こんにち能楽師と呼ばれる人たちは,わたしの感覚では,どこか特権階級化していて,特別の身分を保証されているかのようにみえる。しかし,その遠祖をたどると意外なところからでてきた人たちだ,ということを知って驚く。もちろん,これはわたしの不勉強のなせるわざであって,能楽に詳しい人たちにとっては常識であるのだろう。
2年ほど前に,今福さんから「戸井田道三」という人の存在を教えてもらい(詳しくは,『IPHIGENEIA』<ISC・21>版,創刊号,2009年,鼎談「現代の能面」,P.7~49.を参照のこと),この人の本を買い集めて,かなり熱心に能楽のことについて勉強したつもりでいた。たとえば,『能芸論』などは,眼からうろこということばがぴったりするほど,新しい発見の連続であった。その中にも,能楽師の出自は,きわめて身分の低い人たち,というよりは寄る辺なき身分の流浪の民であった,というような意味のことが記述されていて,それだけはぼんやりと記憶していた。しかし,あまり厳密には,どういう出自の人たちであったのか,ということまでは記憶していなかった。
それが,ひょんな拍子に,意外なところから「あー,そうだったのか」ということを知り,あわてて関係の辞典類で確認して,なるほど,と得心するにいたる,そんなことが最近あった。
「48会」という会が年に1回開催され,その会に出席するために,先日(13日)に愛知県の岡崎市に行ってきた。この会は,いまから36年前に,わたしが愛知教育大学に赴任したときの,最初のゼミ生たちの集まりである。わたしも,まだ若く,36歳だった。だから,わたしも含めてゼミ生たちも,海のものとも山のものともわからない,まったくの未知数の世界にさまよっていたころの出会いが,お互いに強烈であったことは事実で,それが懐かしくて集まってくる。いまや,その大半は,小中学校の校長先生になっている。立派なものである。もちろん,管理職を忌避して,平教員の醍醐味を保持している人もいる。これまた,なかなか味があっていい。それぞれがまことに個性的にいまを生きている。こういう人たちに年に1回会うだけで,わたしは一年分の元気をもらうことができる。だから,毎年,楽しみにしている集まりである。
で,そこに出席するために,新幹線の中で読もうと思って持ち込んだ本が,わたしの大好きな宮城谷昌光の書いたエッセイ集『古城の風景』Ⅰ.菅沼の城,奥平の城,松平の城(新潮文庫)である。三河出身の徳川家康ファンにとっては,この本は必読である。せっかく,岡崎市に行くのだから,もし,なにかの話題になったときに,そのあふれんばかりの教養(虚養?)を披瀝せん,と密かに仕込みを兼ねて,新幹線のなかで読みはじめた。こういうエッセイは,自分の好きなところから拾い読みをはじめるのが,わたしのやり方。そうしたら,P.291に「大給城」(おぎゅうじょう)という大見出しがある。こんな城は知らないなぁ,と思ってまずはそこから読みはじめる。知らなくても不思議ではない。碧南市にある,という。同じ三河地方でも,豊橋市に育ったわたしからすれば碧南市はほとんど盲点のようなところ。まるで馴染みがないのだ。だから,そこに眼が惹きつけられたのだろう。
これがなんと神さまのお導きだったのだ。その中に「称名寺」というお寺の話がでてくる。
「当寺の創建は1339年大浜政所を司(つかさど)る声阿(しょうあ)を開基とし,もとあった天台宗の寺を時宗に改めたとする」
という寺でもらった「称名寺の文化財」というパンフレットの文章を紹介している。それにつづけて宮城谷さんはつぎのように解説をしていく。
「1339年は南北朝期で,暦応(りゃくおう)2年(延元4年)である。声阿は,境内の案内板には,声阿弥陀仏(しょうあみだぶつ)とある。この寺の本尊は阿弥陀如来である。境内には,由緒(ゆいしょ)が書かれた石碑も建てられていて,そこには,松平氏の始祖である親氏(ちかうじ)(出身地は不明)が徳阿弥と称し,父の有親(ありちか)(長阿弥)とともに放浪して,三河にはいり,この称名寺にきて,有親はここで逝去(せいきょ)した,というように伝説が披展(ひてん)されている。」
さて,この記述がわたしには大変な発見であった。そして,意外な発見であった。
なぜなら,松平の始祖である親氏とは,徳川家康の祖先であるからだ。その親氏が,徳阿弥と称する阿弥衆であった,というのだから。
宮城谷さんも調べたという『仏教辞典』(岩波書店)で,わたしも調べてみた。(つづく)。
2010年11月15日月曜日
2010年11月14日日曜日
白鵬と双葉山の連勝記録を比較してみると・・・・・。
今日から大相撲がはじまった。世間の話題は,白鵬が双葉山の69連勝を破るかどうか,そして,どこます連勝記録が延びるのか,で盛り上がっている。
この話題に水をさすつもりは毛頭ないが,単なる数字だけでものごとを比較することの「愚」に陥らないために,ひとことだけ言っておきたいことがある。
つまり,ものごとを「比較」する場合には,その基準をどこにおくか,ということがとても重要だ。結論から言っておけば,双葉山の69連勝と白鵬の69連勝は,比較の対象にはならない,ということだ。数字だけみれば,同じ69連勝なのだから,まったく同じではないか,という考え方もある。しかし,それは,あまりにうすっぺらい,表面的なものの見方でしかない,とわたしは考える。大相撲の醍醐味を堪能しようとする人なら,そんな単純な比較の仕方はしないだろう,とわたしは確信する。その根拠を以下に提示しておこう。
その前に,ひとこと。白鵬が69連勝を達成したときに,白鵬がみずから「わたしの69連勝は,双葉山関の69連勝の偉業に比べたら,まだまだ足元にも及びません」と言うのではないか,という期待がわたしのこころのなかにある。もし,これを言ったとしたら,わたしは文句なく白鵬のファンになるだろう。そして,名実ともに大横綱として認めたい。
このことと,さきほど書いた「根拠」とは深い関係がある。
さて,その「根拠」とは?
まずは,双葉山の69連勝がどのようにして達成されたのか,その内実をみてみよう。
双葉山時代は,年2場所制であること。しかも,1場所11日制であったこと(途中から13日制になった)。だから,足掛け4年かけて69連勝を達成していること。以上。
もう少しだけ,踏み込んでおこう。
1937年と1938年の2年間,4場所,全勝して挙げた勝ち星は「50」勝である。その前の年の1936年1月場所の5日目から連勝がスタートする。が,この場所の勝ち星は「7」,5月場所は全勝で「11」,それに1939年1月場所の「3」,これらを全部足して,やっと「69」となる。
さらに,踏み込んでおくと,1939年の1月場所の双葉山は,前年の満州巡業の折にアメーバ赤痢に罹り,体重が激減し,体調も不十分のため,休場を考えていた。しかし,この場所の直前に,横綱玉錦が盲腸炎をこじらせて急死するというアクシデントがあった。そのため,力士会長を玉錦から双葉山が引き継ぐことになり,その責任上,休場するわけにもいかず,やむなく出場。結局,この場所は,双葉山の成績は9勝4敗に終わっている。そして,つぎの場所には体調をとりもどし,全勝優勝を飾っている。もし,満州巡業によるアメーバ赤痢感染というアクシデントがなかったら,双葉山の連勝記録はどこまで伸びていったか,予測がつかないほどである。
まあ,こういう記録を比較するときに「もし」という仮説は意味がないとしても,双葉山が69連勝を達成した条件を,そのまま白鵬に当てはめてみると,驚くべき数字が浮かび上がってくる。
つまり,足掛け4年間にわたって連勝するということを,こんにちの年6場所に当てはめてみると・・・・・。丸2年間全勝しただけで,180連勝となる。連勝のはじまりは1月場所の7日目からなので,この場所だけで9勝,そして残りの5場所の全勝で75勝。4年目の1月場所の3勝。全部足すと,なんと「267連勝」という数字になる。
足掛け4年にわたって負けない,負けたことがない,ということはこういうことなのだ。これが双葉山の69連勝の内実なのだ。このことを白鵬がもし自覚していたとしたら,わたしの期待する談話が白鵬の口からでてくる・・・・のでは?という次第である。
年6場所・15日制のこんにちの大相撲でいえば,1年間,絶好調であれば「90連勝」が可能なのである。しかし,年2場所・11日(13日)制の双葉山時代に「90連勝」するには,最短でも,3年半を要する。
これもまた,単なる数字ころがしの遊びではないか,と言われればそのとおり。しかし,数字の裏側に隠されている事実関係を確認してみると,こんな世界がみえてくる,というもう一つの数字のマジックが存在する。どうせ,数字ころがしで遊ぶとすれば,こういう遊びを楽しみたい。これもまた,わたしのいう,相撲の醍醐味の一つなのだから。
誤解されるといけないので,最後にひとこと。
白鵬の連勝記録がどこまで伸びていくか,じつは,わたしとて大いに楽しみにしているのである。しかし,69連勝というのは大きな壁であることに間違いはない。今日もずいぶんと固くなっていたようだが,これから日を追うごとにプレッシャーがかかってくるだろう。ますますからだが固くなってくるようなことがあると,意外なところでコロリということが起こる。激しく動き回るスピードのある力士に要注意だ。
なんとか69連勝を突破して,そのさきに広がる前人未到の世界を楽しんでほしい。つまり,記録のための「負けない」相撲ではなく,大観客を大喜びさせるような「見せる」「魅せる」相撲をとってほしいものだ。たとえば,「呼び戻し」とか,「仏壇返し」とか・・・・。
「69連勝」は一つの通過点。そのくらいの気持ちで白鵬は相撲に取り組んでほしい。実力的には,もはや,他の追随を許さない圧倒的な力をつけたのだから。大相撲のほんとうの醍醐味を土俵の上で魅せてほしいものだ。朝青龍のように・・・・・。
この話題に水をさすつもりは毛頭ないが,単なる数字だけでものごとを比較することの「愚」に陥らないために,ひとことだけ言っておきたいことがある。
つまり,ものごとを「比較」する場合には,その基準をどこにおくか,ということがとても重要だ。結論から言っておけば,双葉山の69連勝と白鵬の69連勝は,比較の対象にはならない,ということだ。数字だけみれば,同じ69連勝なのだから,まったく同じではないか,という考え方もある。しかし,それは,あまりにうすっぺらい,表面的なものの見方でしかない,とわたしは考える。大相撲の醍醐味を堪能しようとする人なら,そんな単純な比較の仕方はしないだろう,とわたしは確信する。その根拠を以下に提示しておこう。
その前に,ひとこと。白鵬が69連勝を達成したときに,白鵬がみずから「わたしの69連勝は,双葉山関の69連勝の偉業に比べたら,まだまだ足元にも及びません」と言うのではないか,という期待がわたしのこころのなかにある。もし,これを言ったとしたら,わたしは文句なく白鵬のファンになるだろう。そして,名実ともに大横綱として認めたい。
このことと,さきほど書いた「根拠」とは深い関係がある。
さて,その「根拠」とは?
まずは,双葉山の69連勝がどのようにして達成されたのか,その内実をみてみよう。
双葉山時代は,年2場所制であること。しかも,1場所11日制であったこと(途中から13日制になった)。だから,足掛け4年かけて69連勝を達成していること。以上。
もう少しだけ,踏み込んでおこう。
1937年と1938年の2年間,4場所,全勝して挙げた勝ち星は「50」勝である。その前の年の1936年1月場所の5日目から連勝がスタートする。が,この場所の勝ち星は「7」,5月場所は全勝で「11」,それに1939年1月場所の「3」,これらを全部足して,やっと「69」となる。
さらに,踏み込んでおくと,1939年の1月場所の双葉山は,前年の満州巡業の折にアメーバ赤痢に罹り,体重が激減し,体調も不十分のため,休場を考えていた。しかし,この場所の直前に,横綱玉錦が盲腸炎をこじらせて急死するというアクシデントがあった。そのため,力士会長を玉錦から双葉山が引き継ぐことになり,その責任上,休場するわけにもいかず,やむなく出場。結局,この場所は,双葉山の成績は9勝4敗に終わっている。そして,つぎの場所には体調をとりもどし,全勝優勝を飾っている。もし,満州巡業によるアメーバ赤痢感染というアクシデントがなかったら,双葉山の連勝記録はどこまで伸びていったか,予測がつかないほどである。
まあ,こういう記録を比較するときに「もし」という仮説は意味がないとしても,双葉山が69連勝を達成した条件を,そのまま白鵬に当てはめてみると,驚くべき数字が浮かび上がってくる。
つまり,足掛け4年間にわたって連勝するということを,こんにちの年6場所に当てはめてみると・・・・・。丸2年間全勝しただけで,180連勝となる。連勝のはじまりは1月場所の7日目からなので,この場所だけで9勝,そして残りの5場所の全勝で75勝。4年目の1月場所の3勝。全部足すと,なんと「267連勝」という数字になる。
足掛け4年にわたって負けない,負けたことがない,ということはこういうことなのだ。これが双葉山の69連勝の内実なのだ。このことを白鵬がもし自覚していたとしたら,わたしの期待する談話が白鵬の口からでてくる・・・・のでは?という次第である。
年6場所・15日制のこんにちの大相撲でいえば,1年間,絶好調であれば「90連勝」が可能なのである。しかし,年2場所・11日(13日)制の双葉山時代に「90連勝」するには,最短でも,3年半を要する。
これもまた,単なる数字ころがしの遊びではないか,と言われればそのとおり。しかし,数字の裏側に隠されている事実関係を確認してみると,こんな世界がみえてくる,というもう一つの数字のマジックが存在する。どうせ,数字ころがしで遊ぶとすれば,こういう遊びを楽しみたい。これもまた,わたしのいう,相撲の醍醐味の一つなのだから。
誤解されるといけないので,最後にひとこと。
白鵬の連勝記録がどこまで伸びていくか,じつは,わたしとて大いに楽しみにしているのである。しかし,69連勝というのは大きな壁であることに間違いはない。今日もずいぶんと固くなっていたようだが,これから日を追うごとにプレッシャーがかかってくるだろう。ますますからだが固くなってくるようなことがあると,意外なところでコロリということが起こる。激しく動き回るスピードのある力士に要注意だ。
なんとか69連勝を突破して,そのさきに広がる前人未到の世界を楽しんでほしい。つまり,記録のための「負けない」相撲ではなく,大観客を大喜びさせるような「見せる」「魅せる」相撲をとってほしいものだ。たとえば,「呼び戻し」とか,「仏壇返し」とか・・・・。
「69連勝」は一つの通過点。そのくらいの気持ちで白鵬は相撲に取り組んでほしい。実力的には,もはや,他の追随を許さない圧倒的な力をつけたのだから。大相撲のほんとうの醍醐味を土俵の上で魅せてほしいものだ。朝青龍のように・・・・・。
2010年11月12日金曜日
中国の嵩山少林寺と日本の嵩山正宗寺との関係について
わたしの郷里である豊橋市(愛知県)に嵩山(すせ)町という地名があって,少林寺拳法で知られる中国の嵩山(すうざん)少林寺と同じだなぁ,と長い間,漠然とおもっていた。
嵩山(すせ)町は豊橋市のはずれの山裾にある。「嵩山の蛇穴」と呼ばれる鍾乳洞があって,小学校の遠足(小学校の運動場から蛇穴まで往復,全部,徒歩で歩いたほんとうの遠足)ででかけた記憶がある。蛇穴の中で大冒険をした記憶も甦ってくる。
この山一つ越えていけば隣の静岡県である。その県境にある峠を「本坂峠」と呼び,むかしは姫街道の抜け道であった。つまり,東海道を通ると,新居の関所があって,役所の発行する関所札をもたない非公式の旅をする人たちは通過できなかった。とりわけ,「入り鉄砲に出女」は徹底的に取り調べが行われたという。そのため,多くの女性たちがこの抜け道をとおったというので,姫街道という名が残っている。
高校生になると,友だちと連れ立って,正月の早朝に自転車を走らせ本坂峠を登って初日の出を拝みに行った。これは3年間,欠かさずでかけた。その往復のたびに,正宗寺(しょうじゅじ)という立派な構えの寺の山門の前を通過する。この正宗寺の住職が,わたしの通った高校の漢文の教師をしていた。名前は「金仙先生」。すこぶる変わった名前だったので,この先生の祖先は日本人ではないのではないか,という噂が流れていた。そこで,父に尋ねたことがある。父もまた僧職でありながら,同じ高校の教師をしていたから,なにか知っているだろうとおもったからだ。しかし,父は笑いながら「そういう風にいう人もいるが,まさか・・・」と受け付けなかった。
その後,わたしが愛知教育大学に赴任して,刈谷市に住むようになったころには,両親を誘って花見がてら車でよくこの正宗寺にでかけたものである。桜の名所でもあったから。そのたびに,なんと立派な構えの寺なんだろう,と感心したものである。いまでも,機会があれば行ってみたいとおもう寺である。こんな田舎の辺鄙なところに,どうしてこんなに立派なお寺があるのだろうか,と不思議で仕方がなかった。
が,その謎が解けたのである。つい最近,文庫化された宮城谷昌光の『古城の風景Ⅰ』─菅沼の城,奥平の城,松平の城─(新潮文庫)の中に,つぎのようなくだりがある。
「豊橋市の石巻(いしまき)山から東北にむかうと,すせ,とよばれている地区がある。すせ,はふつう州瀬という字をあてるはずでじくが,ここは嵩山と書かれる。
東に険峻(けんしゅん)な山〇(さんらん)があり,そこを通る本坂(ほんざか)とよばれる山径(いまはトンネルもある)をたどってゆくと,静岡県の三ヶ日(みっかび)町にはいる。私は豊橋市内にある高等学校に通っていたが,市内の名所旧蹟(きゅうせき)に昏(くら)く,三ヶ日町に居を転ずるまで,石巻山も嵩山も,みたことがなかった。」
宮城谷さんは,わたしの高校の後輩にあたり,当時は,蒲郡市から通学していた人である。そんな縁故もあって,いつしか,わたしは宮城谷さんのファンになった。最初に読んだのが,たしか『太公望』だったと記憶する。中国の歴史小説を得意とされるが,最近になって,郷土の歴史小説に新境地を開かれ,『風は山河より』(全6巻)や『新三河物語』(全4巻)など,徳川家康を中心とした戦国時代のものを書かれるようになり,わたしとしては眼が離せなくなった。
今回の『古城の風景』も同様である。すべて,三河地方の古城の話である。
前置きが長くなっているが,ここからが真打ちの登場である。
「鎌倉時代に南宋の禅僧である日顔(にちがん)が渡来して,なんとこの地にきたのである。足を停めた日顔は,
──ここは嵩山の少林寺に似ている。
と,おもったらしい。
それゆえ山を嵩山と名づけ,山中に庵室(あんしつ)を結んで三十年もとどまった。その間に正宗(しょうじゅう)寺が建立(こんりゅう)されたのであろう。日顔は嘉暦(かりゃく)二年(一三二七年)に示寂(じじゃく)したといわれる。その嘉暦二年という年は,鎌倉幕府が滅亡する六年前にあたる。室町時代の正宗寺は壮観であったにちがいない。なにしろ塔頭(たっちゅう)が十二坊あり,末寺が六十あるいは百余をかぞえたという。戦国時代には,近くの豪族である西郷(さいごう)氏の篤(あつ)い庇護(ひご)をうけ,以後,何度も火災に遭うも,そのつど再建され,現在の伽藍(がらん)は江戸時代の嘉永(かえい)年間に建てられたものである。」
これで,わたしの長い間の疑問はすべて瓦解した。納得である。
宮城谷さんの時代には,「金仙先生」はいらっしゃらなかったのか,あるいは,正宗寺の住職であるということをご存知ないのか,この話はでてこない。ちなみに,熊谷直実の子孫が三河にながれてきて,宇利城の城主となる話のところでは,「思い返してみれば,私が通った豊橋の高校の校長は熊谷先生であった。たぶん豊橋に熊谷さんはすくなくあるまい」とわざわざ述べているほどである。だから,もし,知っていたら書いたはずで,ひょっとしたら「金仙」という名字の由来まで調べてくれたかもしれない。
というようなわけで,達磨大師の嵩山少林寺と,愛知県豊橋市の嵩山正宗寺とは,深いふかい縁故に結ばれていたのである。ただ,残念なことは,日顔さんが嵩山少林寺で修行した禅僧ではなかったことだ。もし,そうであったら,日本の少林寺拳法の発祥の寺として,その名を残したに違いない。それにしても意外なつながりがあるものだ。
わたしの抱いた,ほんとうに素朴な疑問が,そのまま正解であったとは・・・・。
だから,歴史の謎解きはやめられない,という次第。
嵩山(すせ)町は豊橋市のはずれの山裾にある。「嵩山の蛇穴」と呼ばれる鍾乳洞があって,小学校の遠足(小学校の運動場から蛇穴まで往復,全部,徒歩で歩いたほんとうの遠足)ででかけた記憶がある。蛇穴の中で大冒険をした記憶も甦ってくる。
この山一つ越えていけば隣の静岡県である。その県境にある峠を「本坂峠」と呼び,むかしは姫街道の抜け道であった。つまり,東海道を通ると,新居の関所があって,役所の発行する関所札をもたない非公式の旅をする人たちは通過できなかった。とりわけ,「入り鉄砲に出女」は徹底的に取り調べが行われたという。そのため,多くの女性たちがこの抜け道をとおったというので,姫街道という名が残っている。
高校生になると,友だちと連れ立って,正月の早朝に自転車を走らせ本坂峠を登って初日の出を拝みに行った。これは3年間,欠かさずでかけた。その往復のたびに,正宗寺(しょうじゅじ)という立派な構えの寺の山門の前を通過する。この正宗寺の住職が,わたしの通った高校の漢文の教師をしていた。名前は「金仙先生」。すこぶる変わった名前だったので,この先生の祖先は日本人ではないのではないか,という噂が流れていた。そこで,父に尋ねたことがある。父もまた僧職でありながら,同じ高校の教師をしていたから,なにか知っているだろうとおもったからだ。しかし,父は笑いながら「そういう風にいう人もいるが,まさか・・・」と受け付けなかった。
その後,わたしが愛知教育大学に赴任して,刈谷市に住むようになったころには,両親を誘って花見がてら車でよくこの正宗寺にでかけたものである。桜の名所でもあったから。そのたびに,なんと立派な構えの寺なんだろう,と感心したものである。いまでも,機会があれば行ってみたいとおもう寺である。こんな田舎の辺鄙なところに,どうしてこんなに立派なお寺があるのだろうか,と不思議で仕方がなかった。
が,その謎が解けたのである。つい最近,文庫化された宮城谷昌光の『古城の風景Ⅰ』─菅沼の城,奥平の城,松平の城─(新潮文庫)の中に,つぎのようなくだりがある。
「豊橋市の石巻(いしまき)山から東北にむかうと,すせ,とよばれている地区がある。すせ,はふつう州瀬という字をあてるはずでじくが,ここは嵩山と書かれる。
東に険峻(けんしゅん)な山〇(さんらん)があり,そこを通る本坂(ほんざか)とよばれる山径(いまはトンネルもある)をたどってゆくと,静岡県の三ヶ日(みっかび)町にはいる。私は豊橋市内にある高等学校に通っていたが,市内の名所旧蹟(きゅうせき)に昏(くら)く,三ヶ日町に居を転ずるまで,石巻山も嵩山も,みたことがなかった。」
宮城谷さんは,わたしの高校の後輩にあたり,当時は,蒲郡市から通学していた人である。そんな縁故もあって,いつしか,わたしは宮城谷さんのファンになった。最初に読んだのが,たしか『太公望』だったと記憶する。中国の歴史小説を得意とされるが,最近になって,郷土の歴史小説に新境地を開かれ,『風は山河より』(全6巻)や『新三河物語』(全4巻)など,徳川家康を中心とした戦国時代のものを書かれるようになり,わたしとしては眼が離せなくなった。
今回の『古城の風景』も同様である。すべて,三河地方の古城の話である。
前置きが長くなっているが,ここからが真打ちの登場である。
「鎌倉時代に南宋の禅僧である日顔(にちがん)が渡来して,なんとこの地にきたのである。足を停めた日顔は,
──ここは嵩山の少林寺に似ている。
と,おもったらしい。
それゆえ山を嵩山と名づけ,山中に庵室(あんしつ)を結んで三十年もとどまった。その間に正宗(しょうじゅう)寺が建立(こんりゅう)されたのであろう。日顔は嘉暦(かりゃく)二年(一三二七年)に示寂(じじゃく)したといわれる。その嘉暦二年という年は,鎌倉幕府が滅亡する六年前にあたる。室町時代の正宗寺は壮観であったにちがいない。なにしろ塔頭(たっちゅう)が十二坊あり,末寺が六十あるいは百余をかぞえたという。戦国時代には,近くの豪族である西郷(さいごう)氏の篤(あつ)い庇護(ひご)をうけ,以後,何度も火災に遭うも,そのつど再建され,現在の伽藍(がらん)は江戸時代の嘉永(かえい)年間に建てられたものである。」
これで,わたしの長い間の疑問はすべて瓦解した。納得である。
宮城谷さんの時代には,「金仙先生」はいらっしゃらなかったのか,あるいは,正宗寺の住職であるということをご存知ないのか,この話はでてこない。ちなみに,熊谷直実の子孫が三河にながれてきて,宇利城の城主となる話のところでは,「思い返してみれば,私が通った豊橋の高校の校長は熊谷先生であった。たぶん豊橋に熊谷さんはすくなくあるまい」とわざわざ述べているほどである。だから,もし,知っていたら書いたはずで,ひょっとしたら「金仙」という名字の由来まで調べてくれたかもしれない。
というようなわけで,達磨大師の嵩山少林寺と,愛知県豊橋市の嵩山正宗寺とは,深いふかい縁故に結ばれていたのである。ただ,残念なことは,日顔さんが嵩山少林寺で修行した禅僧ではなかったことだ。もし,そうであったら,日本の少林寺拳法の発祥の寺として,その名を残したに違いない。それにしても意外なつながりがあるものだ。
