2013年12月31日火曜日

鎌田東二著『聖地感覚』(角川ソフィア文庫,2013年)を読む。「生態智」を提言。

 小学生から大学生になるまでの間,わたしは田舎の小さな禅寺で育った。だから,寺というものの存在の仕方を内側から肌で感じ取り,無意識のうちに骨肉化していたように思う。それはどういうことかというと,寺の境内にはさまざまなパワー・スポットがあって,そこに近づくことを忌避したり,ときには惹きつけられたりする。そういう感覚が,いわゆるふつうの仕舞屋(しもたや)で育った人たちよりもほんの少しだけ敏感なような気がする。

 わたしくらいの年代の人であれば,子どものころに感じた鎮守の森の神秘感を記憶しているに違いない。かつての神社や寺院は,どこもこんもりとした森につつまれていた。そこには一種異様な空気が流れていた。それをわたしたち子どもは日常的に感じ取っていた。そこは通俗的な世間の空間とは異なる神秘の宿る聖なる空間だった。それを感じ取る感覚,すなわち「聖地感覚」。

 この神秘の源泉であった鎮守の森が伐採され,社殿や寺院が明るくなったことによって,わたしたちの「聖地感覚」が鈍麻されてしまった。その結果,こんにちの子どもたちは,わたしたちとは異なる,まったく別種の,言ってしまえばサイエンティフィックな「聖地感覚」が育っているらしい。その元凶はなにを隠そう,敗戦後のアメリカによる占領政策のもとで展開された生活の合理化運動が,いまとなっては大きな影を落としているように思う。

 それはともかくとして,鎌田東二さんは人間が自然と真っ正面から向き合ったときにおのずから生ずる「聖地感覚」を取り戻すことが,とりわけ,「3・11」以後の日本人にとっては不可欠であり,喫緊の課題である,と熱っぽく説く。そのエッセンスがびっしりと詰め込まれた本,それがこの『聖地感覚』である。

 鎌田さんの主張する「聖地感覚」は,ひとことで言えば「生態智」(エコソフィア)だという。そして,このことばを以下のように定義づけている。

「生態智」とは,「自然に対する深く慎ましい畏怖・畏敬の念に基づく,暮らしの中での鋭敏な観察と経験によって練り上げられた,自然と人工との持続可能な創造的バランス維持システムの技法と知恵」であるとわたしは定義している。

 そして,そのような定義にいたるプロセスを,さまざまなフィールドワークをとおしてからだで感じ取れるようになってきたことを力説している。その一部を紹介しておくと,以下のとおりである。

 理性知よりも,もっと深く大きな身体知というものに目覚めるだろう。ニーチェは『ツァラトゥストラかく語りき』の中で,「身体は大きな理性」だと語ったが,まさに頭脳の中の小さな理性を超え,それを包み込む「大きな理性」としての「身体理性=身体知」に目覚めるだろう。そして,その「身体知」がこの宇宙・世界・自然の中にある脈動・律動・情動をクリアに感じとり,察知し,洞察する中で「生態智」を学び,わがものとしていくのだということがよくわかってきた。

 わたしたちがいま享受てしいる現代文明の対極に位置づくもの,それが「生態智」だ。現代文明が「理性知」を求めつづけた結果が,「3・11」となって現出した。だから,そこから思い切って舵を切り直し,いま一度,見失ってしまった「身体知」をとりもどし,その「身体知」をとおして宇宙・世界・自然と交信・共鳴・共振させることによって「生態智」を学び,わがものとしていこう,と鎌田東二さんは力説する。

 この本を読みながら,もうずいぶん昔のことになるが,スポーツ史学会のシンポジウムにお招きして,お話を伺ったことがある。そのとき,石笛を鳴らして聞かせてくれた。人工的な手がひとつも加えられていない,自然のままの穴の開いた石,その石に人の息を吹き込むことによって自然の石が蘇生する。その音色のなんと神秘的なことであったことか。

 この自分のからだから出る息を吹き込むことによって自然の石が鳴り響く。この音をとおして,わたしのからだと自然とが交信をはじめ,やがて一体化していく。これは単なる自然回帰ではない。それは新たなる自然存在としての人間のあり方への道を拓くものだ。わたしの関心事に引きつけて言わせてもらえば,近代の臨界点をかろうじて通過したのちの,後近代を生きる人間の存在様態を指し示すものだ。鎌田東二さんのまなざしはまぎれもなくそこに向かっている。

 大づかみに言うと,この本はそういう本だ。しかも,奥の深い本だ。したがって,この本の細部については,また,機会を改めて書いてみたいと思っている。とりわけ,第三章 聖なる場所の秘密,一.三輪山──「ミワ」という聖地感覚の秘密,については詳細に分析してみたいと考えている。まったく新たな三輪山論が展開されていて,興味津々である。わたしの追っている野見宿禰論にも大きな影響力を与えずにはすまされない,強烈な仮説の提示である。

 まずは,鎌田東二さんの「生態智」の提案に,じっくりと耳を傾けてほしい。お薦めである。
 

2013年12月30日月曜日

父猿之助との葛藤を乗り越え,中車を襲名した香川昭之に期待大。芸能の底力に触れる。

 29日,遅い朝食をとっていたら,NHKテレビが再放送のいい番組をやっていた。NHKスペシャル・密着300日,歌舞伎に挑む香川昭之,父・猿翁の秘めた思い。

 すでに俳優としての地位を確立していた香川昭之が,あえて歌舞伎俳優となる決意をしてから,中車を襲名するまでの300日を追ったドキュメンタリー。その迫力ある内容に触れ,久しぶりに鳥肌が立った。なにに? 歌舞伎という芸能のすさまじさに。親子の縁も断ち切ってしまうほどの「魔力」が歌舞伎の世界には生きているということに。そのことを充分に承知の上で,あえて挑戦しようという香川昭之に。最初から最後まで,ピーンと張りつめた空気が流れている。

 香川の父・猿翁は先代の猿之助。母は女優の浜木綿子。香川が生まれてまもなく両親は離縁。それも,父の芸能魂に火がついた,というただそれだけの理由。ひとしなみの家庭を営み,家族の愛情にひたることが芸能の道の支障となる,と。そう考えて親子の縁を切る。以後,一度もこの親子は対面していない。香川が成人してから父を尋ねていくと,父は冷たく「あなたとはなんの関わりもありません。父でも子でもありません。もう,二度と尋ねてくるな」と追い返してしまう。

 以後,香川は父の本心がどこにあるのか,と考えつづける。香川は母・浜木綿子に育てられ,東大を卒業した俊才である。父にも人間としてのやさしい心がどこかにあるはずだ。にもかかわらず,その心をあえて押し殺して生きる道を選んだのはなぜか,その理由が知りたい,と。でも,父は会ってはくれない。

 父・猿之助(離縁当時)は,歌舞伎界の常識を破る新たな挑戦をつぎつぎに繰り広げる。世にいう「スーパー歌舞伎」だ。意表をつく「早変わり」「宙づり」,斬新な「隈取り」など,つぎつぎに「新工夫」を繰り出す。当時の歌舞伎界では異端児として扱われ,批難ごうごうだった。それでも猿之助の芝居は面白い。人のこころを虜にしてしまう,そんな魅力があった。ヨーロッパ遠征でも大成功し,ようやく歌舞伎界でもその存在を大きく認めざるをえなくなる。

 40歳を過ぎた香川がふたたび父との接触をはかる。しかし,会ってはもらえない。が,その父が脳梗塞で倒れ,猿之助の芸名が甥の市川亀次郎に引き継がれることになる。そのころから,父の態度に変化が表れる。親子の接触が少しずつ可能となり,ついに,香川は父に歌舞伎の世界への入門を申し出る。そして,弟子入りをはたす。40歳台半ばをすぎてからの歌舞伎界への転身である。異例のできごとである。

 父はリハビリに励む。香川は異例の「中車」襲名のための稽古に入る。からだの自由を奪われ,言語の障害も残る父の前にひれ伏して,渾身の稽古を重ねる。父も香川の一挙手一投足を眼光鋭くみつめながら,ことこまかな注意を与え,何回も何回も繰り返させる。それに応えて,必死の形相で台詞回しの稽古をつづける。汗まみれの顔なのか,涙にくれる顔なのか,その区別さえつかないほどの全身全霊をこめた稽古ぶりに,わたしはいたく感動した。いまどき,どの芸能の世界で,これほどの厳しい稽古が行われているだろうか。一対一の真剣勝負だ。いわゆる「面授」。

 こうして香川の芸能魂に火がつく。なりふり構わず,父の指導に食らいつく。一歩も引かないその姿勢がすばらしい。真っ向勝負にでている。こうして「中車」襲名披露のための,血のにじむような,いや,満身創痍と言ったほうがいい,そういう「行」が積み上げられていく。

 その裏で,父は,あれで舞台が勤まったとしたら,それは奇跡にも等しい,と周囲にもらす。その奇跡を起こすべく香川はまっしぐら。その熱情に周囲も動かされ,みんなが香川を支援する。そうか,歌舞伎の世界は Leidenschaft (気も狂わぬばかりの情熱)が勝負なのだ,と納得。かぶく,とはこういうことなのだ,と。

 おそらくは,香川自身もこの火のでるような稽古をとおして父の真意をつかみとったに違いない。そして,自分の長男の「団子」襲名披露のための稽古にも気配りをする。この団子がまた素晴らしい。まだ,幼子だが,じつに聡明な顔をし,台詞回しもみごと。祖父の猿翁も,孫は別のようで,かわいくて仕方がない。そうして,この子はわたしよりいい歌舞伎俳優になれるよ,とにこにこ顔で太鼓判を押す。それを素直に受け止めている団子の将来もまた楽しみだ。

 祖父・猿翁の身辺で遊び,父が,俳優香川昭之を捨て,歌舞伎俳優の中車となる,その瞬間瞬間を空気のように吸って育つ。これもまたすさまじいと思う。祖父の隠居姿と,父の死と再生。そして,みずからの団子としてのスタート。これらが同時進行しながら,団子の血となり肉となっていく。

 歌舞伎は奥が深い。こんど新歌舞伎座で中車の芝居がかかったら,ぜひ,見にいきたいと思った。そして,芸能の底力をみとどけてみたい。猿翁の遺伝子がみごとに中車のなかに引き継がれ,花開いていく,その姿をこの眼で。

 猿翁は,若くして歌舞伎のなかにある異次元世界の魅力に触れてしまったに違いない。そこに手がかかってしまった以上,もはや後には引けない。歌舞伎界の異端児と中傷されながらも,わきめもふらず,一心不乱に新しい工夫を加え,沈滞気味の歌舞伎界に新風を吹き込んだ。中車も,いまではからだをとおして,猿翁の真意を受け止めていることだろう。

 稽古ですら,あれだけの迫力満点の演技や台詞回しができていて,それをテレビでみているわたしが感動するのだから,やはり,新歌舞伎座で生の公演をみてみたい。間違いなく,歌舞伎界に新しいヒーローの誕生である。これで,猿之助を襲名した市川亀次郎のこころにも火がつき,ますます迫力満点の,そして円熟した舞台をみせてくれることだろう。この相乗効果ははかりしれないものがあろう。そこに団子がからむ。いよいよ楽しみだ。
 

2013年12月29日日曜日

脱原発,特定秘密保護法廃案,などを掲げる宇都宮健児さんを都知事に。

 宇都宮健児さんが,再度,東京都知事選挙に挑戦するという。昨日(28日)の講演会で,その強い意志を表明。講演会要旨を新聞で読んで,深く感動しました。そして,なにより「いいなぁ」と思ったのは,「わたしの主張を支持してくれる政党があれば,それは断らない」という,どこまでも独立独歩「無所属」(市民派)の姿勢を貫いていることだ。こういう人にこそ,東京都の知事になっていただきたい,と。この前の選挙のときも,この人がいいと思っていたが,惜しくも次点。こんどこそ,と祈りたい。

