2012年7月8日日曜日

連続講演「スポーツとはなにか」・第2回「伝統スポーツの存在理由について考える」・無事に終了。新たな展望が開ける。

7月6日(金)の連続講演第2回につづいて,7月7日(土)の「ISC・21」7月神戸例会(第63回)にも参加して,いま,帰宅したところです。帰りの新幹線の中は,わたしの反省の場所であり,思考の時間です。とりわけ,連続講演で意図したところがどこまでお伝えできたのか,考えると背筋が寒くなってきます。が,不思議なことに,講演のあとになると,もっとこのように話すべきだった,という問題の整理ができてきます。

というわけで,新幹線の中で考え,わたしの頭の中でいくらか整理できたかな,と思われることをメモ代わりに書いておきたいと思います。


 自然存在であったヒトが人間となり,さらに事物化して,こんにちのわたしたちに至ることと,こんにちもなお伝統スポーツが存在する理由,との関係について。とりわけ,供犠とスポーツが結びつく根拠について。


 ヒトは生まれて,同類を食べることによって成長し,生殖を営み,子孫を残し,死んでいく。これが自然存在としてのヒトの一生である。


 そのヒトが<横滑り>して人間となる。(この<横滑り>については割愛)
 <横滑り>することによって人間はことばを考え出し,道具を工夫し,さらに植物栽培や動物飼育を営むに至る。そして,ついにはサイエンスやテクノロジーや経済へとその触手を伸ばしていく。こうして,人間は,自然存在であったヒトから人間になると同時に,周囲の<もの>それ自体をも人間のための道具として事物化し,植物を栽培し,動物を飼育して,自分たちの生活に役立つ「有用性」に促されるようにして,植物も動物も事物化していく。そして,ついには栽培しているつもりの人間が栽培させられる存在となり,飼育しているつもりの人間が飼育させられる,という逆転現象がおきる。そして,とうとう,人間は,人間そのものをも事物化してしまう。それが,こんにちのわたしたちの真の姿だ。(※原発を利用するつもりの人間が,その原発に逆襲をうけておろおろしている,わたしたちの姿は,事物化した人間のなれの果てなのだ。)


大地に落ちた小麦の種は水や太陽や大地の力をいただいて,やがて芽を出し,大きくなって葉を繁らせ,花を咲かせ,種を実らせて,その一生を終える。

ところが,この小麦を栽培しようと考えた人間は,大地を耕し,肥やしをほどこして,より多くの種を収穫して,それを粉にしてパンに仕立てて,食べるということをはじめた。これは,自然存在としての小麦にとっては,まことに予期せざることであった。つまり,人間のための事物とされ,しかも,食べられてしまう。小麦としての本来の使命である子孫を残すという,もっとも重要かつ基本である「生」の連鎖の断絶である。

同じように,牛や豚は,自然存在であったヒトと同じように,生まれて,食べて,成長して,生殖を営み,子孫を残して,死んでいく。「生」の連鎖の完了である。

しかし,飼育された牛や豚は,人間の有用性のためにのみ利用され,使役され,食べられて,その生涯を終える。自然存在としての「生」の連鎖の断絶である。

のみならず,栽培・飼育をしているつもりの人間もまた,いつのまにか栽培・飼育をさせられる,という情況に追い込まれる。つまり,事物と化したはずの植物や動物に「従属」させられる,という事態が起こる。

こうして,人間もまた事物と化してしまうことになる。

しかし,人間は事物のままで「生」の連鎖を断絶させるわけにはいかない。ここにいたって,人間は,動物性と人間性のふたつの相矛盾したロジックの股裂きに直面することになる。人間は大いに悩み,苦しむことになる。ここに「宗教的なるもの」の立ち現れる,避けがたい回路が成立する(ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』を参照のこと)。

これを解消するための文化装置が「聖なるもの」を言祝ぐための祝祭的時空間なのである。こうした時空間の中で営まれる中核的な儀礼が「供犠」だ,と言っていいだろう。つまり,供犠とは,事物と化した動物や植物を,事物の呪縛から解き放ち,自然存在の本来のあるべき姿へと送り返すための儀礼なのだ。

古代オリンピアの祭典競技で,まず最初に,雄牛がゼウス神殿に供犠として捧げられることの根拠もここにある。事物と化した牛は供犠に捧げられることによって,事物から解放されることになる。それにあやかるようにして,事物と化してしまった人間も,「全裸」で競技をすることによって,つかのまの事物からの解放を体験する。つまり,古代オリンピアの祭典競技は,供犠の延長線で展開される競技なのだ。だから,競技者は「全裸」でなければならないのだ。「全裸」とは,世俗の人間から「聖なる」存在へと「変身」することを意味しており,その上で行われる競技は一種の「供犠」にも等しいと考えることができる。すなわち,人間を「全裸」のヒトの世界に送り返す供犠である,と。だからこそ,この競技にあっては,第一位だけが意味があって,第二位以下は無視される。なぜなら,第一位だけがゼウスの神にもっとも愛でられた者として考えられていたからである。つまり,神の世界にもっとも近い人間を選別するための文化装置だったのだ。

こまかなことは割愛するが,伝統スポーツの精神は,この古代オリンピアの祭典競技に端を発するような,それぞれの地域や社会や時代の精神を継承しつつ,こんにちにいたっている,という次第である。(※これに連なる思考については,また,別の機会にゆずりたい。)

講演の最後の質問に,スポーツと供犠の関係について,とりわけ,こんにちの近代スポーツ競技のなかに供犠の要素が表象的に組み込まれているのではないか,という問いがありました。その問いを受けて,その場では十分に応答できなかったという反省に立ち,新幹線の中で考えた答えのひとつをここに書き記したという次第です。

まだまだ仮説の域をでません。が,さらに仮説を積み重ねてみたいと考えています。大方のご批判をいただければ幸いです。

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