わたしの抱いた,ほんとうに素朴な疑問が,そのまま正解であったとは・・・・。
だから,歴史の謎解きはやめられない,という次第。
2010年11月11日木曜日
ラース・フォン・トリアー監督最新作『アンチ・クライスト』の試写会に行ってきました。
2009年カンヌ映画祭で話題をさらった問題作(あるいは,衝撃作)である。
原題は『ANTICHRIS♀』。スペリングの最後の「T」に相当するところに「♀」が当ててあるところに,この映画の鍵が隠されている。
つまり,うつ病と闘うひとりの女性の,剥き出しの「性」が,この映画のメイン・テーマとなっているのだ。もう少し踏み込んでおけば,恐怖とセックスと狂気と母性と激情と暴力と優しさと疑念と苦悩と悲嘆と殺戮,等々のさまざまな感情が,ちょっとした日常の夫婦の会話のなかから,一気に吹き出してくる女性のいかんともしがたい「病い」を描いている。この映画の場合には「うつ病」であるが,しかし,うつ病はすでに現代病の代表でもある。ごくふつうに暮らしている人(勤め人も自営業の人もその他の人も全部ひっくるめて,ありとあらゆる人)の間にも,かなりのパーセンテージでうつ病が浸透していると聞く。わたしの身近にもなんにんもうつ病の治療を受けながら勤務している人を知っている。ということは,この映画の提起している問題は,まさに,現代社会がかかえこんでしまった病根に関する普遍の問題でもあるということだ。だから,この映画の提起しているテーマは,現代社会を生きているわたしたちに対して深く,重くのしかかってくる。
わたしの第一印象は,前評判に違わぬ衝撃作,そのもの。映画が終わってもしばらくは身動きもできなかった。この試写会にきていた人のほとんどが,わたしと同じように,じっとしていた。参った,というのが正直な感想だろう。なぜなら,映画そのものは,なんの問題解決もしないまま,こんなことになってしまったんだよ・・・・というところで終わる。だから,このあとどうすればいいのかは,この映画をみた人すべての人に対して,まるごと投げ出されたままになっている。だから,映画が終わってもそんなに簡単には立ち上がれないのだ。みんな,それぞれのこころの持ちようや覚悟が決まらないのである。
ストーリーはきわめて単純。夫婦が夜の悦楽に熱中している間に(この描写がまたなんとも濃密そのもの),幼い息子が眼を覚まし,さまよい歩いているうちに開いていたマンションの窓から転落して,死んでしまう。夫は気丈に踏ん張って立ち直ろうとするが,妻はショックで倒れてしまう。妻はそのまま入院治療を受けるが,セラピストの夫は医師の施薬療法を拒否して,自分の手で治そうと決意し,妻を説得する。そして,その治療(セラピー)がはじまるのだが・・・・。しかし,夫であり妻である者が,セラピストと患者になるには無理がある。つまり,二人の距離が近すぎてしばしば公私混同を起こしてしまう。そして,それが原因で,この夫婦は思いもよらない偶然から悲劇の谷底に向かって転げ落ちていく。
この夫婦はお互いに愛し合っている(つもり)なのだが,その深い愛(のつもり)ゆえに,ほんのささいなできごとをきっかけにして,妻は夫に捨てられるという恐怖におののき,殺意をいだく。そして,それが実行に移される。一回目は夫は,それは病気のせいだと冷静に判断して克服するが,二回目に妻に襲われた瞬間に,こんどは夫が恐怖におののき,怯えのどん底で妻の首を締めて殺してしまう。
この映画をみるかぎり,愛し合う夫婦は,どうみても戦場の兵士の関係にみえてくる。ともに自分たちを守るために戦う同志でありながら,その同志の関係がくずれると,こんどは最愛の同志が敵になってしまう。そして,一気に殺戮に向かう。だから,お互いに,いつも,愛を確認し合っていないと不安で仕方がないのだ。この基本形は,とくに,アメリカ映画のホームドラマをみていても,いつも思うことだ。キリスト教文化圏では,それが当たり前のようになっているらしい。朝起きたら,「愛してるよ」と声をかけてキスをする。夜眠るときも「愛してるよ」と挨拶をしてキスをする。これをしないとお互いが不安になるのだ。相手がどう思っているか,いつも,お互いに確認しないと落ち着かない。気の毒な人たちではある。
「アンチクライスト」という映画の題名から,わたしが最初に想起したことは,ニーチェの『アンチ・キリスト』の考え方である。あの例の有名な「神は死んだ」にはじまるニーチェの論考が,まず,わたしの脳裏に浮かんだ。だから,ある意味ではキリスト教にまつわる定番の映画なのだろうと,いとも簡単に想定していた。しかし,そうではなかった(とわたしは思う)。
この映画から受けたわたしの印象は,キリスト教的倫理観の呪縛から解き放たれないかぎり,人間に救いはない,その意味での「アンチクライスト」なのだ,と。映画の中では,「自然は悪魔の教会だ」と妻に語らせている。だから,「エデンの森」(夫婦が名づけた自分たちの山小屋のある森)に恐怖を感じ,それに怯えながら,うつ病は進展していく。そして,ついには,夫に対する殺戮の感情が頭をもたげる。それも,うつ病の定番でもある。つまり,一時的に「わたし治ったわ」と妻は喜びの感情につつまれる。そして,森の中を嬉しさのあまりひとりで駆け回る。だが,セラピストの夫は,これがうつ病のきわめて危険な兆候であることを知っている。だから,素直に喜べない。こんなところから,夫婦の絆がにわかにぎくしゃくしはじめる。
「森=自然=悪魔の教会」というキリスト教的図式が,妻の頭のなかから離れない。おまけに,人間もまた「自然」の存在ではないか,と大問題に突き当たる。もはや,逃れようがなくなってしまう。ここを突き抜けないかぎり,人間は永遠に救われない,その意味で「アンチクライスト」なのだ,と監督は主張したいのではないか,とこれはわたしの類推である。
この映画がカンヌ映画祭で上映されたときには,感動の拍手と,不満のブーイングとが,同時に起こったという。そして,その後の議論も,賛否両論に真っ二つに割れたまま推移したという。
同時に,この映画のセックス・シーンもまた大きな話題になったという。おそらく日本では上映は無理だろうとも噂されたという。しかし,大胆といえば大胆そのものではあるが,映像はとても美しい。セックスの途中で夫婦喧嘩になり,裸のまま山小屋の外に飛び出して行って,草むらの上に仰向けからだを投げ出し,ひとりでオナニーを始めるシーンは感動的ですらある。こういうことを堂々と演ずることのできる女優さんは日本にはいないだろうと思う。
ちなみにこの女優さん,シャルロット・ゲンズブールはカンヌ映画祭の主演女優賞を受賞している。この10月には歌手として来日して,各地で公演しているので,知る人も多いと思う。ただ歌うだけではなく,キーボードを演奏し,ドラムも叩く,という。この女優さんは血統書つきのサラブレッドでもある。詳しくは割愛。
この映画は,来年2月に新宿武蔵野館,シアターN渋谷,などで上映されるという。そのときが来たら,もう一度,見にいこうと思う。そういう映画である。美しいシーンとそこに籠められた意味の深さを観賞するために。
ああ,今夜は眠れない。
女性は恐ろしい。自然をいっぱいもっていて,「悪魔の教会」まで持ち合わせている。その分,悩み苦しむことも多い。同時に,喜びも大きい(はずだ)。
それに引き換え,男は単純だ。自然が表出するのはほんの一瞬だけだ。だから,喜びも小さい。これは断言できる。みずからの感覚として。
・・・・・・・のではないか,とこの映画をみた,いま,思っている。
原題は『ANTICHRIS♀』。スペリングの最後の「T」に相当するところに「♀」が当ててあるところに,この映画の鍵が隠されている。
つまり,うつ病と闘うひとりの女性の,剥き出しの「性」が,この映画のメイン・テーマとなっているのだ。もう少し踏み込んでおけば,恐怖とセックスと狂気と母性と激情と暴力と優しさと疑念と苦悩と悲嘆と殺戮,等々のさまざまな感情が,ちょっとした日常の夫婦の会話のなかから,一気に吹き出してくる女性のいかんともしがたい「病い」を描いている。この映画の場合には「うつ病」であるが,しかし,うつ病はすでに現代病の代表でもある。ごくふつうに暮らしている人(勤め人も自営業の人もその他の人も全部ひっくるめて,ありとあらゆる人)の間にも,かなりのパーセンテージでうつ病が浸透していると聞く。わたしの身近にもなんにんもうつ病の治療を受けながら勤務している人を知っている。ということは,この映画の提起している問題は,まさに,現代社会がかかえこんでしまった病根に関する普遍の問題でもあるということだ。だから,この映画の提起しているテーマは,現代社会を生きているわたしたちに対して深く,重くのしかかってくる。
わたしの第一印象は,前評判に違わぬ衝撃作,そのもの。映画が終わってもしばらくは身動きもできなかった。この試写会にきていた人のほとんどが,わたしと同じように,じっとしていた。参った,というのが正直な感想だろう。なぜなら,映画そのものは,なんの問題解決もしないまま,こんなことになってしまったんだよ・・・・というところで終わる。だから,このあとどうすればいいのかは,この映画をみた人すべての人に対して,まるごと投げ出されたままになっている。だから,映画が終わってもそんなに簡単には立ち上がれないのだ。みんな,それぞれのこころの持ちようや覚悟が決まらないのである。
ストーリーはきわめて単純。夫婦が夜の悦楽に熱中している間に(この描写がまたなんとも濃密そのもの),幼い息子が眼を覚まし,さまよい歩いているうちに開いていたマンションの窓から転落して,死んでしまう。夫は気丈に踏ん張って立ち直ろうとするが,妻はショックで倒れてしまう。妻はそのまま入院治療を受けるが,セラピストの夫は医師の施薬療法を拒否して,自分の手で治そうと決意し,妻を説得する。そして,その治療(セラピー)がはじまるのだが・・・・。しかし,夫であり妻である者が,セラピストと患者になるには無理がある。つまり,二人の距離が近すぎてしばしば公私混同を起こしてしまう。そして,それが原因で,この夫婦は思いもよらない偶然から悲劇の谷底に向かって転げ落ちていく。
この夫婦はお互いに愛し合っている(つもり)なのだが,その深い愛(のつもり)ゆえに,ほんのささいなできごとをきっかけにして,妻は夫に捨てられるという恐怖におののき,殺意をいだく。そして,それが実行に移される。一回目は夫は,それは病気のせいだと冷静に判断して克服するが,二回目に妻に襲われた瞬間に,こんどは夫が恐怖におののき,怯えのどん底で妻の首を締めて殺してしまう。
この映画をみるかぎり,愛し合う夫婦は,どうみても戦場の兵士の関係にみえてくる。ともに自分たちを守るために戦う同志でありながら,その同志の関係がくずれると,こんどは最愛の同志が敵になってしまう。そして,一気に殺戮に向かう。だから,お互いに,いつも,愛を確認し合っていないと不安で仕方がないのだ。この基本形は,とくに,アメリカ映画のホームドラマをみていても,いつも思うことだ。キリスト教文化圏では,それが当たり前のようになっているらしい。朝起きたら,「愛してるよ」と声をかけてキスをする。夜眠るときも「愛してるよ」と挨拶をしてキスをする。これをしないとお互いが不安になるのだ。相手がどう思っているか,いつも,お互いに確認しないと落ち着かない。気の毒な人たちではある。
「アンチクライスト」という映画の題名から,わたしが最初に想起したことは,ニーチェの『アンチ・キリスト』の考え方である。あの例の有名な「神は死んだ」にはじまるニーチェの論考が,まず,わたしの脳裏に浮かんだ。だから,ある意味ではキリスト教にまつわる定番の映画なのだろうと,いとも簡単に想定していた。しかし,そうではなかった(とわたしは思う)。
この映画から受けたわたしの印象は,キリスト教的倫理観の呪縛から解き放たれないかぎり,人間に救いはない,その意味での「アンチクライスト」なのだ,と。映画の中では,「自然は悪魔の教会だ」と妻に語らせている。だから,「エデンの森」(夫婦が名づけた自分たちの山小屋のある森)に恐怖を感じ,それに怯えながら,うつ病は進展していく。そして,ついには,夫に対する殺戮の感情が頭をもたげる。それも,うつ病の定番でもある。つまり,一時的に「わたし治ったわ」と妻は喜びの感情につつまれる。そして,森の中を嬉しさのあまりひとりで駆け回る。だが,セラピストの夫は,これがうつ病のきわめて危険な兆候であることを知っている。だから,素直に喜べない。こんなところから,夫婦の絆がにわかにぎくしゃくしはじめる。
「森=自然=悪魔の教会」というキリスト教的図式が,妻の頭のなかから離れない。おまけに,人間もまた「自然」の存在ではないか,と大問題に突き当たる。もはや,逃れようがなくなってしまう。ここを突き抜けないかぎり,人間は永遠に救われない,その意味で「アンチクライスト」なのだ,と監督は主張したいのではないか,とこれはわたしの類推である。
この映画がカンヌ映画祭で上映されたときには,感動の拍手と,不満のブーイングとが,同時に起こったという。そして,その後の議論も,賛否両論に真っ二つに割れたまま推移したという。
同時に,この映画のセックス・シーンもまた大きな話題になったという。おそらく日本では上映は無理だろうとも噂されたという。しかし,大胆といえば大胆そのものではあるが,映像はとても美しい。セックスの途中で夫婦喧嘩になり,裸のまま山小屋の外に飛び出して行って,草むらの上に仰向けからだを投げ出し,ひとりでオナニーを始めるシーンは感動的ですらある。こういうことを堂々と演ずることのできる女優さんは日本にはいないだろうと思う。
ちなみにこの女優さん,シャルロット・ゲンズブールはカンヌ映画祭の主演女優賞を受賞している。この10月には歌手として来日して,各地で公演しているので,知る人も多いと思う。ただ歌うだけではなく,キーボードを演奏し,ドラムも叩く,という。この女優さんは血統書つきのサラブレッドでもある。詳しくは割愛。
この映画は,来年2月に新宿武蔵野館,シアターN渋谷,などで上映されるという。そのときが来たら,もう一度,見にいこうと思う。そういう映画である。美しいシーンとそこに籠められた意味の深さを観賞するために。
ああ,今夜は眠れない。
女性は恐ろしい。自然をいっぱいもっていて,「悪魔の教会」まで持ち合わせている。その分,悩み苦しむことも多い。同時に,喜びも大きい(はずだ)。
それに引き換え,男は単純だ。自然が表出するのはほんの一瞬だけだ。だから,喜びも小さい。これは断言できる。みずからの感覚として。
・・・・・・・のではないか,とこの映画をみた,いま,思っている。
2010年11月10日水曜日
柏木さんの能面展(実践女子大学)をみてくる。
今日の水曜日(午前)は太極拳の稽古の日。いつものように,稽古のあとのハヤシライスを食べて,その足で実践女子大学へ向かう。
実践女子大学は中央線の立川の隣の日野にある。稽古場のある大岡山(大井町線)から,ほぼ1時間。日野駅からは徒歩で10分ほど。高台の閑静な住宅街にある。女子大らしいとてもきれいな建物で,正門を入ってからの広場も落ち着きのある空間で,とてもいい雰囲気。正門を入ってすぐの建物が香雪記念館。この記念館の入り口手前のところに,この学園の創設者下田歌子さんの歌碑があって,それが校歌の一番になっている。しかも,ご丁寧に,ボタンを押すと校歌が流れてくる設備があったので,まずは,その校歌を聞いてみる。なかなか落ち着いた気持ちのいいメロディーが流れてくる。
柏木さんの能面展は,この香雪記念館の中の一室で開催されていた。この13日(土)・14日(日)は大学祭でもあり,その企画とも連動してのものと聞いている。予想したよりは広い部屋の三つの壁面に,びっしりと能面が展示してある。すごい迫力で,まずは,圧倒されてしまった。柏木さんは,その部屋の一角に坐って能面の制作をしながら,見学にきた学生さんとお話をしていた。とても楽しそうに,いつもの明るい表情で。
メインの展示は,大学側の依頼を受けて制作したという,大学の創設者下田歌子さんのお面である。三つの壁面の真ん中の壁面の,その中央に朱塗りの漆の額に収まっている。たくさんの能面の中でも,ひときわ輝いた存在感を示している。どう表現したらいいかわからないが,不思議な美しさと気品が漂う。なかでもわたしのこころを捉えたのは「眼」の力である。右目と左目のつくりが微妙に違っていて,そのほんのわずかな差異が驚くべき力となってわたしに迫ってくる。このお面に籠めた柏木さんの思いが伝わってくる。
昨日の柏木さんのブログにも書いてあったように,この下田歌子さんのお面を制作するにあたっては,相当のご苦労があったようである。そのブログによれば,以下のとおりである。下田歌子さんといえば,すでに歴史上の人物である。お顔についても,古い写真をとおして知る以外に方法がない。そこで,いろいろの人に下田歌子さんについてのイメージを尋ねてみると,みんな一人ひとり違うイメージをもっていることがわかる。それらを一つにしてまとめることはとても不可能だ,と気づく。では,どうしたらいいか。さんざん考えあぐねた結果,わたしのイメージをそのままお面にするしかない,つまり,わたしの下田歌子さん像をそのまま制作する,その一点に到達したという。あとは一直線だった,と。でも,この作品を制作する過程では,いろいろのアイディアがつぎつぎに浮かんできて,まったく新しい創作面になった,とのことである。どうやら,柏木さんは,この作品との格闘をとおして,また新しい境地に立たれたようだ。
「創意工夫」ということばが柏木さんの口からよく飛び出す。伝統的な能面の制作にはむかしからの約束事があって,それを忠実に守れば,ある程度の作品はできるとおっしゃる。でも,それでは満足できなくなって,自分の納得のいく作品を制作しようと思ったら,そこに新たな「創意工夫」を加えていくしかない。つまり,職人としての面打師から芸術家としての能面アーティストへの転身である。こうして,柏木さんの世界は一気にはじけた,とわたしはみる。しかし,創作面には,最初からお手本がない。どうするか。「創意工夫」以外にない。この「創意」「工夫」することが楽しい,と柏木さんはおっしゃる。なるほど,なるほど,とわたしはこころの底から納得する。
なぜなら,伝統面の約束事の世界を突き抜けて,そのさきに広がる無限の世界に飛び出してしまうと,もはや,見習うべきお手本はなにもなくなってしまうからだ。そこは,まことに自由であると同時に孤独でもある。なんの拘束もなければ規範もない。頼るは自己のみである。となると,あとは,自己と自己をとりまくすべての環境世界との「対話」(innewerden )しかなくなる。ゲーテは「自然がわたしの教師である」と言った。まさに,その境地に柏木さんは立つ。
こうして,柏木さんは創作面の世界に,たったひとりで踏み込んでいく。まさに,孤高の世界だ。その孤独に耐えながら,こころもからだも限りなく解き放ち,かつ,つねに「創意工夫」を楽しむ。そしてとうとう,小面から般若までを100分割してみようと思い立つ。そのためには,無限に広がる女性のこころの機微の表出を,その瞬間,瞬間のうちにとらえ,それを創作面として制作するという,大冒険に挑戦することになる。
今回の展覧会にもその一部が展示されている。これがまた,とてつもなく面白い。その大胆な発想と,なにものにも拘束されない自由な表現が,みごとにマッチングしていて,みる者のこころにスルリと入り込んでくる。柏木さんの観察眼の鋭さとユーモア精神と表現力の豊さが,一つひとつの作品に結晶している。能面アーティスト柏木裕美の面目躍如である。
そうした創作面と対面するかのように,反対側の壁面には伝統面がずらりと並んでいて,これまた圧巻である。
この展覧会は,12日(金)はお休みだが,14日(日)まで開催されている。柏木さんの能面の世界に触れる絶好のチャンス。時間の許す人は必見である。
いいものを見せていただいた,と大満足して帰路につく。
こうなってくると,来年の2月に予定されている銀座・文藝春秋画廊での展覧会が楽しみになってくる。いったい,どんな作品が,どんな風に並ぶのだろうか。大いに期待したい。
実践女子大学は中央線の立川の隣の日野にある。稽古場のある大岡山(大井町線)から,ほぼ1時間。日野駅からは徒歩で10分ほど。高台の閑静な住宅街にある。女子大らしいとてもきれいな建物で,正門を入ってからの広場も落ち着きのある空間で,とてもいい雰囲気。正門を入ってすぐの建物が香雪記念館。この記念館の入り口手前のところに,この学園の創設者下田歌子さんの歌碑があって,それが校歌の一番になっている。しかも,ご丁寧に,ボタンを押すと校歌が流れてくる設備があったので,まずは,その校歌を聞いてみる。なかなか落ち着いた気持ちのいいメロディーが流れてくる。
柏木さんの能面展は,この香雪記念館の中の一室で開催されていた。この13日(土)・14日(日)は大学祭でもあり,その企画とも連動してのものと聞いている。予想したよりは広い部屋の三つの壁面に,びっしりと能面が展示してある。すごい迫力で,まずは,圧倒されてしまった。柏木さんは,その部屋の一角に坐って能面の制作をしながら,見学にきた学生さんとお話をしていた。とても楽しそうに,いつもの明るい表情で。
メインの展示は,大学側の依頼を受けて制作したという,大学の創設者下田歌子さんのお面である。三つの壁面の真ん中の壁面の,その中央に朱塗りの漆の額に収まっている。たくさんの能面の中でも,ひときわ輝いた存在感を示している。どう表現したらいいかわからないが,不思議な美しさと気品が漂う。なかでもわたしのこころを捉えたのは「眼」の力である。右目と左目のつくりが微妙に違っていて,そのほんのわずかな差異が驚くべき力となってわたしに迫ってくる。このお面に籠めた柏木さんの思いが伝わってくる。
昨日の柏木さんのブログにも書いてあったように,この下田歌子さんのお面を制作するにあたっては,相当のご苦労があったようである。そのブログによれば,以下のとおりである。下田歌子さんといえば,すでに歴史上の人物である。お顔についても,古い写真をとおして知る以外に方法がない。そこで,いろいろの人に下田歌子さんについてのイメージを尋ねてみると,みんな一人ひとり違うイメージをもっていることがわかる。それらを一つにしてまとめることはとても不可能だ,と気づく。では,どうしたらいいか。さんざん考えあぐねた結果,わたしのイメージをそのままお面にするしかない,つまり,わたしの下田歌子さん像をそのまま制作する,その一点に到達したという。あとは一直線だった,と。でも,この作品を制作する過程では,いろいろのアイディアがつぎつぎに浮かんできて,まったく新しい創作面になった,とのことである。どうやら,柏木さんは,この作品との格闘をとおして,また新しい境地に立たれたようだ。
「創意工夫」ということばが柏木さんの口からよく飛び出す。伝統的な能面の制作にはむかしからの約束事があって,それを忠実に守れば,ある程度の作品はできるとおっしゃる。でも,それでは満足できなくなって,自分の納得のいく作品を制作しようと思ったら,そこに新たな「創意工夫」を加えていくしかない。つまり,職人としての面打師から芸術家としての能面アーティストへの転身である。こうして,柏木さんの世界は一気にはじけた,とわたしはみる。しかし,創作面には,最初からお手本がない。どうするか。「創意工夫」以外にない。この「創意」「工夫」することが楽しい,と柏木さんはおっしゃる。なるほど,なるほど,とわたしはこころの底から納得する。
なぜなら,伝統面の約束事の世界を突き抜けて,そのさきに広がる無限の世界に飛び出してしまうと,もはや,見習うべきお手本はなにもなくなってしまうからだ。そこは,まことに自由であると同時に孤独でもある。なんの拘束もなければ規範もない。頼るは自己のみである。となると,あとは,自己と自己をとりまくすべての環境世界との「対話」(innewerden )しかなくなる。ゲーテは「自然がわたしの教師である」と言った。まさに,その境地に柏木さんは立つ。
こうして,柏木さんは創作面の世界に,たったひとりで踏み込んでいく。まさに,孤高の世界だ。その孤独に耐えながら,こころもからだも限りなく解き放ち,かつ,つねに「創意工夫」を楽しむ。そしてとうとう,小面から般若までを100分割してみようと思い立つ。そのためには,無限に広がる女性のこころの機微の表出を,その瞬間,瞬間のうちにとらえ,それを創作面として制作するという,大冒険に挑戦することになる。
今回の展覧会にもその一部が展示されている。これがまた,とてつもなく面白い。その大胆な発想と,なにものにも拘束されない自由な表現が,みごとにマッチングしていて,みる者のこころにスルリと入り込んでくる。柏木さんの観察眼の鋭さとユーモア精神と表現力の豊さが,一つひとつの作品に結晶している。能面アーティスト柏木裕美の面目躍如である。
そうした創作面と対面するかのように,反対側の壁面には伝統面がずらりと並んでいて,これまた圧巻である。
この展覧会は,12日(金)はお休みだが,14日(日)まで開催されている。柏木さんの能面の世界に触れる絶好のチャンス。時間の許す人は必見である。
いいものを見せていただいた,と大満足して帰路につく。
こうなってくると,来年の2月に予定されている銀座・文藝春秋画廊での展覧会が楽しみになってくる。いったい,どんな作品が,どんな風に並ぶのだろうか。大いに期待したい。
2010年11月9日火曜日
『<私>の存在の比類なさ』(永井均著,講談社学術文庫)を読む。
本のタイトルと帯のコピーに惹きつけられて買った本。しかし,半分は満足,半分は失望。なぜなら,徹底した思考実験という名の,かったるい形而上学だったから。