 「脱原発」を旗印に,「安倍政権の暴走を止める」と高らかに宣言し,「東京から国政を変える」とする,いわば国政選挙の姿勢を示した。まことに時宜を得た明察に,こころから賛同の意を表したい。そして,後出しじゃんけんのような選挙を全面的に否定。市民運動はそういう利権がらみの選挙とは無縁である,と。そして,国民の命を犠牲にしてまで経済を優先させる国の政策に歯止めを打つ,と。その第一歩が「脱原発」である,と。

 ここからさきの分析は,それぞれの関心領域によって分かれていくと考えられますので,わたしは2020年の東京オリンピックとの関連で考えてみたいと思います。

 2020年の東京オリンピック開催は,まず,なによりもフクシマの安全を確保することが最優先だ,というのが宇都宮健児さんの主張。まさに,正論。いまも日々,汚染水が海に流れ出ているかぎり,この事実に蓋をするようなオリンピック開催であってはならない,と。そのためにも,脱原発をかかげ,まずは,新潟県柏崎の刈羽原発の廃炉を,東京電力の総会で,大株主である東京都が提案しなければならない,と宣言。

 フクシマが,いま,どのような情況になっているのかは,その重要なポイントについてはすでに「秘密」になったままだ。12月上旬に急遽発行された雑誌『世界』の臨時増刊号は「イチエフ・クライシス」を特集し,各専門家の声を集めている。その特集の柱は4本。Ⅰ.イチエフはいまどうなっているのか,汚染水問題の現状は,Ⅱ.福島の現在──原発事故は何をもたらしたのか,Ⅲ.東電・原子力ムラをどうするか,Ⅳ.たたかいはつづく。東京オリンピックを成功させたいと願う人は,まずは,この本を熟読することからはじめてもらいたい。でなければ,東京オリンピックは原発事故隠しのためのたんなる手段でしかなくなってしまう。

 その意味でも宇都宮健児さんの主張にわたしは大いに賛成。

 つづいて,オリンピック開催会場の建設は,復興を第一優先にして,人手不足,資材不足という深刻な現状を鑑み,可能なかぎり縮小して無駄な経費を削減する,と断言している。人として,当たり前のことを言っているにすぎないのだが,いまの政治家の大多数は「人」ではないので,こんな発言はしない/できない。すでに,悪評の高い「新国立競技場」問題も,この人の手によって一気に解消してもらいたい。

 JRの中央線を跨ぐような,とてつもなく巨大な「新国立競技場」の建設などもってのほかである。そんな競技場を東京のど真ん中の,しかも,風致地区に建造する必要はなにもない。第一,建造後の維持管理費にも,とてつもない費用がかかる,と言われている。すでに,各種競技場を含めると,東京および首都圏には巨大な競技場があちこちに建造されている。まるで,古代ローマの断末魔の風景にも等しい。「パンとサーカス」はもう不要だ。

 最後にもう一点だけ。現在の安倍政権がつづくとオリンピック開催は不可能だ,と主張。アメリカですら反対する靖国参拝を強行するかぎり,中国・韓国との緊張が高まるだけだ。しかも,軍事色をますます鮮明にしつつある現状では,オリンピックという「平和と友好の祭典」を開催する上で大きな支障をきたす,と。

 こうした事態を憂慮しつつ,安倍政権の暴走に歯止めをかけ,無駄な経費を削減して縮小オリンピックを,それも,これまでのオリンピックとは一味違う新機軸を打ち出したい,という。この新機軸を東京発の新しいオリンピック・ムーブメントとして世界に発信する,という。この考え方を,わたしは全面的に支持したい。できることなら,宇都宮健児知事のもとでオリンピックの新しい理念づくりの支援をしたい,とも思うほどだ。

 こういうことを考えはじめるとエンドレスになるので,今日のところはここまで。

 結論:東京都民のみなさん! 脱原発,特定秘密保護法廃案,などを掲げる宇都宮健児さんを都知事に。そのための市民運動に力を,そして,大きなうねりを。

2013年12月28日土曜日

世の中,官公庁は仕事収めとか。わたしも大掃除にとりかかるか,とぼんやりした頭で考える。

 むかしから掃除は苦手。机上の整理も苦手。仕事の裁き方も苦手。最近はとくにはなはだしい。
苦手と言えば聞こえはいいが,なーに,ただ横着なだけ。そして,自分勝手なだけ。もっと言ってしまえばわがままなだけ。そのことは自分が一番よく知っているつもり。知っていることと,できるかできないかは別のこと。

 官公庁の勤め人は昨日(27日)でことしの仕事納めだったらしい。新聞をみて,あっそうか,と思う。フリー・ワーカーにはその感覚はない。わたしの場合は,いつも,書けないままの原稿の締め切り日に怯えながら,暮れも正月もなしに,だらだらと日々を過ごす。急いで書いてしまえばいいものを・・・といつも書き終えたあとには思う。これも生来のわがまま・意志薄弱に起因する,悪しき習性。あとの祭り,後悔あるのみ。ただ,それだけ。わかっちゃいるけどやめられない。好きでやめられない晩酌と同じ。

 いい歳をしてまだこんなことを言っている自分が恥ずかしい。それどころか,加齢とともに子ども返りをしていて,だんだん幼児のようにわがままになってくる。自分でもよくわかっているつもり。なにもかも我慢がきかなくなっている。堪え性が枯渇している。だから,すぐに怒る。ちかごろは怒る相手はもっぱらテレビ。とくに,ニュース番組。辺野古埋め立て容認だとッ! 靖国参拝を強行だとッ! 片っ端から吼えまくる。吼えたことは少し時間を空けて冷まし,できるだけ冷静になってからブログに書く。そうして,ほんの少しだけ昇華させて,バランスをとることにしている。そうしないとやってられない。

 フリー・ワーカーには曜日は関係ない。だから,今日(28日)をことしの仕事収めと自分で勝手に決めて,大掃除にとりかかろう。と,まずは理性がそう指示する。とは言っても力仕事はもうできない。からだが言うことをきかない。だから,自分の身の回りの片づけだけ。それだけでも,じつはたいへんなのだ。ことしは築後30年が経過したマンションの部屋の中の給排水管の取り替え工事が行われたので,そのときに一時的に荷物を段ボール箱に入れて片づけた。応援部隊に手伝ってもらって。が,その段ボール箱がまだそのままになって残っている。だから,まだ,生活のペースがもとどおりにはなっていない。

 冬の衣類もまだどれかの段ボール箱に入ったまま。早くみつけだしておかないと春がきてしまう。と,いくらかは焦りつつ,一向にからだは動かない。理性とこころとからだはますます別物になっていく。身心一元論なんて,最近は信じないことにしている。それどころか,理・心・身が,それぞれに好き勝手なことを要求してくる。その多くはみんな別方向を向いている。だから,いとも簡単に宙づり状態になる。だから,そのままなにもしないで,いや,なにもできないまま,悶々と時間をやりすごすことになる。というか,ぼーっと無為に時間をやりすごす。

 こんなときに,ふと脳裏をよぎるのは「幕引き」。そうか,これからは加齢とともに,ますますこういう時間が増えてくるに違いない。父の晩年を思い出す。好きな散策からもどるとベッドに横になり,中空に向かって指で文字を書いている。どういう文字を書いているのか,と聞いてみる。頭に浮かんだ文字を書いている,という。しかし,よくみるとその指の動きは,何回も何回も同じだ。同じ文字が頭に浮かんでは消え,浮かんでは消え,を繰り返しているらしい。

 ふと,存在と時間の関係はどうなっているのだろうか,と考えたことがある。いまや,そのように考えたわたしが,同じことを何回も何回も繰り返し考えている。考えているつもりでいる。しかし,実際にはなにも考えていないに等しい。なぜなら,いつまで経っても新しい考えは浮かんではこないのだから。同じ考えのままリングヴァンデルング(Ringwanderung )している。

 そこには時間の観念は消えているので,あっという間に時間は過ぎ去っている。こうして,ことしも一年が過ぎ去ろうとしている。毎日,毎日,大掃除をしよう,しなければならない,と理性はいう。しかし,こころは今日はやめにして明日にしようと主張する。からだは完全に拒否反応をしめして,どうすれば楽ができるか,と主張する。

 ああ,こうしてことしも暮れていく。
 そんなことの繰り返し。そのインターバルがどんどん短くなっていく,というのが実感。
 いよいよ幕引きのときが近づいてきたようだ。覚悟のほどはいいか,と自分に聞いてみる。いいんじゃないの,とぼんやりしたままの理性とこころとからだが答える。ここだけは一致する。それもまた不思議。

 加齢とは?
 サクセスフル・エイジングとは?
 と考えてみる。こうしてことしも暮れていく。あと3日。
 

長松禅寺の奇祭「どんき」のつづき。からす天狗と狐の関係について。

 昨日(27日)のブログを読んだ柴田さんから,早速に,新しい情報を提供していただきましたので,追加のブログを書いておきたいと思います。

 それは,からす天狗と狐がこの祭りの主役として登場することの根拠についてです。柴田さんから写真が送られてきたときには,「なんとも不思議な祭りです」とありましたので,わたしもそのまま受け止め,勝手な想像力をふくらませてしまいました。が,この間に柴田さんは,すでにつぎなるアンテナを張っていて,思考が進化(深化)していました。


 柴田さんのメールには以下のように記されていました。
 「添付は可睡齋の「あきやさま」の護符です。
 三尺坊はからす天狗の姿で描かれており,白狐に乗っております。
 どんきの白狐や天狗は,この護符に基づいたものと思われます。」

 なるほど,送信されてきた護符をみますと,白狐の背中の上にからす天狗が立っています。この白狐とからす天狗を主役にした祭りだからこそ「秋葉祭り」であり,それが,いつしか「どんき」と呼ばれるようになったという次第です。

 この護符には「秋葉三尺坊大権現」と書かれており,三尺坊が修験道の行者であったことが明らかです。ついでに,三尺坊のことを調べてみましたら,つぎのようにありました(Wikipedia)。

 由来:秋葉山の山岳信仰に,信州出身の修験者である三尺坊を没後に秋葉三尺坊大権現として御前立ちとして祀ったことが起源である。三尺坊は,越後の長岡蔵王権現の十二坊の第一である三尺坊に篭もって修行したのが,その名の由来であり,観音菩薩の化身とされた。遠州大登山秋葉寺から勧請された秋葉社が全国に広まった。

 可睡齋は,右の護符の下に書いてありますように,秋葉総本殿のことであり,遠州・袋井にあります。ここが禅宗であり,ここの末寺が秋葉寺です。このようにたどってみますと,秋葉祭りが長松禅寺に伝承されていても不思議ではありません。

 もっとも,「あきやさん」「あきやさま」信仰をたどっていきますと,これはこれでまた面白い話がいっぱいあるようです。ただ,遠州と三州にこの秋葉信仰が深く根づいた背景には,どうやら徳川家康が一枚噛んでいたようです。そのことと明治の廃仏毀釈の問題があって,秋葉祭りがさまざまな変遷をとげることになったようです。この問題はまた,別の機会に考えてみたいと思います。

 取り急ぎ,柴田さん提供による新しい情報に基づき,昨日のブログを補正させていただきました。この「どんき」という奇祭に,下佐脇の子どもたちが一喜一憂している映像をみると,やはり「お祭り」はいいなぁと思います。こういう祭りを先祖代々共有することによって,下佐脇の子どもたちは下佐脇の人となっていくのですから。この子どもたちが成人すると,こんどは「白狐」(子どもたちは「ホワイトコンコン」と呼んでいる)やからす天狗となって,紅ガラを塗る役割をにない,つぎの世代の子どもたちを追いかけるようになります。

 シモーヌ・ヴェイユが「根をもつこと」ということの意味の一つはここにもあるのだなぁ,としみじみ思います。

 柴田さん,ありがとう。また,いろいろと教えてください。

気仙沼市のTさんからのメール。仮設住宅でのご苦労の様子や近況など。

 ブログを書くことの功罪はさまざまですが,ときおり,ブログを読んだ人からメールがとどくことがあります。共感しましたというメールはとても嬉しいのですが,ときには毒づかれて傷つくこともあります。そんななかで,東日本大震災で被災された方からいただくメールは,つい緊張してしまいます。そのつど,わたしの日常のゆるさに気づかされ,大いに反省することしきりです。ですので,何回も読み返しては,失礼のないように返信することにしています。

