昨日(2日)はいろいろのことがあって,結局,このブログはお休みにしてしまった。ちょっと平常心を超えた興奮がつづいてしまったからだ。こういうときは,いつでも失敗してきたことを思い出す。いっときの興奮は文章を書くときには危険だ。それで一拍入れることにした。
なにがあったのか。
いつもの太極拳の稽古がはじまる着替えのとき,西谷さんの口から「『宗教の理論』,いちどやりましょうか」ということばが飛びだした。一瞬,あっ,ブログを読んでくれている,しかも,最新のものを。ありがたい,と同時にちょっぴり腰が引ける。「あの問題は大事だから・・・」と西谷さん。「ありがとうございます。ぜひ,お願いします。できるだけ早い時期にチャンスをつくります」とわたし。で,勢い余って「とうとう,ヘーゲルの『精神現象学』をもう一度,読み返そうと思っています。とくに,ヘーゲルのいう自己意識の問題をきちんと考えておきたいので・・・・」とわたし。西谷さんはギラリと光る眼で「うん,うん」とうなずいてくれる。で,このつづきは昼食のときに,とわたし。いや,今日は少し早めに切り上げて大学へ行かなくてはいけないので,と西谷さん。残念,では,いつかまた・・・とわたし。
で,このことが太極拳の稽古の間,わたしの頭のなかを駆けめぐっている。でも,気づかれないように必死で稽古に集中する。抑えてもおさえてもわき上がる喜び(感情),それをまた必死になって抑えようとする意志。この決定的な自己分裂。これがまたたまらない。自己が「存在」するなぁ,自己意識の強度を感ずるなぁ,などとヘーゲルの『精神現象学』の一節を思い出したりしている。こんな太極拳も滅多にあることではない。
こんな余韻を引きずりながら,稽古が終わり,李さんとわたしのお面,それに額を二つ,柏木さんの家までとどける。柏木さんのブログにしばしば登場する「3ちゃん」(愛犬)が,熱烈歓迎をしてくれる。こういう純粋無垢の,感情のありったけを表出させる歓迎の仕方を,人間はどうして忘れてしまったのだろうなどと,こんどはバタイユの『宗教の理論』のなかの「動物性」のあたりを思い出したりしている。コーヒーと美味しいクッキーをご馳走になっておいとま。ついでに,3ちゃんの散歩にでるからといって,大井町の駅の近くまで送ってくれる。
それから,鷺沼の事務所に向う。到着して,着替えをしていたら,電話。いつもの郵便局への間違い電話(番号がよく似ているらしく,ここにかかってくる電話のほとんどは間違い電話)だと思っていたら,留守電に伝言している声が聞こえる。よくは聞き取れなかったが,八百長問題がどうの・・・と言っている。そこで,あわてて再生して聞いてみる。なんと,同じ人が3回も留守電を残している(過日,ここに尋ねてこられた共同通信社のK記者)。よほど急いでいたようで,留守電の内容がつぎつぎに変わっていく。そして,最後の3回目の留守電では,わたしの『現代思想』(11月号)での発言を援用させてもらったので,その確認です,とある。ああ,もう終わったことなのか・・・とちょっぴり残念。
でも,八百長問題があらたに発覚して,大問題になっているらしい。で,まずは,インターネットで情報の概略をつかむ。なるほど,と納得したところで,そのK記者に電話を入れる。この問題,ちょっと長引きそうなので,また,話を聞かせてください,とのこと。そこで,わたしの携帯の電話番号を知らせて,いつでもどうぞ,と伝える。
そして,インターネット情報を,あちこち確認しながら,わたしの頭のなかはますます興奮してくる。ああ,こういう時代になったのか,と。つまり,消去した携帯メールは,警視庁の手にかかれば修復させることができるのか,と。そこに,八百長と思しき内容のメールがやりとりされている,というのだ。つい,この間までは,こういう証拠はありえなかった。が,これからは消去したはずの携帯メールを復元させることも技術的には可能なのだ。