このところ,荒川修作や竹内敏晴といった実践と思考とを絶えずフィードバックさせながら,独自の思想・哲学を構築してきた人たちのものを読み,考えてきたせいか,永井均の本がかったるいのである。やはり,実践をともなわない純粋な形而上学は,いまのわたしにはかったるいのである。たぶん,そこには生身の身体が思考の対象とされることはないし,ましてや「生命」とか,「魂の躍動」や「情動」などは抜け落ちていってしまうからなのだろう。そこにいくと,荒川修作にはアートにしろ建築にしろ「作品」というごまかしようのない,動かしがたい具象がつねに随伴していたし,竹内敏晴には「レッスン」という生きものとつねに格闘しながら思考実験を重ねるという激しさがあった。しかし,永井均にはそれがない。メタ・フィジックスの世界を遊んでいればいいのである。同じ哲学者でも,西田幾多郎には「坐禅」という実践と哲学とが表裏一体となっていた。
とはいえ永井均といえば,芥川賞作家の川上未映子が師事している哲学者だ。しかも,独在論の第一人者である。そんな多少の予備知識を前提にして,この本を手にした。冒頭の論文は,とても,わかりやすくて,なるほど,川上未映子がとびつくのも宣なるかな,と思った。しかし,中盤の論文は,途中で投げ出したくなるほど退屈な,こういう絵空事のような思考実験をすることが哲学なのか,と半分はあきれてしまった。そして,最後の論文はまた,とても説得力があって秀逸。
がしかし,解説の茂木健一郎で,ふたたび失望。いつものワン・パターン解説。「クオリア」はもういい。ご遠慮願いたい。頼む方も頼む方だが,引き受ける方も引き受ける方だ。こういうことが平気でできるところにこの人の,どこか社会性の欠損部分を感じてしまう。なるほど,脱税問題に対するあの開き直りは,この人の地なのだ,ということがよくわかる。
さて,本題に入ろう。たとえば,永井均のテーゼの一つはこうだ。
「永井均は今と同じあり方で存在しながら,彼が私でなくなることは想像できる。このとき,彼には何の異変も起きていない。しかしもはや彼は私ではない。この私を<私>と表記しよう。」
と永井均は書く。なるほど・・・となんとなくわかったような気にさせてくれる。しかし,よくよく考えてみると,この文章は変だ。私が私でなくなった私を<私>と表記するのは,一つの約束として,あるいは哲学上の仮説として理解はできる。その私は「わたし」と表記されても構わないはずだ。そのように概念規定をすればいいだけのこと。だから,永井は<私>という表記を選んだだけのことだ。しかし,なにゆえに<私>という表記を設定しなくてはならなかったのか,なにゆえに,私が<私>になってしまうのか,そこのところがわたしにはわからない。
そこで,もう一度,さきほどの引用文をじっくりと検討してみよう。そのための仕掛けとして,永井均は・・・ではじまる主語を,いっそのこと,稲垣正浩は・・・の文章に置き換えてみよう。そうすると,もっと問題の所在が明確になってくるように思うから。で,みなさんは,同じようにしてご自分の名前を入れて考えてみてはどうだろう。すると,とたんにリアリティが増してくる。
「稲垣正浩は今と同じあり方で存在しながら,彼が私でなくなることは想像できる。」
残念ながら,わたしには「想像できない」のである。いったい,永井はどんな場面を想像しているのだろうか。「今と同じあり方で存在しながら」稲垣正浩が私でなくなる,とはどういうことを言っているのか。それと同時に,突然,「彼」と自分のことを呼ぶとき,そこになにが起きているのか。なにか特別のことが起きたが故に「彼」と呼びかけることができるようになったのではないのか。
しかし,永井は「このとき,彼には何の異変も起きていない」という。わたし自身であるはずの稲垣正浩が,突然,「彼」になることの意味はなにか。ここでの突然のジャンプの意味がわたしにはわからない。「何の異変も起きていない」にもかかわらず,「もはや彼は私ではない」という。「今と同じあり方」で「何の異変も起きていない」状態で,「彼は私ではない」という。いったい,永井均は,具体的にどのようなイメージを抱いているのだろうか。
わたしは,かつて,「わたしの身体がわたしの身体であってわたしの身体ではない」状態のことを問題にして考えたことがある。このことと問題の所在がかなり近接していると思うので,なおさら,永井の言っていることが気がかりとなる。
永井は,私が私ではなくなる私を<私>と表記し,それを究極の他者と呼んだ。稲垣は,わたしの身体がわたしの身体でありながらもわたしの身体ではなくなっていく,その様態をとらえ,自他の問題を考えようとした。つまり,自己でありながら他者である,その自他の境界領域とはなにか,そして,ここに,じつは,スポーツする身体の究極の謎があるのではないか,と提示したのだ。残念ながら,あまり支持されなかったようだが・・・。
このような背景があるので,わたしとしては,永井のこのテーゼは黙って見過ごすことはできないのである。そのことを念頭におきながら,もう一度,永井の第一論文を熟読することにしよう。なにか,新しい発見があるかもしれない。いや,必ずあるはずである。わたしが読み取れなかっただけの話に違いない。なんてったって,独在論の第一人者なのだから。永井均は。
このところ,荒川修作や竹内敏晴といった実践と思考とを絶えずフィードバックさせながら,独自の思想・哲学を構築してきた人たちのものを読み,考えてきたせいか,永井均の本がかったるいのである。やはり,実践をともなわない純粋な形而上学は,いまのわたしにはかったるいのである。たぶん,そこには生身の身体が思考の対象とされることはないし,ましてや「生命」とか,「魂の躍動」や「情動」などは抜け落ちていってしまうからなのだろう。そこにいくと,荒川修作にはアートにしろ建築にしろ「作品」というごまかしようのない,動かしがたい具象がつねに随伴していたし,竹内敏晴には「レッスン」という生きものとつねに格闘しながら思考実験を重ねるという激しさがあった。しかし,永井均にはそれがない。メタ・フィジックスの世界を遊んでいればいいのである。同じ哲学者でも,西田幾多郎には「坐禅」という実践と哲学とが表裏一体となっていた。
とはいえ永井均といえば,芥川賞作家の川上未映子が師事している哲学者だ。しかも,独在論の第一人者である。そんな多少の予備知識を前提にして,この本を手にした。冒頭の論文は,とても,わかりやすくて,なるほど,川上未映子がとびつくのも宣なるかな,と思った。しかし,中盤の論文は,途中で投げ出したくなるほど退屈な,こういう絵空事のような思考実験をすることが哲学なのか,と半分はあきれてしまった。そして,最後の論文はまた,とても説得力があって秀逸。
がしかし,解説の茂木健一郎で,ふたたび失望。いつものワン・パターン解説。「クオリア」はもういい。ご遠慮願いたい。頼む方も頼む方だが,引き受ける方も引き受ける方だ。こういうことが平気でできるところにこの人の,どこか社会性の欠損部分を感じてしまう。なるほど,脱税問題に対するあの開き直りは,この人の地なのだ,ということがよくわかる。
さて,本題に入ろう。たとえば,永井均のテーゼの一つはこうだ。
「永井均は今と同じあり方で存在しながら,彼が私でなくなることは想像できる。このとき,彼には何の異変も起きていない。しかしもはや彼は私ではない。この私を<私>と表記しよう。」
と永井均は書く。なるほど・・・となんとなくわかったような気にさせてくれる。しかし,よくよく考えてみると,この文章は変だ。私が私でなくなった私を<私>と表記するのは,一つの約束として,あるいは哲学上の仮説として理解はできる。その私は「わたし」と表記されても構わないはずだ。そのように概念規定をすればいいだけのこと。だから,永井は<私>という表記を選んだだけのことだ。しかし,なにゆえに<私>という表記を設定しなくてはならなかったのか,なにゆえに,私が<私>になってしまうのか,そこのところがわたしにはわからない。
そこで,もう一度,さきほどの引用文をじっくりと検討してみよう。そのための仕掛けとして,永井均は・・・ではじまる主語を,いっそのこと,稲垣正浩は・・・の文章に置き換えてみよう。そうすると,もっと問題の所在が明確になってくるように思うから。で,みなさんは,同じようにしてご自分の名前を入れて考えてみてはどうだろう。すると,とたんにリアリティが増してくる。
「稲垣正浩は今と同じあり方で存在しながら,彼が私でなくなることは想像できる。」
残念ながら,わたしには「想像できない」のである。いったい,永井はどんな場面を想像しているのだろうか。「今と同じあり方で存在しながら」稲垣正浩が私でなくなる,とはどういうことを言っているのか。それと同時に,突然,「彼」と自分のことを呼ぶとき,そこになにが起きているのか。なにか特別のことが起きたが故に「彼」と呼びかけることができるようになったのではないのか。
しかし,永井は「このとき,彼には何の異変も起きていない」という。わたし自身であるはずの稲垣正浩が,突然,「彼」になることの意味はなにか。ここでの突然のジャンプの意味がわたしにはわからない。「何の異変も起きていない」にもかかわらず,「もはや彼は私ではない」という。「今と同じあり方」で「何の異変も起きていない」状態で,「彼は私ではない」という。いったい,永井均は,具体的にどのようなイメージを抱いているのだろうか。
わたしは,かつて,「わたしの身体がわたしの身体であってわたしの身体ではない」状態のことを問題にして考えたことがある。このことと問題の所在がかなり近接していると思うので,なおさら,永井の言っていることが気がかりとなる。
永井は,私が私ではなくなる私を<私>と表記し,それを究極の他者と呼んだ。稲垣は,わたしの身体がわたしの身体でありながらもわたしの身体ではなくなっていく,その様態をとらえ,自他の問題を考えようとした。つまり,自己でありながら他者である,その自他の境界領域とはなにか,そして,ここに,じつは,スポーツする身体の究極の謎があるのではないか,と提示したのだ。残念ながら,あまり支持されなかったようだが・・・。
このような背景があるので,わたしとしては,永井のこのテーゼは黙って見過ごすことはできないのである。そのことを念頭におきながら,もう一度,永井の第一論文を熟読することにしよう。なにか,新しい発見があるかもしれない。いや,必ずあるはずである。わたしが読み取れなかっただけの話に違いない。なんてったって,独在論の第一人者なのだから。永井均は。
2010年11月8日月曜日
今日はもう立冬。ことしもあと少し・・・・。
ついこの間まで,暑い暑いと文句を言っていたのに,もう,いまは寒い寒いと文句をいう。人間なんて勝手なものです。
毎年,同じように時間は流れているはずなのに,わたしの感ずる主観的な時間はどんどん速くなっていきます。年々,一日の時間が短くなっているのではないか,と本気で考えたりしています。時間の使い方が下手になってしまったのか,などとも考えたりしています。友人に話したら,おれも同じだよ,と。しかも,それが歳をとったということだ,とまでいわれてしまいいささか拍子抜けしてしまいました。自分ではまだまだ若いつもりでいますから,これもまた困ったものなのかもしれません。たぶん,周囲のみなさんには迷惑をかけていることだろう・・・・と。
新聞で今日は「立冬」と知り,おやおやです。いつも,8月末くらいまではなんとなくゆったりとした時間が流れているような気がするのですが,9月に入るととたんに時間の流れが速くなってくるように思います。まあ,むかしから「釣瓶落とし」というくらですから,あっという間に夕日が沈み,夜の闇がやってきます。昼の時間が短くなっていくことと,時間の流れのスピード感覚とはマッチングしているようです。
ことしはとくに秋がなかったという悔しさもあって,あっという間に冬がやってきて,それがなんだか損をしたようにも思えて,て,て,て・・・・,で,気がつけば,今日は立冬。川の流れでいえば,急流から激流に入るところ。そして,そのあとの12月は瀧のように流れ落ちるのみ。大晦日まではなすすべもなく流れ落ちていくのみ。ああ,情けなや,なさけなや。
でも,むかしの人は言いました。忙しいときこそ仕事をしなくては駄目だ,と。忙しいから仕事ができないなんていうのは駄目人間の言う言い逃れにすぎない,と。そういえば,忙しい人ほどよく原稿を書いている。いったい,いつのまに書くのか,と不思議なほどだ。
たとえば,佐藤優。かれは,睡眠時間3時間半だという。それでいてからだはメタボ。背中にまで肉を背負っている。胴長短足でちょこまかと歩く。かかりつけのお医者さんの言うには,心筋梗塞か脳溢血で死ぬ,と予告されているとか。それでも原稿を書き,講演にでかけ,対談があったり,取材に応じたり,その間隙を縫うようにして学校に通って「ことば」の勉強をしているという。そのことばは,沖縄の方言。これがまたものすごく難しいとのこと。これに比べたら,かれの得意としたロシア語なんかは簡単だった,と。
わたしの恩師の岸野先生は,3時間も眠ると眼が覚めてしまう,とおっしゃった。食事も昼食はほとんどとらなかった。食べたくないのだ,とおっしゃる。が,じつは違うということを,あとになって知った。なにかの都合で先生と二人きりで箱根の共済の宿舎に一泊したことがある。そのときに,ちらりともらされたことが,食べ過ぎると眠くなるんだよね,と。一緒にお風呂に入って,びっくりした。これほどに痩せていらっしゃるとは知らなかった。ほとんど骨と皮のみ。肋骨がきちんと数えられるほどだ。かつては,体操競技の全日本チャンピオン。その当時の写真をみると,太い首,首の根っこに盛り上がった背中の筋肉,大胸筋はプラトンのように平ら,腹筋はボコボコ。まさに筋骨隆々だった。
そんな先生が,わたしのはだかを眺めて,君は肉がたくさんついていていいねぇ,とおっしゃる。ところで君は何時間くらい眠るの?と尋ねられ,冷や汗が流れたことを昨日のことのように思い出す。先生の背中を流しながら,手加減がわからなくて,困り果てたことも思い出す。
そうだ,睡眠時間だ。自分の自由になる時間を確保するには,睡眠時間を削るしかないのだ。老人になったから時間の流れが速くなった,などと嘯いていてはいけないのだ。佐藤優はあんなにメタボでも睡眠時間は3時間半で頑張っているではないか。
よーし,あすから少しずつ睡眠時間を削っていくことにしよう・・・・とはいうものの,わたしは眠ることが大好きなのである。暇さえあれば横になって眠っていたい方なのだ。とりわけ,昼食後などは知らぬ間に居眠りをしている。これがまたなんともいえない快感なのだから困ったものだ。
そのむかし,『短時間睡眠法』などという本がベストセラーになったことがあり,そこには,分睡法などという方法が紹介されていた。そうだ,これでいこう。すまじきものは宮仕えというが,その拘束からも解放されたいま,これだ,これだ,分睡法だ。いつでも,眠くなったら眠ればいい。眼が覚めたら好きな仕事をすればいい。これならできそうだ。
よし,ことしの暮れは師走などとはいわせない。亀さんの走りでいい。ゆっくり,ゆっくり走ろう。しかし,うさぎさんのように長い昼寝をしないように。居眠りしながらでもいい。師走ではなく,亀走でいこう。
まずは,朝飯前の一仕事から。
毎年,同じように時間は流れているはずなのに,わたしの感ずる主観的な時間はどんどん速くなっていきます。年々,一日の時間が短くなっているのではないか,と本気で考えたりしています。時間の使い方が下手になってしまったのか,などとも考えたりしています。友人に話したら,おれも同じだよ,と。しかも,それが歳をとったということだ,とまでいわれてしまいいささか拍子抜けしてしまいました。自分ではまだまだ若いつもりでいますから,これもまた困ったものなのかもしれません。たぶん,周囲のみなさんには迷惑をかけていることだろう・・・・と。
新聞で今日は「立冬」と知り,おやおやです。いつも,8月末くらいまではなんとなくゆったりとした時間が流れているような気がするのですが,9月に入るととたんに時間の流れが速くなってくるように思います。まあ,むかしから「釣瓶落とし」というくらですから,あっという間に夕日が沈み,夜の闇がやってきます。昼の時間が短くなっていくことと,時間の流れのスピード感覚とはマッチングしているようです。
ことしはとくに秋がなかったという悔しさもあって,あっという間に冬がやってきて,それがなんだか損をしたようにも思えて,て,て,て・・・・,で,気がつけば,今日は立冬。川の流れでいえば,急流から激流に入るところ。そして,そのあとの12月は瀧のように流れ落ちるのみ。大晦日まではなすすべもなく流れ落ちていくのみ。ああ,情けなや,なさけなや。
でも,むかしの人は言いました。忙しいときこそ仕事をしなくては駄目だ,と。忙しいから仕事ができないなんていうのは駄目人間の言う言い逃れにすぎない,と。そういえば,忙しい人ほどよく原稿を書いている。いったい,いつのまに書くのか,と不思議なほどだ。
たとえば,佐藤優。かれは,睡眠時間3時間半だという。それでいてからだはメタボ。背中にまで肉を背負っている。胴長短足でちょこまかと歩く。かかりつけのお医者さんの言うには,心筋梗塞か脳溢血で死ぬ,と予告されているとか。それでも原稿を書き,講演にでかけ,対談があったり,取材に応じたり,その間隙を縫うようにして学校に通って「ことば」の勉強をしているという。そのことばは,沖縄の方言。これがまたものすごく難しいとのこと。これに比べたら,かれの得意としたロシア語なんかは簡単だった,と。
わたしの恩師の岸野先生は,3時間も眠ると眼が覚めてしまう,とおっしゃった。食事も昼食はほとんどとらなかった。食べたくないのだ,とおっしゃる。が,じつは違うということを,あとになって知った。なにかの都合で先生と二人きりで箱根の共済の宿舎に一泊したことがある。そのときに,ちらりともらされたことが,食べ過ぎると眠くなるんだよね,と。一緒にお風呂に入って,びっくりした。これほどに痩せていらっしゃるとは知らなかった。ほとんど骨と皮のみ。肋骨がきちんと数えられるほどだ。かつては,体操競技の全日本チャンピオン。その当時の写真をみると,太い首,首の根っこに盛り上がった背中の筋肉,大胸筋はプラトンのように平ら,腹筋はボコボコ。まさに筋骨隆々だった。
そんな先生が,わたしのはだかを眺めて,君は肉がたくさんついていていいねぇ,とおっしゃる。ところで君は何時間くらい眠るの?と尋ねられ,冷や汗が流れたことを昨日のことのように思い出す。先生の背中を流しながら,手加減がわからなくて,困り果てたことも思い出す。
そうだ,睡眠時間だ。自分の自由になる時間を確保するには,睡眠時間を削るしかないのだ。老人になったから時間の流れが速くなった,などと嘯いていてはいけないのだ。佐藤優はあんなにメタボでも睡眠時間は3時間半で頑張っているではないか。
よーし,あすから少しずつ睡眠時間を削っていくことにしよう・・・・とはいうものの,わたしは眠ることが大好きなのである。暇さえあれば横になって眠っていたい方なのだ。とりわけ,昼食後などは知らぬ間に居眠りをしている。これがまたなんともいえない快感なのだから困ったものだ。
そのむかし,『短時間睡眠法』などという本がベストセラーになったことがあり,そこには,分睡法などという方法が紹介されていた。そうだ,これでいこう。すまじきものは宮仕えというが,その拘束からも解放されたいま,これだ,これだ,分睡法だ。いつでも,眠くなったら眠ればいい。眼が覚めたら好きな仕事をすればいい。これならできそうだ。
よし,ことしの暮れは師走などとはいわせない。亀さんの走りでいい。ゆっくり,ゆっくり走ろう。しかし,うさぎさんのように長い昼寝をしないように。居眠りしながらでもいい。師走ではなく,亀走でいこう。
まずは,朝飯前の一仕事から。
2010年11月7日日曜日
荒川修作は「天才」なのか。それとも単なる「キチガイ」なのか。
昨日は一日,荒川修作の本を積み上げて,その一つひとつとにらめっこしながら過ごした。にらめっこをした,というのは読んで理解することを放棄したということだ。
もう少し精確にいえば,読んでもほとんど理解不能だ,ということ。つまり,読むという行為は,少なくとも,近代的理性によりかかって,そのネットワークのどこかに絡め捕ろうとすることだ。ところが,荒川修作の著作は,そういう読者をことごとく拒絶する。もっと厳密にいえば,近代的理性の<外>にでて,可能なかぎりニュートラルな思考を要求する。こちらにその備えがないかぎり,荒川のメッセージはとどかない。だから,ひたすら「にらめっこ」をするしかないというわけだ。しかし,にらめっこにも効用はある。ことばを超えた世界に遊ぶことができるたら。まったくの空想の世界に遊ぶことができるから。
むしろ,荒川はそれを歓迎しているようにもみえる。
たとえば,『荒川修作 マドリン・ギンズ展 死なないために 養老天命反転地』。ほとんど,説明的な文章はなく,ただ,ひたすら「養老天命反転地」を制作するにいたる思考のプロセスがドローイングや模型や写真(建築現場のプロセス)をとおして明らかにされている。だから,必然的に「にらめっこ」をするだけになる。それでも,ときおり,なにかが「降りてくる」ことがある。これを荒川は「ランディング」(landing)と呼ぶ。そして,その「ランディング・サイト」(「降り立つ場」)を意図的・計画的に設計をし,制作し,「建築する身体」のあるべき姿を模索する。そんなことをぼんやり考えながら「にらめっこ」をする。つまり,近代的理性の枠組みの<外>にみずからの身もこころも放り出すようにして,可能なかぎり「ぼんやり」と。そうすると,意外や意外,つぎつぎに,なにかが「降り立って」くるのである。これはたまらない快感である。
同じようなカタログ集に『荒川修作の実験展──見る者がつくられる場』がある。ちなみち,この書名の文字は裏返しになっている。すなわち,「リバーシブル・サイト」(「反転地」)というわけだ。こちらも,同じように,ひたすら「にらめっこ」をする。ほとんど,理解不能である。しかし,荒川修作がなにかを制作するときの,そのプロセスのようなものは伝わってくる。しかし,その思考の中身はわからない,理解不能。たぶん,荒川の発想のひらめきだけがドローイングとなってとびだしてくる,のだろう。それらを黙って「にらめっこ」するだけである。
でも,不思議なことに,こんなことをしていると,あっという間に一日が暮れていく。時間が消えてしまうのである。いま,どこにいるのか,という空間すら消えてしまう。なにか,わけのわからない世界に誘導されながら,夢をみているような錯覚に陥る。ときおり,われに還る。わたしの中の内なる「自然」が,現実の世界に呼び戻してくれる(Nature call me)からだ。でも,また,すぐに荒川ワールドに飛び込んでいってしまう。快感が待っているから。
この他にも,活字だけでできた本もある。『建築する身体』(荒川修作+マドリン・ギンズ著,河本英夫訳,春秋社)である。こちらも,読もうとはしない。「にらめっこ」することに専念。なぜなら,ほとんどが理解不能の文字が並ぶ。禅問答を読んでいるような感覚になる。たぶん,近代的理性の<外>でのみ通用する「アラカワ」言語を習得したのちにのみ理解可能となるような,一種独特の荒川ワールドが展開する。それはまさに「天才」の世界なので,こちらの「鈍才」君には理解不能である。仕方がないので,ひたすら,「にらめっこ」と相成る次第。でも,「にらめっこ」にもそれなりの効用はある。ある,ワン・センテンスが天啓のように「降り立って」くることが起こる。それは,オーバーに言えば,脳細胞の表皮が一つずつ剥ぎ取られていくような感覚である。あるいは,脳細胞の間を風が吹き抜けていく,そんな感覚。それだけで,もう,大満足なのだ。ときには,わけもなく走り出したくなる衝動にかられることもある。
そういう衝動を引き起こした「荒川修作語録」とでもいうべきものを,最後に紹介しておこう。
〇人間は死なない。死ねないって言ってるのだよ。
〇地球上で初めて,この身体の使用の仕方によって,このオーガニズムの使用の仕方によって,人間が永遠に生きるってことを大発見した。
〇人間はいつか死んじゃうんだよ,なんて言ってるのは哲学者か教育者だ。
〇デュシャンはデュアリストだったから,お墓に書いてあるんだ。知ってる? ”いつも死ぬのは他者です”って。
〇感覚っていうのはそこらじゅうにいっぱいある。そのことを明確に証明したのがヘレン・ケラーだ。
〇空間とか時間っていうのはものすごいスピードで動いている。その中のホンの小さな物質がこの家って呼ばれているこの部屋だ。
〇徹底的に間違っているんだよ。人間の生き方は。
〇いまだに人間が戦争をしたり,人を殺したりするのはどうしてか知ってるか。何の楽しみも何の希望も無いからだ,この地球上に。
〇大体活字を使ったものは全部省略されている,あらゆるものが。何一つ入ってない。ばい菌も無い,血も無い,何にも無い,何にもないんだ。
〇僕にそっくりなやつが一人だけいた,歴史に。レオナルド・ダ・ヴィンチってやつだ。行き着いたところは彼も”体”だったんだ。
〇気配を構成しなおす。これはものすごく不思議なことだろう? 気配を構成しなおすって。何によって変えると思う。雰囲気によって変えるんだ。雰囲気は何によって変わると思う? 環境によって変わるんだ。そのすべては何によって変わると思う? 有機体によってかわるんだ。
以下,割愛。
さてはて,荒川修作はほんとうに「天才」なのか。それとも単なる「キチガイ」?