 そんな被災された方のなかのお一人に,気仙沼市のTさんがいらっしゃいます。12月8日のメールに,初めて写真を添付してくださったので,ようやくTさんのお顔を知ることができました。なにかの身分証明書のお写真のようで,「わたしの近影です。若いころの写真は手元に一切ありません」とありました。なるほどと納得しながら,お顔をとくと拝見。わたしより少しお若い方ではないかな,と想像しています。

 何回ものメールのやりとりでわかってきたことは,以下のようなことです。ご本人のことばによれば,もともとは役人でしたが,奥さんの実家の家業を手伝うようになってしばらくして「3・11」の津波に会われたとのこと。その後,仮設住宅での生活を余儀なくされました。けれども,なんとかして家業を再開させたいと希望をいだいて役所との交渉を重ねてこられました。が,こんにちにいたるもなんの展望もえられないまま,辛い日々を送っていらっしゃいます。

 こんどのメールにはたくさんの添付資料がありました。
 たとえば,「平成24年11月28日の市長への要望書とその回答」というものや,「岩手日報」に掲載された記事や,奥さんの独身時代の写真や,論文「いわゆる科学的なるものについての一考察」や,奥さんが雑誌に投稿された「読者の手記」,といったものがありました。

 論文「いわゆる科学的なるものについての一考察」は,物理学に関する高度な内容で,わたしのような理系に弱い人間にはとても歯が立たないレベルのものでした。そこに登場する人物も物理学の重鎮ばかりです。しかも,そこにマルクスの理論が盛り込まれています。手紙の末尾には,「マルクス・コレクション」があれば読みたいとあり,わたしはたじろいでしまいました。

 また,わたしが書いたメールに「金曜日の首相官邸前にはできるだけでかけるようにしていますが,メディアはほとんど無視していて困ったものだ」と記しましたところ,「運動主体の側にも問題があるのではないか,もっとメディアを動かすだけの力をつけるべきだ」とチクリとやられてしまいました。かつては相当の活動家でいらしたな,とこれはわたしの想像。

 さらに,手紙の中には,うーんと唸らされてしまう文章が織り込まれています。たとえば,つぎのような文章がありました。
 〇復興とは,これまでの,この日本の抱えていた矛盾を拡大再生産することでしかなかったのか,それが現在の結論です。
 〇仮設住宅とは,普通に暮らし,普通に生活を再建しようと決意した住民にとってはその意欲を次第に鈍麻させるシステムではないかと思います。

 被災直後のショックは相当なものであったとご本人が書かれています。そして,そこからの気持の整理はまだつかないまま,いまも役所との交渉を重ねながら,日々格闘していらっしゃるとのことです。でも,最近は小説を書き始めているので,ある程度,書けたら送ります,とありました。この文章に接して,わたしは大いに安心しました。こういう意欲が湧いてきたのであれば,このさきは大丈夫だ,と。

 いつの日か,Tさんは家業再開の夢を,そして,奥さんは編み物をする夢を,実現されるに違いない,と。その道はまだ遠いのかもしれません。が,その日がやってくることを,わたしも陰ながら応援したいと思っています。「いつかお会いしたい」とTさん。わたしも同感。どこかでタイミングを見つけたいと考えています。

 寒いのは苦手ですので,春になって暖かくなったら,と。まだ,一度も訪れたことのない気仙沼市の地に立ってみたいと思います。そこでなにを感じ,なにを考えるか,自分を試してみたいと。

 Tさん,それまでお元気で。若くて美しい奥さんによろしく。
 

2013年12月27日金曜日

長松禅寺の奇祭「どんき」。神仏混淆時代の名残りか。穂国(ほのくに)の匂いも。

 ことしも友人の柴田晴廣(『穂国幻史考』の著者)さんから,たくさんのお祭りの写真を送ってもらいました。「穂国」(ほのくに)は愛知県三河地方の古称。どうやら「瑞穂国」の由来とつながっているらしいのです。つまり,日本の古代史にかかわるきわめて重要な根っこのひとつが,穂国・三河にある,というわけです。そのことは柴田さんの主著である『穂国幻史考』で詳細に論じられています。それを読むと,三河で育ったわたしには,そこはかとなく日本古代のロマンが伝わってきます。柴田さんももちろん穂国に生まれ育った人で,穂国の主のような住人です。

 その柴田さんが,四季折々に催される穂国の各地のお祭りを,毎年,欠かさずフィールドワークされていて,そのときに撮影された写真のおこぼれをわたしが頂戴している,という次第です。

 今回は,その一部を紹介してみたいと思います。
 表題にも書きましたように,長松禅寺(愛知県豊川市御津町の下佐脇)に伝わる奇祭・どんきについてです。残念ながら,わたし自身はまだ見たことのない祭りです。もっぱら,柴田さんの写真から想像力をたくましくして,あれこれ考えていました。が,柴田さんはこの「どんき」という祭りをビデオ映像でみることができる,その方法も教えてくれました。


 それは「こちら三河放送局」(http://allmikawa.tv)でした。早速,開いてみましたら,いくつものヴァージョンの映像(ここ数年の祭りの映像)をみることができ,この祭りの雰囲気もとてもよくわかりました。とても面白い祭りですので,ぜひ,ご覧になってみてください。

 まつりの概要をごくかんたんに紹介しておきますと,以下のとおりです。
 「どんき」とは秋葉祭のことで,火防(ひぶせ)のお祭りです。もともとは「どんき」とは撞木(しゅもく)のことで,この祭りに登場する狐(3),天狗(赤,青)がこの撞木に紅ガラを塗って,それを子どもたちの顔に塗りつけるのです。紅ガラを塗られた子どもは無病息災で,丈夫な子に育つというわけです。それでも,狐や天狗が塗るわけですので,小さな子どもたちは逃げ回ります。その手にもつ撞木(紅ガラ)が主役です。この撞木がいつしか「どんき」と呼ばれるようになったというのです。12月の第三日曜日にこの祭りが行われるようです。



 じつは,この祭りの行われる寺や下佐脇という場所には,わたしのごく個人的なわけありの事情があって,とりわけ興味をもったという次第です。

 わけあり,などと意味深なことを書いてしまいましたが,きわめて個人的なわたしにとってのわけありであって,それ以外には他意はありません。

 一つは,長松禅寺,通称・長松寺という名前です。といいますのは,わたしの育った寺の名前は長松院。場所もそんなに遠くはありません。しかも禅宗ですので,同系です。が,それ以上のなにかがあるということは聞いたことがありません。が,わたしにとっては他人事ではありません。なにかつながりがあるに違いありません。調べれば,なにかわかってくるのではないか,とひそかに期待しています。が,いまは,なにもわかってはいません。

 二つには,この寺のある下佐脇という集落は,わたしの祖母の出たところです。いまも,この集落には親戚の家があります。が,子どものころに母に連れられて一度だけ行った記憶はありますが,いまは親戚づきあいはありません。ですので,尋ねて行って名乗りをあげれば,わかってもらえるとは思いますが・・・・。もう,直接,会った記憶のある人はだれもいません。が,そんなところにこんな珍しいお祭りが伝承されているというのですから,やはり,他人事ではありません。

 三つには,この寺に伝わっている奇祭・どんきは,火防(火伏せ)の祭りで秋葉祭りと呼ばれているということです。ということは,秋葉神社(静岡県周智郡春野町)の祭りということになります。秋葉神社といえば,火難よけ(火伏せ)の信仰と火祭りで有名です。この地方には,むかしから「秋葉さん」と親しまれていて,村の代表者が秋葉神社に代参に行き,御札(火伏せのお守り)をもらってきてくばる,という習俗がありました。そして,どこの家にもかまどがありましたから,その近くの壁や柱に張って,一年間の火伏せを祈っていました。わたしが子どものころには,間違いなく張ってありました。いまは,かまどがなくなってしまったでしょうから,どうなったかは知りません。
 これは,わたしの想像ですが,どんき(撞木)のさきに紅ガラ(赤)を塗ってあるのは,おそらく火祭りの「たいまつ」の代わりではないかと思います。そのどんきを狐や天狗が手に持って,子どもたちを追いかけるのですから,少し考えてみれば奇怪しな話ではあります。とりわけ,狐がたいまつを手に持つわけがありません。が,そこはあまり厳密に考えない方がいいでしょう。秋葉さんと狐や天狗はなんの関係もないと思います。狐は豊川稲荷が近くにありますし,天狗も修験道場がむかしはあったと聞いていますので,そういうものとの習合によるものだと思います。
 寺も神社もお稲荷さんも修験道も,ありがたいものはなんでもござれの神仏混淆時代の残滓が,いまもこの長松寺で伝承されていることに意味があると思います。近代合理主義の世界に生きているわたしたちからすると,まことに矛盾だらけの,奇怪しな話に聞こえるかもしれません。しかし,わたしのような考え方をする人間にとっては,むしろ,この方がいかにも日本人らしい伝統的な生き方ではないか,と嬉しくなってしまいます。

 四つには,この寺のある下佐脇から西に少し歩けば三河湾があり,その海岸は,そのむかし持統天皇が伊勢からわたってきて上陸したところだといわれています(このあたりのことは,柴田さんの『穂国幻史考』に詳しい)。いまはすっかり埋め立てられてしまって様変わりをしてしまいましたが,わたしが子どものころには,御馬(おうま)の海岸と呼ばれ,松林が並び,別荘があって,海水浴場としても知られていました。この御馬という地名のところに引馬神社があります。なぜ,馬なのか,というのがわたしの頭のなかをよぎります。この話は長くなってしまいますので,残念ながらここは割愛。持統天皇つながりで触れておきたいことは,この下佐脇から海岸沿いに西北に行けば,額田郡があります。額田王のゆかりの土地だとも聞いています。持統天皇ときて,額田王と並べると,そこはもはや天武天皇の時代のあの謎に満ちた,怪しげな時代の匂いがぷんぷんとします。おまけに,この地方には小便をすることを「まる」(放る)という雅びなことばが,いまも用いられています。

 というあたりで,このブログは終わりにしておきます。じつは,ここまで書いたらもっと書いておきたいことが山ほどでてきました。いつか,このつづきを書くことにして,今日のところはここまでとします。
 

2013年12月26日木曜日

アーベー首相靖国参拝。なぜ,この最悪のタイミングで。アメリカまで不快感。

 
 ほんとうにあったかどうか,ちょっと信じられないような話からはじめよう。

 アーベー首相が,父シンタローの秘書をつとめていたときの話。父が重篤の病と闘っている病室でひとりで看病していました。このお坊っちゃまは退屈したのか,病室の入口から一番遠い病床の陰に隠れるようにしてゲームに夢中になっていました。そこに自民党の幹部(患部)が入ってきました。にもかかわらず,なにも気づかず,ゲームに熱中していました。たまりかねた自民党の患部(幹部)は大声で怒鳴りつけたといいます。すると,このお坊っちゃまはあわててゲーム機をうしろに隠しました。そして,悪ぶれるふりもなく,なにごともなかったかのように振る舞まいました。あきれはてた自民党の幹部は,そのまま黙ってやりすごしたといいます。

 嘘だか本当だかわからないような,こんな逸話が残っています。

 父親の今際の際の大事な看病中でも,自分のやりたいことはやる,というお坊っちゃまの自己中心主義的な根性はいまも変わらないなぁ,とわたしなどはあきれ果てつつ,感心してしまいます。並の人間にはとてもできることではありません。

 今日(26日)の東京新聞夕刊の一面トップに大きな活字で「安倍首相 靖国参拝」とかき立てられ,「現職7年ぶり」「小泉氏以来 政権発足1年で」「中韓強く反発」「外交孤立化の恐れ」という小見出しが躍っています。

 2面,8面,9面にも関連記事が書き込まれています。2面には,「横暴」「怒り」中韓非難,中国「歴史の正義に挑戦」,韓国「侵略戦争を正当化」,「公明不快感『残念』」,首相一問一答,「政権1年の歩み報告/中韓に説明したい」,とあり,8面には,「独裁ここに至れり」,「同盟国も不愉快」 ,憲法判断は示さず・現職首相の参拝で最高裁,つづいて9面には,「年の瀬参拝 騒然」,「物議醸さないで」,「周辺,物々しい警備」と大きな活字が躍っています。

