「スポーツ学」という新しい学を成立させるためには,三つの条件をクリアしなくてはなりません。その条件とは,スポーツ学に固有の研究領域,研究対象,研究方法,の三つです。研究領域については,その3.で説明したとおりです。
ここでは,スポーツ学に固有の研究対象について考えてみたいと思います。
ひとくちにスポーツ学に固有の研究対象といっても,さまざまな広がりや層の違いがあります。そこで,まずは,大きなところから考えてみたいと思います。
「スポーツ学」にとって最大の研究対象は「スポーツ」です。このスポーツだけを取り出してきて,それを研究対象とする独立した学は,「スポーツ学」の他にはありません。その意味で,スポーツ学は,学としての重要な条件をクリアしていることになります。また,ついでに述べておけば,「スポーツ学」を新たな学として,その体系を提示した人はまだ世界のどこにもいません。したがって,ここで明らかにしようとしている「スポーツ学」とはなにか,という問いに対する応答は世界初の試みである,ということになります。
もし,『スポーツ学概論』なるテクストが誕生するとなれば,それは世界初の,そして,世界でたった一つの試みである,ということになります。
ところで,「スポーツ学」に固有の研究対象である「スポーツ」をひとつの文化として捉えたときには,それをスポーツの「中心」と「周縁」の二つの視点から考えることができます。スポーツという文化の中心を占めるのは,競技スポーツと野外スポーツです。そして,競技スポーツとしての具体的な研究対象はテニス,サッカー,水泳などのように,各競技種目別に細分化することができます。このことは,登山,スキー,ハイキング,などのように,野外スポーツにあっても同様です。いわゆるスポーツ文化の中心を構成する研究対象はだれの眼にも明らかです。
しかし,スポーツ文化の周縁はいささかやっかいです。といいますのは,スポーツ文化とそうでないものとの境界領域,いわゆるグレイゾーンが存在するからです。
たとえば,オリンピックの聖火リレーや聖火台で燃え盛る聖火は立派なスポーツ文化です。がしかし,奈良・若草山の山焼きはどうでしょう。そして,このときに打ち上げられる花火はどうでしょう。山焼きや打ち上げ花火を鑑賞する行為は,はたしてスポーツ文化と呼ぶことができるでしょうか。あるいはまた,山焼きや花火を撮影することはどうでしょうか。このあたりのところは意見が分かれるところです。
同じように,スポーツとレクリェーションの区別も微妙です。レクリェーショナル・スポーツということばがあります。これは問題がないと思いますが,レクリェーションとして行われる歌や踊り,集団ゲームや遊び,などはどうでしょうか。
このように考えていきますと,スポーツ文化の周縁には,じつにさまざまな問題が内包されていることがわかります。
問題は,「スポーツ」という概念をどのように規定するか,にあります。スポーツの概念は,時代や地域や社会によって異なります。同時に,変化もしていきます。ですから,「スポーツ学」で考える「スポーツ」の概念はどういうものであるのか,これを明確にしておくことが重要です。しかし,「スポーツとはなにか」の答えを導き出すのは「スポーツ学」の最終ゴールでもあります。
したがって,スポーツ文化の周縁については,仮説を立てて,その前提に立って研究を進めることになります。その場合,スポーツの概念をできるだけゆるやかに捉え,大きく包み込む発想が大事です。なぜなら,野外スポーツの周縁には,どう考えても,スポーツとは言い切れない要素も多く含まれているからです。
しかし,「スポーツ学」とは,そういう議論をする場でもあるのです。つまり,スポーツ学が研究対象とする「スポーツ」とはなにか,という議論です。こうした議論をとおして,「スポーツ学」の全体像もしだいに明らかになってくる,そこにこの学の存在理由があり,この学の固有の特質がある,と言っていいでしょう。
※なお,学問論として,スポーツ学の固有の研究対象を明らかにすることは,きわめて重要なことです。しかし,本格的に取り組むとなると,膨大な作業が必要となります。ので,この問題については,また,機会を改めてチャレンジしてみたいと思います。
