いつも同じことを感じてきましたが,オリンピックにしろ,サッカーW杯にしろ,台風一過。嵐のような熱狂がまるで嘘のように,ケロリとして日常にもどり,いつもの生活をはじめています。やっと睡眠不足から解放されてやれやれとでも言うかのように。
それに便乗したメディアも同罪です。サッカーW杯の熱狂を煽り立て,まるで日本が優勝候補の一角をになっているかのような幻想を撒き散らしました。本田選手の口から「優勝」のことばがでたとき,わたしはすっかり興ざめしていました。なにを勘違いしているのか,と。世界ランキング45位の日本チームが,と。しかし,メディアは喜んで,この本田選手のことばを言挙げして,さらに熱狂を煽り立てました。単なる「金儲け」のために。
このサッカーW杯開催期間中には,政府自民党がますます独裁化に向かって「暴走」をつづけているというのに,そして,世界でも大きなできごとが続発しているというのに,それらには「蓋」をしたままメディアもまたサッカーW杯の熱狂に浸りこんでいました。こうして,メディアと国民が一体となって,ますます「無思考」となり,従順な民となる,まさに政権党の思うツボ。
サッカーW杯の報道もひどいものでした。わたしはニュースでしかサッカーW杯をみていませんが,それだけに報道の内容のお粗末さが際立ってみえてきました。そこには,サッカーを「批評」する精神はゼロ(0)。ただ,ひたすら勝ち負けだけに焦点を当てた「評論」ばかり,その勝ち負けにどの選手がどのように貢献したか,ということばかりが垂れ流しにされていました。しかも,決定的なシーンはどのテレビ局も同じものの繰り返し。ただ,そこだけがクローズアップされ,サッカーのもつ本質を考えようという姿勢は微塵もありませんでした。
その点,朝日新聞と読売新聞に掲載された今福龍太氏のコラム記事は,その批評性という意味で際立っていました。まず,最初に登場したのが,日本が予選リーグで敗退した直後のものです。その記事が以下のものです。
サッカーに限らず,近代スポーツ競技における「勝利至上主義」がいかなる役割をはたしてきたか,はいまさら取り立てて言うまでもないことではありますが,あえて言わせてもらいます。それはこんにちの産業経済社会の「優勝劣敗主義」という考え方を正当化し,合理化する上で,ほかのどの文化よりも大きな貢献をしたのが,サッカーを筆頭とする近代スポーツ競技です。
このことを今福さんは,もうずっと以前から危惧し,サッカー批評を展開してこられました。その金字塔ともいうべき名著が『ブラジルのホモ・ルーデンス』──サッカー批評原論(月曜社,2008年刊)です。この本を読んだ人からすれば,上の朝日新聞の記事の背景には,今福さんの透徹した深い思想・哲学があっての発言であることが,痛いほど伝わってくることでしょう。そして,勝利至上主義という考え方が,いかにサッカーの本質から逸脱しているかがわかってくることでしょう。その詳細については割愛させていただきます(もし,興味のある方は上記の著書のほかに,『近代スポーツのミッションは終わったか』,西谷修,今福龍太,稲垣正浩共著,平凡社刊を参照してください)。
今福さんはサッカーW杯が終わったときに,こんどは読売新聞社の求めに応じて短いコメントを寄せています。それが以下のものです。
ここにも今福さんの持論が展開されています。ここではスペースの関係で,きわめて圧縮したかたちで,ブラジルの「偶然性の原理」とドイツの「合理性の原理」の問題が論じられています。そして,「合理性」を追求する流れが世界を支配することになりそうだ,と危惧していらっしゃいます。なぜなら,そのさきに透けてみえてくるものは,選手としての人間性はどこかに追いやられ,勝利のためにのみ貢献する単なるサイボーグ(ロボット,道具)と化してしまう,そのことを恐れるからです。「偶然性」は人生そのものです。ブラジルの人たちは,サッカーを「人生」そのものの映し鏡だとみていて,瞬間瞬間に表出する選手たちの機知に富んだ,美しいプレイに一喜一憂しているのです。これこそがサッカーの本質なのだ,と今福さんは仰います。
もし,そういうブラジル型のサッカーがドイツ型のサッカーに押しつぶされていくとしたら,それこそが「世界の危機」だと断言されています。こうしたロジックの詳細を知りたい方は,以下のサイトでご確認ください。 「ブラジルサッカー惨敗にみる世界の危機」というテーマで今福さんを挟んで2人の論者と議論を展開しています。
http://www. videonews.com/
長くなってしまいましたので,今日のブログはこの辺でおわりとさせていただきます。ビデオニュースの内容については,また,機会をあらためて書いてみたいと思っています。
