年の瀬の迫った12月22日(月)・24日(水)・25日(木)の三日間,朝8時50分から午後5時30分まで,ぶっ通しの西谷修さんの集中講義を受講させていただきました。一日5コマ,計15コマ(半期分)というハードなスケジュールです。途中,23日(火)は祝日でしたのでお休み。折角の骨休めの日にもかかわらず,西谷さんは京都の同志社大学で開催されたシンポジウムに出向。ですから,西谷さんは計4日間,びっしり詰まったスケジュールをこなされたことになります。その集中力と持続力には,ただただ頭が下がります。驚くべき元気さです。
22日からの集中講義とはいえ,朝8時50分開始ですので,前日の21日(日)の夕刻には神戸市外大の用意してくれた宿舎に到着してスタンバイ。最後の25日(木)は打ち上げと称して,西谷さんと懇意にしているわたしたちの仲間と,近くの温泉施設で一泊。ですから,西谷さんとしては,結局は6日間が,この集中講義のために費やされたことになります。ずっとご一緒させけいただいたわたしとしては至福のとき。まさに,濃密な時間でした。
繰り返しになりますが,集中講義の題目は「医療思想史」。わたしはこのテーマでの講義を受講するのは二度目でしたが,西谷さんはそのことを意識されたのか,一回目のときには話されなかった内容をふんだんに盛り込んでくださいました。とりわけ,身体論にかかわる重要なポイントをいくつか取り上げ,それを医療思想とクロスさせる展開をしてくださり,とてもありがたく,いい勉強になりました。といいますのも,ここで西谷さんが展開された話題は,そのまま,スポーツ思想史,あるいは,スポーツ哲学としてアレンジすることが可能だからです。
たとえば,ヒポクラテスについての,西谷さんの驚くべき洞察が,これでもか,これでもか,とつぎからつぎへと繰り出されました。その骨子は,ひとことで言ってしまえば,ヒポクラテスの医療が合理的な経験知と宗教的な儀礼との端境で実施されていたこと,そして,それはなにを意味していたのか,を問うものでした。
そのうちの,わたしにとって印象深かった話題のひとつは,ヒポクラテスの医療に関する考え方にありました。ヒポクラテスの医療は,医者が手をつくせば治る可能性のある病人だけを対象とし,手をつくしても不可能だと思われる病人は聖職者の手にゆだねるべきだ,という姿勢を貫いたということです。つまり,ある程度までは医療をほどこしても,もとの健康をとりもどせないと判断された病人については,無理に医療の手をつくすことはしない,という考え方です。そして,その病人については,聖職者によって,癒されつつ死を迎えるべきだ,という考え方です。
別の言い方をすれば,人間には「生きる力」がもともとあって,その「生きる力」をも凌駕してしまう病気や怪我については,もはや医療の対象にはせず,聖職者に委ねる,という考え方です。
この考え方はこんにちの医療を考える上できわめて重要な示唆を含んでいると言っていいでしょう。ひるがえって,こんにちのスポーツ選手たちのからだを考える上でもきわめて重要な示唆を含んでいます。もともともって生まれたからだの資質に支えられて競技力を向上させていく,これはごく自然な流れだといっていいでしょう。古代ギリシア時代の競技者はこの考え方の上に成立していて,それ以上の競技力は神への祈りによって得られるものだ,と考えられていました。
しかし,こんにちの競技者のトレーニング方法は,自然の流れからは大きく逸脱しているとしかいいようがありません。その極致が,ドーピングです。自力では足りないというので,他力(薬)で競技力を補おうという,近代科学のいう「合理性」に支えられた発想です。それでも,さすがにこれは行き過ぎだというので,禁止しています。しかし,完全に禁止し,完璧に管理することは不可能だとも考えられています。
こんにちの医療システムも,競技力向上システムも,すでに,狂気の一線を踏み越えてしまった領域に乱入している,と言っていいでしょう。しかも,もはやその「狂気」の歯止めがきかなくなってしまっています。こうした情況は,こんにちのわたしたちの生活のあらゆる場面にみてとることができます。大問題です。ですから,この問題をどのように考えればいいのか,というのがこんにちの最大の課題でもあります。
というような具合です。こんな話題がてんこもりになっている西谷さんの集中講義でした。これからノートを整理しながら,考えるべきヒントを抽出し,一つひとつ検討していきたいと思っています。三日間,15コマの,しかも濃密な思考のてんこもりのご馳走を,これからじっくり時間をかけて消化していかなければなりません。大きな宿題をたくさんいただく,素晴らしい集中講義でした。