 ここまで書いてきたら,もう,なにも書きたくなくなってしまいました。あまりの馬鹿馬鹿しさに,それを批判する気力もありません。この暴挙の問題点を大まじめに指摘する気力がなくなった,ということです。あきれてものも言えません。もう,いい加減にしてくれ,という気分です。

 落ちるところまで落ちたものだ,と。この政権のさきゆきにはなんの希望も期待もできません。むしろ,継続することが迷惑ですらあります。できることなら,第一次アーベー内閣のときと同様に,急に「お腹が痛くなって入院」し,政権を投げ出してほしいとすら請い願います。もはや,国際社会に対しても,継続すること自体が恥ずかしい,そんな気分です。

 だれか,猫の首に鈴をつける,勇気ある側近はいないものかと祈るばかりです。

 唐突ですが,このブログはここまで。

〔追記〕
 とうとうアメリカまで不快感を示しています。これでは,敗戦直後から営々と積み上げてきたアメリカに対する「自発的隷従」者としての努力も水の泡です。ますます,政権を投げ出すタイミングが近づいた,と言っていいでしょう。

 あの冷静沈着というか,パッション不足というか,江田五月さんですらみずからのメールマガジン(第1339号・2013年12月26日)で,吼えています。
 

「3000億円」は眼くらまし。沖縄の戦後処理はまだ終わってはいない。

昨日(25日),仲井真知事と首相との対談が行われ,とうとう仲井真知事が辺野古埋め立てを承認するみとおしだという。おやおや,である。3000億円の手土産で,一区切りつけようというのだろうか。これではことの本質を見失ってしまう。

メディアもほとんど報道しないので,わたしたちはつい忘れがちであるが,米軍の普天間基地がどのようにして建造されたのか,この経緯をはっきりと想起しておく必要がある。

そもそも普天間基地は,米軍が沖縄本土に上陸してすぐ,そこに住んでいた住民が避難してだれもいない間に,地ならしをして,勝手にでっちあげた代物である。戦争とはそういうものだ。占領した土地はどのように使おうと勝った者の自由だ。

しかし,戦争が終わり,米国の統治がはじまり,まがりなりにも沖縄の平安は回復し,住民たちがもとの家にもどろうとしたら,そこはすでに飛行場になっていた。帰る家・土地もないまま,放り出されたままの苦労がつづく。やがて,本土復帰をはたし,本土並の平和を享受できるものと信じた人々の夢は破れ,なしくずし的にこんにちに至る。普天間は相変わらずのままだ。気がつけば「日米地位協定」なるものがあって,日本政府は米国になにも異議申し立てをする権利もなく,ただ「隷従」するのみだ。それどころか,敗戦直後から日本はアメリカにたいして「自発的隷従」の姿勢をとった(その経緯は,最近の西谷修さんのブログに詳しい)。しかも,いまではそれが日常化し,日本政府のアメリカに対する「自発的隷従」が当たり前になってしまった。

それに対して,沖縄では絶えることなく普天間の基地移転(県外移設)を求める住民運動が辛抱強く展開されてきた。この運動に対して,さすがのアメリカも良心がとがめたのか,移転を考えざるをえなくなってきた。そうして,こんどは普天間の代替地を要求してきた。しかも,沖縄県内に。そうして日米合意をえた場所が辺野古である。沖縄県民の意志を無視した頭越えの日米交渉の結果である。

これは,一見したところ,もっともな理由のように聞こえる。しかし,よく考えてみると変だ。戦争中とはいえ,どさくさに紛れて飛行場がつくられてしまった。言ってみれば,強盗に家・土地をとられてしまったので,それを返せと言ったら,じゃあ代わりの土地を寄こせ,と強盗に居直られ,凄まれたに等しい。沖縄県民が怒るのは当然のことだ。

しかし,日本政府は,沖縄県民の意志を無視して,アメリカへの忠誠と自発的隷従を貫きとおした。唯一,鳩山由紀夫首相が「国外移設」を主張し,悪くても「県外移設」を,と正論を吐いた。とたんにアメリカからプレッシャーがかかり,あっという間にこの政権は倒れてしまった。

そうして,今回は,仲井真知事が矢面に立たされ,日米両政府から強烈なプレッシャーがかかったと伝え聞く。そうして,3000億円という「手土産」で手を打つという暴挙にでた。言ってみれば,仲井真知事の顔を立てて,辺野古埋め立てへの道を,無理矢理開かせた,ということだ。

復興予算をちらつかせはしたものの,普天間の5年以内の撤去については名言を避けている。オスプレイの飛行計画を半減させるとか,日米地位協定の改定のための協議をはじめることに合意したとか,牧港補給地区の7年以内の全面返還要求にも「返還促進チームを設置」と応答したとか,いずれも「確約」はひとつもないのである。

IOCの総会で,フクシマは「under control 」と平然と言ってのける厚顔無恥の首相の「口約束」は,まったく信用がならない。努力したが,実現できなかった,と言っておしまい,という結末が透けて見えてくる。つまり,「空手形」でしかない,そんな気がしてならない。

沖縄では,昨日も一昨日も,沖縄県庁を取り囲む県民集会が開かれ,1,500人が「鎖」をつくって県庁を封鎖したという。今日(26日)はもっと多くの県民が駆けつけるに違いない。明日(27日)には,仲井真知事が「決断」をくだすという。

ヤマトンチュも手を拱いて,黙っているわけにはいかない。どんなに小さくてもいい。なんらかの行動を起こし,みずからの姿勢を提示し,その意志を鍛え,強化していくことが肝要だ。

いったい,日本列島はどこまで沈没していくのだろうか。
憂国の士よ,いでよ。

2013年12月25日水曜日

大相撲初場所番付発表。稀勢の里,みえてきた「綱」。13勝以上で優勝なら「綱」という。まだ,早い。

 
 年の瀬のあわただしいこの時期に,早くも大相撲初場所の番付が発表された。初場所の最大の話題は,なんといっても稀瀬の里の綱とりだ。横綱審議委員の一部には,13勝以上で優勝なら横綱昇進もある,という声があがっているとか。しかし,それは間違いだ,というのがわたしの意見。全勝優勝でもまだ早い,とわたしは考える。

 日本人横綱の誕生を待ち望む気持はよくわかる。しかし,急いてはことをし損じる。折角の大器である。ここはじっくりと大成するのを待ちたい。精神的なハードルは高いほどいい。そこをクリアしてこその大横綱の誕生である。

 稀勢の里が大関に昇進したとき,まだ速すぎる,とわたしはこのブログに書いた。その当時,すでに間違いなく大器だ,ということはだれの眼にもみえていた。しかし,大関昇進にはそのタイミングというものがある。あわてて昇進させてしまうと,力士に慢心が生まれ,そのあと伸び悩むことがある。わたしはそれを心配して,もう一場所みてからでも遅くはないのではないか,と書いた。

 そこには,貴乃花の横綱昇進のときの記憶がはっきりとわたしの頭にあったからである。貴乃花は,横綱昇進の条件をクリアしたのに,横綱審議委員会は「まだ,速すぎる」として,一場所見送られた。わたしは貴花田の時代からのファンだったので,とても悔しかった。本人の貴乃花はもっと悔しかったに違いない。しかし,逆に,これで貴乃花の闘争心に火がついた。そして,これまで以上に奮起した。なにくそっ!と。そして,ひとまわりもふたまわりも大きくなって,横綱の地位を手に入れた。そして,もののみごとに大横綱の名をほしいままにした。

 あの土俵上での落ち着いた立ち姿。表情ひとつ変えない平常心。双葉山がめざした「木鶏」の姿をそこにみることができた。その点,白鵬はまだまだだ。相手を「睨む」レベルにある。つまり,自分に気合を入れると同時に,相手を睨みすえて萎縮させる魂胆がみえみえである。勝負師としては,まだレベルが低い。日馬富士の方が一枚上手だ,とわたしはみる。

 こんな貴乃花の好例があったので,稀勢の里の大関昇進は,もう一場所見送った方がいい,と考えた。しかも,このとき大関昇進の条件を完全にはクリアできていなかった。にもかかわらず,日本人横綱を早くつくりたいという世論にも押されて,見切り発車的に大関が誕生した。だからというわけでもないのだろうが,結果的には,稀勢の里はあしぶみをしてしまった。

 型にはまったときには滅法強いが,その型をはずされてしまうと意外にもろく,無駄なとりこぼしが多かった。先場所も,出だしでふたつも,とりこぼしをしてしまった。これがなければ,先場所はもっともっと盛り上がったことだろう。しかし,そのショックをはねのけて,全勝街道をまっしぐらの両横綱に土をつけた。それも文句なしの勝ち方で。それはまことに立派。

 その点では,先場所は大きな収穫があった。前半のどたばた相撲と,後半の自分の型に持ち込む相撲。この違いを稀勢の里はからだで知ったことだろう。自分の型に持ち込めば,横綱であろうと気にすることはない,と。しかし,ひとつだけ気がかりなところがある。それは勝ったときの「ドヤ顔」である。おれはこんなに強いんだ,と言わぬばかりの顔をする。これはいけない。まだまだ精神的な修養が足りない。勝っても負けても,淡々とした顔にならないといけない。

 横綱の理想は「木鶏」である。双葉山が「いまだ木鶏たりえず」と名言を吐いたことで知られるように,これは至難の技である。わたしの記憶では,千代の富士と貴乃花の二人が絶好調だったころは,顔色一つ変えることなく淡々と仕切り直しをし,立ち合いと同時に先手をとり,自分の得意の型に持ち込む。そして,勝っても負けても淡々とした顔をしていた。まさに,双葉山が理想とした「木鶏」を,この二人は体得していたと思う。

 さきにも書いたように,この点,白鵬は,まだまだ睨みがきつすぎる。仕切り直しの間,ずっと相手を睨み付けている。こんなに睨まなくてもいいのに,と思うほどだ。メディアは大横綱と高く評価するが,わたしの評価はけして高くはない。いつも書くように,ほかの力士が弱すぎるので,結果的に優勝回数が多くなっているだけのことだ。ここに朝青龍がいたら,こうはならなかっただろう。

 その証拠は日馬富士の存在だ。かれが絶好調のときには白鵬は一度も勝ったことがない。このことをだれよりもよく知っているのは白鵬自身だ。だから,どの力士とも大きな差があるとは思っていない。細心の注意を払い,全力を振り絞る。ここが白鵬のいいところでもある。

 稀瀬の里は,あわてることはない。まずは,何勝でもいいから優勝することだ。そして,二場所連続優勝で「綱」を手に入れればいい。日馬富士は二場所連続で全勝優勝してみせた。それでも足首の具合が悪くて負けがこむと,横綱審議委員から「横綱の資格がない」と批難の声があがった。これは本末転倒だ。自分たちが横綱に推挙しておいて,この批難はあたらない。むしろ,みる眼がなかったことを反省して,横綱審議委員を辞任すべきだろう。

 こんなことも視野に入れると,稀瀬の里は,まずは連続優勝でその壁を突破しよう。それだけの力がついていることは間違いないのだから。あとは,精神的な強さをわがものとすること。そのためにはハードルは高いほどいい。貴乃花の例がいい例だ。そして,「木鶏」を目指そう。

 はてさて,初場所の展開やいかに。白鵬が巻き返すか,体調万全のまま日馬富士が連続優勝をめざすか,それとも先場所同様にこの二人を撃破して,こんどこそ優勝を手にいれるか稀瀬の里。このほかにも注目すべき力士が何人もいる。その人たちを含めて,初場所が大いに盛り上がることを期待したい。 

2013年12月24日火曜日

ヒイラギはクリスマスの木?,それとも節分の木?

