえず役に立ちそうなフレーズはすべて放り込んで,なんとか批判をかわそうとするあまりに,結果的には「自爆」してしまっている。そのことを,官邸の知恵者は気づいていないのか。もっとも,その知恵者たちが狂ってしまっているのだから,もはや,手の打ちようがない,というのが実情なのだろうが・・・。あの「首相補佐官」をみれば,そのことは歴然としている。

 無難にまとめたつもりの「安倍談話」が,またまた,大きな「火種」をかかえこむこととなった。これから,国の内外を問わず,ますます大きな議論となっていくことだろう。アベ政権にとっては致命的な大問題を,みずから提起することになってしまったからだ。

 すなわち,この「安倍談話」と「安保法制」との間に横たわる根源的な矛盾を,どうやって超克していこうというのか。難問中の難問だ。

 まずは,官邸のお手並み拝見といこうか。

 わたしは「空中分解」する・・・と予見している。これで「幕引き」になる・・・・と。

 もちろん,そうあって欲しいという願望も籠めて。

2015年8月14日金曜日

東京五輪エンブレムに赤信号。どうみても「パクリ」。他にも余罪?

 東京五輪2020にかかわる疑惑があちこちから噴出しはじめている。

 もっとも公明正大に行われているものと信じて疑わなかったいわゆる「コンペ」なるものも,なんだか怪しい雲行きになってきた。

 その発端となったのは,いうまでもなく新国立競技場のための「デザイン・コンペ」だ。このコンペの応募要領には,コンセプトも高さ制限も環境条件も,なにも明示されてはいない。だから,応募者は思いの丈を最大に拡大して夢を描いた。そして,ザハ・ハディド案の奇想天外な発想を安藤忠雄委員長が後押しをして,最優秀賞とした。ここが,新国立競技場問題の最大のつまづきの始まりであった。

 明治神宮外苑は特別風致地区に指定されていて,建物の高さ制限が,長年にわたって守られてきたところである。そのことを承知している日本人建築家は,みんな,そのことを念頭に置いてデザイン・コンペに応募している。しかし,ザハ・ハディドはそんなことは知らないまま,応募要領をみて,そのアイディアを思いっきり大きくふくらませてデザインをした。これに安藤忠雄委員長が飛びついてしまった(この人のいい加減さも,その後の言動をとおして明らかになっている)。すべては,ここからはじまった。

 問題が大きくなってきて,みるに見かねてアベ君が「白紙撤回」して「仕切り直し」に入ったかにみえるが,そうは問屋が卸さない。これから,ますます泥沼化し,やがて暗礁に乗り上げるのは必定だ,とわたしは類推している。この点については,いずれ,詳しく論じてみたいとおもっている。

 今回の主眼は,東京五輪2020のエンブレム。とてもシンプルで美しいデザイン・・・・と感動した。しかし,ベルギーのデザイナーから「盗作」ではないかとクレームがついた。詳細ははぶくが,これをうけて,デザイナーの佐野研二郎氏が緊急の記者会見を開いた。

 約1時間余にわたる記者会見に,じっと耳を傾けてみた。さすがに世界的に知られたデザイナーだけあって,理路整然とした説明に,なるほどと納得できるものが多かった。しかし,佐野氏が最大のオリジナリティとして主張した「コンセプト」の違いと,そこから展開されるデザインのヴァリエーションの多様性のところで,わたしは「おやっ?」と疑問をいだいた。

 なぜなら,デザインが似ていても,「コンセプト」が違えば,オリジナリティを主張することができるのかという点と,さらに,このデザインを基にして,さまざまな映像としてヴァリエーションを展開できるところまで考えれば,そのデザインは佐野氏のオリジナリティによるものだ,と主張することができるのか,という2点に疑問を感じたからである。

 この点については,当日の記者たちからも,何回も繰り返し質問がなされたが,佐野氏の応答は,同じことばの繰り返しでしかなかった。つまり,オリジナリティとはなにか,という問いに対して一般論としての応答はしたものの,今回のデザインのオリジナリティはなにか,という問いに対する佐野氏の応答はいちじるしく説得力を欠くものであった。