ここでは,スポーツ学に固有の研究対象について考えてみたいと思います。
ひとくちにスポーツ学に固有の研究対象といっても,さまざまな広がりや層の違いがあります。そこで,まずは,大きなところから考えてみたいと思います。
「スポーツ学」にとって最大の研究対象は「スポーツ」です。このスポーツだけを取り出してきて,それを研究対象とする独立した学は,「スポーツ学」の他にはありません。その意味で,スポーツ学は,学としての重要な条件をクリアしていることになります。また,ついでに述べておけば,「スポーツ学」を新たな学として,その体系を提示した人はまだ世界のどこにもいません。したがって,ここで明らかにしようとしている「スポーツ学」とはなにか,という問いに対する応答は世界初の試みである,ということになります。
もし,『スポーツ学概論』なるテクストが誕生するとなれば,それは世界初の,そして,世界でたった一つの試みである,ということになります。
ところで,「スポーツ学」に固有の研究対象である「スポーツ」をひとつの文化として捉えたときには,それをスポーツの「中心」と「周縁」の二つの視点から考えることができます。スポーツという文化の中心を占めるのは,競技スポーツと野外スポーツです。そして,競技スポーツとしての具体的な研究対象はテニス,サッカー,水泳などのように,各競技種目別に細分化することができます。このことは,登山,スキー,ハイキング,などのように,野外スポーツにあっても同様です。いわゆるスポーツ文化の中心を構成する研究対象はだれの眼にも明らかです。
しかし,スポーツ文化の周縁はいささかやっかいです。といいますのは,スポーツ文化とそうでないものとの境界領域,いわゆるグレイゾーンが存在するからです。
たとえば,オリンピックの聖火リレーや聖火台で燃え盛る聖火は立派なスポーツ文化です。がしかし,奈良・若草山の山焼きはどうでしょう。そして,このときに打ち上げられる花火はどうでしょう。山焼きや打ち上げ花火を鑑賞する行為は,はたしてスポーツ文化と呼ぶことができるでしょうか。あるいはまた,山焼きや花火を撮影することはどうでしょうか。このあたりのところは意見が分かれるところです。
同じように,スポーツとレクリェーションの区別も微妙です。レクリェーショナル・スポーツということばがあります。これは問題がないと思いますが,レクリェーションとして行われる歌や踊り,集団ゲームや遊び,などはどうでしょうか。
このように考えていきますと,スポーツ文化の周縁には,じつにさまざまな問題が内包されていることがわかります。
問題は,「スポーツ」という概念をどのように規定するか,にあります。スポーツの概念は,時代や地域や社会によって異なります。同時に,変化もしていきます。ですから,「スポーツ学」で考える「スポーツ」の概念はどういうものであるのか,これを明確にしておくことが重要です。しかし,「スポーツとはなにか」の答えを導き出すのは「スポーツ学」の最終ゴールでもあります。
したがって,スポーツ文化の周縁については,仮説を立てて,その前提に立って研究を進めることになります。その場合,スポーツの概念をできるだけゆるやかに捉え,大きく包み込む発想が大事です。なぜなら,野外スポーツの周縁には,どう考えても,スポーツとは言い切れない要素も多く含まれているからです。
しかし,「スポーツ学」とは,そういう議論をする場でもあるのです。つまり,スポーツ学が研究対象とする「スポーツ」とはなにか,という議論です。こうした議論をとおして,「スポーツ学」の全体像もしだいに明らかになってくる,そこにこの学の存在理由があり,この学の固有の特質がある,と言っていいでしょう。
※なお,学問論として,スポーツ学の固有の研究対象を明らかにすることは,きわめて重要なことです。しかし,本格的に取り組むとなると,膨大な作業が必要となります。ので,この問題については,また,機会を改めてチャレンジしてみたいと思います。
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