荒川の生涯の公私ともに伴侶となるマドリン・ギンズのことを,荒川はつぎのように言っている。
「彼女と初めて出会ったとき,彼女は狂っていた。でも,おれなら直せると思ったんだ。その後,彼女の父親もキチガイで,母親もキチガイだということがわかった。でも,彼女は一番狂っていたんだ。」と。
そのマドリン・ギンズを直そうと思っていたら,いつのまにか,こんなことになってしまった(生涯の伴侶に,という意味),と。しかし,わたしに言わせれば,もっとも狂っていたのは荒川さん,あなたではなかったのですか? それだから,あなたはほんとうの「天才」なんです,ということになる。
まともな人間はまともなことしかできない。
人がまねすることのできないことをやれる人間は,やはり,どこか狂っている。つまり,近代的理性の<外>にでている。問題は,そのことにどこまで自覚的であるかどうか,そこがポイントだ。でも,狂っている人間は自分だけが「まとも」であると確信していることも事実だ。
荒川修作は「僕が使うボキャブラリーは,何一つ君たちにはわからないだろう」という。荒川修作は,はたして,どこまで狂っていたのだろうか。これが,わたしの,これからのテーマだ。
もう少し精確にいえば,読んでもほとんど理解不能だ,ということ。つまり,読むという行為は,少なくとも,近代的理性によりかかって,そのネットワークのどこかに絡め捕ろうとすることだ。ところが,荒川修作の著作は,そういう読者をことごとく拒絶する。もっと厳密にいえば,近代的理性の<外>にでて,可能なかぎりニュートラルな思考を要求する。こちらにその備えがないかぎり,荒川のメッセージはとどかない。だから,ひたすら「にらめっこ」をするしかないというわけだ。しかし,にらめっこにも効用はある。ことばを超えた世界に遊ぶことができるたら。まったくの空想の世界に遊ぶことができるから。
むしろ,荒川はそれを歓迎しているようにもみえる。
たとえば,『荒川修作 マドリン・ギンズ展 死なないために 養老天命反転地』。ほとんど,説明的な文章はなく,ただ,ひたすら「養老天命反転地」を制作するにいたる思考のプロセスがドローイングや模型や写真(建築現場のプロセス)をとおして明らかにされている。だから,必然的に「にらめっこ」をするだけになる。それでも,ときおり,なにかが「降りてくる」ことがある。これを荒川は「ランディング」(landing)と呼ぶ。そして,その「ランディング・サイト」(「降り立つ場」)を意図的・計画的に設計をし,制作し,「建築する身体」のあるべき姿を模索する。そんなことをぼんやり考えながら「にらめっこ」をする。つまり,近代的理性の枠組みの<外>にみずからの身もこころも放り出すようにして,可能なかぎり「ぼんやり」と。そうすると,意外や意外,つぎつぎに,なにかが「降り立って」くるのである。これはたまらない快感である。
同じようなカタログ集に『荒川修作の実験展──見る者がつくられる場』がある。ちなみち,この書名の文字は裏返しになっている。すなわち,「リバーシブル・サイト」(「反転地」)というわけだ。こちらも,同じように,ひたすら「にらめっこ」をする。ほとんど,理解不能である。しかし,荒川修作がなにかを制作するときの,そのプロセスのようなものは伝わってくる。しかし,その思考の中身はわからない,理解不能。たぶん,荒川の発想のひらめきだけがドローイングとなってとびだしてくる,のだろう。それらを黙って「にらめっこ」するだけである。
でも,不思議なことに,こんなことをしていると,あっという間に一日が暮れていく。時間が消えてしまうのである。いま,どこにいるのか,という空間すら消えてしまう。なにか,わけのわからない世界に誘導されながら,夢をみているような錯覚に陥る。ときおり,われに還る。わたしの中の内なる「自然」が,現実の世界に呼び戻してくれる(Nature call me)からだ。でも,また,すぐに荒川ワールドに飛び込んでいってしまう。快感が待っているから。
この他にも,活字だけでできた本もある。『建築する身体』(荒川修作+マドリン・ギンズ著,河本英夫訳,春秋社)である。こちらも,読もうとはしない。「にらめっこ」することに専念。なぜなら,ほとんどが理解不能の文字が並ぶ。禅問答を読んでいるような感覚になる。たぶん,近代的理性の<外>でのみ通用する「アラカワ」言語を習得したのちにのみ理解可能となるような,一種独特の荒川ワールドが展開する。それはまさに「天才」の世界なので,こちらの「鈍才」君には理解不能である。仕方がないので,ひたすら,「にらめっこ」と相成る次第。でも,「にらめっこ」にもそれなりの効用はある。ある,ワン・センテンスが天啓のように「降り立って」くることが起こる。それは,オーバーに言えば,脳細胞の表皮が一つずつ剥ぎ取られていくような感覚である。あるいは,脳細胞の間を風が吹き抜けていく,そんな感覚。それだけで,もう,大満足なのだ。ときには,わけもなく走り出したくなる衝動にかられることもある。
そういう衝動を引き起こした「荒川修作語録」とでもいうべきものを,最後に紹介しておこう。
〇人間は死なない。死ねないって言ってるのだよ。
〇地球上で初めて,この身体の使用の仕方によって,このオーガニズムの使用の仕方によって,人間が永遠に生きるってことを大発見した。
〇人間はいつか死んじゃうんだよ,なんて言ってるのは哲学者か教育者だ。
〇デュシャンはデュアリストだったから,お墓に書いてあるんだ。知ってる? ”いつも死ぬのは他者です”って。
〇感覚っていうのはそこらじゅうにいっぱいある。そのことを明確に証明したのがヘレン・ケラーだ。
〇空間とか時間っていうのはものすごいスピードで動いている。その中のホンの小さな物質がこの家って呼ばれているこの部屋だ。
〇徹底的に間違っているんだよ。人間の生き方は。
〇いまだに人間が戦争をしたり,人を殺したりするのはどうしてか知ってるか。何の楽しみも何の希望も無いからだ,この地球上に。
〇大体活字を使ったものは全部省略されている,あらゆるものが。何一つ入ってない。ばい菌も無い,血も無い,何にも無い,何にもないんだ。
〇僕にそっくりなやつが一人だけいた,歴史に。レオナルド・ダ・ヴィンチってやつだ。行き着いたところは彼も”体”だったんだ。
〇気配を構成しなおす。これはものすごく不思議なことだろう? 気配を構成しなおすって。何によって変えると思う。雰囲気によって変えるんだ。雰囲気は何によって変わると思う? 環境によって変わるんだ。そのすべては何によって変わると思う? 有機体によってかわるんだ。
以下,割愛。
さてはて,荒川修作はほんとうに「天才」なのか。それとも単なる「キチガイ」?
荒川の生涯の公私ともに伴侶となるマドリン・ギンズのことを,荒川はつぎのように言っている。
「彼女と初めて出会ったとき,彼女は狂っていた。でも,おれなら直せると思ったんだ。その後,彼女の父親もキチガイで,母親もキチガイだということがわかった。でも,彼女は一番狂っていたんだ。」と。
そのマドリン・ギンズを直そうと思っていたら,いつのまにか,こんなことになってしまった(生涯の伴侶に,という意味),と。しかし,わたしに言わせれば,もっとも狂っていたのは荒川さん,あなたではなかったのですか? それだから,あなたはほんとうの「天才」なんです,ということになる。
まともな人間はまともなことしかできない。
人がまねすることのできないことをやれる人間は,やはり,どこか狂っている。つまり,近代的理性の<外>にでている。問題は,そのことにどこまで自覚的であるかどうか,そこがポイントだ。でも,狂っている人間は自分だけが「まとも」であると確信していることも事実だ。
荒川修作は「僕が使うボキャブラリーは,何一つ君たちにはわからないだろう」という。荒川修作は,はたして,どこまで狂っていたのだろうか。これが,わたしの,これからのテーマだ。
2010年11月5日金曜日
「人間は死なない」と断言した人が死んでしまった。荒川修作のこと。
生まれて初めて映画の試写会なるものに行ってきた。12月に公開される映画の試写会である。こうして映画の批評ができるとしたら,こんな嬉しいことはない。
タイトルは「死なない子供,荒川修作」。このタイトルをみただけでピンとくる人も多いと思う。ことしの5月19日に,「死なない」と宣言した人が,残念ながら死んでしまった。もっとも,荒川修作のいう「死なない」という意味と,わたしたちが「死ぬ」と言っていることとは,まるで次元が違うのだが・・・。74歳。まだまだ若い。わたしより2歳年上だが,学年は一つ違い。出身は名古屋市。わたしは豊橋市。同じ愛知県人として,どこか親さを感じていた。戦前・戦中・戦後の動乱の時期を,同じようにして生きてきたから。ただ,それだけのこと。ただし,かれは生まれたときからの天才。こちらは亀さんのような鈍才。
さて,この映画。どのように紹介しておこうか。
ごく月並みに始めようか。
キャッチ・コピーによると,つぎのようである。
「人間は死なない」と断言した男と,”死なない家”に住んだ人々の希望のドキュメンタリー。
出演:荒川修作(コーデノロジスト),佐治晴夫(宇宙物理学者),天命反転住宅の住人たち,ナレーターション:浅野忠信,音楽:渋谷慶一郎,監督:山岡信貴。
天命反転住宅とは,三鷹天命反転住宅のこと。ちなみに,監督もじつは,そこの住人。だから,彼の二人の子どもさんたちも出演する。荒川修作につぐ主演級の貢献をしている。とくに,下の女の子は誕生の瞬間からの出演である。生まれながらにして女優である。へその緒を切るシーンでは,たぶん,監督の声だと思われるが「えーっ,固いものですねぇ,なかなか切れません」「そうなんですよ,命綱ですから,ちょっとやそっとでは切れないように丈夫にできています」とこれは女性の声(女医さんか)。こうして,この子は生まれながらにして三鷹の天命反転住宅で育つ。
この天命反転住宅は,荒川のいう「死なないために」(このタイトルの詩文がある),かれの思想・哲学を総動員して制作した,世にも珍しい「実験的」な家である。家というよりは集合住宅である。3階建て。外見もでこぼこだらけで,あちこちが外に突き出ていて,しかも原色の赤や緑や青や白が塗られている。タクシーの運転手さんに行き先を告げると「ああ,あの変な建物のところですね」と応答する。なるほど,行ってみると,ちょっと変わった幼稚園かな,と思わせるような楽しげな建物が待っている。
当然のことながら,部屋の内側は,まともにはできていない。「まとも」ではないとは,近代合理主義的な考え方に慣れきってしまったわたしたちの感覚とはまったくかけ離れた理念が,部屋のすみずみまで徹底してゆきとどいているからだ。この説明はことばでは困難きわまりない。荒川自身も,「ことばで説明したって,おれの言っていることなんか,君たちにわかるわけがない」「だから,こうして作品にしたのだ」「ここに住んで,体験してもらうことでしか,おれの言っていることはわからない」と言っているくらいだ。なるほど,そのとおりだとわたしも思う。千万言を用いたとしても,まるで雲をつかむような話になってしまう。だから,ここでも,部屋の内側のことは省略する。
ただ,ひとことだけ付け加えておくとすれば,わたし自身は,この部屋の中を徘徊しながらさまざまな身体感覚を覚醒させられる体験をした。このことは,眠っていたわたしのからだの中の感覚が目覚めるような,まったく新しい発見であった。そういう経験は,たとえば,荒川修作の代表作といわれる養老天命反転地でも,奈義現代美術館(荒川作品「太陽」)でも,ひしひしと感じた。この感覚こそが荒川のいう「生命の躍動」であり,「生きる」ということの内実なのだ。そのことを,荒川は集約して「転ぶ」と表現した。
人間は「転ぶ」瞬間に,わたしの身体はわたしの身体ではなくなってしまう。さて,この瞬間に人間の身体はどうなるのか。この瞬間にこそ,無意識の身体がとびだしてきて,世界を支配する。日常の意識的身体とはまったく次元の違う,新しい身体の発見である。ここを荒川は「生命」のよりどころとしたのである。人間は「死なない」と,声高らかに荒川が宣言したのは,この「生命」を取り戻して,そこに信をおいて生きること,そういう人間は「死なない」と言ったのである。ここでの「生命」を生きることは,わたしたちが日常的に生きている「生命」とはまるで次元が別だ。つまり,近代的理性の呪縛から解き放たれた「生命」をとりもどすこと,言ってしまえば,始原の人間の身体感覚を取り戻すこと,もっと言ってしまえば,限りなく「ヒト」に接近すること,さらに踏み込んでおけば,「内在性」を生きること,そこには,すでに,「生死」の境界は存在しない。そこまでいけば,人間は「死なない」,というわけだ。
断っておくが,以上の見解は,あくまでもわたしの,きわめて個人的な荒川修作理解にすぎない。おそらく,荒川修作をどのように受け止めるか,というその流儀はいくとおりも存在するだろう。それほどにスケールの大きな問題提起を荒川はしているということだ。だから,荒川は言う。「君たちにおれの言っていることは理解不能だろう」「もし,理解したところで,おれの言っていることのほんの断片にすぎないだろう」と。
この話は,このあたりで一区切りしておこう。
この映画のなかでは,わたしには,この出産シーンがとても印象的だった。この「生まれる」があって初めて荒川のいう「死なない」が意味をもつ,と監督は言いたかったのではないか,と。つまり,人間が生まれる前の「生命」のことを考えることと,「死なない」ということとが対になっている,という発想が監督のどこかにあるのではないか,と。もう少し踏み込んでおけば,仏教の禅問答では,「父母が生まれる前のお前の生命はどこにあるか」という問い(禅の公案の一つ)がある。これには,こんにちの科学も哲学も答えることはできない。しかし,禅では答えがある。立派な答えが。同じように,死後の世界も,きちんと存在する。きちんと修行をした人は,たとえば,仏陀や菩薩のような人たちは輪廻転生の呪縛から解き放たれ,死後に浄土の世界に移り住み,遊戯三昧(ゆげざんまい)の永遠の命を生きる,と考えられている。わたしなどは,根が仏教徒なので,ごくごく自然にこのようなところに思考が流れていく。しかし,山岡監督が,どこまで,このことを意識していたかは不明である。が,とても興味を惹かれたところではある。
少なくとも,荒川修作の「死なない」はこれとはまた別の次元の話である。とはいえ,必ずしも,そんなに遠く離れているとは,わたしには思われない。その謎を解く鍵は,「この地球上では死なないのではなく,死ねないのだ」という荒川のことばにある,とわたしは考えている。つまり,このことをどのように解釈するか,にかかっている。
ここからさきのことは宿題にしておこう。なぜなら,荒川の言うには,科学者も哲学者も芸術家も,これまで,だれも「生命」ということをまじめには考えてこなかった,そんな科学や哲学や芸術は存在する意味がない,さっさと捨て去るべきだ,と。あるいは,そういう思考のパターンから抜け出すことこそが「死なない」ための第一歩だ,と。という具合で,彼独特の生命観がそのさきに広がっているので,そこを解きほぐすにはいささか字数が必要だ。というわけで,宿題に。
ひとまず,今日はここまで。
いずれにしても,この映画は12月に一般公開される。しかも,少し違った形式で。どこで,どのようにしてみることができるか,いまからアンテナを高くしておいてほしい。「身体」に関心をもつ人には「必見」の映画(ドキュメンタリー)である。いささか,難解ではあるが・・・・。
タイトルは「死なない子供,荒川修作」。このタイトルをみただけでピンとくる人も多いと思う。ことしの5月19日に,「死なない」と宣言した人が,残念ながら死んでしまった。もっとも,荒川修作のいう「死なない」という意味と,わたしたちが「死ぬ」と言っていることとは,まるで次元が違うのだが・・・。74歳。まだまだ若い。わたしより2歳年上だが,学年は一つ違い。出身は名古屋市。わたしは豊橋市。同じ愛知県人として,どこか親さを感じていた。戦前・戦中・戦後の動乱の時期を,同じようにして生きてきたから。ただ,それだけのこと。ただし,かれは生まれたときからの天才。こちらは亀さんのような鈍才。
さて,この映画。どのように紹介しておこうか。
ごく月並みに始めようか。
キャッチ・コピーによると,つぎのようである。
「人間は死なない」と断言した男と,”死なない家”に住んだ人々の希望のドキュメンタリー。
出演:荒川修作(コーデノロジスト),佐治晴夫(宇宙物理学者),天命反転住宅の住人たち,ナレーターション:浅野忠信,音楽:渋谷慶一郎,監督:山岡信貴。
天命反転住宅とは,三鷹天命反転住宅のこと。ちなみに,監督もじつは,そこの住人。だから,彼の二人の子どもさんたちも出演する。荒川修作につぐ主演級の貢献をしている。とくに,下の女の子は誕生の瞬間からの出演である。生まれながらにして女優である。へその緒を切るシーンでは,たぶん,監督の声だと思われるが「えーっ,固いものですねぇ,なかなか切れません」「そうなんですよ,命綱ですから,ちょっとやそっとでは切れないように丈夫にできています」とこれは女性の声(女医さんか)。こうして,この子は生まれながらにして三鷹の天命反転住宅で育つ。
この天命反転住宅は,荒川のいう「死なないために」(このタイトルの詩文がある),かれの思想・哲学を総動員して制作した,世にも珍しい「実験的」な家である。家というよりは集合住宅である。3階建て。外見もでこぼこだらけで,あちこちが外に突き出ていて,しかも原色の赤や緑や青や白が塗られている。タクシーの運転手さんに行き先を告げると「ああ,あの変な建物のところですね」と応答する。なるほど,行ってみると,ちょっと変わった幼稚園かな,と思わせるような楽しげな建物が待っている。
当然のことながら,部屋の内側は,まともにはできていない。「まとも」ではないとは,近代合理主義的な考え方に慣れきってしまったわたしたちの感覚とはまったくかけ離れた理念が,部屋のすみずみまで徹底してゆきとどいているからだ。この説明はことばでは困難きわまりない。荒川自身も,「ことばで説明したって,おれの言っていることなんか,君たちにわかるわけがない」「だから,こうして作品にしたのだ」「ここに住んで,体験してもらうことでしか,おれの言っていることはわからない」と言っているくらいだ。なるほど,そのとおりだとわたしも思う。千万言を用いたとしても,まるで雲をつかむような話になってしまう。だから,ここでも,部屋の内側のことは省略する。
ただ,ひとことだけ付け加えておくとすれば,わたし自身は,この部屋の中を徘徊しながらさまざまな身体感覚を覚醒させられる体験をした。このことは,眠っていたわたしのからだの中の感覚が目覚めるような,まったく新しい発見であった。そういう経験は,たとえば,荒川修作の代表作といわれる養老天命反転地でも,奈義現代美術館(荒川作品「太陽」)でも,ひしひしと感じた。この感覚こそが荒川のいう「生命の躍動」であり,「生きる」ということの内実なのだ。そのことを,荒川は集約して「転ぶ」と表現した。
人間は「転ぶ」瞬間に,わたしの身体はわたしの身体ではなくなってしまう。さて,この瞬間に人間の身体はどうなるのか。この瞬間にこそ,無意識の身体がとびだしてきて,世界を支配する。日常の意識的身体とはまったく次元の違う,新しい身体の発見である。ここを荒川は「生命」のよりどころとしたのである。人間は「死なない」と,声高らかに荒川が宣言したのは,この「生命」を取り戻して,そこに信をおいて生きること,そういう人間は「死なない」と言ったのである。ここでの「生命」を生きることは,わたしたちが日常的に生きている「生命」とはまるで次元が別だ。つまり,近代的理性の呪縛から解き放たれた「生命」をとりもどすこと,言ってしまえば,始原の人間の身体感覚を取り戻すこと,もっと言ってしまえば,限りなく「ヒト」に接近すること,さらに踏み込んでおけば,「内在性」を生きること,そこには,すでに,「生死」の境界は存在しない。そこまでいけば,人間は「死なない」,というわけだ。
断っておくが,以上の見解は,あくまでもわたしの,きわめて個人的な荒川修作理解にすぎない。おそらく,荒川修作をどのように受け止めるか,というその流儀はいくとおりも存在するだろう。それほどにスケールの大きな問題提起を荒川はしているということだ。だから,荒川は言う。「君たちにおれの言っていることは理解不能だろう」「もし,理解したところで,おれの言っていることのほんの断片にすぎないだろう」と。
この話は,このあたりで一区切りしておこう。
この映画のなかでは,わたしには,この出産シーンがとても印象的だった。この「生まれる」があって初めて荒川のいう「死なない」が意味をもつ,と監督は言いたかったのではないか,と。つまり,人間が生まれる前の「生命」のことを考えることと,「死なない」ということとが対になっている,という発想が監督のどこかにあるのではないか,と。もう少し踏み込んでおけば,仏教の禅問答では,「父母が生まれる前のお前の生命はどこにあるか」という問い(禅の公案の一つ)がある。これには,こんにちの科学も哲学も答えることはできない。しかし,禅では答えがある。立派な答えが。同じように,死後の世界も,きちんと存在する。きちんと修行をした人は,たとえば,仏陀や菩薩のような人たちは輪廻転生の呪縛から解き放たれ,死後に浄土の世界に移り住み,遊戯三昧(ゆげざんまい)の永遠の命を生きる,と考えられている。わたしなどは,根が仏教徒なので,ごくごく自然にこのようなところに思考が流れていく。しかし,山岡監督が,どこまで,このことを意識していたかは不明である。が,とても興味を惹かれたところではある。
少なくとも,荒川修作の「死なない」はこれとはまた別の次元の話である。とはいえ,必ずしも,そんなに遠く離れているとは,わたしには思われない。その謎を解く鍵は,「この地球上では死なないのではなく,死ねないのだ」という荒川のことばにある,とわたしは考えている。つまり,このことをどのように解釈するか,にかかっている。
ここからさきのことは宿題にしておこう。なぜなら,荒川の言うには,科学者も哲学者も芸術家も,これまで,だれも「生命」ということをまじめには考えてこなかった,そんな科学や哲学や芸術は存在する意味がない,さっさと捨て去るべきだ,と。あるいは,そういう思考のパターンから抜け出すことこそが「死なない」ための第一歩だ,と。という具合で,彼独特の生命観がそのさきに広がっているので,そこを解きほぐすにはいささか字数が必要だ。というわけで,宿題に。
ひとまず,今日はここまで。
いずれにしても,この映画は12月に一般公開される。しかも,少し違った形式で。どこで,どのようにしてみることができるか,いまからアンテナを高くしておいてほしい。「身体」に関心をもつ人には「必見」の映画(ドキュメンタリー)である。いささか,難解ではあるが・・・・。
2010年11月4日木曜日
innewerden ということについて。その4.ヴィジョナリー・スポーツの根拠の一つとして。
innewerden ということについて,3回ほどこのブログで書いた。しかし,その反応が芳しくない。なぜだろうか,とずーっと考えつづけている。が,わからない。
マルチン・ブーバーは「対話」のもっとも根源的なところで起きている現象として,ことばを発することなくお互いのこころのうちで通い合う「交感」「交信」のことを,innewerden というドイツ語に籠めた。わたしはマルチン・ブーバーのテクスト『我と汝/対話』(植田重雄訳,岩波文庫)を熟読しながら,このinnewerden こそ,わたしが考えている「ヴィジョナリー・スポーツ」の一つの重要な根拠となりうる概念ではないか,と考えはじめている。だから,innewerden というドイツ語は,わたしにとっては「21世紀スポーツ文化」を模索する上でのきわめて重要な概念の一つとして,新たに立ち現れたもので,そんなに簡単に看過するわけにはいかないのである。そんな意味もこめて,このブログを読んでくださっている人たちに向けて,innewerden の重要性を説いてきたつもりなのだ。しかし,その反応がいま一つ。それはどうしたわけなのだろう,と頭を抱え込んでいる。やはり,説明の仕方が稚拙であるとしかいいようがない。
ということで,4回目の挑戦である。くどいようだが,ご理解ください。
わたしたちは,意識しているかしていないかはともかくとして,わたしたちを取り囲む環境世界(ユクスキュルのいう Umwelt )と,なんらかのかたちで「対話」(マルチン・ブーバーの意味)を交わしている。別の言い方をすれば,それは環境への適応でもある。それは,同時に,生きるという生命活動の基本でもある。だから,わたしたちが生きるということ,あるいは,生物が生きるということは,すなわち,そこでなんらかの「対話」がなされているということだ。
しかし,わたしたちは,生物学でいう環境世界のみならず,物理学でいうところのさらに大きな宇宙とも対話の範囲を広げていく。この世界は,こんにちの科学の力によって,わたしたちの想像を絶するほどの気宇壮大なところにまで伸びている。
そればかりではない。わたしたちは,精神世界や霊的世界とも,ずいぶん古い時代から対話をするようになる。わたしの仮説では,ヒトが人間になる,その瞬間からすでに説明のできない存在不安に襲われたはずであるし,その不安を埋め合わすための数限りない創意工夫がなされたはずである。それらの残像の一部が,供犠であったり,それにともなう祝祭であったり,さらにはマルセル・モースがいうところの「贈与」であろう。ポトラッチという消尽に近い贈与もまた,その一環として考えてよいのだろう。
しかし,「死」という問題にどのように向き合うのか,そして,どのようなスタンスをとるのか,ということに関してはこんにちもなお決定的な方法を見出すこともできないまま,暗中模索がつづいている。だからこそ,その説明の仕方や説得の仕方をめぐって,諸説乱立がつづく。精神世界や霊的世界の鬱陶しさと同時に無視することのできない闇の世界の存在に,わたしたちは無縁ではいられない。そして,とりあえずは,自分に納得のいく方法で,それなりのやり過ごし方を身につけるしかないのだ。
その是非は,いまは,問わない。一人ひとりのこころのうちには,説明不能な,もっとさまざまなものとの対話も行われている。つまり,自分が安心立命して生きていく上で必要な了解(あるいは,納得)をえるために。そうしたすべての交信・交感を,マルチン・ブーバーは innewerden ということばで表現したように,わたしには読める。もちろん,その背景には,マルチン・ブーバー固有の宗教体験もふくまれている。そして,そのことについても,マルチン・ブーバーは随所で正直に告白もしている。
ちょっと,一休み。つづく。
マルチン・ブーバーは「対話」のもっとも根源的なところで起きている現象として,ことばを発することなくお互いのこころのうちで通い合う「交感」「交信」のことを,innewerden というドイツ語に籠めた。わたしはマルチン・ブーバーのテクスト『我と汝/対話』(植田重雄訳,岩波文庫)を熟読しながら,このinnewerden こそ,わたしが考えている「ヴィジョナリー・スポーツ」の一つの重要な根拠となりうる概念ではないか,と考えはじめている。だから,innewerden というドイツ語は,わたしにとっては「21世紀スポーツ文化」を模索する上でのきわめて重要な概念の一つとして,新たに立ち現れたもので,そんなに簡単に看過するわけにはいかないのである。そんな意味もこめて,このブログを読んでくださっている人たちに向けて,innewerden の重要性を説いてきたつもりなのだ。しかし,その反応がいま一つ。それはどうしたわけなのだろう,と頭を抱え込んでいる。やはり,説明の仕方が稚拙であるとしかいいようがない。
ということで,4回目の挑戦である。くどいようだが,ご理解ください。
わたしたちは,意識しているかしていないかはともかくとして,わたしたちを取り囲む環境世界(ユクスキュルのいう Umwelt )と,なんらかのかたちで「対話」(マルチン・ブーバーの意味)を交わしている。別の言い方をすれば,それは環境への適応でもある。それは,同時に,生きるという生命活動の基本でもある。だから,わたしたちが生きるということ,あるいは,生物が生きるということは,すなわち,そこでなんらかの「対話」がなされているということだ。
