能面アーティスト・柏木裕美さんの私設応援団長をみずから任じている(団員はひとりもいない)わたしとしては許せないことがある。そのことについて少しだけ書いておこう。
柏木さんのブログに,ときおり,「じーじ」と名乗る人が「能面とはかくあらねばならない」「そこからはずれる能面は認めない」「お前のやっていることは邪道だ」「能面を侮辱している」といったような論調のコメントを書き込んでいる。どこをどう読んでみても建設的な意見ではない。読んでいて不愉快そのもの。
自分の考えだけが唯一正しくて,その考えからはずれるものはすべて邪道である,というドグマ。そのドグマに本人はまったく気づいていない。だから,ますますたちが悪い。「じーじ」という人はそういう人だ。だから,その論法をそのままいただくとすれば,いやいや能面などというものは,いかようにも存在することは可能であって,新作能のシナリオが書かれれば,それに合わせた能面が制作されるのは当然のことだ。世阿弥の時代から,世阿弥が新しいシナリオを書けば,それに合わせて能面を「創作」してきた。それが,かりにシェイクスピアのシナリオを能楽に書き写して演ずることになれば,たとえば,ヘンリー8世の顔をした能面が制作されても,なんの不思議もない。じじつ,鑑真和上の能楽が演じられたときには,鑑真の能面が制作されている。しかも,その能面を制作したのは,なにを隠そう,われらが柏木裕美先生なるぞ。嘘だと思ったら,銀座・文藝春秋画廊まで足を運んでいただきたい。オバマさん,ライスさんと並んで鑑真さんの能面が飾ってある。しかも,いずれも傑作である。
こうした延長線上に,今回の「小面変化」の能面が新作として,ほぼ40面ほど展示してある。これらの小面変化は,それに見合うシナリオが書かれれば,いつでも舞台で使えるものである。すでに,能楽以外の舞台では,これらの創作面は使われている。そして,いずれもきわめて好評を博している。おそらく,これからさきに,いつかかならず,これらの小面変化は能楽の舞台でも用いられることになるであろう。わたしは確信している。柏木さんのアーティストとしてのセンスが,いささか時代をさきどりしているだけの話である。
こういうことを「じーじ」なる人は,なにも知らないまま,伝統的な能面だけが能面であって,それ以外のものは能面ではない,と仰る。そういう考えもあって,わたしは一向に構わないと思う。しかし,その考えを他者に押しつけることはいかがなものかと思う。俺の考えだけが正しい,というのはどこぞの国の大統領と同じだ。その結果はどうなるか。戦争しかない。つまり,俺が正しくて,お前は間違っている,という断定の仕方は,戦争の論理そのものである。
そうではなくて,俺の考えもあり,お前の考えもあり,では,どうすればいいか,どこかで妥協点をみつけよう,つまり,どこかで折り合いを見つけようではないか,という段取りが重要なのだ。「正・反・合」のヘーゲルの弁証法の初歩だ。
能面をアートとしては認めない,という人たちは意外に多い。現に,能面は,日展にも,伝統工芸展にも,作品を受け付けて審査するシステムがない。つまり,制度としても,能面はアートとして認知されていない。しかし,このことはよくよく考えてみるとかなり変であり,異常な事態であるということがわかる。いったい,なにゆえに,能面を芸術作品として審査する制度がないのか。それには長くて,深い理由がある。このことはいつかまた書くことにしよう。ヒントは,戸井田道三さんの本(たくさんあるので省略するが,たとえば,『能藝論』という代表作がある)を読めば,かなりのところまでは推測できる。
こうした現状に大いなる疑問をいだき,あえて,柏木さんはアートとしての能面制作への道を切り開いた。その第一歩が,2年前の文藝春秋画廊での展覧会であった。創作面を20面,展示した。そして,面打師から能面アーティストへの転身していく。そうして,ある意味では,能面界を敵にまわしてでも「わが道」を行く,という不退転の決意を固める。それから,はじけるように創作面の制作がはじまる。まるで水をえた魚のように。そうして,この2年間に制作された「小面変化」の創作面のうち40面余が出品されている。それが,今回の文藝春秋画廊での展覧会である。