 つまり,「コンセプト」が違えば,似たようなデザインになにがしかのアイディアを追加すれば,それでその作品のオリジナリティは成立するのか,という問いに対して佐野氏は用意してきた同じ応答を繰り返すことに終始したのだ。自信満々だった表情にも,ぐらりと揺れるこころの動揺が,わたしの目にも見て取ることができた。その瞬間である。わたしが「おやっ?」とおもったのは・・・。

 この会見があったのち,ネットでは,「コピペ」の常習犯だ,という批判が相次いでいる。しかも,その実例を画像で提示しながらの批判である。単なる誹謗中傷ではない。それらを一つひとつチェックしていくと,ああ,これはもう駄目だ,とわたしのような素人でも納得せざるをえない。

 大手メディアは,箝口令を敷かれているのか,まだ,表沙汰にはしていないが,やがて,この問題は取り上げざるをえなくなることは必定だ。

 森喜朗組織委員会会長は,自信をもってこのエンブレムを使っていく,と宣言したが,はたしてどうか。やがては,このエンブレム選出の舞台裏も明らかになってくるだろう。そこには,どうやら,新国立競技場のデザイン・コンペと同じような実態が隠されているようにおもえてならないのだが・・・・。それは単なる杞憂にすぎないのだろうか。

 日本という国家の箍がはずれてしまって,なにもかもがガタガタになってしまった,その一端がここに表出しているにすぎないのでは・・・・とわたしは悲観的になる。戦争法案,辺野古新基地,フクシマの放置,原発難民の放置,加えて川内原発再稼働と,国際社会の笑い物になる話題ばかりが日本から発信されている。そこに,東京五輪2020にかかわる醜聞の露呈である。こちらは,まだまだ,これから際限なくでてくる。

 それに呼応するかのように,火山,地震,集中豪雨,雷雨,竜巻,と自然界までもが加担してくる。こちらも,どう考えても偶然の一致ではなさそうだ。そのうち,お化けや亡霊があちこちで出現することになるのではないか,とわたしは大まじめに考えている。

 国家の基ともいうべき「立憲デモクラシー」をときの政権が無視して平気でいられる,というこの異常さこそが,すべての根源だ。ここから「建て直す」こと,これがいま国民に課せられた喫緊の課題だ。ふんどしを締め直して,本気でとりかからねばならない。

 今夕には「70年談話」が閣議決定を経て,公開されるという。
 はたして,その内容やいかに。世界中が注目している。

2015年8月2日日曜日

アベシンゾウの新国立競技場「白紙撤回」は大嘘だった!?今日も現場では工事が行われている。

 このところ,FBのネットワークから,貴重な情報が入るようになり,とても重宝している。そのひとつが今日のテーマだ。

 新国立競技場の工事現場では今日も粛々と工事が行われているのを不審におもったジャーナリストの田中龍作氏が,工事現場の担当者に取材してみたところ,「上から工事を中止しろ,という指令はきていない。だから,これまでの契約どおり工事を進めている」という応答があった,という。じゃあ,アベシンゾウの大見得を切った「白紙撤回」はなんだったのか,あれは単なる空手形だったのか,という大いなる疑問が持ち上がる。

 やはり,白紙撤回宣言は,戦争法案をむりやり強行採決したことによる支持率低下の歯止め策でしかなかったのか。内容などどうでもよかったのか。つまり,国民の目先を「猫騙し」の手をつかって一瞬だけはぐらかしておいて,あとは,単なる時間稼ぎでしかなかったのか。国民はアホだから,時間が経てばすぐに忘れてしまう。忘れたころに,いろいろ調査をしてみたら,やはり,2520億円の経費はかかることがわかった,といえばそれでいい・・・そんな程度の話らしい。

 つまりは,アベシンゾウの仕掛けた「大嘘」。

 表では,五輪担当大臣を任命し(これとて森喜朗の子分であり,ラグビー仲間),小役人をクビにして,いかにも心機一転させたかのようなポーズをとったものの,あとは手つかずのまま放置。まあ,いまの流れからするとJSCの理事長・河野一郎氏の更迭が行われる程度。つまり,壁紙は張り替えたものの,建物の構造はもとのまま。本質的なところはなにも変わってはいないということだ。