 今日(24日)は,多くの日本人がにわかクリスチャンになって,クリスマスを言祝ぐ日。あるいは,ただ,クリスマスケーキを食べる日。もちろん,ホテルが満室になる日でもある。なんともはや,日本人が何人でもない,国籍不明人になる,まことにめでたい日。自己を忘れ,自己ではない他者と一体化する日。

 信仰心の篤い仏教徒はひたすら仏に帰依(きえ)することに専念する。真のクリスチャンもまた神にわが身も心も捧げ,イエス・キリストと一体化するためにひたすら祈る。これすなわち,自己を捨てて,他者と一体化することを是とする宗教の原点の姿。自発的隷従の基。

 この議論はともかくとして,なぜ,クリスマスにはヒイラギが飾られるのか,わたしは長い間,不思議だった。同時に,なぜ,節分の日にヒイラギと鰯の頭を戸口に飾るのか,これも不思議だった。そして,なぜ,洋の東西を問わず,「ヒイラギ」なのか,と考えていた。しかし,この問題,考えてみるとなかなか面白い。

 そこで調べてみたら,意外なことがわかって,驚いた。
 まずは,クリスマスとヒイラギの関係。

 ヒイラギは英語で,holly.  この発音が,聖なる夜の英語 holy night の holy とよく似ているので,クリスマスの夜には,holy とひっかけて, holly を飾ることになった,と辞典に書いてあった。なーんだ,そんなことだったのか,といささかあきれてしまった。意外に根も葉もない話が,宗教の世界では大まじめに受け止められ,大まじめに継承されていることが多い。そして,いつのまにか,もともとはこうだったんだよ,という元の話も忘れられていく。この話もその一例。

 でも,ヒイラギの木の枝が,なんともみごとにクリスマスの飾り物にマッチしているように見えるのも,考えてみれば不思議ではある。人間とは不思議なもので,生まれたときから身のまわりにあるものは,なんの抵抗もなく受け入れ,無意識のうちに骨肉化し,一体化してしまう。だから,クリスマスにはヒイラギの木の枝は必須不可欠のアイテムの一つになっている。これもまた,自発的隷従? いや,こちらは無意識の隷従? しかも,この慣習行動に隷従している方が心地よい。まるでだれに束縛されることもなく「自由」にみずから選択しているかのように。かくして,隷従と自由の境界はどこかに消え去ってしまうことになる。

 おやおや,いつのまにか,エチエンヌ・ド・ラ・ボエシの『自発的隷従論』の話になってしまった。それほどに,いま,わたしの頭のなかは西谷さんが仕掛けたラウンドテーブルの議論でいっぱいになっている。自発的隷従は,わたしたちの生活習慣の細部のなかにもさまざまに組み込まれていて,それがある種の潤滑油として機能していることも多い。問題は,自発的隷従が権力関係となって,わたしたちの生活をがんじがらめにして,身動きがとれなくしてしまう,そういう人為的な構造となるところにある。だから,それとこれとは区別して考えないといけない。

 というわけで,こんどは日本の節分とヒイラギの関係について。
 これも調べてみたら,よく知られるように「イワシの頭も信心から」という類のものでしかないということがわかってきた。つまり,豆まきと同じように鬼を家の中に入れないためのまじないでしかない。さらに,もとをたどっていくと,中国から伝わった追儺(金色の眼を四つもった鬼を追い払う儀礼)にゆきつく。この話は調べればすぐにわかることなので,ここでは割愛。

 で,今日は快晴の青空が広がり,とてもいい天気だったので,いつもの植木屋さんの屋敷にあるヒイラギの写真を撮る。ちょうど,いまにも開花する寸前のとてもいいタイミング。しかも,クリスマス・イブ。そのヒイラギの写真を最後に掲げておく。毎年,この花が咲くのを眺めるのも,わたしの楽しみの一つ。冬はとりわけ花が少ないシーズンなのでなおさら貴重な花。真夏の暑い盛りに花を咲かせるサルスベリと同じように,わたしは尊敬している。

 
 
 

どこまで暴走するのか。武器三原則を逸脱して「銃弾1万発」を韓国軍に譲渡するという。

 なにを考えているのやら,あきれ返ってものも言えないとはこのこと。人道上の必要性があるとはいえ,武器三原則を逸脱してまてして,「銃弾1万発」を韓国軍に譲渡することはないだろう。こうしてなし崩し的に軍隊をもつ「強い日本」へとまっしぐら。

 こうなったら,アーベ首相の鼻の下にちょび髭をつけた写真を額に入れて飾ろう。そして,Heil ! Hitler ! と叫ぼう。ただし,額縁の色は「クロ」。できれば額縁の周囲を Hakenkreuz (カギ十字)の模様でにぎにぎしく飾りたてよう。そうして朝晩といわず,暇さえあれば拝もう。拝んで,拝んで,拝み倒そう。「この野郎ッ!」と一声叫んで。

 圧倒的多数を議会で確保すればなにをやってもいい,と小学生のような多数決民主主義をアーベ首相は選択し,実行している。もちろん,政府自民党のこの暴挙を止められないのは野党の非力につきるのだが,そういう選挙をしてしまったわれわれの責任でもある。それにしても,公明党はなにをしているのだろうか。

 もう一度,振り返っておこう。この間の選挙で自民党が圧倒的多数の議席を確保したとはいえ,その内実である得票率はわずか22%にすぎない,ということを。このたった22%の国民の支持を背景に,絶対的な「信」を得たかのようにアーベ首相は振る舞う。この頓珍漢ぶりは断じて許されるものではない。しかも,議会での充分な審議もしない。審議の答弁もでたらめ。提出されている法案が修正中なのでお答えできません,と担当大臣が答える始末。それなら,とりあえず法案を引き下げて,修正後に再提出し,再審議をすればいい。それもしない。議会無視。それは民主主義をも逸脱する暴挙でしかない。しかも,緊急動議による強行採決で押し通す。

 かつて,こんな政権が存在しただろうか。どの政権も,ここだけは「守る」としてきた「武器三原則」を,いともかんたんに「例外措置」として解釈し,それで押し通し,平気なのだ。これが明らかに憲法違反であることは,だれの眼にもわかる。その肝心要の監視役であった法制局長の首もすげ替えたので,もう,なにも恐いものはない,とでもいうかのように。

 こうなったら,法はいかようにも解釈可能となってしまう。もやは,法治国家の名が廃る。法を逸脱してもだれも止められない国家であるなら,いっそのこと「放置」国家と名乗りを変えよう。それが現実の姿なのだから。憲法ですら,解釈によっていかようにも運用ができるとし,そのように運用しようとする,そういう政権なのだから。

 その典型的な例が「一票の格差」だ。最高裁ですら,「違憲状態」ではあるが,選挙は「無効」ではない,という。三権分立ということを,敗戦後間もない中学生のときに教えてもらったはずだが,その精神はどこに消えてしまったのか。毅然とした態度を貫きとおすべき司法までもが,いつのまにやら骨抜きにされてしまっている。つぎの選挙のときには,選挙「無効」を主張した最高裁判事だけを残して,あとは,みんな「×」をつけよう。

 最後の砦となっていたはずの「武器三原則」ももはや意味をなさないとなれば,あとは,軍国主義国家に向かってまっしぐら。アーベ首相の思うつぼ。

 やはり,これは拝み倒すしかなさそうだ。拝むたびに,一声,大きな声で「この野郎ッ!」と叫んで。それは,わたしたち自身がこの政権の暴走とその危険性に馴染んでしまわないための装置として不可欠だ。

 昨日のブログに書いた,川満信一さんの「琉球共和社会憲法」の前文を思い起こそう。そのサワリの部分をいま一度引いておこう。

 「・・・・われわれは非武装の抵抗を続け,そして,ひとしく国民的反省に立って「戦争放棄」「非戦,非軍備」を冒頭に掲げた「日本国憲法」と,それを遵守する国民に連帯を求め,最後の期待をかけた。結果は無残な裏切りとなって返ってきた。日本国民の反省はあまりにも底浅く,淡雪となって消えた。われわれはもうホトホトに愛想がつきた。
 好戦国日本よ,好戦的日本国民者と権力者共よ,好むところの道を行くがよい。もはやわれわれは人類廃滅への無理心中の道行きをこれ以上共にはできない。」

 わたしは,ただ,ただ,恥じ入るばかり。川満さんに対して顔向けもできない。だから,こんどこそは許してはならない,と覚悟を決めるのみ。
 

2013年12月23日月曜日

「琉球共和社会憲法C私(試)案」(川満信一・1981年)を読む。

 12月21日(土)の西谷さんが企画したラウンドテーブル「自発的隷従を撃つ」のフィニッシュで登壇された川満信一さんは,その第一声で「これが隷従の顔です」と言ってみずからの顔を指さし,会場を笑いに誘いました。そして,内容のとても重い詩を朗読され,会場のこころが一つになって,これで終わりというところで,唐突に「もう一時間ください」と言って笑いを誘い,爽やかに降壇されました。このユーモアがまた川満さんの魅力でもあります。

 川満信一さんという詩人の存在については,ときおり,どこかの雑誌に掲載されていた詩をとおして,ずいぶん前から,わたしなりに注目してきました。しかし,本人にお会いし,お話をするという機会はありませんでした。ところが,昨年の夏に開催された「奄美自由大学」(今福龍太主宰)で,初めて川満信一さんにお会いすることができました。それも,沖縄の那覇空港でばったりお会いし,奄美大島までのフライトが一緒でした。そんなこともあって,奄美での2泊3日の「奄美自由大学」の期間中,とても近しくお話をさせていただきました。

 なかでも,二日目の夜,それも深夜,12時をまわってほとんどの人は眠りについたというのに,川満さんを囲んで,作家の姜信子さん,田口ランディさん,その中にわたしも入って,大いに盛り上がっていました。その折に,川満さんは仏教の奥深さについてお話をされました。まさか,沖縄の人が仏教についてお話をされるとは思ってもいませんでしたので,わたしもつい興奮して,川満さんのお話に参加させてもらい,ずいぶん深いところまで話が進展していきました。

 そんなことを川満さんがご記憶であったのかどうかはわかりませんが,ラウンドテーブルが開始する直前の時間をみつけて,ご挨拶に川満さんのところに伺いました。すると,「稲垣さん」と声をかけてくださり,「奄美は楽しかったね」と第一声。わたしは感激して両手で握手。川満さんも両手で握ってくださり,感動の一瞬でした。

 このラウンドテーブルのために用意され,配布された,かなり大部の印刷物のなかに「琉球共和社会憲法C私(試)案」のコピーが入っていました。わたしは,ずいぶん前に読んだことのある懐かしさを思い出しながら,再度,この文章を読んでみました。そうしたら,以前,読んだときとはまったく違う,胸の奥深くにまで突き刺さってくる,強烈な衝撃を受けました。

 ヤマトンチュであるわたしは「甘い」「甘かった」という,それ以上の説明の仕方がわからない,とまどいを感じました。それは,1972年に沖縄が本土復帰をはたしたものの,そのときの期待はまったくの夢のまた夢でしかなかったという,絶望をバネにして,ついに本土に見切りをつける川満さんの決意表明がそこに刻まれているからです。

 それが,川満さんの「琉球共和社会憲法C私(試)案」(『新沖縄文学』81年6号)でした。まさに,身を切る思いで書かれた川満さんの「憲法私案」の前文は,つぎのように書かれています。わたしのからだに電撃が走りました。

琉球共和社会憲法
(前文)
 浦添に驕るものたちは浦添によって滅び,首里に驕るものたちは首里によって滅んだ。ピラミッドに驕るものたちはピラミッドによって滅び,長城に驕るものたちもまた長城によって滅んだ。軍備に驕るものたちは軍備によって滅び,法に驕るものたちもまた法によって滅んだ。神によったものたちは神に滅び,人間によったものたちは人間に滅び,愛によったものたちは愛に滅んだ。
 科学に驕るものたちは科学によって滅び,食に驕るものたちは食によって滅ぶ。国家を求めれば国家の牢に住む。集中し,巨大化した国権のもと,搾取と圧迫と殺りくと不平等と貧困と不安の果てに戦争が求められる。落日に染まる砂塵の古都西域を,あるいは鳥の一瞥に鎮まるインカの都を忘れてはならない。否,われわれの足はいまも焦土のうえにある。
 九死に一生を得て廃墟に立ったとき,われわれは戦争が国内の民を殺りくするからくりであることを知らされた。だが,米軍はその廃墟にまたしても巨大な軍事基地をつくった。われわれは非武装の抵抗を続け,そして,ひとしく国民的反省に立って,「戦争放棄」「非戦,非軍備」を冒頭に掲げた「日本国憲法」と,それを遵守する国民に連帯を求め,最後の期待をかけた。結果は無残な裏切りとなって返ってきた。日本国民の反省はあまりにも底浅く,淡雪となって消えた。われわれはもうホトホトに愛想がつきた。
 好戦国日本よ,好戦的日本国民者と権力者共よ,好むところの道を行くがよい。もはやわれわれは人類廃滅への無理心中の道行きをこれ以上共にはできない。