こんなことも知らない・わからないまま「じーじ」なる人は,一方的に誹謗中傷のことばを投げつける。お気の毒な方だと思う。心根が貧しい。まずは,他者を認めることが自己の存在を認めてもらうことの大前提である,という広い視野をもってほしい。他者を否定するということは,自己を否定することなのだから。これもまた哲学の初歩だ。
しかし,世の中は面白い。捨てる神あれば,拾う神あり,という。「マッチャン」なる人が救いの神として登場した。この人は,どこのどなたかは知らないけれど(笑い),心根のやさしい人だと,文面から伝わってくる。柏木さんが,どれほど,喜ばれていることか,想像に余りあるものがある。こういう人たちの支援があってはじめて,未知なる世界に第一歩を踏み出した能面アーティストの誕生が可能となる。
というわけで,能面はアートです,いや,アートへの道を切り開かなくてはいけない,という激しい情熱と夢の実現への願望とが,一気に噴出したのが,今回の柏木さんの展覧会ではないか,とわたしは考えている。こんなことも,11日の鼎談ではお話できればいいかなぁ,とあれこれぼんやり思い浮かべている。
柏木さん,頑張れ! あなたの背後にはものいわぬ応援団がいっぱいいます。そして,息を潜めて,つぎなる創作面の誕生を待っています。私設応援団長・inamasa君がついています。あまり,頼りにはなりませんが・・・・。
そこで,このブログの読者のみなさんにお願いです。柏木さんの展覧会に足を運んで,その眼で作品を観賞してみてください。その上で,柏木さんのブログに,激励のコメントを。私設応援団長・inamasaからのお願いです。
柏木さんのブログに,ときおり,「じーじ」と名乗る人が「能面とはかくあらねばならない」「そこからはずれる能面は認めない」「お前のやっていることは邪道だ」「能面を侮辱している」といったような論調のコメントを書き込んでいる。どこをどう読んでみても建設的な意見ではない。読んでいて不愉快そのもの。
自分の考えだけが唯一正しくて,その考えからはずれるものはすべて邪道である,というドグマ。そのドグマに本人はまったく気づいていない。だから,ますますたちが悪い。「じーじ」という人はそういう人だ。だから,その論法をそのままいただくとすれば,いやいや能面などというものは,いかようにも存在することは可能であって,新作能のシナリオが書かれれば,それに合わせた能面が制作されるのは当然のことだ。世阿弥の時代から,世阿弥が新しいシナリオを書けば,それに合わせて能面を「創作」してきた。それが,かりにシェイクスピアのシナリオを能楽に書き写して演ずることになれば,たとえば,ヘンリー8世の顔をした能面が制作されても,なんの不思議もない。じじつ,鑑真和上の能楽が演じられたときには,鑑真の能面が制作されている。しかも,その能面を制作したのは,なにを隠そう,われらが柏木裕美先生なるぞ。嘘だと思ったら,銀座・文藝春秋画廊まで足を運んでいただきたい。オバマさん,ライスさんと並んで鑑真さんの能面が飾ってある。しかも,いずれも傑作である。
こうした延長線上に,今回の「小面変化」の能面が新作として,ほぼ40面ほど展示してある。これらの小面変化は,それに見合うシナリオが書かれれば,いつでも舞台で使えるものである。すでに,能楽以外の舞台では,これらの創作面は使われている。そして,いずれもきわめて好評を博している。おそらく,これからさきに,いつかかならず,これらの小面変化は能楽の舞台でも用いられることになるであろう。わたしは確信している。柏木さんのアーティストとしてのセンスが,いささか時代をさきどりしているだけの話である。
こういうことを「じーじ」なる人は,なにも知らないまま,伝統的な能面だけが能面であって,それ以外のものは能面ではない,と仰る。そういう考えもあって,わたしは一向に構わないと思う。しかし,その考えを他者に押しつけることはいかがなものかと思う。俺の考えだけが正しい,というのはどこぞの国の大統領と同じだ。その結果はどうなるか。戦争しかない。つまり,俺が正しくて,お前は間違っている,という断定の仕方は,戦争の論理そのものである。