しかし,わたしたちは,生物学でいう環境世界のみならず,物理学でいうところのさらに大きな宇宙とも対話の範囲を広げていく。この世界は,こんにちの科学の力によって,わたしたちの想像を絶するほどの気宇壮大なところにまで伸びている。
そればかりではない。わたしたちは,精神世界や霊的世界とも,ずいぶん古い時代から対話をするようになる。わたしの仮説では,ヒトが人間になる,その瞬間からすでに説明のできない存在不安に襲われたはずであるし,その不安を埋め合わすための数限りない創意工夫がなされたはずである。それらの残像の一部が,供犠であったり,それにともなう祝祭であったり,さらにはマルセル・モースがいうところの「贈与」であろう。ポトラッチという消尽に近い贈与もまた,その一環として考えてよいのだろう。
しかし,「死」という問題にどのように向き合うのか,そして,どのようなスタンスをとるのか,ということに関してはこんにちもなお決定的な方法を見出すこともできないまま,暗中模索がつづいている。だからこそ,その説明の仕方や説得の仕方をめぐって,諸説乱立がつづく。精神世界や霊的世界の鬱陶しさと同時に無視することのできない闇の世界の存在に,わたしたちは無縁ではいられない。そして,とりあえずは,自分に納得のいく方法で,それなりのやり過ごし方を身につけるしかないのだ。
その是非は,いまは,問わない。一人ひとりのこころのうちには,説明不能な,もっとさまざまなものとの対話も行われている。つまり,自分が安心立命して生きていく上で必要な了解(あるいは,納得)をえるために。そうしたすべての交信・交感を,マルチン・ブーバーは innewerden ということばで表現したように,わたしには読める。もちろん,その背景には,マルチン・ブーバー固有の宗教体験もふくまれている。そして,そのことについても,マルチン・ブーバーは随所で正直に告白もしている。
ちょっと,一休み。つづく。
異様な雰囲気になってきた「APEC厳戒態勢」
いつのころからだろうか,かれこれ2週間ほど前からだろうか,わたしの利用する田園都市線の駅に征服の警官が警棒をもって箱の上に立つようになったのは・・・。
わたしが常時,利用する駅は溝ノ口と鷺沼である。この両駅には,複数の警察官がうろうろしているので,なにかあったのかな,このごろ眼につくなぁ,と思っていた。しかし,隣の宮前平駅には,改札口を入った正面に征服の警察官がひとりで立っている。しかも,小さな箱の上に長い警棒をもって直立不動の姿勢で。最初に気づいたときは驚いた。ちょうど,乗客が降りてきたところで混雑していて,そういう警察官が立っていることに気づかなかった。で,混雑している人をかき分けるようにして,その警察官の立っていることに気づかないままその前をとおり過ぎようとしたその瞬間,なにかが動いた。わたしは,びっくりして飛び退いた。征服の女性の警察官が直立不動の姿勢で立っていたことにわたしは気づかなかったのだ。よくみると,顔の前に虫かなにかが飛んできたらしく,そのあとも振り払っている。その最初の一振りに,わたしは出会ってしまったというわけだ。まだ,うら若き女性警察官である。たぶん,24,5歳というところ。もっと若いかもしれない。可愛い顔をした女性だった。が,わたしが「飛び退いた」のをみて,なにごとか,という顔でじっとこちらをみている。わたしも,じっとみつめてしまった。かなりの至近距離である。仕方がないので,「人形さんかと思った」とひとりごとのようにつぶやいて(もちろん,聞こえるように),階段を昇った。
以後,その駅で乗り降りをすることにした。いつも,交代で征服警察官が,やはり,直立不動の姿勢で立っている。なにゆえに立っているのかわからないわたしにとっては異様な光景である。こんなことをしなくてはならないほど,最近の駅にはトラブルが多いのだろうか,と考えたりしながら観察している。そういえば,郵便局の前にも警備の人が立っていたり,この間は渋谷駅の近くの銀行の前には警備の人が二人並んで立っていた。やはり,世の中,ぶっそうな時代になったんだなぁ,と自分を納得させるようにしていた。それにしても,過剰警備ではないのか・・・とこころの中ではいぶかっている。
そうしたら,昨日の新聞に「APEC横浜厳戒」「警備4.3万人,住民に身分証,宿泊制限」という見出しのついた大きな記事が載っている。「APEC会場周辺の交通規制区域」の地図も,その区域全体を写した航空写真も,そして,「初登場の無人警戒艇」の写真も掲載されている。ああ,これだったのか,と一度に納得。APECが今月の7~14日まで横浜の「みなとみらい」地区で開催されるということは知っていた。しかし,考えてみると一カ月も前から警戒態勢に入っている。これはなにごとか,と考える。やはり,変だ。こんなに過剰とも思える警備をしなければ「APEC」を開催することはできないのだ。APECと聞いただけではなんの会議かもよくわからない。しかし,「アジア太平洋経済協力会議」とフルネームで「眼」で確かめてみると,その実態が具体的にリアルにみえてくる。それはそうだろう。この会議を開かれては困る人たちが世界中にたくさん居る。この人たちのなかには相当の過激派も居る。自爆してでも阻止してやろうという人たちも居る。そういう人たちがたくさん居るのに,なぜ,この会議を開催しなくてはならないのか。
こんなに過剰な警備態勢をとってまでこの会議を開催しなくてはならない理由はなにか。それを新聞はきちんと報道してほしい。わたしたちも,それなりに,その理由を確認する必要がある。いま,なぜ,日本の横浜で開催しなくてはならないのか。
だれかが得をして,だれかが損をする。
だから,強行実施派と強行反対派とに分かれる。
なぜ,そうなってしまうのか,この際,じっくりと考えてみることにしよう。しっかりと考えるか,なにも考えないか,そして,どのような生き方を選択していくのか,そういう人の数のバランスによって「現代史」が形作られていくことになる。昨日の色川大吉さんの「自分史」ではないが,どんな姿勢をとろうとも,その総和が歴史をつくることに変わりはない。
わたしが常時,利用する駅は溝ノ口と鷺沼である。この両駅には,複数の警察官がうろうろしているので,なにかあったのかな,このごろ眼につくなぁ,と思っていた。しかし,隣の宮前平駅には,改札口を入った正面に征服の警察官がひとりで立っている。しかも,小さな箱の上に長い警棒をもって直立不動の姿勢で。最初に気づいたときは驚いた。ちょうど,乗客が降りてきたところで混雑していて,そういう警察官が立っていることに気づかなかった。で,混雑している人をかき分けるようにして,その警察官の立っていることに気づかないままその前をとおり過ぎようとしたその瞬間,なにかが動いた。わたしは,びっくりして飛び退いた。征服の女性の警察官が直立不動の姿勢で立っていたことにわたしは気づかなかったのだ。よくみると,顔の前に虫かなにかが飛んできたらしく,そのあとも振り払っている。その最初の一振りに,わたしは出会ってしまったというわけだ。まだ,うら若き女性警察官である。たぶん,24,5歳というところ。もっと若いかもしれない。可愛い顔をした女性だった。が,わたしが「飛び退いた」のをみて,なにごとか,という顔でじっとこちらをみている。わたしも,じっとみつめてしまった。かなりの至近距離である。仕方がないので,「人形さんかと思った」とひとりごとのようにつぶやいて(もちろん,聞こえるように),階段を昇った。
以後,その駅で乗り降りをすることにした。いつも,交代で征服警察官が,やはり,直立不動の姿勢で立っている。なにゆえに立っているのかわからないわたしにとっては異様な光景である。こんなことをしなくてはならないほど,最近の駅にはトラブルが多いのだろうか,と考えたりしながら観察している。そういえば,郵便局の前にも警備の人が立っていたり,この間は渋谷駅の近くの銀行の前には警備の人が二人並んで立っていた。やはり,世の中,ぶっそうな時代になったんだなぁ,と自分を納得させるようにしていた。それにしても,過剰警備ではないのか・・・とこころの中ではいぶかっている。
そうしたら,昨日の新聞に「APEC横浜厳戒」「警備4.3万人,住民に身分証,宿泊制限」という見出しのついた大きな記事が載っている。「APEC会場周辺の交通規制区域」の地図も,その区域全体を写した航空写真も,そして,「初登場の無人警戒艇」の写真も掲載されている。ああ,これだったのか,と一度に納得。APECが今月の7~14日まで横浜の「みなとみらい」地区で開催されるということは知っていた。しかし,考えてみると一カ月も前から警戒態勢に入っている。これはなにごとか,と考える。やはり,変だ。こんなに過剰とも思える警備をしなければ「APEC」を開催することはできないのだ。APECと聞いただけではなんの会議かもよくわからない。しかし,「アジア太平洋経済協力会議」とフルネームで「眼」で確かめてみると,その実態が具体的にリアルにみえてくる。それはそうだろう。この会議を開かれては困る人たちが世界中にたくさん居る。この人たちのなかには相当の過激派も居る。自爆してでも阻止してやろうという人たちも居る。そういう人たちがたくさん居るのに,なぜ,この会議を開催しなくてはならないのか。
こんなに過剰な警備態勢をとってまでこの会議を開催しなくてはならない理由はなにか。それを新聞はきちんと報道してほしい。わたしたちも,それなりに,その理由を確認する必要がある。いま,なぜ,日本の横浜で開催しなくてはならないのか。
だれかが得をして,だれかが損をする。
だから,強行実施派と強行反対派とに分かれる。
なぜ,そうなってしまうのか,この際,じっくりと考えてみることにしよう。しっかりと考えるか,なにも考えないか,そして,どのような生き方を選択していくのか,そういう人の数のバランスによって「現代史」が形作られていくことになる。昨日の色川大吉さんの「自分史」ではないが,どんな姿勢をとろうとも,その総和が歴史をつくることに変わりはない。
2010年11月3日水曜日
色川大吉さんの考える「自分史」はインスクリプション。
昨日の朝日の夕刊に,色川大吉さんの「自分史」が取り上げられている。そして,「自分史」とはなにか,ということについて色川さんがみごとな見解を提示している。それは,まさに,インスクリプションそのものだ。
『昭和へのレクイエム──自分史最終篇』(岩波書店)が完成し,「自分史」を提唱して35年の年月をかけて「昭和自分史」5部作を完結。この機会をとらえて,池田洋一郎記者がインタビューし,色川大吉さん(85歳)が答えている。
まず,その冒頭で,色川さんはつぎのように語っている。
「自分史は,一般の歴史書を書くよりはるかに疲れます。単なる回想記でも自分勝手なものでもだめ。自分自身を客体化し,同時代の動きや環境とセットにして書かなきゃいけない。詳細な日記を提示して事実だったと実証せねば。しかも,自分を取り巻いていた状況が,自己の内面に深く食い込んだ部分を核としないと本当の自分史にならない。歴史を自分の外にあるものとせず,心の内側に突き刺さり,そこでスパークしたものを書く。非常に緊張を強いられる。今後はこんな仕事はできません。」
ここを読んで,ただちに想起したことは,今福さんの提唱される「インスクリプション」である(詳しくは『近代スポーツのミッションは終わったか』平凡社刊,を参照のこと)。つまり,ディスクリプションではなく(「歴史を自分の外にあるものとせず」),インスクリプションでなくてはいけない(「心の内側に突き刺さり,そこでスパークしたものを書く」),ということだ。このことの意味を十分に理解しないまま,今福さんの主張を否定するのみならず,今福さんの主張に与する会員の研究発表を,寄ってたかって批難(批判でも,批評でもなく)するという事態が起きていると聞いている。だから,どうしても,色川さんのこのご意見には敏感に反応してしまう。そして,大きく勇気づけられる。
しかも,色川さんは,「そもそも『自分史』を提唱した理由は何ですか」という問いに対して,さらに,つぎのように語る。
「時代の構造や指導者像ばかりを追い,科学的で客観的な歴史学一点張りの硬直した学界に対する反発がありました。歴史をつくったのは少数のエリートではない。無名の多くの民衆の力でつくられてきた。民衆とは,それぞれ自分の人生を担っている人々の集合体。一人ひとりの人間にウエートを置いた歴史を書かねばならない。個性を重視し,歴史を物語る主体はその本人だということを明確にしようと,『自分史』を打ち出した。」
色川さんのご指摘の「硬直した学界」は,いまも健在で,しかも反動的ですらある。もう,どうしようもない,というのがわたしの感想である。だから,なにがなんでも,その体質の土手っ腹に風穴を開けないことには我慢ならない。そのためには,ひとりでも闘えるだけの確固たる理論武装をしなければならない。そのための仮説として,まずは『スポーツ史研究』(スポーツ史学会機関誌)に総説論文として,わたしの考えを提起した。しかし,残念なことになんの反応もない。学会誌なのだから,もっと自由に議論が起こっていいと思うのだが・・・。
その意味で,色川さんのお仕事は素晴らしいのひとことである。やはり,理論仮説などという甘いことを言っていてもだめで,その仮説にもとづいた具体的な記述をするしかないのだろう。ディスクリプションではなくてインスクリプションだ,などという空中戦をいくらやっても意味がない。色川さんは「自分史」を提唱してから35年かけて,みずからの「昭和自分史」5部作を完結させた。これしか方法はないのだろう。
さきの発言につづけて,色川さんは,さらに,つぎのように追い打ちをかける。
「もともと民衆一人ひとりは何を考えているのかというのが,私が昭和史を考える最大の問題点でした。私の10代は大戦争の真っ最中。私も含め国民の大部分が戦争万歳でした。決して一部の指導者が引きずったんじゃない。民衆が戦争を担い,焦土を招いた。なぜなのか。なぜあなたは,私は,あの無謀な戦争を疑わず支持したのか。一人ひとりの自分がそのとき何を考え,何をしたのかを問う学問が必要だと思いました。そこから歴史に対する反省と個人の責任が出てくる。それが自分史の出発点でもあります。」
このことばの重さを,わが身をふり返りつつ,しみじみと受け止めざるをえない。ヨーロッパ近代の構築した歴史学というアカデミズムの硬直化した体質を,どこかで突き破り,みずからの主張を展開することは容易ではない。しかし,それをやらないことには,悪しき慣習行動から抜け出すことはできない。そのためには,燃えたぎるようなLeidenschaft(情熱,激情)が不可欠である。85歳になった色川さんが「今後はこんな仕事はできません」というのも宣なるべしというべきか。わたしも残り時間は多くはない。いまこそ・・・・と気持ちばかりが焦る。
インスクリプション。inscriveする。「からだの中に書く」と今福さんはおっしゃる。「心の内側に突き刺さり,そこでスパークしたものを書く」と色川さんはおっしゃる。言っていることの内実は同じだ。さて,そこまで,みずからを追い込んだ「スポーツ史」なり,「スポーツ文化論」なりを記述することが,わたしには可能なのだろうか,と問い直す。ここから,まずは,はじめるしか方法はない。勇気をもって「第一歩」を踏み出すしかないのだ。
「百尺竿頭出一歩」。
『昭和へのレクイエム──自分史最終篇』(岩波書店)が完成し,「自分史」を提唱して35年の年月をかけて「昭和自分史」5部作を完結。この機会をとらえて,池田洋一郎記者がインタビューし,色川大吉さん(85歳)が答えている。
まず,その冒頭で,色川さんはつぎのように語っている。
「自分史は,一般の歴史書を書くよりはるかに疲れます。単なる回想記でも自分勝手なものでもだめ。自分自身を客体化し,同時代の動きや環境とセットにして書かなきゃいけない。詳細な日記を提示して事実だったと実証せねば。しかも,自分を取り巻いていた状況が,自己の内面に深く食い込んだ部分を核としないと本当の自分史にならない。歴史を自分の外にあるものとせず,心の内側に突き刺さり,そこでスパークしたものを書く。非常に緊張を強いられる。今後はこんな仕事はできません。」
ここを読んで,ただちに想起したことは,今福さんの提唱される「インスクリプション」である(詳しくは『近代スポーツのミッションは終わったか』平凡社刊,を参照のこと)。つまり,ディスクリプションではなく(「歴史を自分の外にあるものとせず」),インスクリプションでなくてはいけない(「心の内側に突き刺さり,そこでスパークしたものを書く」),ということだ。このことの意味を十分に理解しないまま,今福さんの主張を否定するのみならず,今福さんの主張に与する会員の研究発表を,寄ってたかって批難(批判でも,批評でもなく)するという事態が起きていると聞いている。だから,どうしても,色川さんのこのご意見には敏感に反応してしまう。そして,大きく勇気づけられる。
しかも,色川さんは,「そもそも『自分史』を提唱した理由は何ですか」という問いに対して,さらに,つぎのように語る。
「時代の構造や指導者像ばかりを追い,科学的で客観的な歴史学一点張りの硬直した学界に対する反発がありました。歴史をつくったのは少数のエリートではない。無名の多くの民衆の力でつくられてきた。民衆とは,それぞれ自分の人生を担っている人々の集合体。一人ひとりの人間にウエートを置いた歴史を書かねばならない。個性を重視し,歴史を物語る主体はその本人だということを明確にしようと,『自分史』を打ち出した。」
色川さんのご指摘の「硬直した学界」は,いまも健在で,しかも反動的ですらある。もう,どうしようもない,というのがわたしの感想である。だから,なにがなんでも,その体質の土手っ腹に風穴を開けないことには我慢ならない。そのためには,ひとりでも闘えるだけの確固たる理論武装をしなければならない。そのための仮説として,まずは『スポーツ史研究』(スポーツ史学会機関誌)に総説論文として,わたしの考えを提起した。しかし,残念なことになんの反応もない。学会誌なのだから,もっと自由に議論が起こっていいと思うのだが・・・。
その意味で,色川さんのお仕事は素晴らしいのひとことである。やはり,理論仮説などという甘いことを言っていてもだめで,その仮説にもとづいた具体的な記述をするしかないのだろう。ディスクリプションではなくてインスクリプションだ,などという空中戦をいくらやっても意味がない。色川さんは「自分史」を提唱してから35年かけて,みずからの「昭和自分史」5部作を完結させた。これしか方法はないのだろう。
さきの発言につづけて,色川さんは,さらに,つぎのように追い打ちをかける。
「もともと民衆一人ひとりは何を考えているのかというのが,私が昭和史を考える最大の問題点でした。私の10代は大戦争の真っ最中。私も含め国民の大部分が戦争万歳でした。決して一部の指導者が引きずったんじゃない。民衆が戦争を担い,焦土を招いた。なぜなのか。なぜあなたは,私は,あの無謀な戦争を疑わず支持したのか。一人ひとりの自分がそのとき何を考え,何をしたのかを問う学問が必要だと思いました。そこから歴史に対する反省と個人の責任が出てくる。それが自分史の出発点でもあります。」
このことばの重さを,わが身をふり返りつつ,しみじみと受け止めざるをえない。ヨーロッパ近代の構築した歴史学というアカデミズムの硬直化した体質を,どこかで突き破り,みずからの主張を展開することは容易ではない。しかし,それをやらないことには,悪しき慣習行動から抜け出すことはできない。そのためには,燃えたぎるようなLeidenschaft(情熱,激情)が不可欠である。85歳になった色川さんが「今後はこんな仕事はできません」というのも宣なるべしというべきか。わたしも残り時間は多くはない。いまこそ・・・・と気持ちばかりが焦る。
インスクリプション。inscriveする。「からだの中に書く」と今福さんはおっしゃる。「心の内側に突き刺さり,そこでスパークしたものを書く」と色川さんはおっしゃる。言っていることの内実は同じだ。さて,そこまで,みずからを追い込んだ「スポーツ史」なり,「スポーツ文化論」なりを記述することが,わたしには可能なのだろうか,と問い直す。ここから,まずは,はじめるしか方法はない。勇気をもって「第一歩」を踏み出すしかないのだ。
「百尺竿頭出一歩」。
2010年11月1日月曜日
骨を磨り潰して関係者で食べてしまう「転座供養」について。
玄侑宗久さんの短編に『宴』という作品があって,死者の骨を身内の者が集まって坊主と一緒に食べてしまう「転座供養」の話が描かれている。
ストーリーはいたって簡単。52歳になる未亡人が,夫の骨を本家の墓に入れてくれないし,住んでいた家も本家にとられるという話の進みゆきのなかで,それならいっそのこと夫の骨を身内の者で食べてしまおう,という話。未亡人は,桜の花の満開の日を選んで,長男夫婦と次男を呼び集めて,それを実行する。その相談に乗った坊さんも加わって合計5人で,死者の骨を磨り潰してビーフ・シチューにして食べてしまう。長男は学校の先生,次男は東京の大学でウィルスの研究をしている研究者。世間一般からみれば,いわゆるまともな家族である。しかし,どこか変。この相談に乗って,「転座供養」だと宣言する坊主も,一見したところまともにみえるが,やはりちょっと変。でも,このことが粛々と執り行われていく。
もちろん,もっともっと複雑な背景がそれぞれの登場人物にはある。坊さん個人にしても,父が医者,兄たちもみんな医者,自分も医者になるべく勉強したが,受験に失敗して家出をして出家する。以後,14年間,家族とは会ったことがない。しかも,子供のころから父親と親しげに会話をした記憶がまったくない。小学生のときに,道路で父親に出会って「こんにちは」と挨拶をしたら,家に帰ってからひどく叱られた記憶がある,という。この家族も,医者一家とはいえ,どこか壊れている。
お互いの血のかよった暖かい人と人との関係がどこにも見当たらない,それでいて,世間体でいえば知的エリートに属する人たちの,凍てつくような冷え冷えとした人間関係が浮かび上がってくる。
玄侑宗久さんは,なにゆえにこのような短編を書いたのだろうか。ご本人も禅僧としての修行も積み,坊主と作家の二足のわらじを履きながら,活発な活動をつづけていらっしゃる。この人はなにを考えているのだろうなぁ,とある種の親しみの感情とともに,以前から気になっている。だから,ほとんどの作品は読んでしまう。そして,そのつど,なるほどなぁ,と思うことが多い。しかし,この作品は困った。はたと,考えこんでしまった。
死者の骨を磨り潰して食べてしまう,これを「転座供養」と称して,合理化してしまう沢道和尚。「転座」とは仏教用語かと思って辞書を調べてみたら,そうではなく遺伝子用語。「染色体の一部が,切断・再結合・交換などにより位置を変える現象。染色体内転座と,染色体間転座がある。染色体内転座をとくに転位という」とある。だから,「転座供養」とは,玄侑宗久さんの造語である。骨を磨り潰して食べてしまうことを,あえて「転座」と考え,それを供養と結びつける。そして,沢道和尚はさいごにつぎのように宣言する。
「来年も満開の桜を見たら,お父さんを憶いだすでしょ」「どこかでビーフ・シチュー食べたときも,きっと憶いだすでしょ」「ですからどこで何をしていても,桜が咲いているのを見たらそれがお墓参り。ビーフ・シチューを食べたらそれがお墓参り」,という具合である。
なぜ,こんな話を持ち出したのかというと,それには理由がある。
比嘉豊光さんが「骨の戦世」で展示した骨は,旧日本兵のものである。この骨を写真という作品にして展示することに,どうしても釈然としないものがある,と豊光さんに近い関係者から話を聞いたこと(9月の西谷さんの集中講義のとき)。そして,豊光さんが「この骨はヤマトのものだから,ヤマトンチューが処理しろ」と言い放ったということ(この話はNさんからも聞いているし,最近では,合田正人さんも『読書人』の書評のなかで書いている)。この骨が発掘されて洗骨している途中で,脳髄のミイラ化されたものがでてくる,それを豊光さんはビデオ・カメラで撮影しているのだが,その瞬間から画像が乱れに乱れていく,撮影している豊光さんがこの骨の主と,まるで innewerden しているかのように(この画像を,つい二日前(30日)にみてきたばかり)。このあたりの話も30日のシンポジウムで聞けるかな,という期待があったが,残念(台風のため中止)。
やはり人骨というものは「ただもの」ではない。わたしのように寺で育って,ふつうの人よりは多少とも人骨に対する免疫があるにもかかわらず,豊光さんの写真展をみて,身動きがとれなくなった作品が何点かあった。これを記録写真としてみたとき,これほどの迫力をもつ写真もまた希少であろう。しかし,これをアートとして作品とすることの是非については,ひとまず措くとして,広く展示されることの意味は大きいと思う。そして,この写真集が岩波ブックレットとして刊行されたという。これから,さまざまな議論が沸き起こることだろうと思う。
豊光さんは「ヤマトンチューの手で処分しろ」というが,さて,それが是か非か,沖縄の人たちの間でも意見は別れるという。では,ヤマトンチューたるわたしたちとて,どうするのがベターなのか,判断に苦しむところだ。
こんなことを考えていたので,ふと,玄侑宗久さんの短編『宴』を思い出してしまった,という次第である。死者を弔うこと,これは生き残った者のつとめである。その象徴ともいうべき骨を,どうすべきか,意見の分かれるところだろう。夫であり,父である人の骨を磨り潰してビーフシチューにして食べてしまう「転座供養」という,異様な光景も,そしてまた,それを主宰して共に食べてしまう坊主の立ち位置もまた,そこはかとない「人間性」の深淵を覗き込むような,わたしたちの「存在」の危うさの表出に立ち会う,恐ろしさをおぼえずにはいられない。
玄侑宗久さんの提起したものは,「人間性」という隠れ蓑に対する徹底した懐疑であったのか。「人間性」とはなにか,バタイユの提起した「動物性」の問題ともからめて,もう一度,原点から考え直すことが,いま,求められているように思う。深く,重い課題である。
ストーリーはいたって簡単。52歳になる未亡人が,夫の骨を本家の墓に入れてくれないし,住んでいた家も本家にとられるという話の進みゆきのなかで,それならいっそのこと夫の骨を身内の者で食べてしまおう,という話。未亡人は,桜の花の満開の日を選んで,長男夫婦と次男を呼び集めて,それを実行する。その相談に乗った坊さんも加わって合計5人で,死者の骨を磨り潰してビーフ・シチューにして食べてしまう。長男は学校の先生,次男は東京の大学でウィルスの研究をしている研究者。世間一般からみれば,いわゆるまともな家族である。しかし,どこか変。この相談に乗って,「転座供養」だと宣言する坊主も,一見したところまともにみえるが,やはりちょっと変。でも,このことが粛々と執り行われていく。
もちろん,もっともっと複雑な背景がそれぞれの登場人物にはある。坊さん個人にしても,父が医者,兄たちもみんな医者,自分も医者になるべく勉強したが,受験に失敗して家出をして出家する。以後,14年間,家族とは会ったことがない。しかも,子供のころから父親と親しげに会話をした記憶がまったくない。小学生のときに,道路で父親に出会って「こんにちは」と挨拶をしたら,家に帰ってからひどく叱られた記憶がある,という。この家族も,医者一家とはいえ,どこか壊れている。
お互いの血のかよった暖かい人と人との関係がどこにも見当たらない,それでいて,世間体でいえば知的エリートに属する人たちの,凍てつくような冷え冷えとした人間関係が浮かび上がってくる。
玄侑宗久さんは,なにゆえにこのような短編を書いたのだろうか。ご本人も禅僧としての修行も積み,坊主と作家の二足のわらじを履きながら,活発な活動をつづけていらっしゃる。この人はなにを考えているのだろうなぁ,とある種の親しみの感情とともに,以前から気になっている。だから,ほとんどの作品は読んでしまう。そして,そのつど,なるほどなぁ,と思うことが多い。しかし,この作品は困った。はたと,考えこんでしまった。