 以上が(前文)で,このあとに第一章 基本理念,そして,第二章,第三章,第四章,第五章,とつづきます。これらの内容については,いつか,また,機会をみつけて論じてみたいと思います。それは,わたしたちがいま生きている資本主義社会を完全に否定した,川満さんの思い描く理想の「共和社会」が描写されています。

 ここからさきは,相当に思考を練り上げてからでないと書けないほどの,濃密な川満さんの思想が織り込まれています。ので,その問題は,またの機会にしたいと思います。取り急ぎ,今回はここまでとしたいと思います。

 まずは,なにより,川満さんの「琉球共和社会憲法C私(試)案」の前文を存分に堪能してみてください。わけても,「琉球共和国憲法」とはいわず,「琉球共和社会憲法」と名づけたところに注目してみてください。その根拠も,この「前文」のなかにみごとに書き込まれています。たとえば,「国家を求めれば国家の牢に住む」以下の文章に明白です。

 そして,この「前文」の最後のところで引導をわたすようにしてヤマトンチュへの決別の辞を書きつけています。すなわち「好戦国日本よ,好戦的日本国民と権力者よ,好むところの道を行くがよい。もはやわれわれは人類破滅への無理心中の道行きをこれ以上共にはできない」と。

 そこに盛り込まれた川満さんの情念はすさまじいものがあります。それでいて,文章全体は詩文のような美しさに満ちあふれています。川満さんの激情と思考の深さに,わたしは感動あるのみです。

 取り急ぎ,今日のところはここまで。
 

この4日間,密度の濃い時間を過ごしました。まさに,師走。

 師走とはよく言ったもので,あれやこれやと一年分の雑用が吹き溜まり,その後始末に茫然自失,でもなんとかしなくてはと焦っています。その上,突発的なできごとがあると,もう,大変です。この4日間,いつもにもまして多忙にあちこち走り回り,まさに師走を体験していました。そのあらましは以下のとおりです。

 12月19日(木)通夜式(愛知県豊橋市)
 12月20日(金)告別式(同上)+初七日
 12月21日(土)ラウンドテーブル「自発的隷従」を撃つ。東京外国語大学。
 12月22日(日)「ISC・21」12月東京例会+マンション管理組合分科会。

 といった具合でした。一歳しか年齢が違わない義姉を見送るのはなんとも複雑な気持でした。長い闘病生活ののちのことでもあり,義姉の生涯について考えてしまいました。そのせいか,いつもはほとんど聞いてもいないお経の経文がやけに耳に入ってきました。とりわけ,「修証義」は読み下し文になっていますので,そのまま耳に入ってきました。生も死も違いはないのだ,という道元さんの教えをわかりやすく説いた,経文です。この経文は,なんと明治になってから,道元さんが書いた『正法眼蔵』から抜粋して編まれたものです。ですから,とても現代的な色彩の強い内容になっています。そんなこともあって,よりいっそうわたしたちの耳にも馴染みやすいのでしょう。

 また,一方では,「仏縁」といいますように,もう長い間,会ったことのなかったいとこや遠い親戚の人たちとも,近しくことばを交わすことができました。ひとしきり昔話をしたり,その後の空白を埋め合わす話をしたり,みんなわたし同様に高齢化していますので,そこはかとなく人生を振り返ってしまいました。そして,いよいよ順番がくる・・・・と身に染みました。ですから,去年,西谷さんに言われた「幕引き」ということばが重くのしかかってきました。もはや,いつでも来い,という覚悟はできたつもりです。かつて,わたしが尊敬していた大伯父が「お迎えがこにゃあいけんわやい」と言っていたことばが,いまや実感となって,耳に響きます。

 豊橋からもどった翌日は,西谷修さんが企画したラウンドテーブル「自発的隷従を撃つ」を傍聴。真島一郎,土佐弘之,中山智香子,小森陽一,七沢潔,仲里効,川満信一,といった豪華メンバーがそれぞれに珠玉のことばを連ね,密度の濃い時間が流れました。なかでも,主催者の西谷さんのことばが,いつもにもまして切れ味鋭く,圧倒されてしまいました。最後のとりをとった川満信一さんの自作の詩の朗読(「エッジの水底から」)が,このラウンドテーブルでのさまざまな発言をもののみごとに串刺しにする,素晴らしいものでした。かつて,「琉球共和社会憲法C私(試)案」(1981年)を創案して世に放ち,その運動の先頭に立ったことのある人のこころの声を聞かせていただきました。こころから感動しました。

 そのまた翌日には,「ISC・21」12月東京例会をもちました。短い時間でしたが,ここでもまた密度の濃い時間を過ごすことができました。仲間のみなさんも,それぞれにラウンドテーブルに触発され,深い思考を味わったようです。わたしもまた,みなさんの発言に触発されて,ひとりでは思いつかない発想が生まれ,大満足です。

 それを終えて,すぐにマンション管理組合の分科会(ことしの6月から理事)に出席(遅刻)。重要な議題が山積していて,夜7時からふたたび会合。熱の籠もった議論が展開。工事発注にかかわる議論でしたので,わたしの出番はまったくありませんでしたが,でも,その迫力には驚きました。このマンションにはすごい人たちがいるものだと,しみじみ感心し,また安心もしました。これならこのマンションの管理も安泰だ,と。

 今日(23日)は久しぶりに鷺沼の事務所に落ち着いて,いつものペースの仕事にとりかかっています。やはり,いつもどおりの日常をとりもどすとほっとします。が,手つかずのまま放置してある仕事が山ほどあり,さて,どこから手をつけようか,と思案投首です。まあ,あわてず,騒がず,できるところから手をつけて・・・・と居直ることにしました。

というところで,このブログを閉じたいと思います。
まあ,どうでもいい「ひとりごと」だと思って聞き流してください。
 

2013年12月19日木曜日

長篠の合戦・設楽原の戦い。武田軍の騎馬隊を迎え撃つ徳川連合軍の鉄砲隊。

 
鉄砲が日本に伝来して,初めて実戦で用いられた歴史的な戦,それが「長篠の合戦」である,と歴史の時間に習いました。愛知県の三河地方で育ったわたしにとって,長篠はなじみの地名でした。あの長篠城の攻防をめぐる話は,いろいろの伝説的な話があって,子どものころから興味がありました。その長篠の合戦の屏風絵に出会うことができ,びっくり仰天です。その屏風絵が下の図です。


 歴史は語られ,さまざまに伝承され,いつしか神話が誕生したりしてきました。この長篠の合戦もまた同じです。この長篠の合戦が繰り広げられた古戦場はいまも保存されていて,往時をしのぶよすがとなっています。それは「設楽原(したらがはら)」というところです。この近くには資料館もあって,さらにいろいろの情報を手に入れることができます。

 さて,長篠の合戦は鉄砲隊(徳川・織田連合軍)対騎馬隊(武田軍)の熾烈な戦いであったといわれており,わたしもこんにちまでこの話を信じていました。しかし,そうではなかった,というのです。しかも,この屏風絵がその証拠となったというのですから,これまた驚きです。

 この屏風絵は『犬山城主の武と美』(財・犬山城白帝文庫設立五周年記念 白帝文庫所蔵名品選,2008年)のなかに収録されています。偶然,立ち寄った「犬山城白帝文庫歴史文化館」に,この屏風絵が飾ってあり,そこに置いてあった図録をみつけ,読んでみて驚いたという次第です。ほんとうなのだろうか,とこの図録をしげしげと眺めました。

 この図録には,つぎのような記述があります。

 「従来この場面は織田・徳川連合軍が馬防柵を構え,鉄砲隊を配置して,突撃する武田騎馬隊を壊滅させたという表現で語られることが一般的であった。しかし,最近の研究では武田騎馬隊説は否定されている。当時の日本には騎馬隊とか騎兵隊という概念は無く,大将のほか一隊の隊長クラスや使番だけが乗馬するのが普通であった。この屏風においても武田軍と連合軍の馬数に大きな違いは無く,両軍とも大将,隊長クラスが乗馬しているだけであり,上記の説を裏付けている。」

 しばらく前に,古戦場であった設楽原に行ったことがあります。なるほど馬防柵がほんの少しだけですが再現されており,そこにある解説にも,鉄砲隊と騎馬隊の戦いであった,と書いてあります。まことにもっともな話として,わたしもなんの疑問もいだきませんでした。しかし,それがいまでは否定されているというのですから,歴史は「創られる」と,しみじみ考えてしまいました。

 また,だから歴史は面白いということでもあります。

 かつて,Fact と Evidence は明確に区別すべきだ,名言を吐いたどこぞの知事さんが,とうとう辞表を提出しました。しかも,その記者会見で,記者に「あなたの弁明は,Fact であったのか,それとも Evedence であったのか,と突っ込まれています。その応答がまた,勘狂っています。くわしくは,どうぞ,ニュースでご確認のほどを。

 でも,この区分については「他人事」として笑って済ませられる問題ではありません。わたしたちも日常的に,ご都合主義を貫いているはずだからです。

 この武田騎馬隊説も同じ根からでてきたものに違いない,と思います。こちらは,少なくとも悪意はなかった,と。


 

2013年12月17日火曜日

貧困率,全国最悪は沖縄。29パーセント。『琉球新報』(12/15配信)による。

 沖縄本島は,そのど真ん中の一等地を米軍基地に独占され,島の南北が真っ二つに分断されている。しかも,島の南北をつなぐ鉄道も走っていない。そのため,人々の移動はすべて車に頼らなくてはならない。当然のことながら,幹線道路は常時,渋滞がつづく。それが効率的な経済活動に大きな支障をきたしていることは間違いない。

 こんな沖縄を,敗戦(1945年)からこんにち(2013年)まで68年間の長きにわたって日本政府は,根本的な問題解決を忌避したまま,放置してきた。その結果が,貧困率・全国最悪の29%という数字となって表出している。

 ほとんどの夫婦が共働きで,しかも正規採用社員はごくわずか。あとは,派遣社員や契約社員,パートタイマーとして働き,細々と生活を維持している。こんな状態がずっとつづいているということを,日本政府が知らないはずはない。にもかかわらず,米軍基地を押しつけて,ほんのわずかな助成金でごまかし,それでよしとしてきた。こういう悲惨な状態がつづいていることを,本土の大手メディアも,見てみぬふりをしつづけてきた。だから,本土にいるわたしたちは沖縄の実情について,まことに疎い。それはいまも変わらない。

 少なくとも,本土並の復興を夢見て1972年に「本土復帰」をはたしたものの,現状はなにも変わらなかった。それどころか,新たにオスプレイの配備などもあって,ますます事態は悪化の一途をたどっている。最近では,もはや,本土に期待する人も激減し,若い世代を中心に,ヤマトは頼るにたりないから,そこから離脱し,「沖縄独立」の方途が模索されるようになってきたという。

 その間の事情に,わたしはそれほど精通しているわけではないが,ふつうのヤマトンチュよりはいくらか詳しい。ひとつには,娘が結婚して沖縄に住み着いている,という個人的な事情もある。それよりなにより,西谷修さんが折に触れ開催される「沖縄」関連のシンポジウムには欠かさず参加し,その議論を拝聴したり,その報告書を読んだりしてきたことが大きいと思う。のみならず,日常的にも直接,沖縄のいろいろの問題についてお話を伺ったりもしている。その程度には,沖縄に関する情報はふつうの人より多いといえるかもしれない。

 だから,ネット上を流れた『琉球新報』(12/15日配信)の表記の問題が眼にとまり,ぐいっと引き込まれるようにその内容を読むことになった。それによると,以下のようである。

