意を決して,12月1日から『沖縄タイムズ』と『琉球新報』の二紙をネット購読することにした。両紙ともに二カ月は無料購読できることになっていたが,そんなケチなことはしないで有料の契約を結んだ。こんなところで金をけちってはいけない,と自戒しつつ。
最初はパソコンの画面で新聞を読むということに慣れていなかったので,どことなく違和感があった。しかし,慣れるにしたがって,パソコン画面の利点もみえてきた。たとえば,活字の大きさを自由自在に操作して,自分の読みやすい大きさにすることができる。これはとても助かる。読むスピードもアップする。不得手だった斜め読みも少しずつできるようになってきた。
こうして両紙を読み比べてみると,いろいろと考えることが多々見つかって,面白くなってくる。最初にみえてきたことは,両紙が競い合うようにして,ジャーナリズム・スピリッツを遺憾なく発揮しているということだ。じつにみごとに是々非々の姿勢を両紙ともに貫いている。ジャーナリズムがここではまだ健在そのものだということが,この両紙を読んでいるとわかってくる。中立・公正ということはこういうことだ。それができない新聞となれば,読者が離れていく。つまり,死活問題だ。だから,真剣そのものである。そのことは感動的ですらある。
わざわざ政権党が文書でマスコミ各社に「中立・公正」を提示するまでもないことだ。それどころか,その姿勢そのものこそが中立・公正を認めず,政権党に不利な報道をするな,とプレッシャーをかけていること以外のなにものでもない。笑止千万である。にもかかわらず,それに真っ向から異論を唱える大手新聞社も見当たらず,それに輪をかけたように選挙協力までしてしまったではないか。あきれてものも言えないとはこのことだ。
その点,沖縄の両紙にみる,今回の選挙に関する報道の仕方はみごとだった。すべての候補者をくまなく取材し,すべてに平等に批評を加え,紙面での情報量もつとめて均等になるよう努めていたように,わたしは見えた。この点は,ヤマトの大手の新聞各社とは大違いだった。いま,評判の『東京新聞』ですら,足元にも及ばないほどの,厳正な中立・公正の立場を貫いていた,と評価してよいだろう。
だからこそ,沖縄県民の選挙行動は節度のあるものとなった,と言ってよいだろう。それを支えたのはひとえに両紙の情報の質の高さにあった。たとえば,各候補の主張の違いをきちんと整理するだけではなく,各政党の基本的な姿勢の違いもわかりやすく解説していたことがある。そして,小選挙区制度にもとづく選挙のメリット・デメリットについても,きちんと解説を加え,政党の方針をしっかりと見極めることの大切さをも説いていた。こうして,沖縄県民の一人ひとりが考えに考え,みずからの姿勢を固めて,重い一票を投じたのだ。このようにして,沖縄県民の,いわゆる民意というものが構築され,表明されたのだ。
その答えが,自民NO,だった。
にもかかわらず,小選挙区選挙で落選した自民党候補が,比例代表で全員が復活するという珍事が起きた。これが小選挙区選挙の最大の矛盾点だ。制度的にはなんの問題もないのだろうが,自民NOをつきつけたつもりの県民にとっては,なんともいえない違和感を覚えたに違いない。そして,いまもなお,選挙とはなんなのか,民主主義とはいったいどういうことなのか,民意とはどういうことなのか,と基本的な懐疑を生んでいることだろう。
こうして,沖縄県民の多くが,選挙とはなにかというレベルの高い教訓を,またひとつ学ぶことになった。民意とはなにか。沖縄県民の民意はどこまでいってもヤマトの政権党には無視されてしまう。辺野古移設反対も10万票もの差をつけた民意にもかかわらず,「これまでどおり粛々と進める」(菅官房長官,安倍首相)と平然と言ってのけた。そしてまた,国会議員としは認めないとした民意もなんのその,復活で全員が議員となる。こんな,とてつもない矛盾を,この短期間のうちに沖縄県民は,またまた,体験しているのである。
こんな話をあるところでしたところ「いまの人は新聞なんてほとんど読んではいないよ。そんなきれいごとを・・・」と一笑に付されてしまった。これがヤマトの常識だろう。しかし,沖縄では新聞を読まない人間は非常識とされる。毎日,ほとんどの人が新聞には眼をとおす。なぜなら,これもヤマトの人間には理解不能だろうが,沖縄の両紙には毎日,「訃報」が全面広告として掲載される。そして,少しでも縁故のあった人のところには必ず香典をとどける習慣がある。たとえば,千円でもいい。それをしておくことが,沖縄県で生きていくためには不可欠だ,という。だから,朝起きたら訃報を確認するのが習慣化している。
「友だちの友だちはみんな友だち」という密度の濃い人間関係が,いまも大事にされている県民性を,わたしたちは笑うことはできない。「もやい」のシステムがいまも生きている世界だ。人が生きるということがどういうことなのか,という原点についての理解が,ヤマトとはまるで異なる。このことも,両紙を購読するようになって,しみじみとわかってきたことである。
このブログの冒頭で,「意を決して,両紙を購読することにした」と書いたのは,前回の沖縄県知事選挙の結果をみて,この人たちの選挙行動がどのようにして形成され,構築されているのか,というその実態を知りたかったからである。言ってみれば,沖縄県のジャーナリズムの実態を知りたかったからである。このことについては,また,機会をあらためて考えてみたいと思う。
