2012年7月30日月曜日

「奄美自由大学」(今福龍太主宰)の案内がとどきました。

 昨年,初めて参加させていただいた「奄美自由大学」の記憶がまだ鮮明に残っているのに,もう,ことしの開催案内がとどきました。この一年,いったいなにをしていたのだろうかと首を傾げてしまいます。早いものです。

 奄美大島は文字通り大きな島で,山また山の,ほとんどが山で,平地は海岸沿いにほんの少しだけ。その猫の額のような土地に人びとはむかしながらの生を営んでいる・・・・それが昨年のもっとも強烈な印象でした。もっといえば,「自然」と向き合うことなしには生活は成り立たない,本来の人間の暮しの基本形がいまもそっと生きている,そういうところでした。ですから,なんだかとても懐かしい気持にさせられる,子どものころにほんの少しだけ経験した暮しの仕方が,突如,からだの記憶をとおしてよみがえってくる,そんな体験をいっぱいすることができました。ですから,いまも,チャンスがあればあの静謐な時空間のなかに身を置いてみたい,そんな衝動にかられます。

 ことしの案内は,つぎのような今福さんの魅力的な文章で呼びかけられ,読んだその瞬間から「行く」とこころを決めずにはいられない,恐るべき魔力をもっています。
 以下に引いてみます。

奄美自由大学2012への誘い──<ウトゥ・ヌ・クラスィン>へ

 珊瑚の汀,ヒカゲヘゴの鬱蒼たる森,巨大なガジュマルの根元に口を開ける洞窟。島々のすみからすみまで,豊かな<沈黙>が静かにうち騒いでいます。それは音のない沈黙ではなく,音の充満する沈黙。都会とメディアの喧騒のなかで生きている現代人の耳にはもう届かなくなってしまった,万象のささやき声からなる,静謐な音と声の充満です。

 それは,群島が古くから受けついてきたカナシャル(愛おしい)<沈黙>。

 荘子は,人間の根源的な姿への回帰について語るのに「小鳥を鳴かせずに鳥籠に入れる」と言いました。これは豊かな沈黙をどのようにして捕獲するかという技法について語ったものといえます。あるいは今年生誕百年になる作曲家ジョン・ケージは,まさに「沈黙」と題された名著『サイレンス』のなかで,自然界の音楽として静かに鳴り響く<沈黙>を再発見し,自己の意思や意図を捨ててキノコの森にひろがる奥深い智慧の闇へと入っていくことで,誰もつかめなかった快活な自由を手にしました。

 この<沈黙>,この豊穣な音と意味を秘めた深遠な<しじま>を,あらたに私たちは奄美言葉でこう名づけました。<ウトゥ・ヌ・クラスィン>,つまり<音の暗がり>。都会の饒舌と喧騒からいさぎよくたち去って,沈黙の夜へと参入してみませんか? 奄美群島のなかでもっとも「静謐」なシマをめざして,今年の奄美自由大学は,鈍く光りながら深い闇の沈黙を奏でる怪しき島,請島(うけしま)へのはるかな巡礼の旅を企画しました。

 この案内文を読んだ瞬間に,ことしの今福さんの「企み」が透けてみえてきて,こころもそぞろです。こんな誘いを無視することはできません。「沈黙」かあぁっ,とひとつため息。今福さんは荘子とジョン・ケージを引き合いに出していますが,わたしの脳裏には,まっさきにル・クレジオの『物質的恍惚』が津波のように押し寄せてきています。「生前」「生後」「死後」の三部作になっているル・クレジオの,とりわけ「生前」と「死後」の世界が彷彿としてきます。あるいは,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』で展開されている「動物性」(聖なる世界,内在性の世界)は,まさに今福さんのいう「沈黙」に通底するものに違いない,とこれはわたしの確信のようなもの。

 田舎の小さな寺に育ったわたしも,夜の静けさと真っ暗闇はからだのなかに染み込んでいます。ですから,<ウトゥ・ヌ・クラスィン>(音の暗がり)といわれて,理由もなく「ピン」とくるものがあります。たとえば,本堂の裏側にあった墓地がそうでした。鬱蒼と繁った木に囲まれた小さな空間でしたが,夜になると静謐とざわめきが真っ暗な闇のなかで蠢いているような,「多にして一」「一にして多」というような,禅的な世界がひろがっていたこととつながっているようにも思います。しかし,いまは,そう断言するだけの勇気はありませんが・・・・。

 これはもう,「鈍く光ながら深い闇の沈黙を奏でる怪しき島,請島」に行くしかありません。そして,その場に立つこと,ただそれだけ。そこで,わたしのからだは請島の放つ「闇の沈黙」とどのような会話をはじめるのだろうか,それを心静かに待つのみ。

 やはり,もう一度,ル・クレジオの『物質的恍惚』を読み返そう。請島に向かう前に。そして,ついでにジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』も。あるいは,この2冊は持参することになるかも・・・・。愛読してやまないこの2著の世界に,請島という場を借りて,身もこころも丸投げにしてみたい。そのとき,わたしはなにに触れ,なにを感じ,なにを吸収するのだろうか。もう,想像するだけで足が地につきません。

 原初の人間が,動物性の世界から<横滑り>したときの経験とはなにであったのか,これが,こんどの奄美自由大学でのわたしのテーマ。面白くなりそうだ。

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