講義の最後のところでさらりと触れられましたが,この「医療思想史」は数カ月後には単行本になって世にでるとのことです。この本が出たら,おそらく大きな話題を呼ぶことになるでしょう。わたしはいまからそれを楽しみにしているところです。
ということで,今回はここまで。
22日からの集中講義とはいえ,朝8時50分開始ですので,前日の21日(日)の夕刻には神戸市外大の用意してくれた宿舎に到着してスタンバイ。最後の25日(木)は打ち上げと称して,西谷さんと懇意にしているわたしたちの仲間と,近くの温泉施設で一泊。ですから,西谷さんとしては,結局は6日間が,この集中講義のために費やされたことになります。ずっとご一緒させけいただいたわたしとしては至福のとき。まさに,濃密な時間でした。
繰り返しになりますが,集中講義の題目は「医療思想史」。わたしはこのテーマでの講義を受講するのは二度目でしたが,西谷さんはそのことを意識されたのか,一回目のときには話されなかった内容をふんだんに盛り込んでくださいました。とりわけ,身体論にかかわる重要なポイントをいくつか取り上げ,それを医療思想とクロスさせる展開をしてくださり,とてもありがたく,いい勉強になりました。といいますのも,ここで西谷さんが展開された話題は,そのまま,スポーツ思想史,あるいは,スポーツ哲学としてアレンジすることが可能だからです。
たとえば,ヒポクラテスについての,西谷さんの驚くべき洞察が,これでもか,これでもか,とつぎからつぎへと繰り出されました。その骨子は,ひとことで言ってしまえば,ヒポクラテスの医療が合理的な経験知と宗教的な儀礼との端境で実施されていたこと,そして,それはなにを意味していたのか,を問うものでした。
そのうちの,わたしにとって印象深かった話題のひとつは,ヒポクラテスの医療に関する考え方にありました。ヒポクラテスの医療は,医者が手をつくせば治る可能性のある病人だけを対象とし,手をつくしても不可能だと思われる病人は聖職者の手にゆだねるべきだ,という姿勢を貫いたということです。つまり,ある程度までは医療をほどこしても,もとの健康をとりもどせないと判断された病人については,無理に医療の手をつくすことはしない,という考え方です。そして,その病人については,聖職者によって,癒されつつ死を迎えるべきだ,という考え方です。
別の言い方をすれば,人間には「生きる力」がもともとあって,その「生きる力」をも凌駕してしまう病気や怪我については,もはや医療の対象にはせず,聖職者に委ねる,という考え方です。
この考え方はこんにちの医療を考える上できわめて重要な示唆を含んでいると言っていいでしょう。ひるがえって,こんにちのスポーツ選手たちのからだを考える上でもきわめて重要な示唆を含んでいます。もともともって生まれたからだの資質に支えられて競技力を向上させていく,これはごく自然な流れだといっていいでしょう。古代ギリシア時代の競技者はこの考え方の上に成立していて,それ以上の競技力は神への祈りによって得られるものだ,と考えられていました。
しかし,こんにちの競技者のトレーニング方法は,自然の流れからは大きく逸脱しているとしかいいようがありません。その極致が,ドーピングです。自力では足りないというので,他力(薬)で競技力を補おうという,近代科学のいう「合理性」に支えられた発想です。それでも,さすがにこれは行き過ぎだというので,禁止しています。しかし,完全に禁止し,完璧に管理することは不可能だとも考えられています。
こんにちの医療システムも,競技力向上システムも,すでに,狂気の一線を踏み越えてしまった領域に乱入している,と言っていいでしょう。しかも,もはやその「狂気」の歯止めがきかなくなってしまっています。こうした情況は,こんにちのわたしたちの生活のあらゆる場面にみてとることができます。大問題です。ですから,この問題をどのように考えればいいのか,というのがこんにちの最大の課題でもあります。
というような具合です。こんな話題がてんこもりになっている西谷さんの集中講義でした。これからノートを整理しながら,考えるべきヒントを抽出し,一つひとつ検討していきたいと思っています。三日間,15コマの,しかも濃密な思考のてんこもりのご馳走を,これからじっくり時間をかけて消化していかなければなりません。大きな宿題をたくさんいただく,素晴らしい集中講義でした。
講義の最後のところでさらりと触れられましたが,この「医療思想史」は数カ月後には単行本になって世にでるとのことです。この本が出たら,おそらく大きな話題を呼ぶことになるでしょう。わたしはいまからそれを楽しみにしているところです。
ということで,今回はここまで。
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