 だから,工事はそのまま続行なのだ。基本的にはなにも変える意思はない,ということだ。おそらく,このまま大成建設と竹中工務店が工事を引き受けていくことになるのだろう。なぜなら,もうすでに,キック・バックという方法で,大金が転がり込む約束もできあがっているはずだから。

 でなかったら,これまで行われてきた工事は,即刻中止になるはずではないか。いまも,毎日,せっせと重機を動かして工事が行われている事実を説明することはできない。

 新国立競技場は,これからどんな展開になっていくのか,まったくそのさきはみえてこない。ザハ・ハディド氏が8月には来日して,政府とじかに交渉に入るという情報も流れている。いまごろになって,屋根はつけないことにした,などというトンチンカンなことを言っていることからして,ああ,やはり船頭多くして船動かずの愚にはまっていることがわかる。

 つまり,白紙撤回をしたものの,いかなるコンセプトをもってゼロからのスタートを切るのか,そこがまったくみえてこない。ただ,みえているのは経費を削減して,できるだけ安く仕上げる,という金銭上の問題だけだ。まさに衆愚政治そのものだ。前回の有識者会議がその最たるものだった。その反省もできてはいないようだ。なにせ,だれも責任をとらない無責任体勢のまま,大工事をやろうとしているのだから,埒があかないのは当然だ。

 このアベシンゾウの放った「白紙撤回」という大嘘を,しばらく注目していきたい。

 なお,この情報は,Shoichiro Ikenaga という人のFBからシェアしたものだ。さらに,その情報源は,〔新国立競技場〕安倍首相「白紙撤回」は大ウソだった(2015年7月31日15:35)という『田中龍作ジャーナル』(http://tanakaryusaku.jp/2015/07/00011668)である。田中龍作氏は,わたしとは違った見解を提示しているので,ぜひ,参照していただきたい。

 アベシンゾウという人間はなにをやらかすか,まったく信用できないことが,これでまたひとつ上積みされることになった。恐ろしい人が国のリーダーになってしまったものだ。一刻もはやく引きずり降ろさなくては,悔いを千歳に残すことになる。これは,もはや,国民の義務だ。

2015年6月21日日曜日

沖縄のことを語りたかったら,まず沖縄の新聞を読め。そして沖縄のラジオを聞け。まるで別世界だ。

 テレビや新聞で,沖縄のことをさも熟知しているかのように,しかも高みから,平然と論評するヤマトの評論家や知識人のなんと多いことか。わたしは,そのたびに,吼えている。もっと勉強してからものを言えっ!と。かく申すわたしとて,沖縄のことについては,まだまだうぶな初心者だ。にもかかわらず,たった一年余ながら,『沖縄タイムス』を読みつづけただけで,沖縄観がひっくり返り,世界観までひっくり返ってしまうほどの衝撃を受けた。

 本土に生まれ育ち,本土で得られる沖縄情報だけで構築される沖縄観が,いかに歪で,間抜けたものでしかなかったのか,このことをこの一年余の『沖縄タイムス』を読みつづけることによって,痛いほど知った。そして,ときおり,耳を傾ける沖縄のラジオから流れてくる不思議なテンポの会話を聞きながら,まだまだ,なにもわかってはいない,ということを思い知らされる。

 もう,ずいぶん前のことになるが,沖縄の写真家・比嘉豊光さんと,沖縄をこよなく愛し,沖縄のことを知りたいとおもっている本土の若者たちと徹夜で飲んだことがある。豊光さんも相当に酒量がかさんでいたこともあってか,とつぜん「お前らに沖縄のことがわかってたまるかっ!」と吼えて,号泣したことがあった。わたしたちはだれも手も足も出せないまま,静まり返ってしまった。ひと泣きしたあと,豊光さんは,そのままうっ伏して眠ってしまった。

 そのあと,残されたわれわれだけで,豊光さんの真意はどこにあったのだろうか,という話になった。たぶん,こうではないか,ああではないか,というとりとめもない話に終始した。が,結局は,だれもが納得できるもっともらしい回答は得られなかった。

 しかし,いまにしておもうと,ほんの少しだけ豊光さんの気持がわかってきたようにおもう。それは新聞をとおして学んだことも多いのだが,それ以上に,ラジオをとおして伝わってくる沖縄のひとたちの情感だった。つまり,その情感のよりどころが,本土のわたしたちのそれとはまったく違うということだ。それは,端的に言ってしまえば,ことばのイントネーションや沖縄独特の言い回しにあると言ってよいだろう。