さあ,こんどこそ,日本相撲協会は逃げられない。これはいくところまでいくなぁ,とあれこれ想像をする。考えれば考えるほど,またまた,わたしの頭は興奮してくる。これでいよいよ日本相撲協会がひた隠しにしてきた「八百長」問題が,百日のもとにさらけ出されることになる。問題は,それからだ。完全にうみを出し切るところまで,つまり,大改革まで踏み込むのか,それとも,公益法人登録をあきらめてとかげのしっぽ切りで終結させようとするのか,という点だ。
そして,どうしても避けられない問題は,「大相撲とはなにか」という根源的な問いである。これまでの報道は,まず,間違いなく大相撲を「スポーツ」としてとらえる姿勢である。しかも,一元的なスポーツ観を貫いている。スポーツにはさまざまな存在形態がある,という認識は欠落している。一度,「スポーツとはなにか」と自分自身に問い返してみるといい。
プロレスはスポーツか。囲碁・将棋はスポーツか。登山はスポーツか。ウォーキングはスポーツか。釣りはスポーツか。ホエール・ウォッチングはスポーツか。浅井慎平は「写真はスポーツだ」と言い切った。しょっきり相撲はスポーツか。散歩はスポーツか。合コンはスポーツか。セックスはスポーツか。応援団はスポーツか。チア・リーディングはスポーツか。スタントマンはスポーツマンか。縄跳びはスポーツか。綱引きはスポーツか。民族(民俗)スポーツはスポーツか。ダンスはスポーツか(ダンスにもいろいろある。その一つひとつを検証してみるといい)。日光浴はスポーツか。
エンドレスなので,このあたりで止めにしておこう。この延長線上に,「大相撲はスポーツか」と置いてみればいい。さて,あなたの答えはどうなりますか。
わたしの答えは「大相撲は近代スポーツではない」というものだ。
その根拠は『近代スポーツのミッションは終わったか』(西谷・今福・稲垣の共著)を読んでもらえれば明らかである。
というところで,一旦,終わりにしましょう。
当分の間,この問題は話題になることでしょうから。
なにがあったのか。
いつもの太極拳の稽古がはじまる着替えのとき,西谷さんの口から「『宗教の理論』,いちどやりましょうか」ということばが飛びだした。一瞬,あっ,ブログを読んでくれている,しかも,最新のものを。ありがたい,と同時にちょっぴり腰が引ける。「あの問題は大事だから・・・」と西谷さん。「ありがとうございます。ぜひ,お願いします。できるだけ早い時期にチャンスをつくります」とわたし。で,勢い余って「とうとう,ヘーゲルの『精神現象学』をもう一度,読み返そうと思っています。とくに,ヘーゲルのいう自己意識の問題をきちんと考えておきたいので・・・・」とわたし。西谷さんはギラリと光る眼で「うん,うん」とうなずいてくれる。で,このつづきは昼食のときに,とわたし。いや,今日は少し早めに切り上げて大学へ行かなくてはいけないので,と西谷さん。残念,では,いつかまた・・・とわたし。
で,このことが太極拳の稽古の間,わたしの頭のなかを駆けめぐっている。でも,気づかれないように必死で稽古に集中する。抑えてもおさえてもわき上がる喜び(感情),それをまた必死になって抑えようとする意志。この決定的な自己分裂。これがまたたまらない。自己が「存在」するなぁ,自己意識の強度を感ずるなぁ,などとヘーゲルの『精神現象学』の一節を思い出したりしている。こんな太極拳も滅多にあることではない。
こんな余韻を引きずりながら,稽古が終わり,李さんとわたしのお面,それに額を二つ,柏木さんの家までとどける。柏木さんのブログにしばしば登場する「3ちゃん」(愛犬)が,熱烈歓迎をしてくれる。こういう純粋無垢の,感情のありったけを表出させる歓迎の仕方を,人間はどうして忘れてしまったのだろうなどと,こんどはバタイユの『宗教の理論』のなかの「動物性」のあたりを思い出したりしている。コーヒーと美味しいクッキーをご馳走になっておいとま。ついでに,3ちゃんの散歩にでるからといって,大井町の駅の近くまで送ってくれる。