それに便乗したメディアも同罪です。サッカーW杯の熱狂を煽り立て,まるで日本が優勝候補の一角をになっているかのような幻想を撒き散らしました。本田選手の口から「優勝」のことばがでたとき,わたしはすっかり興ざめしていました。なにを勘違いしているのか,と。世界ランキング45位の日本チームが,と。しかし,メディアは喜んで,この本田選手のことばを言挙げして,さらに熱狂を煽り立てました。単なる「金儲け」のために。
このサッカーW杯開催期間中には,政府自民党がますます独裁化に向かって「暴走」をつづけているというのに,そして,世界でも大きなできごとが続発しているというのに,それらには「蓋」をしたままメディアもまたサッカーW杯の熱狂に浸りこんでいました。こうして,メディアと国民が一体となって,ますます「無思考」となり,従順な民となる,まさに政権党の思うツボ。
サッカーW杯の報道もひどいものでした。わたしはニュースでしかサッカーW杯をみていませんが,それだけに報道の内容のお粗末さが際立ってみえてきました。そこには,サッカーを「批評」する精神はゼロ(0)。ただ,ひたすら勝ち負けだけに焦点を当てた「評論」ばかり,その勝ち負けにどの選手がどのように貢献したか,ということばかりが垂れ流しにされていました。しかも,決定的なシーンはどのテレビ局も同じものの繰り返し。ただ,そこだけがクローズアップされ,サッカーのもつ本質を考えようという姿勢は微塵もありませんでした。
その点,朝日新聞と読売新聞に掲載された今福龍太氏のコラム記事は,その批評性という意味で際立っていました。まず,最初に登場したのが,日本が予選リーグで敗退した直後のものです。その記事が以下のものです。
サッカーに限らず,近代スポーツ競技における「勝利至上主義」がいかなる役割をはたしてきたか,はいまさら取り立てて言うまでもないことではありますが,あえて言わせてもらいます。それはこんにちの産業経済社会の「優勝劣敗主義」という考え方を正当化し,合理化する上で,ほかのどの文化よりも大きな貢献をしたのが,サッカーを筆頭とする近代スポーツ競技です。
このことを今福さんは,もうずっと以前から危惧し,サッカー批評を展開してこられました。その金字塔ともいうべき名著が『ブラジルのホモ・ルーデンス』──サッカー批評原論(月曜社,2008年刊)です。この本を読んだ人からすれば,上の朝日新聞の記事の背景には,今福さんの透徹した深い思想・哲学があっての発言であることが,痛いほど伝わってくることでしょう。そして,勝利至上主義という考え方が,いかにサッカーの本質から逸脱しているかがわかってくることでしょう。その詳細については割愛させていただきます(もし,興味のある方は上記の著書のほかに,『近代スポーツのミッションは終わったか』,西谷修,今福龍太,稲垣正浩共著,平凡社刊を参照してください)。
今福さんはサッカーW杯が終わったときに,こんどは読売新聞社の求めに応じて短いコメントを寄せています。それが以下のものです。
ここにも今福さんの持論が展開されています。ここではスペースの関係で,きわめて圧縮したかたちで,ブラジルの「偶然性の原理」とドイツの「合理性の原理」の問題が論じられています。そして,「合理性」を追求する流れが世界を支配することになりそうだ,と危惧していらっしゃいます。なぜなら,そのさきに透けてみえてくるものは,選手としての人間性はどこかに追いやられ,勝利のためにのみ貢献する単なるサイボーグ(ロボット,道具)と化してしまう,そのことを恐れるからです。「偶然性」は人生そのものです。ブラジルの人たちは,サッカーを「人生」そのものの映し鏡だとみていて,瞬間瞬間に表出する選手たちの機知に富んだ,美しいプレイに一喜一憂しているのです。これこそがサッカーの本質なのだ,と今福さんは仰います。
もし,そういうブラジル型のサッカーがドイツ型のサッカーに押しつぶされていくとしたら,それこそが「世界の危機」だと断言されています。こうしたロジックの詳細を知りたい方は,以下のサイトでご確認ください。 「ブラジルサッカー惨敗にみる世界の危機」というテーマで今福さんを挟んで2人の論者と議論を展開しています。
http://www. videonews.com/
長くなってしまいましたので,今日のブログはこの辺でおわりとさせていただきます。ビデオニュースの内容については,また,機会をあらためて書いてみたいと思っています。
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