あと一週間後にはオリンピックがはじまる,と今朝のテレビが暢気なことを言っている。みんなオリンピックを楽しみにしている,と。そして,どことは言わないが,一局だけが「オリンピック・スペシャル」という特番をベタに組んでいる。他局は意外に冷めている。そうだろう。放映権を独占されてしまったのだから。高い金を払うつもりもないようなので,こちらはむしろ健全?
ノダ君がオリンピックの開会式に行きたがっていたが,とうとう諦めたそうな。政権がいつ崩壊するかわからない状況ではどうしようもないではないか。イシハラ君もオリンピック誘致運動のためになにがなんでも行きたがっていたが,こちらは早々と諦め宣言だ。こちらは体調不全が理由にしてはやや早い。相当に悪いということか。とうとうガタがきたか。健全なる身体に不健全なる精神が宿る見本のような人だったが・・・・(あえて,過去形にしておく)。
オスプレイ,オキナワ,オオイ,フクシマを抱え込んで政権どころか,社会全体にガタがきていることが露呈してしまった日本に,国を挙げてオリンピックを招聘しようという夢もはかなく消えていくだろう。もっとも,東京都民はとっくのむかしから冷めた眼で眺めてきた。オリンピックを招聘するくらいなら,それよりさきにやらなくてはならないことが山ほどあるではないか,と。
日本の首相も来られなかった,東京都知事も来られなかった,「やっぱり!」と世界の首脳もIOC理事もなっとくすることだろう。第一,フクシマが最終的な解決をみないことには,ことのほか放射能に神経質なヨーロッパ人は寄りつきはしない。
オキナワの人たちにとってオリンピックは眼中にない。目の前にオスプレイの脅威が待ち受けている。基地問題もどこまで行っても出口はみえてこない。8月5日(日)には沖縄県民集会が待っている。そして,沖縄県民のこころを一つにして,仲里さんや西谷さんのことばを借りれば「自立」への道を模索することになる。(沖縄の「自立」については西谷さんのブログを参照のこと)。ちょうどオリンピック開催中の半ばをすぎたころのことになる。日本の政府がなにひとつ沖縄のために手をさしのべてはくれないことを見届けた「復帰」40年,沖縄県民の,最後の手段としての「自立」への道。沖縄がどうやって生き延びていくのか,という瀬戸際にあって,オリンピックなどという狂気の祭典は眼中にない。
同じように,フクシマの汚染が片づかないかぎりは先祖伝来のわが家に帰ることすら不可能となってしまった人びとにとっても,オリンピックは絵空事でしかない。避難生活を強いられ,働きたくても仕事さえ与えられなくて,毎日,無為に日を送っている人びとにとっても,オリンピックは遠い国の夢物語でしかない。
オオイの再稼働以来,いちだんとデモの人数が増大しつつある首相官邸前に集まってくる人びとにとっても,もはやオリンピックどころではない。自分たちの生存の基盤がゆらいでいるというのに,一過性のロマンを追っているときではない。
そして,断末魔を迎えつつあるノダ君。そして,そのノダ君を必死になって支えつづけるオカダ君以下執行部の面々。あなた方の「理性」はなんのために働いているのか。ただ,保身のためでしかないではないか。一度握った権力は死んでも離さない覚悟なのか。その政権交代の立役者だったオザワ君が「公約違反」をつづける党にはいられない,とさっさと身を引いたというのに。かえって,すっきりしたと喜ぶ,その「理性」とはな,な,な,なにか。
ひるがえって,世界中内紛だらけ。圧政,貧困,飢餓,病気,・・・・・,民族闘争。わけても,パレスチナ。アメリカの「正義」によって国際社会から排除され,徹底的に弾圧を受けているテロリスト(こんな人たちは不在なのだが)たち,その見えない敵を恐れて「地体空ミサイル」まで配備して開催を強行するロンドン・オリンピック。この奇型化したオリンピックになんの疑問もいだかない文明先進国の人びと(日本人もいつのまにかこの中にいる)。
オリンピック・ムーブメントそのものが,じつは,統合と排除のための巧妙なシステムであることを指摘する言説があまりに少なすぎる。そういうことを見届けている人たちの声は,メディアからシャットアウトされてしまう。平等で自由に競争できるはずのオリンピックには,参加標準記録というかなり高いハードルが仕掛けてある。あるいは,地区予選を勝ち抜かなくてはならないというハードルがある。この段階で,圧倒的多数の文明後進国はあっという間に「排除」されてしまう。いうまでもなく,オリンピックは文明先進国の独壇場なのだ。
これらの問題については,いつか,もっと詳しく書くことにしよう。
日本はオリンピック出場を辞退するくらいの覚悟が必要だったのではないか,とわたしはひとり考え込んでいる。もちろん,圧倒的少数意見であることは覚悟の上で。