死者の骨を磨り潰して食べてしまう,これを「転座供養」と称して,合理化してしまう沢道和尚。「転座」とは仏教用語かと思って辞書を調べてみたら,そうではなく遺伝子用語。「染色体の一部が,切断・再結合・交換などにより位置を変える現象。染色体内転座と,染色体間転座がある。染色体内転座をとくに転位という」とある。だから,「転座供養」とは,玄侑宗久さんの造語である。骨を磨り潰して食べてしまうことを,あえて「転座」と考え,それを供養と結びつける。そして,沢道和尚はさいごにつぎのように宣言する。
「来年も満開の桜を見たら,お父さんを憶いだすでしょ」「どこかでビーフ・シチュー食べたときも,きっと憶いだすでしょ」「ですからどこで何をしていても,桜が咲いているのを見たらそれがお墓参り。ビーフ・シチューを食べたらそれがお墓参り」,という具合である。
なぜ,こんな話を持ち出したのかというと,それには理由がある。
比嘉豊光さんが「骨の戦世」で展示した骨は,旧日本兵のものである。この骨を写真という作品にして展示することに,どうしても釈然としないものがある,と豊光さんに近い関係者から話を聞いたこと(9月の西谷さんの集中講義のとき)。そして,豊光さんが「この骨はヤマトのものだから,ヤマトンチューが処理しろ」と言い放ったということ(この話はNさんからも聞いているし,最近では,合田正人さんも『読書人』の書評のなかで書いている)。この骨が発掘されて洗骨している途中で,脳髄のミイラ化されたものがでてくる,それを豊光さんはビデオ・カメラで撮影しているのだが,その瞬間から画像が乱れに乱れていく,撮影している豊光さんがこの骨の主と,まるで innewerden しているかのように(この画像を,つい二日前(30日)にみてきたばかり)。このあたりの話も30日のシンポジウムで聞けるかな,という期待があったが,残念(台風のため中止)。
やはり人骨というものは「ただもの」ではない。わたしのように寺で育って,ふつうの人よりは多少とも人骨に対する免疫があるにもかかわらず,豊光さんの写真展をみて,身動きがとれなくなった作品が何点かあった。これを記録写真としてみたとき,これほどの迫力をもつ写真もまた希少であろう。しかし,これをアートとして作品とすることの是非については,ひとまず措くとして,広く展示されることの意味は大きいと思う。そして,この写真集が岩波ブックレットとして刊行されたという。これから,さまざまな議論が沸き起こることだろうと思う。
豊光さんは「ヤマトンチューの手で処分しろ」というが,さて,それが是か非か,沖縄の人たちの間でも意見は別れるという。では,ヤマトンチューたるわたしたちとて,どうするのがベターなのか,判断に苦しむところだ。
こんなことを考えていたので,ふと,玄侑宗久さんの短編『宴』を思い出してしまった,という次第である。死者を弔うこと,これは生き残った者のつとめである。その象徴ともいうべき骨を,どうすべきか,意見の分かれるところだろう。夫であり,父である人の骨を磨り潰してビーフシチューにして食べてしまう「転座供養」という,異様な光景も,そしてまた,それを主宰して共に食べてしまう坊主の立ち位置もまた,そこはかとない「人間性」の深淵を覗き込むような,わたしたちの「存在」の危うさの表出に立ち会う,恐ろしさをおぼえずにはいられない。
玄侑宗久さんの提起したものは,「人間性」という隠れ蓑に対する徹底した懐疑であったのか。「人間性」とはなにか,バタイユの提起した「動物性」の問題ともからめて,もう一度,原点から考え直すことが,いま,求められているように思う。深く,重い課題である。
2010年10月30日土曜日
緊急シンポジウム「東アジアの安全保障と普天間基地問題」を聞く。
台風が接近していて,関東地方に上陸するかも・・・という予報を知りながら,片方では,たぶん,熱帯性低気圧になって,雨が降るだけだろうと言い聞かせながらでかけた。
緊急シンポジウム「東アジアの安全保障と普天間基地問題」(このあと「普天間」と略記)があることを,友人のNさんが教えてくれた。じつは,同じ日の同じ時間帯に,もう一つのシンポジウムがあった。こちらは,公開シンポジウム「沖縄と『戦世』の記憶」(このあと「戦世」と略記)というもの。「戦世」のシンポジウムは,以前から,情報が入っていて知っていたが,「普天間」は,直近になって知った。場所はいずれも明治大学駿河台キャンパス。
「戦世」の方は,すでに,このブログでも紹介したことがあるように,比嘉豊光さんが最近,たまたま発掘された旧日本兵の遺骨を撮った写真をめぐるシンポである。明治大学駿河台キャンパスのアカデミーコモンで写真展と同時開催である。が,でかけてみると,なんと,写真展はやっていたが,公開シンポジウムは台風襲来のため中止となった,という。大した風雨ではないのに,なぜ?,と一瞬思ったら,案の定,シンポを楽しみにしてやってきた初老の男性が,写真展の入り口で「なぜ,中止にしたのか」と受け付け係に食いついている。「冗談じゃないぞ!」とえらい剣幕である。そばにいたわたしは驚いて,急いで距離をとった。
わたしは写真展だけをみて,すぐに,その足で「普天間」の方に移動した。こちらは,同じ駿河台キャンパスのリバティタワー・ホールで開催。参加費1000円。
こまかいことは省略することにして,こちらのシンポの楽しみは,第一部の佐藤優の講演と,第二部の司会をする小森陽一に会うことにあった。しかし,こちらにも異変があった。第二部の司会は,小森陽一ではなく,別の知らない人に差し替えられていた。こんどは,わたしがカチンときた。これでは詐欺ではないか,と。雨のなかをわざわざ足を運んだのには理由がある。小森陽一にはそれだけの人を惹きつける力をもっている。それを事前に知らせることなく,突然の変更である。事情は知らない。呼び寄せておいて,なし,では許せない。なぜなら,こちらは有料である。金をとる以上はそれだけの責任がある。こういう変更を知っていて受け付けでは,ひとことの断りもなく,規定どおり1000円を徴収した。これは,どう考えてもおかしい。それに引き換え,「戦世」は無料。少なくとも,主催者は,開会に先立ち,ひとことお詫びをするべきであった。が,なにもなし。この無神経さに,ああ,このシンポは駄目だ,と予測した。結果は,そのとおりだった。
ただし,佐藤優の講演はみごとなものであった。これがあまりによかったので,1000円は安いか,とわたしの判断は逆転。なにがよかったか。わたしはかれの書いたもので,すでに,感動していたが,講演は初めてだった。いつも,本や雑誌に登場する佐藤優のあのギョロリとした大きな眼と,一種異様な風貌からして,怖いという印象があった。しかし,そうではなかった。とても歯切れのいい,テンポのいい,そして,声の強弱も使い分け,まるで声優かと思われるほどに,みごとに情感の籠もった,素晴らしいものであった。しかも,書いた文章よりはやさしい気配りがあちこちに張りめぐらされていて,聞いていて心地よい。声もソフト。ああ,こういう人だったのか,と。この人は信頼できる,と。
第二部は小森陽一のピンチ・ヒッターが,まるで駄目。どこかの学会のシンポの司会なら,あれでいいのかも知れない。しかし,このシンポは時事ネタだ。いま,まさに,われわれ日本人みんなが直面している喫緊の課題である。問題点をどのように浮き彫りにするかが,司会者の腕のみせどころであり,聴衆はそれを期待している。それを,パネラー一人ひとりに,ひとことずつしゃべらせて,その上で追加発現があれば・・・・,という程度で終わり。とりわけ,パネラーにも参加した佐藤優さんの発現はきわめて刺激的な内容をふくんでいた。これを,たとえば,小森陽一が司会をしていたら,ただちに反応して,佐藤優を挑発し,さらに本音を引き出すことをやっただろうになぁ,と残念でならない。
まあ,こんな感想を述べていても仕方がない。そこで,一つだけ,このシンポを聞いて,いや,佐藤優の講演を聞いて,そして,佐藤優のシンポでの発言を聞いて,ここにきてよかったと思う話をしておきたい。それは尖閣諸島での事件の処理をめぐる問題である。
中国漁船の船長を,だ捕して,日本の国内法で粛々として対応する,ということはとんでもないことで,外交ということがどういうことなのかがまったくわかっていない人のやることだ,と佐藤優は言う。しかも,船長を釈放したことを,日本外交の大敗北だと報じた日本のメディアも,なにもわかってはいない,と断言。その理由をこのように説明する。まずは,尖閣諸島をめぐるこれまでの歴史過程を少し調べればすぐにわかることだ,と。尖閣諸島は,そのむかしはどこの領土でもなかった。中国も日本も,それぞれ自分たちのものと思っていた。しかし,日清戦争のときに,日本が領土権を確保した。以後,国際社会も日本の領土として認知してきた。その後,大きなできごととしては,ポツダム宣言のとき,日本の領土は北海道,本州,四国,九州のみが認められた。その他の離島については,占領国の判断にゆだねられることになった。その結果,北方4島はソ連にとられてしまった。沖縄諸島は,アメリカが軍事支配して,米軍基地として用い,ようやく1972年に本土復帰となった。それまでは,沖縄は日本ではなかったのだ。その延長線上に,尖閣諸島がある。このとき,アメリカはこれらの諸島も日本のものとして返還した。その後,中国は,いや,尖閣諸島は中国固有の領土だと主張をはじめた。それに対して,日本政府は,いや,尖閣諸島は日本固有の領土だと主張し,平行線を保った。それでは具合が悪いというので,当時の薗田外相と周恩来首相との会談で,問題解決を先送りにして(つまり,棚上げにして),日中友好条約を締結することになった。その後,この尖閣諸島はいわゆるグレイ・ゾーンとして扱われ,その基本了解にもとづき,日中共同開発・共同管理というところまでこぎつけた。ところが,ブッシュ政権のときに,米政府公認の世界地図を作成したことがあって,そのときの地図には,尖閣諸島は中国領土となっている,というのだ。だから,中国は,尖閣諸島はおれたちの領土だ,と声を大にして主張するようになったのだ。日本政府はこの事実を知ってか知らずか,なんの抗議も意志表明もしていない。だから,中国にとっては,ますます自分たちの主張が正しいという確信を持ちはじめてきている。そこに船長のだ捕と日本の国内法にもとづく処分,という事件が起きた。中国の人びとが,この事件によって,なにを想起したか。日清戦争のはじまりのときと同じことが起きた,ということだ。いよいよ日本は,新政権によってキバを剥きはじめた,と。中国側が態度を硬化させたのは,そういう歴史的背景にもとづくものだ。中国国内のデモはその反映だ。それにしては規模が小さい。中国人が200人のデモを行った,と言って驚いてはいけない。全人口の母数から比べたら,全然,大したことではない。日本人の200人と中国人の200人と一緒にして考えてはならない。
という次第で,驚くべき事実をつぎつぎに並べていき,問題の本質がどこにあるのかしっかりと見極めなくてはならない,と佐藤優は熱弁をふるう。マス・メディアはもっと勉強をして,しっかりとした報道をすべきである,と。それができていないから,日本人がみんな鵜呑みにしてしまって,とんでもない民意が形成されていく。困ったものだ,と。
この話だけでも,エンドレスだ。長くなるので,このあたりで終わりにしておく。以上の話は,佐藤優の話を聞いて,大いに啓発され,わたしの知識と混ぜ合わせて再構成したものであることを明記しておく。わたしの記憶違いがあるかも知れないので,その責任はわたしにある。佐藤優の記憶力のすごさはこれまた信じられないほどのもので,彼の話は間違いないだろうと思う。ここに書いたことは,電話ゲームのようなもので,わたしはこんな風に聞いたということをつぎの人に伝えているようなものだ。だから,多少の(いや,大いに),わたしなりの脚色や編集がなされていることもお断りしておく。
わたしとしては,佐藤優の話を聞いて,もう一度,情報確認をして,問題を整理しておきたいと思う。今日は,台風の中をでかけて行って,やはりよかったなぁと思う。佐藤優の生身をみた。これだけで,1000円は安いかも。
未完。
緊急シンポジウム「東アジアの安全保障と普天間基地問題」(このあと「普天間」と略記)があることを,友人のNさんが教えてくれた。じつは,同じ日の同じ時間帯に,もう一つのシンポジウムがあった。こちらは,公開シンポジウム「沖縄と『戦世』の記憶」(このあと「戦世」と略記)というもの。「戦世」のシンポジウムは,以前から,情報が入っていて知っていたが,「普天間」は,直近になって知った。場所はいずれも明治大学駿河台キャンパス。
「戦世」の方は,すでに,このブログでも紹介したことがあるように,比嘉豊光さんが最近,たまたま発掘された旧日本兵の遺骨を撮った写真をめぐるシンポである。明治大学駿河台キャンパスのアカデミーコモンで写真展と同時開催である。が,でかけてみると,なんと,写真展はやっていたが,公開シンポジウムは台風襲来のため中止となった,という。大した風雨ではないのに,なぜ?,と一瞬思ったら,案の定,シンポを楽しみにしてやってきた初老の男性が,写真展の入り口で「なぜ,中止にしたのか」と受け付け係に食いついている。「冗談じゃないぞ!」とえらい剣幕である。そばにいたわたしは驚いて,急いで距離をとった。
わたしは写真展だけをみて,すぐに,その足で「普天間」の方に移動した。こちらは,同じ駿河台キャンパスのリバティタワー・ホールで開催。参加費1000円。
こまかいことは省略することにして,こちらのシンポの楽しみは,第一部の佐藤優の講演と,第二部の司会をする小森陽一に会うことにあった。しかし,こちらにも異変があった。第二部の司会は,小森陽一ではなく,別の知らない人に差し替えられていた。こんどは,わたしがカチンときた。これでは詐欺ではないか,と。雨のなかをわざわざ足を運んだのには理由がある。小森陽一にはそれだけの人を惹きつける力をもっている。それを事前に知らせることなく,突然の変更である。事情は知らない。呼び寄せておいて,なし,では許せない。なぜなら,こちらは有料である。金をとる以上はそれだけの責任がある。こういう変更を知っていて受け付けでは,ひとことの断りもなく,規定どおり1000円を徴収した。これは,どう考えてもおかしい。それに引き換え,「戦世」は無料。少なくとも,主催者は,開会に先立ち,ひとことお詫びをするべきであった。が,なにもなし。この無神経さに,ああ,このシンポは駄目だ,と予測した。結果は,そのとおりだった。
ただし,佐藤優の講演はみごとなものであった。これがあまりによかったので,1000円は安いか,とわたしの判断は逆転。なにがよかったか。わたしはかれの書いたもので,すでに,感動していたが,講演は初めてだった。いつも,本や雑誌に登場する佐藤優のあのギョロリとした大きな眼と,一種異様な風貌からして,怖いという印象があった。しかし,そうではなかった。とても歯切れのいい,テンポのいい,そして,声の強弱も使い分け,まるで声優かと思われるほどに,みごとに情感の籠もった,素晴らしいものであった。しかも,書いた文章よりはやさしい気配りがあちこちに張りめぐらされていて,聞いていて心地よい。声もソフト。ああ,こういう人だったのか,と。この人は信頼できる,と。
第二部は小森陽一のピンチ・ヒッターが,まるで駄目。どこかの学会のシンポの司会なら,あれでいいのかも知れない。しかし,このシンポは時事ネタだ。いま,まさに,われわれ日本人みんなが直面している喫緊の課題である。問題点をどのように浮き彫りにするかが,司会者の腕のみせどころであり,聴衆はそれを期待している。それを,パネラー一人ひとりに,ひとことずつしゃべらせて,その上で追加発現があれば・・・・,という程度で終わり。とりわけ,パネラーにも参加した佐藤優さんの発現はきわめて刺激的な内容をふくんでいた。これを,たとえば,小森陽一が司会をしていたら,ただちに反応して,佐藤優を挑発し,さらに本音を引き出すことをやっただろうになぁ,と残念でならない。
まあ,こんな感想を述べていても仕方がない。そこで,一つだけ,このシンポを聞いて,いや,佐藤優の講演を聞いて,そして,佐藤優のシンポでの発言を聞いて,ここにきてよかったと思う話をしておきたい。それは尖閣諸島での事件の処理をめぐる問題である。
中国漁船の船長を,だ捕して,日本の国内法で粛々として対応する,ということはとんでもないことで,外交ということがどういうことなのかがまったくわかっていない人のやることだ,と佐藤優は言う。しかも,船長を釈放したことを,日本外交の大敗北だと報じた日本のメディアも,なにもわかってはいない,と断言。その理由をこのように説明する。まずは,尖閣諸島をめぐるこれまでの歴史過程を少し調べればすぐにわかることだ,と。尖閣諸島は,そのむかしはどこの領土でもなかった。中国も日本も,それぞれ自分たちのものと思っていた。しかし,日清戦争のときに,日本が領土権を確保した。以後,国際社会も日本の領土として認知してきた。その後,大きなできごととしては,ポツダム宣言のとき,日本の領土は北海道,本州,四国,九州のみが認められた。その他の離島については,占領国の判断にゆだねられることになった。その結果,北方4島はソ連にとられてしまった。沖縄諸島は,アメリカが軍事支配して,米軍基地として用い,ようやく1972年に本土復帰となった。それまでは,沖縄は日本ではなかったのだ。その延長線上に,尖閣諸島がある。このとき,アメリカはこれらの諸島も日本のものとして返還した。その後,中国は,いや,尖閣諸島は中国固有の領土だと主張をはじめた。それに対して,日本政府は,いや,尖閣諸島は日本固有の領土だと主張し,平行線を保った。それでは具合が悪いというので,当時の薗田外相と周恩来首相との会談で,問題解決を先送りにして(つまり,棚上げにして),日中友好条約を締結することになった。その後,この尖閣諸島はいわゆるグレイ・ゾーンとして扱われ,その基本了解にもとづき,日中共同開発・共同管理というところまでこぎつけた。ところが,ブッシュ政権のときに,米政府公認の世界地図を作成したことがあって,そのときの地図には,尖閣諸島は中国領土となっている,というのだ。だから,中国は,尖閣諸島はおれたちの領土だ,と声を大にして主張するようになったのだ。日本政府はこの事実を知ってか知らずか,なんの抗議も意志表明もしていない。だから,中国にとっては,ますます自分たちの主張が正しいという確信を持ちはじめてきている。そこに船長のだ捕と日本の国内法にもとづく処分,という事件が起きた。中国の人びとが,この事件によって,なにを想起したか。日清戦争のはじまりのときと同じことが起きた,ということだ。いよいよ日本は,新政権によってキバを剥きはじめた,と。中国側が態度を硬化させたのは,そういう歴史的背景にもとづくものだ。中国国内のデモはその反映だ。それにしては規模が小さい。中国人が200人のデモを行った,と言って驚いてはいけない。全人口の母数から比べたら,全然,大したことではない。日本人の200人と中国人の200人と一緒にして考えてはならない。
という次第で,驚くべき事実をつぎつぎに並べていき,問題の本質がどこにあるのかしっかりと見極めなくてはならない,と佐藤優は熱弁をふるう。マス・メディアはもっと勉強をして,しっかりとした報道をすべきである,と。それができていないから,日本人がみんな鵜呑みにしてしまって,とんでもない民意が形成されていく。困ったものだ,と。
この話だけでも,エンドレスだ。長くなるので,このあたりで終わりにしておく。以上の話は,佐藤優の話を聞いて,大いに啓発され,わたしの知識と混ぜ合わせて再構成したものであることを明記しておく。わたしの記憶違いがあるかも知れないので,その責任はわたしにある。佐藤優の記憶力のすごさはこれまた信じられないほどのもので,彼の話は間違いないだろうと思う。ここに書いたことは,電話ゲームのようなもので,わたしはこんな風に聞いたということをつぎの人に伝えているようなものだ。だから,多少の(いや,大いに),わたしなりの脚色や編集がなされていることもお断りしておく。
わたしとしては,佐藤優の話を聞いて,もう一度,情報確認をして,問題を整理しておきたいと思う。今日は,台風の中をでかけて行って,やはりよかったなぁと思う。佐藤優の生身をみた。これだけで,1000円は安いかも。
未完。
2010年10月29日金曜日
宇沢弘文著『自動車の社会的費用』(岩波新書)を読む。
この本の初版がでたのが1974年6月。なんと,いまから,36年前。この本のなかで,宇沢さんは怒っている。本気で怒っている。
自動車はあまりに優遇されていて,みずから支払うべき「社会的費用」をほんのわずか(重量税,通行税)しか払っていない。足りない分を,全部,一般の税金でまかなっている。こんな馬鹿なことがあるか,と。
自家用車をもてる人間は金持ちだ(1974年以前は,間違いなく金持ちしか自家用車は持てなかった)。その金持ちが支払うべき金を,自家用車をもてない貧乏人の税金でまかなうとはなんということか。金持ちはますます金持ちになり,貧乏人はますます貧乏になる。これが戦後の日本の政権党がとった経済政策だったのだ,と。儲けたのは自動車メーカーと金持ちだけ。こんなことが野放しで許されていていいのか,と宇沢さんは弾劾する。
以後,宇沢さんは自動車には乗らないと宣言。移動はすべて公共移動機関に頼り,あとは,ひたすら自分の足で歩く。ことし,たしか82歳。いまも歩く。ごく普通の運動靴を履いて。この間の,東京外大で行われた「宇沢弘文と語る」のときも,最寄りの駅(といってもかなり遠くの駅)から歩いてこられた。スーツにネクタイをして,きちんとした正装。なのに,足元は,たんなる運動靴。それもずいぶん履かれたとみえて,ボロボロ。こういうときくらいは新しい靴でもいいのに・・・と思ったが,歩くにはボロボロの靴がまことにいいのだ。足にしっかりと馴染んでいるから。
この36年間,タクシーはもとより,知人・友人の車にも乗らない。おれは歩く,と言ってひたすら歩かれるそうだ。その信念たるやすごいものである。
歩いていらっしゃるから,道路が歩行者のためにつくられていない,とこれまた苦情。自動車優先道路だ,と。もともと道路とは,歩行者のものだった。自動車はあとから割り込んできたのだ。にもかかわらず,歩行者を押し退けて,自動車のものにしてしまった。こんなことを黙って許した行政はいったいなにを考えているのか,とご立腹。歩行者は危なくて仕方がない,と。狭い路地などでは,自動車がやってくると歩行者は端によけて見送るしかない。こんな馬鹿なことがあっていいのか,と。
自動車所有者が支払うべき金は,重量税や通行税だけではいけない,とも。自動車の排気ガスによって空気を汚染することによる被害も「社会的費用」なのだから,これも負担すべきだ,と。そして,騒音。とりわけ,幹線道路の道路沿いの家などはうるさくて夜も眠れない。うるさいだけではない,大きなトラックなどが走れば家がゆれる。これはわたしにも経験がある。まだ,中学生だったころの話。ということは,60年近く前の話。愛知県豊橋市の旧東海道に面している家に住んでいる友人のところに遊びに行って,一晩,泊めてもらったときのことである。いまの国道1号線がバイパスとしてつくられる前である。トラックがスレ違うときにはお互いに徐行しないとスレ違うことすらできないほどの狭い道路だ。東海道とはいえ,もともとは人間の歩く道だった。たまに馬車・牛車がとおるくらいのものだ。そのためにつくられた道路だ。そこに自動車が割り込んできた。しかも,道路はむかしのままなのに,自動車の台数だけが急激に増えた。荷物の輸送も,鉄道から自動車へと移行しつつあった。だから,東海道は一気に大変な交通量となったのである。一晩中,ひっきりなしに長距離輸送のトラックが走っていた。そのたびに家がゆれるのである。わたしはとうとう一晩,一睡もできなかった。これが初めての経験だった。騒音で眠れないということの。
こうして,旧東海道沿いに住んでいる人たちの間から,さまざまな病名のつかない不思議な病気がつぎつぎに発症した。このことは当時の新聞をみればすぐにわかる。そこで,大急ぎでとりかかったのが,市街地を遠巻きにして通る国道1号線なるバイパスである。こんどは4車線にして自動車につごうのいい道路をつくった。歩行者はその脇を,車をよけながら歩かなくてはならない。つまり,歩行者の専用道路がないのである。これもまた大問題になって,やがて,細い歩行者専用レーンを設けた。白い線を引いて区分しただけの。だから,相変わらず自動車は歩行者すれすれに突っ走っていく。そのつど,歩行者は恐怖におののく。こうして,歩行者専用のきちんとした「歩道」が設置されるまでには相当の時間を要した。
それで問題は解決したか。そうではない。新たな問題が生じた。わたしの遠い親戚に,甲州街道に面してそば屋をやっている家があった。ちょうど,わたしが大学生のころ。しかも,京王線の幡ヶ谷駅の近くに。だから,忙しいときには手伝いに行った。そばの配達も自転車でやった。当時,すでに,相当の交通量になっていたが,なんとか間隙を縫って,甲州街道を横切って,向こう側の家にそばを配達することができた。それから,数年後には,もはや,自転車で甲州街道を横断することは不可能になってしまった。そのため,そば屋さんは売り上げが半減したという。これはそば屋さんだけではなく,むかしの甲州街道沿いにはいろいろの店が並んでいて,自由に道路を横断しながら,住民たちはみんな用事を足していた。しかし,それもままならなくなる。
そこで登場したのが,歩道橋である。当初は,歩道橋といってもその数はしれたものだった。だから,甲州街道をわたるには相当の距離を歩いてからでなければ,道路の向こう側に行くことはできなかった。この歩道橋という発想にも,宇沢さんは怒る。違うだろう,歩行者が水平に渡れる橋をつくって,自動車の道路を低くくすべきだ,と。
ことほどさように,自動車が登場したことによって,歩く人間がその犠牲にならなくてはならない,そのこと自体が許せない,と。こうした人間が犠牲になっている費用も自動車所有者は支払うべきだ,と。それが「社会的費用」というものだ。そして,ここからが経済学者たる宇沢さんの面目躍如である。こうした費用を,さまざまな基準を設けて試算していく。その額たるや想像を絶するほどのものとなる。もちろん,積算の基礎をどこに置くかということによって,その総額は異なってくる。が,それにしても,大変な額になる。それが放置されたまま,すべて,自動車を持たない人間が(つまり,貧乏人が)犠牲になることによって賄われている,というのである。こんな不合理を放置しておいていいのか,と宇沢さんは本気で怒る。
宇沢さんが「社会的費用」という考え方を提示してから36年が経つ。そのご,どこが,どのように改善されたというのだろう。みなさんも一度,考えてみてください。
それから,もう一つ。この本を読んで,こういう「経済学」の考え方があったのか,と日頃から経済に疎いわたしには大きな発見だった。宇沢さんの「経済学」は,その中核に「生きる人間」が据えられていて,そこから発想が組み立てられていく。それなら,わたしのような人間にもわかりやすい。「経済学」とは,本来,そういう学問であったはずである。遅ればせながら,これから少しばかり「宇沢経済学」について勉強してみようか,という気になった。これが最大の収穫というべきか。
お薦めの本である。
自動車はあまりに優遇されていて,みずから支払うべき「社会的費用」をほんのわずか(重量税,通行税)しか払っていない。足りない分を,全部,一般の税金でまかなっている。こんな馬鹿なことがあるか,と。
自家用車をもてる人間は金持ちだ(1974年以前は,間違いなく金持ちしか自家用車は持てなかった)。その金持ちが支払うべき金を,自家用車をもてない貧乏人の税金でまかなうとはなんということか。金持ちはますます金持ちになり,貧乏人はますます貧乏になる。これが戦後の日本の政権党がとった経済政策だったのだ,と。儲けたのは自動車メーカーと金持ちだけ。こんなことが野放しで許されていていいのか,と宇沢さんは弾劾する。