 それは,たとえば,わたしで言えば,愛知県豊橋市の育ちなので,情感を籠めた語りとなれば「三河弁」をおいてほかにはない。もはや,法事のとき以外には「三河弁」と接する機会もほとんどなくなってしまったが,それでも「三河弁」を聴くとほっとするものがある。それは,高校を卒業するまで,どっぷりと浸りこんでいた「三河弁」の世界に,一瞬にしてもどることができるからだ。そして,なにより気持が安心するし,温かいものがからだの中を流れはじめる。この情感に支えられた「世界」は,ほかの地域とはまったくの別世界だ。

 これと同じことが,沖縄にも当てはまる,と考えればわかりやすいかもしれない。それでも,まだまだ,とても説明しきれてはいない。つまり,わたしたちが想像する沖縄とは,まったく別の世界がそこには存在しているのだ。豊光さんに言わせれば,そんなものとも,もっともっと違う世界が沖縄には広がっているのだ,と。そして,それをウチナンチュはきちんとからだごと共有しているのだ,と言うに違いないだろう。

 そうした別世界の「根っこ」にあるものが,わたしの想像では,たぶん,沖縄の「芸能の力」ではないか,とおもう。ざっくり言ってしまえば,歌と踊りだ。あの哀愁を帯びた沖縄民謡ときらびやかで美しく,それでいてもの静かな琉球舞踊。あるいは,エイサーのような勇ましく力強い男の舞い踊り。祝いごとには不可欠なカチャーシー。三線が奏でる自由自在な旋律とリズム。ウチナンチュのハートの根っこにはこれらの芸能の「力」がびっしりと埋め込まれている。と,わたしは考えている。

 この世界は,もはや,東京弁や標準語では語り得ない,遠いとおい存在なのだ。つまり,対象化して言語化することが不可能なものなのだ。すなわち,それらは,生まれ落ちたときからからだごと包み込み,徐々にからだの中に染みこんでいき,やがては,それを肥やしにし,バネにして表出してくる沖縄の芸能の「力」となる。そう,それは芸能の「力」としかいいようのないものに違いない。理性をはるかに超越した「情動」とでもいうしかない,ドロドロしてつかみ所のない,それでいて空恐ろしいような「力」の世界だ。

 わたしのイメージとしては,これもまことに勝手な言い方になってしまうが,沖縄は,まるで龍宮城のような世界,そんな存在のようにみえてくる。

 言ってしまえば,沖縄を「理性」だけで語ることはできない,ということだ。

 だから,本土の人間は,沖縄について「論評」はできても「批評」はできない。つまり,無責任で勝手な「論評」(コメント)はできても,全生涯をかけた,あるいは,全体重をかけた「批評」(クリティック)はできない,ということだ。

 この壁を超えるためには,まずは,沖縄の新聞を読むべし。これだけで,あっと驚く体験をすることができる。加えて,ラジオを聴くべし。その奥深くには,もう,気の遠くなるような懐の深さを垣間見ることになる。そして,そのさきのさきには芸能の「力」がうごめいている,そこに触れて初めて沖縄の底力のなんたるかを知ることになるのだろう。

 沖縄の民意が,辺野古新基地建造反対にまとまり,党派を超えた「オール沖縄」の結束が可能となったのも,そういう深い深い「根っこ」を共有できているからに違いない。翁長知事が,自民党出身の政治家でありながら,沖縄の政治のあり方に関しては,その呪縛を解き放ち,「オール沖縄」に居場所を見出したのも,この「根っこ」を分かちもつ,根っからのウチナンチュであるからだ。

 わたしたちヤマトの人間は,そういう世界からあまりに遠いところにきてしまった。「根っこ」を失い,「茹でガエル」に慣れきってしまったヤマトンチュは,もはやゼロから思考をリセットするしかない,とウチナーをみていると,そうおもう。

 いまや,ウチナーはヤマトの師匠となった。教えを乞い,学ばなければならないことが山ほどある。これが,わたしが沖縄の新聞を読み,ラジオを聞いた経験をとおして到達した,現段階での結論である。こののち,また,この見解は変わるかもしれないが・・・・。