それから,鷺沼の事務所に向う。到着して,着替えをしていたら,電話。いつもの郵便局への間違い電話(番号がよく似ているらしく,ここにかかってくる電話のほとんどは間違い電話)だと思っていたら,留守電に伝言している声が聞こえる。よくは聞き取れなかったが,八百長問題がどうの・・・と言っている。そこで,あわてて再生して聞いてみる。なんと,同じ人が3回も留守電を残している(過日,ここに尋ねてこられた共同通信社のK記者)。よほど急いでいたようで,留守電の内容がつぎつぎに変わっていく。そして,最後の3回目の留守電では,わたしの『現代思想』(11月号)での発言を援用させてもらったので,その確認です,とある。ああ,もう終わったことなのか・・・とちょっぴり残念。
でも,八百長問題があらたに発覚して,大問題になっているらしい。で,まずは,インターネットで情報の概略をつかむ。なるほど,と納得したところで,そのK記者に電話を入れる。この問題,ちょっと長引きそうなので,また,話を聞かせてください,とのこと。そこで,わたしの携帯の電話番号を知らせて,いつでもどうぞ,と伝える。
そして,インターネット情報を,あちこち確認しながら,わたしの頭のなかはますます興奮してくる。ああ,こういう時代になったのか,と。つまり,消去した携帯メールは,警視庁の手にかかれば修復させることができるのか,と。そこに,八百長と思しき内容のメールがやりとりされている,というのだ。つい,この間までは,こういう証拠はありえなかった。が,これからは消去したはずの携帯メールを復元させることも技術的には可能なのだ。
さあ,こんどこそ,日本相撲協会は逃げられない。これはいくところまでいくなぁ,とあれこれ想像をする。考えれば考えるほど,またまた,わたしの頭は興奮してくる。これでいよいよ日本相撲協会がひた隠しにしてきた「八百長」問題が,百日のもとにさらけ出されることになる。問題は,それからだ。完全にうみを出し切るところまで,つまり,大改革まで踏み込むのか,それとも,公益法人登録をあきらめてとかげのしっぽ切りで終結させようとするのか,という点だ。
そして,どうしても避けられない問題は,「大相撲とはなにか」という根源的な問いである。これまでの報道は,まず,間違いなく大相撲を「スポーツ」としてとらえる姿勢である。しかも,一元的なスポーツ観を貫いている。スポーツにはさまざまな存在形態がある,という認識は欠落している。一度,「スポーツとはなにか」と自分自身に問い返してみるといい。
プロレスはスポーツか。囲碁・将棋はスポーツか。登山はスポーツか。ウォーキングはスポーツか。釣りはスポーツか。ホエール・ウォッチングはスポーツか。浅井慎平は「写真はスポーツだ」と言い切った。しょっきり相撲はスポーツか。散歩はスポーツか。合コンはスポーツか。セックスはスポーツか。応援団はスポーツか。チア・リーディングはスポーツか。スタントマンはスポーツマンか。縄跳びはスポーツか。綱引きはスポーツか。民族(民俗)スポーツはスポーツか。ダンスはスポーツか(ダンスにもいろいろある。その一つひとつを検証してみるといい)。日光浴はスポーツか。
エンドレスなので,このあたりで止めにしておこう。この延長線上に,「大相撲はスポーツか」と置いてみればいい。さて,あなたの答えはどうなりますか。
わたしの答えは「大相撲は近代スポーツではない」というものだ。
その根拠は『近代スポーツのミッションは終わったか』(西谷・今福・稲垣の共著)を読んでもらえれば明らかである。
というところで,一旦,終わりにしましょう。
当分の間,この問題は話題になることでしょうから。
1 件のコメント:
急ぎの文は静かに書け、という諺を思い出しました。そうですね、興奮していると文章まとまらないですよね…。
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