以後,宇沢さんは自動車には乗らないと宣言。移動はすべて公共移動機関に頼り,あとは,ひたすら自分の足で歩く。ことし,たしか82歳。いまも歩く。ごく普通の運動靴を履いて。この間の,東京外大で行われた「宇沢弘文と語る」のときも,最寄りの駅(といってもかなり遠くの駅)から歩いてこられた。スーツにネクタイをして,きちんとした正装。なのに,足元は,たんなる運動靴。それもずいぶん履かれたとみえて,ボロボロ。こういうときくらいは新しい靴でもいいのに・・・と思ったが,歩くにはボロボロの靴がまことにいいのだ。足にしっかりと馴染んでいるから。
この36年間,タクシーはもとより,知人・友人の車にも乗らない。おれは歩く,と言ってひたすら歩かれるそうだ。その信念たるやすごいものである。
歩いていらっしゃるから,道路が歩行者のためにつくられていない,とこれまた苦情。自動車優先道路だ,と。もともと道路とは,歩行者のものだった。自動車はあとから割り込んできたのだ。にもかかわらず,歩行者を押し退けて,自動車のものにしてしまった。こんなことを黙って許した行政はいったいなにを考えているのか,とご立腹。歩行者は危なくて仕方がない,と。狭い路地などでは,自動車がやってくると歩行者は端によけて見送るしかない。こんな馬鹿なことがあっていいのか,と。
自動車所有者が支払うべき金は,重量税や通行税だけではいけない,とも。自動車の排気ガスによって空気を汚染することによる被害も「社会的費用」なのだから,これも負担すべきだ,と。そして,騒音。とりわけ,幹線道路の道路沿いの家などはうるさくて夜も眠れない。うるさいだけではない,大きなトラックなどが走れば家がゆれる。これはわたしにも経験がある。まだ,中学生だったころの話。ということは,60年近く前の話。愛知県豊橋市の旧東海道に面している家に住んでいる友人のところに遊びに行って,一晩,泊めてもらったときのことである。いまの国道1号線がバイパスとしてつくられる前である。トラックがスレ違うときにはお互いに徐行しないとスレ違うことすらできないほどの狭い道路だ。東海道とはいえ,もともとは人間の歩く道だった。たまに馬車・牛車がとおるくらいのものだ。そのためにつくられた道路だ。そこに自動車が割り込んできた。しかも,道路はむかしのままなのに,自動車の台数だけが急激に増えた。荷物の輸送も,鉄道から自動車へと移行しつつあった。だから,東海道は一気に大変な交通量となったのである。一晩中,ひっきりなしに長距離輸送のトラックが走っていた。そのたびに家がゆれるのである。わたしはとうとう一晩,一睡もできなかった。これが初めての経験だった。騒音で眠れないということの。
こうして,旧東海道沿いに住んでいる人たちの間から,さまざまな病名のつかない不思議な病気がつぎつぎに発症した。このことは当時の新聞をみればすぐにわかる。そこで,大急ぎでとりかかったのが,市街地を遠巻きにして通る国道1号線なるバイパスである。こんどは4車線にして自動車につごうのいい道路をつくった。歩行者はその脇を,車をよけながら歩かなくてはならない。つまり,歩行者の専用道路がないのである。これもまた大問題になって,やがて,細い歩行者専用レーンを設けた。白い線を引いて区分しただけの。だから,相変わらず自動車は歩行者すれすれに突っ走っていく。そのつど,歩行者は恐怖におののく。こうして,歩行者専用のきちんとした「歩道」が設置されるまでには相当の時間を要した。
それで問題は解決したか。そうではない。新たな問題が生じた。わたしの遠い親戚に,甲州街道に面してそば屋をやっている家があった。ちょうど,わたしが大学生のころ。しかも,京王線の幡ヶ谷駅の近くに。だから,忙しいときには手伝いに行った。そばの配達も自転車でやった。当時,すでに,相当の交通量になっていたが,なんとか間隙を縫って,甲州街道を横切って,向こう側の家にそばを配達することができた。それから,数年後には,もはや,自転車で甲州街道を横断することは不可能になってしまった。そのため,そば屋さんは売り上げが半減したという。これはそば屋さんだけではなく,むかしの甲州街道沿いにはいろいろの店が並んでいて,自由に道路を横断しながら,住民たちはみんな用事を足していた。しかし,それもままならなくなる。
そこで登場したのが,歩道橋である。当初は,歩道橋といってもその数はしれたものだった。だから,甲州街道をわたるには相当の距離を歩いてからでなければ,道路の向こう側に行くことはできなかった。この歩道橋という発想にも,宇沢さんは怒る。違うだろう,歩行者が水平に渡れる橋をつくって,自動車の道路を低くくすべきだ,と。
ことほどさように,自動車が登場したことによって,歩く人間がその犠牲にならなくてはならない,そのこと自体が許せない,と。こうした人間が犠牲になっている費用も自動車所有者は支払うべきだ,と。それが「社会的費用」というものだ。そして,ここからが経済学者たる宇沢さんの面目躍如である。こうした費用を,さまざまな基準を設けて試算していく。その額たるや想像を絶するほどのものとなる。もちろん,積算の基礎をどこに置くかということによって,その総額は異なってくる。が,それにしても,大変な額になる。それが放置されたまま,すべて,自動車を持たない人間が(つまり,貧乏人が)犠牲になることによって賄われている,というのである。こんな不合理を放置しておいていいのか,と宇沢さんは本気で怒る。
宇沢さんが「社会的費用」という考え方を提示してから36年が経つ。そのご,どこが,どのように改善されたというのだろう。みなさんも一度,考えてみてください。
それから,もう一つ。この本を読んで,こういう「経済学」の考え方があったのか,と日頃から経済に疎いわたしには大きな発見だった。宇沢さんの「経済学」は,その中核に「生きる人間」が据えられていて,そこから発想が組み立てられていく。それなら,わたしのような人間にもわかりやすい。「経済学」とは,本来,そういう学問であったはずである。遅ればせながら,これから少しばかり「宇沢経済学」について勉強してみようか,という気になった。これが最大の収穫というべきか。
お薦めの本である。
2010年10月28日木曜日
innewerden ということについて。その3.サッカーのピッチに神の降臨をみる。
ちょっとしつこいと言われるかもしれないが,innewerden ということについて,少し違ったアングルからのわたしの考えを述べておきたい。
これは,わたし自身の反省点でもあるのだが,innewerden について書いたブログに対して,「おもしろい」にクリックしてくれた読者があまりにも少ないので,じつは驚いている。わたしとしては,かなり悦に入って,新たな知の地平がマルチン・ブーバーをとおして開かれてきたと喜び勇んで書いたものである。にもかかわらず,多くの読者に「パス」されてしまった。もともと,わたし自身の研究ノートのようなつもりで書いているブログなので,「おもしろい」の数などは無視してよいのだ,と自分には言い聞かせていた。しかし,あまりの少なさは,やはり,気になって仕方がない。
そこで,どうして?と考える。
やはり,書き方が悪い,という結論に達する。ドイツ語がある程度わかる人にしか,この話は通用しない書き方をしている,と。
そこで,今日はもう少し,具体的な事例に結びつけて考えてみることにする。もちろん,具体的な事例とは,スポーツである。それなら興味を示してもらえるのでは・・・,と。
innewerden を,スポーツの事例に惹きつけて考えるとすれば,わたしの訳語は「共感する」「共振する」ということになるだろう。では,なぜ,そうなるのか。
マルチン・ブーバーは,ことばがなくても「対話」は成立する,という事例として「ベンチに坐る二人の男性」の話を書いている。この二人は,なぜか,共に「共感し」「共振し」ている。だから,ことばは不要なのだ。こういうことは,スポーツのトップ・アスリートたちは,しばしば経験しているはずである。
たとえば,サッカー。MFのA選手がボールをもらった瞬間に,このつぎのプレイをどのように展開しようかとイメージしたことが,他のポジションにいる仲間の選手のだれかに「共感」「共振」されたとしよう。その選手はそのイメージどおりに全力で走りだす。お互いのイメージが完全に共有されているので,ピン・ポイントでボールの受け渡しが可能となる。こういうパスやセンターリングがうまくつながったとき,スーパープレイが生まれる。
これが,たとえば,一つのinnewerden である。
この概念の前段として,マルチン・ブーバーが「観察」と「観照」という概念を提示していたことを思い出そう。これもまた,スポーツの具体的な事例に当てはめて考えてみよう。
たとえば,ひとくちにサッカーファンといっても,いろいろの位相がある。それを,マルチン・ブーバーの概念に当てはめてみると,「観察」のレベルから「観照」のレベルへ,そして,さらには「共感・共振」のレベルへと並べて考えることもできよう。
「観察」は,選手たちの外見に強い関心をもって,ことこまかに観察することを楽しんでいるレベルとしてみよう。選手たちのからだの特徴(背が高いとか,がっちりした体躯だとか,ハンサムだとか)や,足の速さ,ボールさばき,チーム・プレイへの機能の仕方,とうとうに眼が向っているレベル。ファンの最初の段階は,みんなここから始まるのだろう。
しかし,「観照」となると,少し違ってくる。たんなる観察をとおしてみえてくるもの以外のもの,つまり,ふつうの人の眼には見えないけれども,サッカーに通暁してくると,まるで見えているかのように見えはじめるもの,マルチン・ブーバーのことばを借りれば「実存」。辞典的に説明すれば,「対象を主観を交えずに冷静に見つめること」となる。あるいは,仏教用語でいえば「智慧をもって事物の実相をとらえること」。芸術分野では「美的対象の受容における直観的認識」。これらを全部ひとまとめにして,サッカーに当てはめてみると,一番近い感覚は,見ていて「美しい」と感動する場面に出会うことだろうか。「潜在的なるものが突如として顕在化する」瞬間に立ち会うこと,とでもいえばいいだろうか。
そして,innewerden =「共感・共振」である。ファンの立場からみれば,選手とファンが「共感・共振」すること。スタンドから見ているはずのファンが,いつのまにか選手と一体化している。まるで,プレイをしているかのように,ピッチを駆け回っている。そういう瞬間というものがある。こういうことを一度でも体験したことのあるファンは,もう,病みつきになること請け合いである。熱烈なサポーターといわれる人たちには,こういう人が多いはずだ。「オレが応援に行かないと,負けてしまう」という使命感のようなものが漲っている。
とまあ,こんな具合なのだ。ただし,断っておくが,あくまでもスポーツの場面に,マルチン・ブーバーが提示した「対話」における三つの概念をかなり強引に当てはめてみただけのことである。むしろ,これをヒントにして,さまざまな文化を,ブーバーのいう「対話」の概念を用いて考えてみること,これが大事である。もっと卑近な例を引けば,日常的な人間関係,コミュニケーションの問題からはじまって,動物や植物,あるいは,鉱物といった自然存在との「対話」について考えることが重要なのである。
つまり,21世紀を生きるわたしたちにとって「対話」(ブーバーの意味で)とはなにか,そして,いかにあるべきか,を問い直すこと。スポーツ文化論の立場から,ブーバーの「対話」の概念を,どのように受け止めていくか。教育の現場ではどうか,などなど。
こういう意図があって,2回の「innewerdenということについて」というブログで,わたしなりの論考を試みてみたという次第。ご理解いただければ幸いである。
これは,わたし自身の反省点でもあるのだが,innewerden について書いたブログに対して,「おもしろい」にクリックしてくれた読者があまりにも少ないので,じつは驚いている。わたしとしては,かなり悦に入って,新たな知の地平がマルチン・ブーバーをとおして開かれてきたと喜び勇んで書いたものである。にもかかわらず,多くの読者に「パス」されてしまった。もともと,わたし自身の研究ノートのようなつもりで書いているブログなので,「おもしろい」の数などは無視してよいのだ,と自分には言い聞かせていた。しかし,あまりの少なさは,やはり,気になって仕方がない。
そこで,どうして?と考える。
やはり,書き方が悪い,という結論に達する。ドイツ語がある程度わかる人にしか,この話は通用しない書き方をしている,と。
そこで,今日はもう少し,具体的な事例に結びつけて考えてみることにする。もちろん,具体的な事例とは,スポーツである。それなら興味を示してもらえるのでは・・・,と。
innewerden を,スポーツの事例に惹きつけて考えるとすれば,わたしの訳語は「共感する」「共振する」ということになるだろう。では,なぜ,そうなるのか。
マルチン・ブーバーは,ことばがなくても「対話」は成立する,という事例として「ベンチに坐る二人の男性」の話を書いている。この二人は,なぜか,共に「共感し」「共振し」ている。だから,ことばは不要なのだ。こういうことは,スポーツのトップ・アスリートたちは,しばしば経験しているはずである。
たとえば,サッカー。MFのA選手がボールをもらった瞬間に,このつぎのプレイをどのように展開しようかとイメージしたことが,他のポジションにいる仲間の選手のだれかに「共感」「共振」されたとしよう。その選手はそのイメージどおりに全力で走りだす。お互いのイメージが完全に共有されているので,ピン・ポイントでボールの受け渡しが可能となる。こういうパスやセンターリングがうまくつながったとき,スーパープレイが生まれる。
これが,たとえば,一つのinnewerden である。
この概念の前段として,マルチン・ブーバーが「観察」と「観照」という概念を提示していたことを思い出そう。これもまた,スポーツの具体的な事例に当てはめて考えてみよう。
たとえば,ひとくちにサッカーファンといっても,いろいろの位相がある。それを,マルチン・ブーバーの概念に当てはめてみると,「観察」のレベルから「観照」のレベルへ,そして,さらには「共感・共振」のレベルへと並べて考えることもできよう。
「観察」は,選手たちの外見に強い関心をもって,ことこまかに観察することを楽しんでいるレベルとしてみよう。選手たちのからだの特徴(背が高いとか,がっちりした体躯だとか,ハンサムだとか)や,足の速さ,ボールさばき,チーム・プレイへの機能の仕方,とうとうに眼が向っているレベル。ファンの最初の段階は,みんなここから始まるのだろう。
しかし,「観照」となると,少し違ってくる。たんなる観察をとおしてみえてくるもの以外のもの,つまり,ふつうの人の眼には見えないけれども,サッカーに通暁してくると,まるで見えているかのように見えはじめるもの,マルチン・ブーバーのことばを借りれば「実存」。辞典的に説明すれば,「対象を主観を交えずに冷静に見つめること」となる。あるいは,仏教用語でいえば「智慧をもって事物の実相をとらえること」。芸術分野では「美的対象の受容における直観的認識」。これらを全部ひとまとめにして,サッカーに当てはめてみると,一番近い感覚は,見ていて「美しい」と感動する場面に出会うことだろうか。「潜在的なるものが突如として顕在化する」瞬間に立ち会うこと,とでもいえばいいだろうか。
そして,innewerden =「共感・共振」である。ファンの立場からみれば,選手とファンが「共感・共振」すること。スタンドから見ているはずのファンが,いつのまにか選手と一体化している。まるで,プレイをしているかのように,ピッチを駆け回っている。そういう瞬間というものがある。こういうことを一度でも体験したことのあるファンは,もう,病みつきになること請け合いである。熱烈なサポーターといわれる人たちには,こういう人が多いはずだ。「オレが応援に行かないと,負けてしまう」という使命感のようなものが漲っている。
とまあ,こんな具合なのだ。ただし,断っておくが,あくまでもスポーツの場面に,マルチン・ブーバーが提示した「対話」における三つの概念をかなり強引に当てはめてみただけのことである。むしろ,これをヒントにして,さまざまな文化を,ブーバーのいう「対話」の概念を用いて考えてみること,これが大事である。もっと卑近な例を引けば,日常的な人間関係,コミュニケーションの問題からはじまって,動物や植物,あるいは,鉱物といった自然存在との「対話」について考えることが重要なのである。
つまり,21世紀を生きるわたしたちにとって「対話」(ブーバーの意味で)とはなにか,そして,いかにあるべきか,を問い直すこと。スポーツ文化論の立場から,ブーバーの「対話」の概念を,どのように受け止めていくか。教育の現場ではどうか,などなど。
こういう意図があって,2回の「innewerdenということについて」というブログで,わたしなりの論考を試みてみたという次第。ご理解いただければ幸いである。
2010年10月27日水曜日
特集・大相撲『現代思想』11月号,今日発売。
青土社からでている月刊誌『現代思想』11月号が今日,発売となった。その特集が「大相撲」。わたしも少しばかりかかわったので,ご紹介しておく。
わたしの記憶に間違いがなければ,『現代思想』がいわゆるスポーツ関連で特集を組むということはこれまでなかったはずである。その月刊誌が「大相撲」を特集した。このことはまことに画期的なことだと言っていいだろう。なぜなら,これまでの一般的な考え方からすれば,スポーツと「思想」とは関係がないと考えられてきたからだ。極論すれば,「スポーツに思想はあるのか」と問われれば,大方の人は迷わず「ない」と答えるだろう。かく申すわたしも,真っ正面から「スポーツに思想はあるのか」と問われたら,やや口ごもりがちに「あ,あります」と答えることになるだろう。では,「スポーツ思想について説明してくれ」と言われたら,これまた深呼吸を二つ三つし,相当の覚悟をした上で,おもむろに重い口を開くしかないだろう。(この問題については,いつか,また,取り上げてみたいと考えている)
というわけなので,『現代思想』が「大相撲」を取り上げてくれたことはまことに画期的なことだった,という次第。しかも,そこにわたくしごときがかかわることができたということもまた,まことに画期的なことだった。とはいえ,今回のこの企画に加わることができたのも,じつは,平凡社から刊行した『近代スポーツのミッションは終わったか』(今福・西谷両氏との共著)のお蔭である。担当編集者がわたしのところに尋ねてきたときに,そのことを教えてくれた。その意味では,まさに,今福・西谷両氏のお蔭なのである。このお二人にはいくら感謝しても感謝したりない,といっても過言ではない。
そのなによりの証拠は,今回の特集もまた,今福龍太・西谷修の両氏にわたしが加わって「大相撲」問題をテーマに鼎談をしてほしい,という企画にみることができる。つまり,このお二人が加わることによって,「大相撲」が「思想」のことばで語るに値するものになりうる,というのが編集者の判断だった。ということは,体育・スポーツの研究者だけでは,いまもなお「大相撲」を「思想」のことばで語るだけの力はない,という裏の判断があるということを意味する。このことは,わたしにも痛いほどよくわかるので,そのとおりだと思う。
できあがった雑誌をみると,「鼎談」ではなく,「討論」ということになっていて,おやおやと思いながらも,雑誌というものはこんな風にして「つくられる」ものなのだ,ということを知った。われわれ3人は,『近代スポーツのミッションは終わったか』以来の定番となっているが,なんの事前の打ち合わせもなしに,時間ぎりぎりに集まって,どんな風にしましょうかねぇ,などと雑談しているうちに,いつのまにか本番に入っていた。それでもなんとかかたちになってしまうというところが,このお二人のすごいところ。わたしは,ただ,ひたすら,おろおろしながら話題についていくのが精一杯。なんとか採用してもらえる話をしようと必死・・・・。気がつけば,予定の2時間があっという間にすぎていた,というのが実感。
そんな風にしてできあがったのが,われわれ3人の「討論」となっている。驚いたのは,われわれの収録が終わって(午後6時),翌日の昼ころには,ゲラとなってメールで送信されてきたことだ。それにわれわれが手を入れて返送し,すぐに,最終ゲラが送られてきて,応答して終わり。この間のスピードの速さ。まさか,あの忙しいお二人がこんなに早く応答されるとは,じつは思ってもみなかった。もっと,ロスタイムがあるものとのんびり構えていた。ところが,一番暇なわたしが遅れをとってしまった。またまた,このお二人のすごさを知ったという次第。遅れるときは遅れるが,やるときはすぐにやる,という臨機応変ぶりに,さすがだなぁ,と感動すらしてしまった。
内容については,ご覧いただくとして,わたしの勝手な感想としては,2時間はあまりに短すぎた。テーマが「大相撲」である。しかも,いま,最大の話題になっている時事ネタである。しかも,時事ネタとはいえ,大相撲がこんにちのこのような事態にいたるにはそれなりの歴史過程がある。そのためには語らなくてはならないテーマがあまりにも多すぎる。だから,2時間ではとてもとても時間が足りない。本気でやるなら,「徹底討論」という形式にして,とことん語り合うべきであろう。そうしたら,もっともっと面白いものになったのでは・・・・,と想像したりしている。
いずれ,どこかの月例会で取り上げていただいて,議論ができればと思っている。
この特集には,われらの期待の星,井上邦子さんも登場する。さらに,われわれにもお馴染みの寒川恒夫,高津勝,リー・トンプソン,という人たちも登場し,それぞれに力作を発表している。ぜひ,ご覧いただきたい。そして,感想などをお聞かせいくだされば幸いである。
わたしの記憶に間違いがなければ,『現代思想』がいわゆるスポーツ関連で特集を組むということはこれまでなかったはずである。その月刊誌が「大相撲」を特集した。このことはまことに画期的なことだと言っていいだろう。なぜなら,これまでの一般的な考え方からすれば,スポーツと「思想」とは関係がないと考えられてきたからだ。極論すれば,「スポーツに思想はあるのか」と問われれば,大方の人は迷わず「ない」と答えるだろう。かく申すわたしも,真っ正面から「スポーツに思想はあるのか」と問われたら,やや口ごもりがちに「あ,あります」と答えることになるだろう。では,「スポーツ思想について説明してくれ」と言われたら,これまた深呼吸を二つ三つし,相当の覚悟をした上で,おもむろに重い口を開くしかないだろう。(この問題については,いつか,また,取り上げてみたいと考えている)
というわけなので,『現代思想』が「大相撲」を取り上げてくれたことはまことに画期的なことだった,という次第。しかも,そこにわたくしごときがかかわることができたということもまた,まことに画期的なことだった。とはいえ,今回のこの企画に加わることができたのも,じつは,平凡社から刊行した『近代スポーツのミッションは終わったか』(今福・西谷両氏との共著)のお蔭である。担当編集者がわたしのところに尋ねてきたときに,そのことを教えてくれた。その意味では,まさに,今福・西谷両氏のお蔭なのである。このお二人にはいくら感謝しても感謝したりない,といっても過言ではない。
そのなによりの証拠は,今回の特集もまた,今福龍太・西谷修の両氏にわたしが加わって「大相撲」問題をテーマに鼎談をしてほしい,という企画にみることができる。つまり,このお二人が加わることによって,「大相撲」が「思想」のことばで語るに値するものになりうる,というのが編集者の判断だった。ということは,体育・スポーツの研究者だけでは,いまもなお「大相撲」を「思想」のことばで語るだけの力はない,という裏の判断があるということを意味する。このことは,わたしにも痛いほどよくわかるので,そのとおりだと思う。
できあがった雑誌をみると,「鼎談」ではなく,「討論」ということになっていて,おやおやと思いながらも,雑誌というものはこんな風にして「つくられる」ものなのだ,ということを知った。われわれ3人は,『近代スポーツのミッションは終わったか』以来の定番となっているが,なんの事前の打ち合わせもなしに,時間ぎりぎりに集まって,どんな風にしましょうかねぇ,などと雑談しているうちに,いつのまにか本番に入っていた。それでもなんとかかたちになってしまうというところが,このお二人のすごいところ。わたしは,ただ,ひたすら,おろおろしながら話題についていくのが精一杯。なんとか採用してもらえる話をしようと必死・・・・。気がつけば,予定の2時間があっという間にすぎていた,というのが実感。
そんな風にしてできあがったのが,われわれ3人の「討論」となっている。驚いたのは,われわれの収録が終わって(午後6時),翌日の昼ころには,ゲラとなってメールで送信されてきたことだ。それにわれわれが手を入れて返送し,すぐに,最終ゲラが送られてきて,応答して終わり。この間のスピードの速さ。まさか,あの忙しいお二人がこんなに早く応答されるとは,じつは思ってもみなかった。もっと,ロスタイムがあるものとのんびり構えていた。ところが,一番暇なわたしが遅れをとってしまった。またまた,このお二人のすごさを知ったという次第。遅れるときは遅れるが,やるときはすぐにやる,という臨機応変ぶりに,さすがだなぁ,と感動すらしてしまった。
内容については,ご覧いただくとして,わたしの勝手な感想としては,2時間はあまりに短すぎた。テーマが「大相撲」である。しかも,いま,最大の話題になっている時事ネタである。しかも,時事ネタとはいえ,大相撲がこんにちのこのような事態にいたるにはそれなりの歴史過程がある。そのためには語らなくてはならないテーマがあまりにも多すぎる。だから,2時間ではとてもとても時間が足りない。本気でやるなら,「徹底討論」という形式にして,とことん語り合うべきであろう。そうしたら,もっともっと面白いものになったのでは・・・・,と想像したりしている。
いずれ,どこかの月例会で取り上げていただいて,議論ができればと思っている。
この特集には,われらの期待の星,井上邦子さんも登場する。さらに,われわれにもお馴染みの寒川恒夫,高津勝,リー・トンプソン,という人たちも登場し,それぞれに力作を発表している。ぜひ,ご覧いただきたい。そして,感想などをお聞かせいくだされば幸いである。
2010年10月26日火曜日
innewerden ということについて。その2.「純粋経験」「遊戯三昧」の世界
マルチン・ブーバーのいう innewerden の概念について,わたしなりの解釈と訳語について考えてみたいと思う。昨日のブログで引いたマルチン・ブーバーのテクストからの長い引用文を手がかりにして。
まず,最初に結論というべきか,わたしなりの「訳語」を提示しておくことにしよう。
マルチン・ブーバーのいう「実例」から浮かび上がってくる,わたしなりの訳語は以下のとおりである。「交信する」「交感する」「共振する」「共鳴する」。あるいは,別の視点に立てば,「立ち現れる」「目覚める」「生まれる」「芽生える」。もっと言ってしまえば「萌の襲」(もえのかさね)。
マルチン・ブーバーが innewerden などという概念を立ち上げて,どうしても言いたかったことはなにか。ここがポイントとなろう。
昨日のブログにも触れたように,観察も観照も,じつは「自己完結」する近代的自我(あるいは,意識)のもとにある。(わたしの考える「ヴィジョナリー」という概念が,ブーバーのいう「観照」に近いものだとすれば,かならずしも「自己完結」しているとはいえない。なぜなら,わたしの考える「観照」は若干ながら,自己(われ)の<外>に浸透していくことが前提となっているから。)しかし,この両概念につづけてブーバーが提起する innewerden は,明らかに自己(われ)の<外>に自己(われ)を解き放つことによって成立する事態のことだ。つまり,ブーバーのことばに置き換えれば,<われ>と<なんじ>の「間」(あいだ)ということになる。もっと言ってしまえば,<われ>からも一歩,<なんじ>からも一歩,お互いに自己の<外>に一歩ずつ踏み出してできる「共通の場」,すなわち,「間」に身もこころも解き放つことによって,初めて成立する<われ>と<なんじ>の関係性である。そこに生まれるものは,すでに,意識を超越している。