そうではなくて,俺の考えもあり,お前の考えもあり,では,どうすればいいか,どこかで妥協点をみつけよう,つまり,どこかで折り合いを見つけようではないか,という段取りが重要なのだ。「正・反・合」のヘーゲルの弁証法の初歩だ。
能面をアートとしては認めない,という人たちは意外に多い。現に,能面は,日展にも,伝統工芸展にも,作品を受け付けて審査するシステムがない。つまり,制度としても,能面はアートとして認知されていない。しかし,このことはよくよく考えてみるとかなり変であり,異常な事態であるということがわかる。いったい,なにゆえに,能面を芸術作品として審査する制度がないのか。それには長くて,深い理由がある。このことはいつかまた書くことにしよう。ヒントは,戸井田道三さんの本(たくさんあるので省略するが,たとえば,『能藝論』という代表作がある)を読めば,かなりのところまでは推測できる。
こうした現状に大いなる疑問をいだき,あえて,柏木さんはアートとしての能面制作への道を切り開いた。その第一歩が,2年前の文藝春秋画廊での展覧会であった。創作面を20面,展示した。そして,面打師から能面アーティストへの転身していく。そうして,ある意味では,能面界を敵にまわしてでも「わが道」を行く,という不退転の決意を固める。それから,はじけるように創作面の制作がはじまる。まるで水をえた魚のように。そうして,この2年間に制作された「小面変化」の創作面のうち40面余が出品されている。それが,今回の文藝春秋画廊での展覧会である。
こんなことも知らない・わからないまま「じーじ」なる人は,一方的に誹謗中傷のことばを投げつける。お気の毒な方だと思う。心根が貧しい。まずは,他者を認めることが自己の存在を認めてもらうことの大前提である,という広い視野をもってほしい。他者を否定するということは,自己を否定することなのだから。これもまた哲学の初歩だ。
しかし,世の中は面白い。捨てる神あれば,拾う神あり,という。「マッチャン」なる人が救いの神として登場した。この人は,どこのどなたかは知らないけれど(笑い),心根のやさしい人だと,文面から伝わってくる。柏木さんが,どれほど,喜ばれていることか,想像に余りあるものがある。こういう人たちの支援があってはじめて,未知なる世界に第一歩を踏み出した能面アーティストの誕生が可能となる。
というわけで,能面はアートです,いや,アートへの道を切り開かなくてはいけない,という激しい情熱と夢の実現への願望とが,一気に噴出したのが,今回の柏木さんの展覧会ではないか,とわたしは考えている。こんなことも,11日の鼎談ではお話できればいいかなぁ,とあれこれぼんやり思い浮かべている。
柏木さん,頑張れ! あなたの背後にはものいわぬ応援団がいっぱいいます。そして,息を潜めて,つぎなる創作面の誕生を待っています。私設応援団長・inamasa君がついています。あまり,頼りにはなりませんが・・・・。
そこで,このブログの読者のみなさんにお願いです。柏木さんの展覧会に足を運んで,その眼で作品を観賞してみてください。その上で,柏木さんのブログに,激励のコメントを。私設応援団長・inamasaからのお願いです。
2 件のコメント:
柏木さんのブログ、拝見しました。
掲載されている面の写真を見て、適当な表現ではないかもしれませんが、背筋が寒くなりました。全ての面が、何かを語りかけてくるようでした。思わず、目をそらす面もありました。何か、訴えかけられそうで・・・。
柏木さんって、何者?!という感じでした。
相手が見えないだけに言いたい放題ですね。誹謗中傷はマナー違反ではないかと思います。
考え方も十人十色。自分の考えが正しいなんて大間違いでしょう?頭が硬いというか、悪く言えば頑固。もう少し臨機応変になれないものでしょうかね?
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