 山形大学人文学部の戸室健作准教授による都道府県別貧困率調査の結果によれば,沖縄の貧困率は29.3%で,全国のワースト・ナンバー・ワンだという。全国平均は14.4%で,その倍以上の貧困率である。

 さらに,働く貧困層「ワーキングプア」の割合も,全国平均の6.7%に対して,その3倍を超える20.5%という。沖縄では,まず,ほとんどの人が働いていて,なにもしないで遊んでいる人はごくわずかだと聞いている。みんな必死で働いているのである。しかし,その雇用条件がきわめて悪いために,働いていても稼ぎは少なく,その結果の貧困なのである。

 そして,生活保護基準以下の世帯のうち,保護受給世帯数の割合を示す捕捉率は9.8%で,全国平均の14.3%を4.5ポイントも下回っている。なぜ,このような情況が野放しにされているのか,日本政府はなぜもっと手当てをしないのか,理解に苦しむ。まさに,沖縄の貧困率は眼を覆うばかりである。

 しかし,少し考えれば明らかなように,沖縄に米軍の基地を押しつけ,その結果の沖縄の貧困を下敷きにして,本土のヤマトンチュの経済的繁栄がある,ということだ。このことについての認識がわたしたちには決定的に不足している。

 こうした「知らない」ということがどれほどの暴力であるかは,かつての部落解放運動によって痛いほどわたしたちは学んだはずである。それとまったく同じことが,いま,沖縄で起きている。にもかかわらず,日本政府は,米軍基地をこれからも沖縄に押しつけようとしている。この沖縄の負担を肩代わりしようという都道府県は現れない。みんな拒否して,そのままである。ということは,全国の都道府県知事もまた,沖縄の現状維持を容認している,ということになる。その根っこには,自分さえよければ他人のことは知らない,という自己中心主義がある。しかし,それは違うだろう。

 沖縄に押しつけたままの米軍基地をどうするのか,もっと全国的な議論に持ち上げ,わたしたち一人ひとりの問題であることを自覚させないかぎり,いつまで経っても沖縄は泣き寝入りを強いられるだけだ。こんなとてつもなく大きな暴力を,わたしたちが日常的にふるっているのだ,という認識をしっかりと持つべきだ。すべては,そこからはじまる。それがない限り,事態はなにも変わらない。

 これはヤマトンチュ,一人ひとりの人間としての問題である。

 ここにいたって,シモーヌ・ヴェイユが『根をもつこと』の冒頭で言っていることが想起される。空腹にあえいでいる人が目の前にいたら,なにをさしおいても,まずは「食べ物」を差し出すこと,これが人としての最低限の義務である,と。「根こぎ」にされてしまったままのヤマトンチュであるわが身を恥じるばかりである。
 

2013年12月16日月曜日

東京五輪を喰いものにする各省庁の事業計画(案)。あきれはててものも言えぬ,とはこのこと。

 今日(16日)の『東京新聞』の一面トップに「五輪でも省庁便乗事業」という大きな文字が躍っている。そして,「おもてなし企業表彰」(経産),「ロケット打ち上げ」(文科),とつづき,さらに「復興予算の二の舞も」,ととどめを指す。

 そして,「五輪関連」として各省庁が検討する事業,の一覧が掲げてある。ほかの新聞はどのように扱っているかは知らないが,その内容のあまりのばかばかしさを確認する意味で,ここにも再度,書き写しておこう。ちまたに飛び交うギャグ「内容がないよう」がそのまま当てはまってしまうところが,笑うに笑えない。まさに,どさくさ紛れの予算分捕り合戦の恐ろしさがある。

 と同時に,恐怖をとおりすぎて,最後には「哄笑」するしかないが,その笑いをこらえて,最後まで我慢して読んでほしい。

 文部科学省:学校体育施設の整備/グローバル人材の育成/社会人の学び直しの推進/文化芸術立国の実現/新型基幹ロケット初号機打ち上げ
 農林水産省:都市農業を活用した農村体験/美しい森林とみどりによるおもてなし/花をめでる日本文化の定着/世界的な食品ロス削減の取り組み推進/山の幸によるおもてなし
 経済産業省:次世代ロボットの普及促進/世界の企業を呼び込む環境整備/次世代自動車の普及促進/おもてなし経営企業の促進/競輪事業の振興
 国土交通省:運転支援システムの高度化
消費者庁:食品ロス削減に向けた国民運動
 環境省:低炭素社会の構築に向けた国民運動

 以上。

 各省庁ごとにコメントをつけようと思ったら,みんな同じコメントになってしまうことに気づき,やめにした。「五輪とはなんの関係もない」の羅列である。よくもまあ,こんな案を「五輪関連事業」として提示できたものだと,その頭の構造の方を疑いたくなる。

 この記事を担当した記者の桐山純平さんは,遠慮がちにつぎのように書いている。
 ・・・・各省庁が実行を検討する五輪関連事業に「おもてなし企業の表彰」や新型ロケット打ち上げなど,五輪と無関係な事業が多く含まれていることが分かった。
 ・・・・各省庁は被災地復興と関係ない事業を復興名目で予算化し批判を浴びたが,「五輪でも便乗」をもくろむ構え。
 ・・・・消費税増税などで国民の負担が見込まれる中でも,予算の無駄遣いが続く恐れがある。

 という具合に,とてもやんわりと批判するにとどめていらっしゃる。しかし,わたしがこの一覧をみるかぎりでは,ひとつとして五輪と関連する事業はない。五輪がなくたって,やらなければならない,緊急を要する事業であればやらなくてはならないだろう。そのために税金を使うのは仕方がない。しかし,やってもやらなくてもどちらでもいいような事業を五輪に便乗して事業化しようというのは,とんでもない。どう考えたって税金の無駄遣いだ。

 ことしの流行語大賞にもなった「おもてなし」が濫用されていて,このことばを加えれば五輪関連事業になる,と思っているらしい。各省庁でいま国民にとって必要な新しい事業を考える人たちが,もし,このレベルだとしたら,空恐ろしい。そうではないだろう。このどさくさにまぎれて,普段では要求のできない予算をちゃっかり確保しようという魂胆なのだろう。こんな,みえみえの田舎芝居を見せつけられる国民はたまったものではない。

 国民を嘗めるのもいい加減にしてほしい。
 こんな五輪関連事業は全部,やめにしてほしい。
 これらに代わるいい案があるだろうに。この代案については,また,稿を改めることとする。

 結論。要するに,各省庁は五輪関連事業をやる気はさらさらない,ということ。あるのは,五輪名目で予算を確保し,甘い蜜を吸いたいだけ。その蜜も夜の蝶に与えるための餌・・・・か。

 脚注:わたしの友人・柴田晴廣さんが,メールで「お・も・て・な・し」は「表なし」のことですよね,と書いてきた。そのこころは? あるのは「裏」ばかり。なーるほど,と痛く納得。東京五輪招致運動の「おもてなし」は,安倍首相の「under control」に象徴されるように,内実はなにもなく(嘘ばかり),あったのは「裏」ばかり(「表」には出せない裏〇ばかり)。笑うに笑えない現実。
 

2013年12月15日日曜日

西谷修さんのブログを読んで衝撃。日米同盟は過去の神話。米中関係の強さに勝てない!必読。

 いま,西谷修さんのブログを読んだばかり。興奮している。これまでのモヤモヤがはっきりしたと同時に,やはりそうだったのか,と戦慄している。これまでにも,何回も,すでに直接伺っている。そして,しっかりわかったつもりでいた。すなわち,日米同盟よりも米中関係の方が,アメリカにとってははるかに重要である,ということを。

 しかし,その認識はあまりに甘かった,と反省している。違うのだ。もっともっと奥が深く,同時に,日米同盟関係を超えた,動かしがたい米中関係が存在しているということを。しかも,この事実をわたしたちは素直に認めなくてはならない。この重大な事実を,なにゆえに,識者たちはありのままに語らないのか。利害・打算。生き延びるための計算。識者の堕落。

 西谷修さんは,そうした利害・打算を超えて,いま,直面している真実をそのまま語る。「理に厳しく,義に篤い」と言わぬばかりに。今日(15日)の西谷さんのブログは,プリント・アウトして,額に入れて飾っておきたいくらいだ。それほどに,いまのわたしにとっては衝撃的だった。詳しくは,西谷さんのブログを読んで欲しい。

 日米同盟は,いまや,神話でしかない,という西谷さんの指摘を受けて,わたしのからだに電撃が走ったことの意味についてここでは書いておきたいと思う。

 日米同盟以前に,アメリカと中国は同盟国だった,と西谷さんが指摘されたことに震撼した。なぜなら,わたしを含めて多くの日本人は,アメリカと中国は対立している,長い間,対立してきた,だから,いまも敵対している,と信じて疑わない。それに比べれば,日本とアメリカは,第二次世界大戦後はずっと友好国として,あるいは日本はアメリカの優等生として振る舞ってきた。だから,米中関係よりも日米関係の方が圧倒的に強い絆で結ばれている,と信じて疑わない。しかし,そんなものは単なる虚構であって,実際には,まったく新たな局面を迎えているのだ,と西谷さんは理路整然と主張する。

 その根拠として,中国の米国債保有高はとうの昔に日本を凌駕している,という。しかも,その保有高も並外れている。中国が米国債を売りに出せばアメリカは破綻する,という。だから,アメリカは中国の「防空識別圏」指定について一定の抗議はしたものの,自国の民間航空機の飛行計画を中国に提出している。それになにより,広大な中国市場にアメリカは大きな関心を示し,すでに巨大な資本が進出している。

 こうした事実関係を確認した上で,西谷さんは,もともとアメリカと中国は友好国だったのだ,とさらりと流す。ことここにいたって,あっ,そうか,とわたしは気づく。「ポツダム宣言」の戦勝国のなかに中国はその名を連ねている。アメリカ,ソ連,イギリス,フランス,中国。この五カ国が連盟で,日本に対して「ポツダム宣言」を布告したのだ。

 このときに,日本はアメリカに対して「無条件降伏」をしたと思っている人がほとんどだ。かく申すわたしもそう思い込んでいた。しかし,あるとき,いや待て,と考えたことがある。日本は中国に対しても「無条件降伏」しているのだ,と。この事実のもつ意味をもっと重く受け止めるべきではないか,と。中国は,当然のことながら,戦勝国であると自覚している。それは,いまも,変わらない。しかし,肝心要の日本が,中国に対して「敗戦国」であるという認識を欠いている。しかも,「無条件降伏」をしているという事実を忘れている。

 この認識の落差が,「尖閣問題」となって噴出してくる。アメリカと中国の戦勝国同士の了解事項として,尖閣諸島は領土問題は「棚上げ」にして,日本の「実効支配」を認めるというところで決着をみていた。そうして,その状態が長くつづいていた。しかも,大きなトラブルもなしに。にもかかわらず,日本が一方的に日本固有の「領土」である,と宣言してしまった。ここから,すべてが狂いはじめた。日本固有の領土だと日本国政府が宣言してしまった以上は,それを衛らなくてはならない。そのつけが,いま,現出している。つまり,尖閣をわが国固有の領土として衛るために,あやしげな法案をつぎつぎに提出し,ほとんど議論されることもなく議会を通過させていかなければならない。言ってしまえば,絶体絶命の大ピンチなのだ。

 だから,議会の圧倒的多数を振りかざして,なにがなんでも「通す」という姿勢を貫く。その圧倒的多数は,得票率はわずかに22パーセントにすぎない。たった,これだけの支持率で,300近い議席を確保したのだ。しかし,300という数字だけが意味を持ち,22パーセントの支持率は忘れられている。

 そして,とうとう「特定秘密保護法」を無理矢理とおしてしまった。しかし,この法律が適用されることになると,最初から裁判になる,と西谷さんは指摘される。なぜなら,憲法に抵触しているから,と。こうした日本の情況を世界はどのようにみているのだろうか,とつい最近の講演でお話されたという。

 12月14日(土),調布市西部公民館のコミュニティ・カレッジで。題して「内向き日本の閉塞──世界からはどう見えるか」。ここで話されたことの概要が,ブログにアップされている。必読である。このブログはそのまま『世界』のような雑誌にに掲載されてもいいほどの精度をもった力作である。

 なお,西谷さんのブログは,「西谷修」で検索すれば,すぐにそこに入っていくことができる。なお,最近は,Facebookでも,刺激的な発言を展開されているので,ぜひ,そちらもご覧のほどを。

 取り急ぎ,今日のところはここまで。

2013年12月14日土曜日

「保健衛生」という考え方と全体主義国家の関係について。医療思想史・その5.