いずれにしても,まずは,「沖縄のジャーナリズムは健在」だ。このことを銘記しておこう。
最初はパソコンの画面で新聞を読むということに慣れていなかったので,どことなく違和感があった。しかし,慣れるにしたがって,パソコン画面の利点もみえてきた。たとえば,活字の大きさを自由自在に操作して,自分の読みやすい大きさにすることができる。これはとても助かる。読むスピードもアップする。不得手だった斜め読みも少しずつできるようになってきた。
こうして両紙を読み比べてみると,いろいろと考えることが多々見つかって,面白くなってくる。最初にみえてきたことは,両紙が競い合うようにして,ジャーナリズム・スピリッツを遺憾なく発揮しているということだ。じつにみごとに是々非々の姿勢を両紙ともに貫いている。ジャーナリズムがここではまだ健在そのものだということが,この両紙を読んでいるとわかってくる。中立・公正ということはこういうことだ。それができない新聞となれば,読者が離れていく。つまり,死活問題だ。だから,真剣そのものである。そのことは感動的ですらある。
わざわざ政権党が文書でマスコミ各社に「中立・公正」を提示するまでもないことだ。それどころか,その姿勢そのものこそが中立・公正を認めず,政権党に不利な報道をするな,とプレッシャーをかけていること以外のなにものでもない。笑止千万である。にもかかわらず,それに真っ向から異論を唱える大手新聞社も見当たらず,それに輪をかけたように選挙協力までしてしまったではないか。あきれてものも言えないとはこのことだ。
その点,沖縄の両紙にみる,今回の選挙に関する報道の仕方はみごとだった。すべての候補者をくまなく取材し,すべてに平等に批評を加え,紙面での情報量もつとめて均等になるよう努めていたように,わたしは見えた。この点は,ヤマトの大手の新聞各社とは大違いだった。いま,評判の『東京新聞』ですら,足元にも及ばないほどの,厳正な中立・公正の立場を貫いていた,と評価してよいだろう。
だからこそ,沖縄県民の選挙行動は節度のあるものとなった,と言ってよいだろう。それを支えたのはひとえに両紙の情報の質の高さにあった。たとえば,各候補の主張の違いをきちんと整理するだけではなく,各政党の基本的な姿勢の違いもわかりやすく解説していたことがある。そして,小選挙区制度にもとづく選挙のメリット・デメリットについても,きちんと解説を加え,政党の方針をしっかりと見極めることの大切さをも説いていた。こうして,沖縄県民の一人ひとりが考えに考え,みずからの姿勢を固めて,重い一票を投じたのだ。このようにして,沖縄県民の,いわゆる民意というものが構築され,表明されたのだ。
その答えが,自民NO,だった。
にもかかわらず,小選挙区選挙で落選した自民党候補が,比例代表で全員が復活するという珍事が起きた。これが小選挙区選挙の最大の矛盾点だ。制度的にはなんの問題もないのだろうが,自民NOをつきつけたつもりの県民にとっては,なんともいえない違和感を覚えたに違いない。そして,いまもなお,選挙とはなんなのか,民主主義とはいったいどういうことなのか,民意とはどういうことなのか,と基本的な懐疑を生んでいることだろう。
こうして,沖縄県民の多くが,選挙とはなにかというレベルの高い教訓を,またひとつ学ぶことになった。民意とはなにか。沖縄県民の民意はどこまでいってもヤマトの政権党には無視されてしまう。辺野古移設反対も10万票もの差をつけた民意にもかかわらず,「これまでどおり粛々と進める」(菅官房長官,安倍首相)と平然と言ってのけた。そしてまた,国会議員としは認めないとした民意もなんのその,復活で全員が議員となる。こんな,とてつもない矛盾を,この短期間のうちに沖縄県民は,またまた,体験しているのである。
こんな話をあるところでしたところ「いまの人は新聞なんてほとんど読んではいないよ。そんなきれいごとを・・・」と一笑に付されてしまった。これがヤマトの常識だろう。しかし,沖縄では新聞を読まない人間は非常識とされる。毎日,ほとんどの人が新聞には眼をとおす。なぜなら,これもヤマトの人間には理解不能だろうが,沖縄の両紙には毎日,「訃報」が全面広告として掲載される。そして,少しでも縁故のあった人のところには必ず香典をとどける習慣がある。たとえば,千円でもいい。それをしておくことが,沖縄県で生きていくためには不可欠だ,という。だから,朝起きたら訃報を確認するのが習慣化している。
「友だちの友だちはみんな友だち」という密度の濃い人間関係が,いまも大事にされている県民性を,わたしたちは笑うことはできない。「もやい」のシステムがいまも生きている世界だ。人が生きるということがどういうことなのか,という原点についての理解が,ヤマトとはまるで異なる。このことも,両紙を購読するようになって,しみじみとわかってきたことである。
このブログの冒頭で,「意を決して,両紙を購読することにした」と書いたのは,前回の沖縄県知事選挙の結果をみて,この人たちの選挙行動がどのようにして形成され,構築されているのか,というその実態を知りたかったからである。言ってみれば,沖縄県のジャーナリズムの実態を知りたかったからである。このことについては,また,機会をあらためて考えてみたいと思う。
いずれにしても,まずは,「沖縄のジャーナリズムは健在」だ。このことを銘記しておこう。
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