つまり,それまでの<われ>とは異なる別の<われ>になること。お互いがそうなること。そのときに,お互いの innen (内側に)になにかが werden (成る)する。そこで起こっていることは,これまでの<われ>とはまったく異なる,別次元の<われ>に成り代わっている,ということだ。そして,この「場」こそが「実在」の在り処だというのである。
この世界は,わたしのイメージでいえば,西田幾多郎のいう「純粋経験」の「場」とほとんど変わらない。だから,innewerden というドイツ語に「悟る」という訳語が充てられてもなんの不思議もないのである。坐禅のさなかにある<われ>は,もはや,日常の<われ>とはまったくの別次元にある。「無」の境地とはそういうことだ。ただ,坐禅の世界はただ一人で「無」の境地をめざす。かぎりなく<われ>を消去することによって,マクロコスモスのとの一体感を深めていく。つまり,ミクロコスモスとマクロコスモスとの一体化である。
しかし,ブーバーはそうは考えていない。とりあえずは,「二人の男」の「間」で,無言のうちに起こる「対話」についての独自の思考を深めていく。そのときのキーとなる概念が innewerden というわけである。こういうことを勘案して,わたしは,冒頭に列挙したような「訳語」を考えている。
すなわち,お互いに「交感する」ことによって,まったく新しいなにかが「芽生える」。それがつぎつぎに重なっていく。だから「萌の襲」。
これまでに経験したことのないなにかが,こころの内に,つぎつぎに「萌えいでてきて」,それはまるでなにものかによって「襲われている」かのようだ。しかし,それは限りなく心地よい。新たな<われ>への止むことのない変身。そこには「自己完結」する余地はまったくない。それどころか,つぎつぎに切り開かれて現前化する新しい「世界」との対応に嬉々として戯れることになるだろう。そこは,禅仏教でいう「遊戯三昧」の世界に近いと言っていいだろう。
それが,マルチン・ブーバーのいう innewerden という概念ではないか,とわたしは考える。
ご意見,ご批判をいただければ幸いである。
まず,最初に結論というべきか,わたしなりの「訳語」を提示しておくことにしよう。
マルチン・ブーバーのいう「実例」から浮かび上がってくる,わたしなりの訳語は以下のとおりである。「交信する」「交感する」「共振する」「共鳴する」。あるいは,別の視点に立てば,「立ち現れる」「目覚める」「生まれる」「芽生える」。もっと言ってしまえば「萌の襲」(もえのかさね)。
マルチン・ブーバーが innewerden などという概念を立ち上げて,どうしても言いたかったことはなにか。ここがポイントとなろう。
昨日のブログにも触れたように,観察も観照も,じつは「自己完結」する近代的自我(あるいは,意識)のもとにある。(わたしの考える「ヴィジョナリー」という概念が,ブーバーのいう「観照」に近いものだとすれば,かならずしも「自己完結」しているとはいえない。なぜなら,わたしの考える「観照」は若干ながら,自己(われ)の<外>に浸透していくことが前提となっているから。)しかし,この両概念につづけてブーバーが提起する innewerden は,明らかに自己(われ)の<外>に自己(われ)を解き放つことによって成立する事態のことだ。つまり,ブーバーのことばに置き換えれば,<われ>と<なんじ>の「間」(あいだ)ということになる。もっと言ってしまえば,<われ>からも一歩,<なんじ>からも一歩,お互いに自己の<外>に一歩ずつ踏み出してできる「共通の場」,すなわち,「間」に身もこころも解き放つことによって,初めて成立する<われ>と<なんじ>の関係性である。そこに生まれるものは,すでに,意識を超越している。
つまり,それまでの<われ>とは異なる別の<われ>になること。お互いがそうなること。そのときに,お互いの innen (内側に)になにかが werden (成る)する。そこで起こっていることは,これまでの<われ>とはまったく異なる,別次元の<われ>に成り代わっている,ということだ。そして,この「場」こそが「実在」の在り処だというのである。
この世界は,わたしのイメージでいえば,西田幾多郎のいう「純粋経験」の「場」とほとんど変わらない。だから,innewerden というドイツ語に「悟る」という訳語が充てられてもなんの不思議もないのである。坐禅のさなかにある<われ>は,もはや,日常の<われ>とはまったくの別次元にある。「無」の境地とはそういうことだ。ただ,坐禅の世界はただ一人で「無」の境地をめざす。かぎりなく<われ>を消去することによって,マクロコスモスのとの一体感を深めていく。つまり,ミクロコスモスとマクロコスモスとの一体化である。
しかし,ブーバーはそうは考えていない。とりあえずは,「二人の男」の「間」で,無言のうちに起こる「対話」についての独自の思考を深めていく。そのときのキーとなる概念が innewerden というわけである。こういうことを勘案して,わたしは,冒頭に列挙したような「訳語」を考えている。
すなわち,お互いに「交感する」ことによって,まったく新しいなにかが「芽生える」。それがつぎつぎに重なっていく。だから「萌の襲」。
これまでに経験したことのないなにかが,こころの内に,つぎつぎに「萌えいでてきて」,それはまるでなにものかによって「襲われている」かのようだ。しかし,それは限りなく心地よい。新たな<われ>への止むことのない変身。そこには「自己完結」する余地はまったくない。それどころか,つぎつぎに切り開かれて現前化する新しい「世界」との対応に嬉々として戯れることになるだろう。そこは,禅仏教でいう「遊戯三昧」の世界に近いと言っていいだろう。
それが,マルチン・ブーバーのいう innewerden という概念ではないか,とわたしは考える。
ご意見,ご批判をいただければ幸いである。
2010年10月25日月曜日
innewerden ということについて。その1.無言の対話・こころが通い合う。
マルチン・ブーバーのいう,innewerden ということについて考えてみたい。植田重雄訳の岩波文庫『我と汝・対話』の中では「会得」という訳語が与えられている。
翻訳の問題はとてもやっかいである。どこまで問い詰めていっても完全に一致する訳語というものはありえないからだ。したがって,もっとも近いことばを探し出し,当てはめていく以外にはない。あるいは,新しい訳語を創作するしかない。
ドイツ語のinnewerden という単語もとてもやっかいなことばである。ためしに,独和辞典を引いてみる。辞典ごとに訳語が異なる。それほどやっかいなことばであるということだ。たとえば,「気づく」「悟る」「なりきる」「感知する」などの訳語が充てられている。たぶん,訳者の植田重雄さんも相当に考えた末に「会得」という訳語にいたりついたに違いない。つまりは,新訳であり,創作である。このことばは,数日前のブログで書いた「観察」と「観照」につづけて「会得」が並んででてくる。テクストでいえば,P.184~188。
「観察者」は特徴の総和,「観照者」は実存,とマルチン・ブーバーはみごとに喝破している。そのあとにつづけて,ブーバーはつぎのように記述している。
「しかしこれによって彼らは行為を要求されたり,運命を背負うこともなく,すべては,切り離された知覚の領域でおこる事柄なのである。」
つまり,観察者も観照者も,特徴の総和と実存の違いはあれ,いずれも自分の行為や運命とは切り離された「知覚の領域でおこる事柄なのだ」というわけである。言ってしまえば,両者ともに「自己完結」しているということだ。そして,そういう観察者や観照者のレベルをこえた地平,つまり,「知覚の領域」を超越した領野で,人間の「内側」(innen)でなにかが「成る」(werden)という事態がおこる。その事態に対して訳者は「会得」という訳語を与えたのである。どれだけ深く考えた末の「創作」であったかが伝わってくる。
このことの内実というか,マルチン・ブーバーの具体的なイメージについては,「沈黙が伝えるもの」という見出しの文章のなかに詳細に記述されている(P.174以下)。少し長いが,イメージを明確にする意味でブーバーの記述を引用してみよう。
「わたしが頭にえがいていることを,実例で明らかにしよう。
この世界のどこか寂しいところで,お互いに隣り合って腰かけている二人の男を想い浮かべていただきたい。彼らは互いに話しもせず,相手を見もせず,一度もふり向くことすらしない。彼らは親しい間柄でもなく,相手の経歴なども全然知っていない。彼らはこの日の朝早く,旅行の途中で知り合ったにすぎない。今,彼らは相手のことなど考えていない。われわれもまた彼らがどんなことを考えているかを知る必要もない。一方の男も他方の男も同じペンチに腰をおろしているが,一方の男はその持前の気分からして明らかに平静で,何が起ころうとゆったりとすべてを迎え容れる気持が見られる。彼は何かをしようとしている構えはほとんどないが,しかしまさにそこに現実にいなければならぬものとしてそこにいるといった様子である。他方の男は,その様子からでは,どのような人間か分からないが,無口で抑制力のつよい人間である。しかしこの男をよく知っているひとならば,幼児性の閉塞の呪縛が彼にあること,彼の抑制の様子は,彼の態度とはまったく別のものであることが分る。彼のすべての態度の背後には,貫徹できぬ自己伝達不可能というものがある。ところで──われわれの心を締めつけている七つの鉄の輪を破ってしまうような瞬間の一つがあることを思い浮かべてみよう,──突如この男の呪縛がとけてしまう。しかしこの男は一言も話しかけるわけでもなく,指一つ動かすわけでもない。にもかかわらず,彼は何ごとかをなす。彼の行為によらずに,呪縛の解消が起こった。それがどこから生起したかは問わない。とにかく突如として起こった。しかし彼は今や彼自身だけが支配する力をもっている一つの隔意を自ら止めてしまうのである。すると彼から隔意なく伝達が流れ出,沈黙がこの伝播を隣りにいる男にもたらすのである。この伝達はこの男に向けられたのであり,すべて真の運命の出合いにたいしてこの男がいつもするように,この伝達は隔意なく受け取るのである。彼は自分が経験したことをだれにも語ることはできない。いや自分自身にさえできない。このとき相手の男について彼は何を<知る>であろうか。知ることはここでは必要ではない。なぜならば,人間と人間の間で隔意なきものが支配しているところには,たとえ言葉はなくとも,対話的な言葉が秘蹟的に生ずるのである。」
以上が,マルチン・ブーバーのいう innewerden の具体的なイメージである。この事態をひとまとめにする日本語にはどのようなものが考えられるであろうか。
(つづく)。
翻訳の問題はとてもやっかいである。どこまで問い詰めていっても完全に一致する訳語というものはありえないからだ。したがって,もっとも近いことばを探し出し,当てはめていく以外にはない。あるいは,新しい訳語を創作するしかない。
ドイツ語のinnewerden という単語もとてもやっかいなことばである。ためしに,独和辞典を引いてみる。辞典ごとに訳語が異なる。それほどやっかいなことばであるということだ。たとえば,「気づく」「悟る」「なりきる」「感知する」などの訳語が充てられている。たぶん,訳者の植田重雄さんも相当に考えた末に「会得」という訳語にいたりついたに違いない。つまりは,新訳であり,創作である。このことばは,数日前のブログで書いた「観察」と「観照」につづけて「会得」が並んででてくる。テクストでいえば,P.184~188。
「観察者」は特徴の総和,「観照者」は実存,とマルチン・ブーバーはみごとに喝破している。そのあとにつづけて,ブーバーはつぎのように記述している。
「しかしこれによって彼らは行為を要求されたり,運命を背負うこともなく,すべては,切り離された知覚の領域でおこる事柄なのである。」
つまり,観察者も観照者も,特徴の総和と実存の違いはあれ,いずれも自分の行為や運命とは切り離された「知覚の領域でおこる事柄なのだ」というわけである。言ってしまえば,両者ともに「自己完結」しているということだ。そして,そういう観察者や観照者のレベルをこえた地平,つまり,「知覚の領域」を超越した領野で,人間の「内側」(innen)でなにかが「成る」(werden)という事態がおこる。その事態に対して訳者は「会得」という訳語を与えたのである。どれだけ深く考えた末の「創作」であったかが伝わってくる。
このことの内実というか,マルチン・ブーバーの具体的なイメージについては,「沈黙が伝えるもの」という見出しの文章のなかに詳細に記述されている(P.174以下)。少し長いが,イメージを明確にする意味でブーバーの記述を引用してみよう。
「わたしが頭にえがいていることを,実例で明らかにしよう。
この世界のどこか寂しいところで,お互いに隣り合って腰かけている二人の男を想い浮かべていただきたい。彼らは互いに話しもせず,相手を見もせず,一度もふり向くことすらしない。彼らは親しい間柄でもなく,相手の経歴なども全然知っていない。彼らはこの日の朝早く,旅行の途中で知り合ったにすぎない。今,彼らは相手のことなど考えていない。われわれもまた彼らがどんなことを考えているかを知る必要もない。一方の男も他方の男も同じペンチに腰をおろしているが,一方の男はその持前の気分からして明らかに平静で,何が起ころうとゆったりとすべてを迎え容れる気持が見られる。彼は何かをしようとしている構えはほとんどないが,しかしまさにそこに現実にいなければならぬものとしてそこにいるといった様子である。他方の男は,その様子からでは,どのような人間か分からないが,無口で抑制力のつよい人間である。しかしこの男をよく知っているひとならば,幼児性の閉塞の呪縛が彼にあること,彼の抑制の様子は,彼の態度とはまったく別のものであることが分る。彼のすべての態度の背後には,貫徹できぬ自己伝達不可能というものがある。ところで──われわれの心を締めつけている七つの鉄の輪を破ってしまうような瞬間の一つがあることを思い浮かべてみよう,──突如この男の呪縛がとけてしまう。しかしこの男は一言も話しかけるわけでもなく,指一つ動かすわけでもない。にもかかわらず,彼は何ごとかをなす。彼の行為によらずに,呪縛の解消が起こった。それがどこから生起したかは問わない。とにかく突如として起こった。しかし彼は今や彼自身だけが支配する力をもっている一つの隔意を自ら止めてしまうのである。すると彼から隔意なく伝達が流れ出,沈黙がこの伝播を隣りにいる男にもたらすのである。この伝達はこの男に向けられたのであり,すべて真の運命の出合いにたいしてこの男がいつもするように,この伝達は隔意なく受け取るのである。彼は自分が経験したことをだれにも語ることはできない。いや自分自身にさえできない。このとき相手の男について彼は何を<知る>であろうか。知ることはここでは必要ではない。なぜならば,人間と人間の間で隔意なきものが支配しているところには,たとえ言葉はなくとも,対話的な言葉が秘蹟的に生ずるのである。」
以上が,マルチン・ブーバーのいう innewerden の具体的なイメージである。この事態をひとまとめにする日本語にはどのようなものが考えられるであろうか。
(つづく)。
2010年10月24日日曜日
大学卒業50周年を記念する同期会に参加。
大学を卒業してから,早いもので,もう50年が経過している。それを記念して同期会を開催するという案内をもらったときには,なんだか浦島太郎のような気分になった。
その同期会が今日あった。午後1時から開始。わたしは名古屋から急いで帰って,家で着替えをして,会場に駆けつける。開始直前ぎりぎりに飛び込む。すでに,ほとんどのメンバーが集まっていて,ウェルカムドリンクで顔を染めている人もいる。しまった,出遅れたか,と思いながら空いている椅子を探す。まもなく開会宣言があり,プログラムにしたがって会が進行していく。
入学したときの定員は,体育学科100名,健康学科50名。今日配布された名簿をみると,体育学科120名,健康学科54名,合計174名。これが実数なのだろう。そのうち,すでに鬼籍に入った人が20名。一割強である。この数字が多いのか少ないのか,わたしには判断できない。しかし,個人的な感情としては,多すぎる。なぜなら,そんなに急いで死んでしまっては困る人がこのなかに多いからだ。猪熊功(柔道・東京オリンピック金メダリスト),竹内善徳(柔道・全日本チャンピオン),安田矩明(陸上・棒高跳び・東京オリンピック出場),などという突出した人たちをはじめ,それぞれの分野で立派な仕事をしていた人たちが多い。残念なことだが,仕方がない。開会の冒頭で,黙祷をささげる。
幹事の人たちがまとめてくれた「寄せられた仲間達の近況および通信」という冊子を読んでいくと,欠席者の内情がおぼろげながら伝わってくる。本人がからだの調子をくずしていて,闘病中である人,家族に病人がいてその介護のために参加できない人,それから,大きな組織の長をしていて,その公式行事があるために自由に身動きがとれない人,などの三つのグループに分かれる。大活躍のために欠席は仕方ない(予想以上に多いことに驚く。みんな立派な仕事をしているんだなぁ,と)。しかし,病気や介護のために参加できないという人たちは気の毒だ。考えてみれば,みんな錚々たるスポーツマンばかりだ。だから,われわれのからだは満身創痍といっても過言ではない。かならずと言っていいほど,からだのどこかを痛めている。それをだましだましこんにちまで生きてきたのだ。みんな工夫に工夫を重ねて。
それを考えると,参加できる人たちは幸せなものである。基本的には元気であること,その上で,ある程度の時間的自由を確保できていること,しかも,軍資金も確保できていること,などの最低三つの条件をクリアしている必要がある。出席者の大半は元気印のかたまりみたいな連中である。顔色もいい。声も大きい。動作もきびきびしている。なによりも「眼力」がある。そういう人間に限って,歩んできた人生経験も面白い。だから,自然に会話がはずむ。こういう人間に出会うとこちらまで元気になってくる。
でも,5年前のこの会で,とても元気だった男が何人も欠席している。聞いてみると,肝臓を悪くして入院しているとか(飲み過ぎ),膝を痛めてひとりでは動けないとか(運動のやり過ぎ),脳溢血で倒れてリハビリ中(これが意外に多い)とか,みんなお馴染みのパターンにはまってしまっている。これらの話を大事な教訓としたい。
今回は50周年記念ということで,この会をもって収めの会にしたい,という森幹事長の意向もあって,「卒業後の50年をふりかえって」というスピーチを藤井英嘉君が代表して行った。これまたみごとな幹事長のアイディアである。藤井君こそ最高の適格者だから。かれは,みんなが共有していると思われる記録を,精力的にかき集めてきて(インターネットをフルに活用して),それらを上手に編集して,パワーポイントをつかってのみごとな話を展開した。華のある男だ。だから,学長にまで昇りつめることができたのだ。話のツボを心得ている。同期の連中も,話のうまさに引きこまれ,圧倒されながら,聞き入っていた。なんだか自分の手柄のように,嬉しかった。
二次会の席で,森幹事長から,「まだまだ,この回を継続したいという声が大きいので,お前,幹事長をやってくれないか」と声がかかる。まさか,わたしのような人間のところに,そういう声がかかるとは予想だにしていなかったので,いささか驚く。でも,仕方がないので「いまも,まだ,現役で仕事をしており,これからライフ・ワークの仕上げにとりかかろうとしているので,勘弁してくれ」と断る。「そんなに仕事が面白いのか」というから,「いま,人生でもっとも充実した時間をすごしている」と応答。不思議そうな顔をしている。そして,「そうか,それじゃあ仕方ないか」と話は早い。そのあとも,森幹事長は,これはと思う人に声をかけていたが,結局,だれも引き受けてはくれなかったようだ。もし,だれかが引き受けてくれれば,閉会の挨拶のときに,その紹介があったはずだ。あった話は,「残念ながら,幹事長の引き受けてがいない。だから,この会は今回をもって終了とする。以後は,小さいグループで,個別に開催して楽しんでほしい」のひとこと。それでも,フロアーからは「なんとかしてだれかやってくれ」という声が飛ぶ。森幹事長は「あとは,だれかが自主的に引き受けてくれる人がでてくることを待つのみ」と。
まあ,そういうことなんだろうなぁ,とわたしは納得。そして,こころの中で,あと5年後といえば(この会は5年に一度開催してきた),77歳から78歳,このとき幹事長ができる人間はまずいないだろうなぁ,と考える。もし,いたとしたら,それはすごい奴だ,ということになる。そこで,またまた,考える。よくよく考えてみれば,この同期会の中ではわたしが一番若い。つまり,3月26日生まれだから,これより遅く生まれた人間は同期の中にはいないはず。だとしたら,これまでお世話になってばかりきたのだから,少しぐらいは恩返しのつもりで,次回の仕掛け人のひとりになってもいいかなぁ,とちらりと脳裏をかすめる。つぎの瞬間,そうだ,次回は,藤井君の幹事長で,それをサポートする役にまわればいい・・・な,などと妄想を膨らませたりしている。
あとは,そのときのこころとからだの状態に委ねるしかない。
もし,それができるような状態でいられたとしたら,それこそ最高の幸せなのではないか,と。そうは問屋が卸さないだろうが,でも,楽しい夢はみないよりは,見続けた方がいい。夢と希望は生きる力の源だ。
まあ,こんなことをチラリとでも感じさせてもらったのが,今回の同期会に参加した,ひょっとしたらかけがえのない「おみやげ」だったのかな,と思ったりしてひとりでにんまりしている。
未完。
その同期会が今日あった。午後1時から開始。わたしは名古屋から急いで帰って,家で着替えをして,会場に駆けつける。開始直前ぎりぎりに飛び込む。すでに,ほとんどのメンバーが集まっていて,ウェルカムドリンクで顔を染めている人もいる。しまった,出遅れたか,と思いながら空いている椅子を探す。まもなく開会宣言があり,プログラムにしたがって会が進行していく。
入学したときの定員は,体育学科100名,健康学科50名。今日配布された名簿をみると,体育学科120名,健康学科54名,合計174名。これが実数なのだろう。そのうち,すでに鬼籍に入った人が20名。一割強である。この数字が多いのか少ないのか,わたしには判断できない。しかし,個人的な感情としては,多すぎる。なぜなら,そんなに急いで死んでしまっては困る人がこのなかに多いからだ。猪熊功(柔道・東京オリンピック金メダリスト),竹内善徳(柔道・全日本チャンピオン),安田矩明(陸上・棒高跳び・東京オリンピック出場),などという突出した人たちをはじめ,それぞれの分野で立派な仕事をしていた人たちが多い。残念なことだが,仕方がない。開会の冒頭で,黙祷をささげる。
幹事の人たちがまとめてくれた「寄せられた仲間達の近況および通信」という冊子を読んでいくと,欠席者の内情がおぼろげながら伝わってくる。本人がからだの調子をくずしていて,闘病中である人,家族に病人がいてその介護のために参加できない人,それから,大きな組織の長をしていて,その公式行事があるために自由に身動きがとれない人,などの三つのグループに分かれる。大活躍のために欠席は仕方ない(予想以上に多いことに驚く。みんな立派な仕事をしているんだなぁ,と)。しかし,病気や介護のために参加できないという人たちは気の毒だ。考えてみれば,みんな錚々たるスポーツマンばかりだ。だから,われわれのからだは満身創痍といっても過言ではない。かならずと言っていいほど,からだのどこかを痛めている。それをだましだましこんにちまで生きてきたのだ。みんな工夫に工夫を重ねて。
それを考えると,参加できる人たちは幸せなものである。基本的には元気であること,その上で,ある程度の時間的自由を確保できていること,しかも,軍資金も確保できていること,などの最低三つの条件をクリアしている必要がある。出席者の大半は元気印のかたまりみたいな連中である。顔色もいい。声も大きい。動作もきびきびしている。なによりも「眼力」がある。そういう人間に限って,歩んできた人生経験も面白い。だから,自然に会話がはずむ。こういう人間に出会うとこちらまで元気になってくる。
でも,5年前のこの会で,とても元気だった男が何人も欠席している。聞いてみると,肝臓を悪くして入院しているとか(飲み過ぎ),膝を痛めてひとりでは動けないとか(運動のやり過ぎ),脳溢血で倒れてリハビリ中(これが意外に多い)とか,みんなお馴染みのパターンにはまってしまっている。これらの話を大事な教訓としたい。
今回は50周年記念ということで,この会をもって収めの会にしたい,という森幹事長の意向もあって,「卒業後の50年をふりかえって」というスピーチを藤井英嘉君が代表して行った。これまたみごとな幹事長のアイディアである。藤井君こそ最高の適格者だから。かれは,みんなが共有していると思われる記録を,精力的にかき集めてきて(インターネットをフルに活用して),それらを上手に編集して,パワーポイントをつかってのみごとな話を展開した。華のある男だ。だから,学長にまで昇りつめることができたのだ。話のツボを心得ている。同期の連中も,話のうまさに引きこまれ,圧倒されながら,聞き入っていた。なんだか自分の手柄のように,嬉しかった。
二次会の席で,森幹事長から,「まだまだ,この回を継続したいという声が大きいので,お前,幹事長をやってくれないか」と声がかかる。まさか,わたしのような人間のところに,そういう声がかかるとは予想だにしていなかったので,いささか驚く。でも,仕方がないので「いまも,まだ,現役で仕事をしており,これからライフ・ワークの仕上げにとりかかろうとしているので,勘弁してくれ」と断る。「そんなに仕事が面白いのか」というから,「いま,人生でもっとも充実した時間をすごしている」と応答。不思議そうな顔をしている。そして,「そうか,それじゃあ仕方ないか」と話は早い。そのあとも,森幹事長は,これはと思う人に声をかけていたが,結局,だれも引き受けてはくれなかったようだ。もし,だれかが引き受けてくれれば,閉会の挨拶のときに,その紹介があったはずだ。あった話は,「残念ながら,幹事長の引き受けてがいない。だから,この会は今回をもって終了とする。以後は,小さいグループで,個別に開催して楽しんでほしい」のひとこと。それでも,フロアーからは「なんとかしてだれかやってくれ」という声が飛ぶ。森幹事長は「あとは,だれかが自主的に引き受けてくれる人がでてくることを待つのみ」と。
まあ,そういうことなんだろうなぁ,とわたしは納得。そして,こころの中で,あと5年後といえば(この会は5年に一度開催してきた),77歳から78歳,このとき幹事長ができる人間はまずいないだろうなぁ,と考える。もし,いたとしたら,それはすごい奴だ,ということになる。そこで,またまた,考える。よくよく考えてみれば,この同期会の中ではわたしが一番若い。つまり,3月26日生まれだから,これより遅く生まれた人間は同期の中にはいないはず。だとしたら,これまでお世話になってばかりきたのだから,少しぐらいは恩返しのつもりで,次回の仕掛け人のひとりになってもいいかなぁ,とちらりと脳裏をかすめる。つぎの瞬間,そうだ,次回は,藤井君の幹事長で,それをサポートする役にまわればいい・・・な,などと妄想を膨らませたりしている。
あとは,そのときのこころとからだの状態に委ねるしかない。
もし,それができるような状態でいられたとしたら,それこそ最高の幸せなのではないか,と。そうは問屋が卸さないだろうが,でも,楽しい夢はみないよりは,見続けた方がいい。夢と希望は生きる力の源だ。
まあ,こんなことをチラリとでも感じさせてもらったのが,今回の同期会に参加した,ひょっとしたらかけがえのない「おみやげ」だったのかな,と思ったりしてひとりでにんまりしている。
未完。
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