 「保健衛生」。このことば自体はなにも目新しいものではありません。ごくふつうに「保健衛生」,となにも考えないで,ごく当たり前のように使っています。しかし,N教授は,このことば,漢字をよくみてみなさい,とおっしゃる。わたしも言われるままにじっと見入ってみました。が,それがどうしたというのでしょうか,と訝しく思っていました。

 が,N教授は,このことばを分解して,つぎのように説明してくれました。
 「保健」とは,健を保つ。「健」とは健康のこと。つまり,健康を保つ。
 「衛生」とは,生を衛る。「生」とは生活でもあり,生命でもある。つまり,命を衛る。
 すなわち,健康を保ち,命を衛る。
 これが「保健衛生」ということばの成り立ちであり,その意味です,と。

 それだけなら,なるほど,で終わります。しかし,ここからがN教授の「医療思想史」のすごいところです。この「保健衛生」は,だれのためのものか,と問います。だれが,だれのために,そして,なんのために,このことばを編み出し,用いるようになったのか,と問います。わたしはスキを突かれたと気づき,あっ,と声を発していました。思い当たる節があったからです。

 それは明治政府の文部大臣森有礼が打ち出した「富国強兵」策でした。教科書にも書かれていますように,かれの打ち出した「富国強兵策」はみんな知っていることです。国を富ますためには優れた労働者が,そして軍隊を強くするためには強い兵士が必要だ,とこれを日本近代の国民国家のスローガンにかかげたわけです。いかなる重労働にも耐えうる身体と意志をもった,よく働く労働者と,強い軍隊を支える身心ともに頑健な兵士を養成すること,これが日本近代の国民国家を支える国民を育成するための喫緊の課題でした。そのために,まずは日本国民の間に「保健衛生」という考え方を浸透させる必要がありました。

 そこで,まずは,体操伝習所にアメリカのアモースト大学医学部を卒業したリーランド博士を招き,アモースト大学で行われていた身体測定や体力測定を取り入れ,一年間の発育・発達の実態を把握することになりました。やがて,この体操伝習所の卒業生たちが全国に散っていき,同じことを学校現場で児童・生徒たちを対象にして行うようになります。かくして,丈夫で健康なからだをもつことが日本国民としての美徳として高く評価されるようになります。

 病気をしない丈夫なからだの持ち主,すなわち,健康であることが国民の理想として掲げられました。そうして,病気をしないための予防医学としての「衛生学」が,まずは広く知られるようになりました。手を洗いましょう。うがいをしましょう。歯を磨きましょう・・・・という具合にして衛生の考え方が国民の間に浸透していくことになります。こんにちのわたしたちもまた,外出から帰ると手を洗います。うがいをします。この慣習行動は明治以後にできたものです。それ以前の日本人はそんなことはしていませんでした。

 かくして,「保健」(健康を保つ)と「衛生」(生活/生命を衛る)という概念がセットになって,ごく当たり前のように,なんの疑念もなく国民の間に理解されることになります。こんにちの学校の「保健体育」という教科の淵源はここにあります。健康を保ち,からだを育てるための知識と方法を教える教科の根拠はこの「保健衛生」という考え方からでてきます。

 問題は,さきにも書きましたように,「保健衛生」も「保健体育」も,いったい,だれが,だれのために,そして,なんのために,ということを問う必要がある,とN教授は仰います。そして,この関係を丁寧に説明しながら,この考え方がじつは全体主義国家の根幹をなすものであることを,じゅんじゅんにに説いてくれます。その説得力のある論理に唖然としながら,ノートをとることさえ忘れてしまうほどでした。

 それは,国民の身体が国家に絡め捕られていくプロセスであり,健康という美名のもとに国民の健康もまた国家の資産として確保されていく,そのプロセスのお話でした。

 ここからはわたしの感想ですが,こんにちでは「健康管理学」という学問があり,体育学部の学生であれば必須科目になっているはずです。この「健康管理学」という表記もよくよく考えてみるとおかしなものにみえてきます。その点,「保健衛生学」はまだましな方です。健康を管理する学問とはいったいどういう学問なのか,と考えてしまいます。健康ということばの概念がまずは曖昧です。どこまでが健康であって,どこからは健康ではないのか,その境界線を引くことはほとんど不可能です。その健康を「管理」するというのです。だれが,なんのために?

 この学問は,わたしの記憶に間違いがなければ,アメリカから日本に移入された学問です。つまり,キリスト教文化圏で生まれた学問です。それは「健康」という物品を「管理」するという,工場の製品管理と同じ発想です。つまり,健康を「モノ化」した発想です。国民の健康を「モノ」としてとらえる発想です。そこには,もはや,人間は存在しません。必要なのは,「健康な身体」だけです。それを,だれが,どのように利用しようというのか。母子手帳にはじまる国家による健康の「管理」に疑問をいだく人は,いまや,ほとんどいないことでしょう。

 しかし,よくよく考えてみれば,なにゆえに国家によってわたしたち国民の健康が管理されなければならないのか,とても不思議です。ここには,だれかが国民の健康を必要としており,なにかの役に立てようとしている,という明確な意図が働いています。そこのところをN教授は,もっともっと注意深く考える必要がある,と説きます。その謎が解けてくれば,いま,わたしたちがどのような国家に生まれ,生きているのか,ということがはっきりしてくるという次第です。

 N教授が「医療思想史」にこだわる理由が,わたしにも少しずつわかってきました。このあとの講義がいまから楽しみです。とりあえず,今日のところはここまで。
 

「医療」を成り立たせている条件をチェックしていくと,社会の成り立ちがみえてくる。医療思想史・その4.

 N教授の「医療思想史」の講義が佳境に入ってきました。とりわけ,12月13日(金)に行われた講義は,これまでにも増して,いまのわたしにとってはありがたく,きわめて有益なお話でした。

 にもかかわらず,もう長い間,医療思想史のレポートを,このブログに書くチャンスを見失っていました。お断りするまでもなく,「特定秘密保護法」なる,とんでもない悪法を,ほとんど審議することもなく強引に議会を通過させ,成立させてしまった政府与党のやり方に抗議していたからです。なんとも許しがたい暴挙としかいいようがありません。が,闘いはこれからです。まずは,注意深く政府与党の言動をチェックしながら,再来年春(2015年)に予定されている国政選挙で決着をつけるべく,息の長い運動を展開していかなくてはなりません。

 というような具合に書き始めますと止まりませんが,ここは禁欲につとめることにしましょう。

 さて,昨日の医療思想史。もう,何回もお断りしていますが,ここで書かれる内容は,N教授のお話のほんの一部であり,あくまでも,わたしが聞き取れた範囲のものでしかありません。そのむかし,お釈迦さんのお話を聞いた弟子たちが集まって,わたしはこのように聞いた(「如是我聞」)という話を集めて「経典」を編纂しました。この伝でいえば,このブログはわたしの個人的な,まったく恣意的な「如是我聞」であって,N教授には一切の責任はありません。そのことを再度,お断りしておきたいと思います。

 なかなか本題に入っていくことができません。前置きばかりが長くなってしまいます。これはわたしの悪いクセ。お許しください。

 N教授は,授業の冒頭で,「医療を成り立たせている条件をチェックしていくと,社会の成り立ちがみえてくる」と述べた上で,「ひとくちに医療といっても,さまざまな側面をもっているので,いささかやっかいではありますが・・・」と断わりながら,大筋,つぎのようなお話をされました(と,わたしは聞きました)。

 古代ギリシアの医聖ヒポクラテスの時代には,医療の対象は,まずは「人」を診ることに主眼がありました。つまり,病んでいる人を癒すことに力点がおかれました。まずなによりも,癒す力が医者に求められものでした。ですから,ヒポクラテスはアスクレピオス神殿の聖域の中で医療に従事していました。つまり,ここでの医療は聖なるものと俗なるものの境界領域で成立していたことがわかります。

 が,やがて医療の対象は,病んでいる人の病気の原因を追求し,その原因を取り除く方向に向かいました。つまり,病気を因果関係でとらえ,その原因を取り除くことが医療の目的となります。ここで起きたことは,人を診ることから病気を診ることへ,という大きな転換です。もっと言ってしまえば,人間不在の医療がここからはじまるというわけです。その根っこにある考え方は「合理的思考」「科学的思考」です。人間の頭で合理的に説明ができる領域に医療が取り込まれていった,と言ってもいいでしょう。

 こうして科学的合理主義が医療の中心に位置づけられるようになります。すると,病気の原因もさらに細分化されていきます。腹が痛い原因は,内臓器官のどこにあるのか,が追求されていきます。すると,病気全体から,胃なら胃,腸なら腸(大腸か,それとも小腸か)という具合に,臓器に医療の対象が移っていきます。こうして,じつに明快に原因が説明され,治療が施されるようになりますと,いわゆる「科学万能神話」が誕生することになります。ここでは,人間も病気も不在となり,医療の対象は臓器に集中していきます。

つぎの段階は,臓器のなかの「細胞」の異変に科学的関心が移っていきます。臓器から細胞へと関心が移り,さらには,細胞のなかの遺伝子へと医療の関心は移っていきます。その結果,ゆきついたのが,いま話題の「iPS細胞」というわけです。この「iPS細胞」のもつ問題性についても詳しい説明がありましたが,わたしの手には負えませんので割愛。(ただ一点だけ。自然界には存在しない細胞を人工的に造りだして,それを生身の人間のからだに取り込もうということの意味,つまり,人間の存在論にかかわる重大な問題を内包しているということ。しかも,その問題についてはなんの議論もなされないまま実用化に向けてまっしぐら。国家も産業資本も国民の多くも後押ししています。さて,この問題をどうするのか。)

 臓器がどうしても治らないなら,臓器ごと取っ替えてしまえばいい,という恐るべき発想から「臓器移植」が登場します。こういう発想を支えている背景にはキリスト教的人間観があるというお話もされ,その根拠も懇切丁寧に説明がなされました。その発想が,自動車の部品交換と直結していることも,詳しい説明がありました。つまり,人間機械論の問題です。

 臓器移植は,それだけではなく,免疫抑制という医療にとっては,根源的な矛盾を抱え込むことになりました。つまり,病気を治す原動力は免疫力ですが,その免疫力を抑制しないことには,他者の臓器を自己の体内にとりこむことはできません。つまり,抗原抗体反応を起こして,他者の臓器を排除しようと免疫力がはたらくからです。つまり,ここでの医療は,移植した臓器を優先させるのか,もともとのからだを重視するのか,その微妙なバランスのもとに「生命」を維持しなければならない,というまったく新たな事態に遭遇することになりました。(この背景には,ジャン=リュック・ナンシーの『侵入者』による問題提起があります。)

 さらには,免疫抑制剤という新薬の開発が活発になります。新薬開発とともに特許競争もはじまります。こうして,臓器の売買もふくめて,医療は産業化されていきます。かくして,医療産業に大きな資本が投入されることになり,医療は気づけば,完全に「経済」原則のもとに管理されることになってしまいました。かくして,こんにちの医療は完全に経済に絡め捕られて,だれのための医療かという新たな問題が登場しています。

 もはや,そこには「人間」は,ひとかけらも存在しません。経済活動の一環としての,つまり,金儲けとてしの医療しか存在しません。医療が,あっという間に「商品化」され,「金融化」され,立派な経済活動の対象となってしまった,という次第です。

 とまあ,わたしは至らぬ説明しかできませんが,それでもなお,N教授がわざわざ「医療思想史」という講義題目を立てて,まったく新しい研究分野を開拓していこうとしていることの意味が,そこはかとなく伝わってくるのではないでしょうか。このあとの展開が楽しみです。

 というところで,今日のところはひとまず,おしまい。