第一日目と第二日目は先約があって残念ながら見送り。第三日目の今日(6日),朝一のプログラムから最終の第一コートの自選難度競技まで,たっぷりと太極拳を堪能させていただきました。しかも,午前中はスタンドから,午後は本部席からの見学でした。なんと贅沢なことと,申し訳なく思っています。もちろん,村岡会長先生や石原先生にもご挨拶をして。
驚いたことに,村岡会長先生がわたしの病気のことをご存じで,「その後,いかがですか」と声をかけられ,いささか慌ててしまいました。が,事実をありのままにお話させていただきましたら,「じつは,わたしも・・・」ということで,これまた二度目のびっくり。同病相憐れむではありませんが「お互いに気をつけて養生につとめましょう」と励まし合った次第です。
いま,書いてしまってから,個人情報にかかわることなのでちょっとまずいかなぁ,と反省。でも,それ以上にこんな会話が村岡会長先生とできたという自慢話をしたくて仕方のないわたしの欲望抑えがたく・・・・。お許しください。
さて,本題へ。
ことしは,4月に行われた全日本武術太極拳競技大会(本部研修センター)も見学させていただきましたので,比較的短いインターバルで,自選難度競技のトップ・レベルの選手たちの表演を見させていただきました。こんなわずかな期間なのに,選手たちの好不調というものはきちんと結果となって現れるものだということがよくわかりました。きちんと調整をしてきた選手はそれなりの結果がでてくるものだ,と。
ここに改めて実名を挙げて語るまでもないかと思いますが,同行した太極拳の兄弟弟子のNさんと面白い会話をしましたので,ご紹介させていただこうと思います。それは,自選難度競技部門の太極拳女子の内田愛選手(旧姓・宮岡)と佐藤直子選手の,毎年,繰り返される息詰まるほどの僅差の競り合いです。それはほんとうにレベルの高い競り合いで,毎回,楽しみにしている次第です。
今回は,お二人ともみごとな表演で,ほとんど「ノーミス」でした。これは甲乙つけがたし,とわたしはみていました。が,結果は,0.07の差で佐藤直子選手が制しました。勝負の世界はきびしいとはいえ,この差はいったいなにを意味しているのだろうか,と考えてしまいました。そうしたら,隣に座っていたNさんが,ぽつりと「可哀相に。両方,優勝にしたらいいのに」と。そして,「無理に分ける必要なんてないのに」と。ああ,わたしと同じことをNさんは考えていたんだ,とある意味で感動してしまいました。
なぜか,といいますと以下のとおりです。
この「0.07」の差の意味を明確に説明できる根拠はどこにもない,ということです。つまり,採点競技の宿命ともいうべき数字のマジックでしかない,ということです。
それは,ちょうど,スピード・スケート競技での計測と同じです。ここでは「1000分の1秒」まで計測し,優劣の判定をしておいて,その結果を「100分の1秒」の単位で発表します。場合によっては,発表されたタイムは同タイムなのに一位と二位が区別されるということが起こります。が,その区別の根拠は1000分の1秒単位で裏付けることができます。つまり,科学的合理性の力です。しかし,この「差」も,はたして意味があるのか,という問題がでてきます。なぜなら,人間の目にはその違いはまったく見えない世界の話だから,ということです。
太極拳の表演での「0.07」の差は,目でみたかぎりでは確認のしようがないはずです。つまり,どちらが上手だったか,という根拠にはなりえない,ということです。ただ,「新国際競技ルール」にもとづく採点の集計の結果が「0.07」という数字となって表れただけの話です。
もう少しだけ踏み込んでおきますと,A組審判に5点,B組審判に3点,C組審判に2点が配分され,それぞれの審判がその配点の範囲内で,各3人の審判が採点し,それを集計して3等分したものが各組の点数となり,それを集計したものが選手の点数となります(精確にはもっと複雑な構造になっています)。
ということは,各組の優劣は判定できても,全体を見渡しての優劣の判定はできない,ということになります。つまり,自選難度競技以外の採点方法では可能な,全体のできばえの優劣を見極めた上での点数の割り出し方ができない,ということです。となると,極端な場合には,全体のできばえは明らかに違うのに,A組,B組,C組から割り出された点数を集計したら逆の結果がでてくる,ということもありえます。
もちろん,その逆に,主観を排除して,徹底的に客観性を追求した「新国際競技ルール」のメリットもあります。しかし,このルールでは,武術としての完成度,つまり,到達している精神性のレベルを客観的に数量化することは不可能です。ここに,ヨーロッパ的合理性を追求するあまりに,武術が形骸化していく,という避けて通ることのできない隘路が待ち受けています。これは,太極拳にかぎらず,柔道も含めて,国際化にともなう,一種の必然といっていいだろうと思います。
合理性,とりわけ,科学的合理性は一見したところきわめて説得力に富んでいます。しかし,そこには秘められた落とし穴がある,ということも忘れてはなりません。武術のできばえを科学的合理性だけで優劣を判定することの,とんでもない勘違いが大通りを闊歩しているのではないか,とこれはまあ,わたしのきわめて個人的な感想です。
しかし,同行のNさんも同じようなことを感じ,考えている,しかも,わたしよりももっと深いところにまでその思考の触手は伸びているだろうことは間違いありません。この問題は,すぐれて今日的な「普遍」の問題に通ずる大問題でもあります。そして,そういう大問題が太極拳の「新国際競技ルール」の世界にもみごとに浸透している,ということです。いつか,Nさんとこの問題について考える機会が得られれば,と思っています。
この内田愛選手と佐藤直子選手の表演は,NHKのBS1で,7月13日(日)12:00~12:50に放映されることになるだろう,と思っています。もう一度,録画でもして,しっかりといろいろの観点から分析しながら,問題の所在を見極めてみたいと思っています。