2015年5月17日日曜日

「戦争法案は間違い」(アベ)。これこそが間違い。本音隠しがまるまる露呈。

 とうとう「安保法案」が閣議決定され(5月14日),それがそのまま衆議院に提出され(5月15日),ついに,アベ政権はこの夏に成立させる構えをみせた。その記者会見の席で,アベは「この安保法案を戦争法案と呼ぶのは間違いだ」と声を荒らげた。よほど腹が立っているのだろう。どこまでも隠しとおしたかった本音をみごとに言い当てられてしまったからだ。

 しかし,「戦争法案」という言い方は正しい。

 アベが「安全保障関連法案」と呼ぶ法案の内容を熟読玩味してみれば,それはまぎれもない「戦争法案」そのものだということは明々白々である。福島瑞穂議員が名付け親。国会の質疑の中で発言し,取り消しを求められたが断固として拒否。とうとう政権側が折れた。「戦争法案」という呼称の是非についてそれ以上,問題にするのは得策ではないとアベ・サイドが判断したからだ。にもかかわらず,閣議決定後の記者会見で,アベはこだわった。こうして,アベはわざわざ墓穴を掘ってしまった。

 やっぱり,「安保法案」は「戦争法案」である,という印象をアベみずからが与えてくれた。隠したいものほど露呈するものだ。

 「積極的平和主義」も「積極的戦争主義」の騙りだ。

 アベは記者会見で,みずから断言している。「切れ目のない法整備である」と。つまり,日本周辺の有事から海外での他国軍支援,他国を武力で守る集団的自衛権の行使まで「切れ目のない」法整備である,と繰り返し強調した。

 アベは自分の発することばに酔ってしまうクセ(病い)がある。一つひとつのフレーズは,みごとに計算され,磨き上げられている。だから,聞いている方も,一瞬,騙されることがある。しかし,全体の発言を俯瞰してみると,ハチャメチャな発言の累積であることがわかる。病名をつけるとしたら,精神分裂症。そうでなければ,あんな発言を,なんの疑問もなく,しかも,よどみなく言い続けることはできない。

 セリフを与えられた俳優でも,ああは演じきることはできない。自己矛盾に気づいてしまうから。そのことに気づかない病人にしかできない演技なのだ。この病人に同調した公明党もまた,同じ病いに犯されている。自民党も公明党も「同病相憐れむ」仲であることが,これではっきりした。つぎの選挙では,この2党だけは外して,考えることにしよう。

 それにしても,大変なことになってしまった。その要点を東京新聞(5月15日の朝刊)から引いておこう。

 政府は十四日午後,臨時閣議を開き,他国を武力で守る集団的自衛権の行使容認を柱とする安全保障関連法案を決定した。歴代政権が憲法で禁じられていると解釈してきた集団的自衛権の行使を可能にする法案の閣議決定により,「専守防衛」の安保政策は戦後七十年で転換点を迎えた。政府は十五日に安保法案を衆院に提出する。安倍晋三首相は閣議決定後に記者会見し,今夏までの成立を目指す考えを重ねて表明した。

 以上。

 いよいよ正念場である。憲法に違反する法案が国会で議論されるという珍事を,国際社会も注目している。日本国そのものの存在が問われているのだ。「戦争放棄」を謳った第9条を棚上げにして,「戦える国」をめざす法案を審議するというとんでもないことが国会で行われようとしている。本末転倒国家の誕生である。つまり,なんでもあり,の国家であることを世界に向けて発信しているのだ。このことの自覚が政府には欠落している。わたしたちは,この事実をしっかりと肝に銘じておこう。

 
 
 

2015年5月9日土曜日

尖閣諸島の領有権を「棚上げ」にもどそう。嘘をついてまでして燐国・中国と対立することはない。

 ほんとうにこの国はいったいどうなってしまったというのでしょうか。とても大事な「事実」確認をしないまま,「拡大解釈」なる魔法の手をつかって,つぎからつぎへと事実を歪曲して,それを既成事実であるかのように見せかけて,暴走をつづける政府自民党。それに歯止めをかけるべきジャーナリズムの「死」。そして,騙されつづける国民。