オリンピック,オスプレイ,オキナワ,センカク,オオイ,フクシマ,テロリスト,ノダッ・・・・というカタカナ語とにらめっこしながら。
ノダ君がオリンピックの開会式に行きたがっていたが,とうとう諦めたそうな。政権がいつ崩壊するかわからない状況ではどうしようもないではないか。イシハラ君もオリンピック誘致運動のためになにがなんでも行きたがっていたが,こちらは早々と諦め宣言だ。こちらは体調不全が理由にしてはやや早い。相当に悪いということか。とうとうガタがきたか。健全なる身体に不健全なる精神が宿る見本のような人だったが・・・・(あえて,過去形にしておく)。
オスプレイ,オキナワ,オオイ,フクシマを抱え込んで政権どころか,社会全体にガタがきていることが露呈してしまった日本に,国を挙げてオリンピックを招聘しようという夢もはかなく消えていくだろう。もっとも,東京都民はとっくのむかしから冷めた眼で眺めてきた。オリンピックを招聘するくらいなら,それよりさきにやらなくてはならないことが山ほどあるではないか,と。
日本の首相も来られなかった,東京都知事も来られなかった,「やっぱり!」と世界の首脳もIOC理事もなっとくすることだろう。第一,フクシマが最終的な解決をみないことには,ことのほか放射能に神経質なヨーロッパ人は寄りつきはしない。
オキナワの人たちにとってオリンピックは眼中にない。目の前にオスプレイの脅威が待ち受けている。基地問題もどこまで行っても出口はみえてこない。8月5日(日)には沖縄県民集会が待っている。そして,沖縄県民のこころを一つにして,仲里さんや西谷さんのことばを借りれば「自立」への道を模索することになる。(沖縄の「自立」については西谷さんのブログを参照のこと)。ちょうどオリンピック開催中の半ばをすぎたころのことになる。日本の政府がなにひとつ沖縄のために手をさしのべてはくれないことを見届けた「復帰」40年,沖縄県民の,最後の手段としての「自立」への道。沖縄がどうやって生き延びていくのか,という瀬戸際にあって,オリンピックなどという狂気の祭典は眼中にない。
同じように,フクシマの汚染が片づかないかぎりは先祖伝来のわが家に帰ることすら不可能となってしまった人びとにとっても,オリンピックは絵空事でしかない。避難生活を強いられ,働きたくても仕事さえ与えられなくて,毎日,無為に日を送っている人びとにとっても,オリンピックは遠い国の夢物語でしかない。
オオイの再稼働以来,いちだんとデモの人数が増大しつつある首相官邸前に集まってくる人びとにとっても,もはやオリンピックどころではない。自分たちの生存の基盤がゆらいでいるというのに,一過性のロマンを追っているときではない。
そして,断末魔を迎えつつあるノダ君。そして,そのノダ君を必死になって支えつづけるオカダ君以下執行部の面々。あなた方の「理性」はなんのために働いているのか。ただ,保身のためでしかないではないか。一度握った権力は死んでも離さない覚悟なのか。その政権交代の立役者だったオザワ君が「公約違反」をつづける党にはいられない,とさっさと身を引いたというのに。かえって,すっきりしたと喜ぶ,その「理性」とはな,な,な,なにか。
ひるがえって,世界中内紛だらけ。圧政,貧困,飢餓,病気,・・・・・,民族闘争。わけても,パレスチナ。アメリカの「正義」によって国際社会から排除され,徹底的に弾圧を受けているテロリスト(こんな人たちは不在なのだが)たち,その見えない敵を恐れて「地体空ミサイル」まで配備して開催を強行するロンドン・オリンピック。この奇型化したオリンピックになんの疑問もいだかない文明先進国の人びと(日本人もいつのまにかこの中にいる)。
オリンピック・ムーブメントそのものが,じつは,統合と排除のための巧妙なシステムであることを指摘する言説があまりに少なすぎる。そういうことを見届けている人たちの声は,メディアからシャットアウトされてしまう。平等で自由に競争できるはずのオリンピックには,参加標準記録というかなり高いハードルが仕掛けてある。あるいは,地区予選を勝ち抜かなくてはならないというハードルがある。この段階で,圧倒的多数の文明後進国はあっという間に「排除」されてしまう。いうまでもなく,オリンピックは文明先進国の独壇場なのだ。
これらの問題については,いつか,もっと詳しく書くことにしよう。
日本はオリンピック出場を辞退するくらいの覚悟が必要だったのではないか,とわたしはひとり考え込んでいる。もちろん,圧倒的少数意見であることは覚悟の上で。
オリンピック,オスプレイ,オキナワ,センカク,オオイ,フクシマ,テロリスト,ノダッ・・・・というカタカナ語とにらめっこしながら。
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