驚いたことに,村岡会長先生がわたしの病気のことをご存じで,「その後,いかがですか」と声をかけられ,いささか慌ててしまいました。が,事実をありのままにお話させていただきましたら,「じつは,わたしも・・・」ということで,これまた二度目のびっくり。同病相憐れむではありませんが「お互いに気をつけて養生につとめましょう」と励まし合った次第です。
いま,書いてしまってから,個人情報にかかわることなのでちょっとまずいかなぁ,と反省。でも,それ以上にこんな会話が村岡会長先生とできたという自慢話をしたくて仕方のないわたしの欲望抑えがたく・・・・。お許しください。
さて,本題へ。
ことしは,4月に行われた全日本武術太極拳競技大会(本部研修センター)も見学させていただきましたので,比較的短いインターバルで,自選難度競技のトップ・レベルの選手たちの表演を見させていただきました。こんなわずかな期間なのに,選手たちの好不調というものはきちんと結果となって現れるものだということがよくわかりました。きちんと調整をしてきた選手はそれなりの結果がでてくるものだ,と。
ここに改めて実名を挙げて語るまでもないかと思いますが,同行した太極拳の兄弟弟子のNさんと面白い会話をしましたので,ご紹介させていただこうと思います。それは,自選難度競技部門の太極拳女子の内田愛選手(旧姓・宮岡)と佐藤直子選手の,毎年,繰り返される息詰まるほどの僅差の競り合いです。それはほんとうにレベルの高い競り合いで,毎回,楽しみにしている次第です。
今回は,お二人ともみごとな表演で,ほとんど「ノーミス」でした。これは甲乙つけがたし,とわたしはみていました。が,結果は,0.07の差で佐藤直子選手が制しました。勝負の世界はきびしいとはいえ,この差はいったいなにを意味しているのだろうか,と考えてしまいました。そうしたら,隣に座っていたNさんが,ぽつりと「可哀相に。両方,優勝にしたらいいのに」と。そして,「無理に分ける必要なんてないのに」と。ああ,わたしと同じことをNさんは考えていたんだ,とある意味で感動してしまいました。
なぜか,といいますと以下のとおりです。
この「0.07」の差の意味を明確に説明できる根拠はどこにもない,ということです。つまり,採点競技の宿命ともいうべき数字のマジックでしかない,ということです。
それは,ちょうど,スピード・スケート競技での計測と同じです。ここでは「1000分の1秒」まで計測し,優劣の判定をしておいて,その結果を「100分の1秒」の単位で発表します。場合によっては,発表されたタイムは同タイムなのに一位と二位が区別されるということが起こります。が,その区別の根拠は1000分の1秒単位で裏付けることができます。つまり,科学的合理性の力です。しかし,この「差」も,はたして意味があるのか,という問題がでてきます。なぜなら,人間の目にはその違いはまったく見えない世界の話だから,ということです。
太極拳の表演での「0.07」の差は,目でみたかぎりでは確認のしようがないはずです。つまり,どちらが上手だったか,という根拠にはなりえない,ということです。ただ,「新国際競技ルール」にもとづく採点の集計の結果が「0.07」という数字となって表れただけの話です。
もう少しだけ踏み込んでおきますと,A組審判に5点,B組審判に3点,C組審判に2点が配分され,それぞれの審判がその配点の範囲内で,各3人の審判が採点し,それを集計して3等分したものが各組の点数となり,それを集計したものが選手の点数となります(精確にはもっと複雑な構造になっています)。
ということは,各組の優劣は判定できても,全体を見渡しての優劣の判定はできない,ということになります。つまり,自選難度競技以外の採点方法では可能な,全体のできばえの優劣を見極めた上での点数の割り出し方ができない,ということです。となると,極端な場合には,全体のできばえは明らかに違うのに,A組,B組,C組から割り出された点数を集計したら逆の結果がでてくる,ということもありえます。
もちろん,その逆に,主観を排除して,徹底的に客観性を追求した「新国際競技ルール」のメリットもあります。しかし,このルールでは,武術としての完成度,つまり,到達している精神性のレベルを客観的に数量化することは不可能です。ここに,ヨーロッパ的合理性を追求するあまりに,武術が形骸化していく,という避けて通ることのできない隘路が待ち受けています。これは,太極拳にかぎらず,柔道も含めて,国際化にともなう,一種の必然といっていいだろうと思います。
合理性,とりわけ,科学的合理性は一見したところきわめて説得力に富んでいます。しかし,そこには秘められた落とし穴がある,ということも忘れてはなりません。武術のできばえを科学的合理性だけで優劣を判定することの,とんでもない勘違いが大通りを闊歩しているのではないか,とこれはまあ,わたしのきわめて個人的な感想です。
しかし,同行のNさんも同じようなことを感じ,考えている,しかも,わたしよりももっと深いところにまでその思考の触手は伸びているだろうことは間違いありません。この問題は,すぐれて今日的な「普遍」の問題に通ずる大問題でもあります。そして,そういう大問題が太極拳の「新国際競技ルール」の世界にもみごとに浸透している,ということです。いつか,Nさんとこの問題について考える機会が得られれば,と思っています。
この内田愛選手と佐藤直子選手の表演は,NHKのBS1で,7月13日(日)12:00~12:50に放映されることになるだろう,と思っています。もう一度,録画でもして,しっかりといろいろの観点から分析しながら,問題の所在を見極めてみたいと思っています。
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