 尖閣諸島の領有権は「棚上げ」というのが国際社会の共通認識である,という「事実」をわたしたちはもっと直視しなければなりません。アメリカ政府だって,尖閣諸島が日本の固有の領土であるとは「ひとこと」も言ってはいません。尖閣諸島が他国から攻撃された場合には,それは日米安保条約によって守るべき対象になる,と言っているだけです。

 このブログでも書いてきましたが,わたしの記憶によれば,間違いなく尖閣諸島は「棚上げ」で日中は合意していました。そして,ひところは,尖閣諸島の周辺海域の埋蔵資源を,日中で共同開発することまで合意し,話が進んでいました。この話が,突如,宙に浮いたまま,わが国固有の領土問題が持ち上がってしまいました。そして,いつのまにか政府自民党は一方的に「わが国固有の領土」宣言をして,日本のものにしてしまいました。

 ここから話はややこしくなるわけです。中国が黙っているわけがありません。「棚上げ」の話はどこにいったのか,と。それなら,国際法廷で決着をつけよう,と中国は主張。日本政府はそれを拒否。自分たちの主張が正しいなら,堂々と国際法廷で争えばいいのに,それはしない。できないのだ。中国は「歴史に学べ」と主張。この意味は深い。日本国は「ポツダム宣言」を受諾したことを忘れてしまったのか,と言外に含んでいる。これを持ち出されたら,手も足も出ません。「無条件降伏」をしたのですから。そのときの,中国は「戦勝国」です。

 尖閣諸島の後始末をしなかったのは,アメリカの責任です。なんとなくうやむやのうちに実効支配だけを日本政府に委ねてしまったからです。そして,その苦肉の策が領有権については「棚上げ」というところに落ち着いていたのです。いずれ,領有権については冷静に話し合いができる時代がくるだろうから,それまでは「棚上げ」にしておこう,ということで日中ともに合意をしていたはずです。少なくとも,中国はそう信じていた。裏切ったのは日本です。なんの断わりもなく,突然,領有権を言い出したのですから。話し合いもなにもないままに・・・。

 そこから,日本政府の「嘘」がはじまります。あの手この手で「嘘」の上塗りを開始し,まるで既成事実であるかのような振る舞いをしてきました。そして,いまでは,メディアも「領海侵犯」ということばを当たり前のように用いています。だから,国民もみんなそう信じてしまいます。

 しかし,「事実」はいつか必ず「顔」をみせるものです。わたしもうっかりしていましたが,いまごろになって,YAHOO!ブログ(2015/4/13(月)午後10.13)をFBで知り,その内容を読んでびっくり仰天でした。それは「五代目豆助ファンのブログ」からの転載でした。そこには,つぎのように書いてありました。要約しておきます。

 昨年の大晦日(2014年12月31日)のロンドン発共同通信のスクープ記事として,つぎのように伝えています。英国が公開した機密外交文書によれば,サッチャー英国首相が1982年に訪日した際,当時の鈴木善幸首相が尖閣問題は棚上げする事で中国と合意していることをサッチャー首相に伝えていた,と。

 このスクープ記事が,大晦日から正月を通過していく中で,どこかに埋もれてしまったようです。そして,以後,どのメディアもこのスクープ記事を取り上げて論評したり,批評したりした痕跡はありません。少なくとも,わたしは知らないでこんにちまできてしまっています。が,YAHOO!ブログがこの記事を復活させたことにより,わたしはびっくり仰天でした。

 これが「事実」だとしたら(少なくとも,この「事実」はわたしの記憶と同じです),日本の政府・外務省は,中国との棚上げ合意していたのに国民にそれを隠し,棚上げ合意をした覚えはない,そういう証拠もない,尖閣は日本のものだ,領土問題は存在しない,と嘘をついていたことになります。わたしは,以前から,このことの「誤り」を主張してきました。

 中国も,尖閣諸島を以前の「棚上げ」にもどしてくれれば,日中間の大きな障壁がひとつ解消する,とその意思を明らかにしています。日本のメディアが怠慢で,そのことを報道していないだけです。ですから,多くの国民はみんな誤解して,中国が悪い,領海侵犯を繰り返す,と信じて疑いません。

 しかし,これがアベ君の望むところで,国民に危機意識を煽り,日本の領土をいかにして守るか,そのためには沖縄の米軍基地は不可欠なのだと説き,辺野古に本格的な軍事基地を建造しようとしています。そして,ここを手がかりにして,憲法9条を「廃棄」して戦争のできる国家の建設に向けてまっしぐらです。この問題はこれ以上ここでは触れません。

 問題は,尖閣諸島を,以前の約束どおりに「棚上げ」にもどせば,日中間の危機意識は一挙に解消してしまいます。このことの方がどれだけ「国益」に貢献することか,だれの眼にも明らかです。こんな単純な,判断ミスが,「国益」を大きく損ない,はては戦争まで視野に入れた軍備までしなくてはならないという「愚」に向かっていってしまうのです。

 戦争というものは,ほんとうに馬鹿げたきっかけで始まり,はじまってしまったら,もう,だれも歯止めをかけることはできません。それこそ国民の「主体」はどこかに「棚上げ」にされ,国家の命ずるままに,あたら「いのち」を無駄にするだけの話です。

 もう一度,繰り返しておきます。尖閣諸島の領有権を「棚上げ」にもどそう。嘘をついてまでして燐国・中国と対立することはありません。領有権で争っても,得になることなどひとつもありません。もし,どこまでも領有権を主張するのであれば,中国の提案するとおり,国際法廷で争えばいいのです。これが,話し合いによる「問題解決」であり,「外交」というものです。武力を用いる「愚」だけは,どんなことがあっても忌避すべきです。

2015年4月15日水曜日

戦争放棄を銘記した「憲法9条」をもつ唯一の文明先進国・日本。この「70年」の実績を世界に誇るべし。

 世界に一つくらい戦争をしないと宣言した国家があってもいい。そして,ことあるごとに戦争をしかける国家を批判する,そういう国家があってもいい。いかなる理由があろうとも戦争だけは認めないと言い続ける国家があってもいい。いな,あった方がいい。

 わが日本国には,それを言う資格がある。「憲法9条」を楯にして,世界に向かって,あらゆる戦争に反対する立場を貫くべきだ。その資格があるのに,そのような主張を強くすることもなく,地味だが,まがりなりにも「70年」,戦争を回避してこんにちまでやってきた。

 戦争協力の仕方については,いろいろ批判も受けてきたが,国際社会の信頼は間違いなく蓄積されてきた。戦争をしない国家・日本として。その貯金分を一気にとり壊しても構わないというのが改憲論議の根本にある。とんでもない見当違いの考えだ。先人たちの苦労を水泡に帰する,とんでもない暴論だ。

 戦争に「正義」はない。「正義」は神のみが判断しうるのであって,人間が判断できることではない。戦争を仕掛ける側に「正義」があるとしたら,その反対勢力にもまったく同等の「正義」が存在する。どちらの「正義」が正しいか,神のみぞ知る。

 人間が選択できる唯一の「正義」は,戦争をしないことだけだ。いかなることがあっても戦争はしない,これに勝る「正義」がほかにあろうか。もしあるとしたら,神(一神教)を守るための戦争だけだ。だから,一神教の存在を認めれる側に立てば,戦争はありえない。日本国はこの立場に立ってきた。これまで穏便にやってこれたのはそのせいだ。

 しかし,ここにきて政府自民党は一転して,戦争ができる国家をめざそうとしている。そして,とうとう,もっとも危ない国家イスラエルとも手を結んでしまった。そのために,ISをはもとより,国際社会からも危険視され,一斉に日本国の動向に注目しはじめている。改憲して正規軍をもったら,情勢は一変する。その覚悟が国民にあるか。残念ながら,茹でガエルにはその覚悟はもとより,気力も体力もない。のみならず,認識すらない。なのに,政府自民党は猪突猛進する。

 どんなことがあっても戦争だけは回避しなければならない。これは人類の永遠のテーマだ。それを愚直に追求する国家が,世界に一つくらいあってもいいではないか。いや,あるべきだろう。そして,その立場から正々堂々と,戦争を仕掛ける国家に異議申し立てをしていく,言いつづける,そういう国家があってもいいではないか。いな,あった方がいいだろう。

 日本国はそういう国家をめざすべきではないのか。「70年」の実績をバネにして。この貯金を無駄にしてはならない。