7月22日(水)午前。2週間のお休みをしてしまいましたが,3週間ぶりに太極拳の稽古に復帰することができました。もちろん,体調はまだ十分ではありませんので,ほんの少しだけからだを動かしただけのことではありますが・・・・。でも,復帰は復帰です。あの「場」に立てたことがなによりの喜びです。
太極拳の稽古は楽しい。なにより,そこに集まってくる友人たちの顔ぶれがいい。みなさん自律した大人ばかりですので,しかも,厳しいお仕事と対決していらっしゃる方たちばかりですので,他者を思いやる気配りも尋常ではありません。それが,そこはかとなく伝わってきます。こういう人たちに囲まれて,そこに空気のように存在するだけで,わたしは幸せです。
のみならず,大発見がありました。
前回の術後に,李老師から「高い姿勢で,からだもこころも力を抜いて,のらりくらり」と適当にやりなさい,と繰り返し言われていました。しかし,それがどうしてもできませんでした。からだに力がもどっていて,そんなに力まなくてもふつうにできてしまうからです。ですが,今回は,そうではありませんでした。
腹部の切開した傷跡の周囲の皮膚が,まだ,ピリピリと痛みます。のみならず,切除した肝臓の傷口も,周期的に痛くなってきます。周期的というのは,鎮痛剤を飲んでいますので,その薬効が切れてくると,ズキズキと痛みます。ですから,つねにからだの声に耳を傾けながら,恐るおそるからだを動かすことになります。その結果が,今日の太極拳の稽古でした。とにかく,痛みのないところで,それんとなく流していくことになりました。
やっている途中で,「ああ,李老師が仰っていたことはこれだな」と感じとることができる部分がありました。と同時に,なんだか嬉しくなってきて,こころもからだも喜びでいっぱいになってきます。あふれるほどの喜びであり,快感でもありました。これなんだ,これこそが李老師が「めざせ!」と仰ってくださっていたことだったのだ・・・・と。
こと運動に関しては,近代合理主義者であり,体操競技出身のわたしとしては,そんな「でれでれした」太極拳などはあってはならない,ありえない,と固く信じていました。しかし,そうではありませんでした。これこそ怪我の功名というやつでしょうか。動かすことのできないからだで,いま,できることをやるとしたら,これしかない・・・・この「これしかない」がじつは太極拳の奥義のひとつだったのです。
「からだの力を抜く」ことの,ようやく,その入口に立ったようにおもいました。なにごとによらず,ある境地が開かれてくる,その現場に立ち合うことのできる喜びは筆舌につくしがたいものがあります。ことばで表現のしようがないことを,禅仏教では「不立文字」といいます。だからこそ,もっともっと言語化すべきだ,と道元さんは説きました。そして,既製の概念をつぎつぎに打ち壊していく,その作業の連続が修行であり悟りなのだ,と力説しています。すなわち,道元のいう「修証一等」というわけです。
かつて,森本和夫さんが『デリダから道元へ』という著作のなかで,説いていらっしゃったツボがここです。
たぶん,「からだの力を抜く」の極意も,まだまだ奥が深いようで,これからさき何回も,到達した境地を「脱構築」しながら,より深いところに根を下ろしていくことになるのだろう,といまから楽しみで仕方がありません。
術後復帰の初日に,こんな貴重な経験をさせていただきました。ありがたいことです。この気持ちよさ,快感を追っていってみたいとおもいます。まさに怪我の功名そのもの。病徳。
太極拳の稽古は楽しい。なにより,そこに集まってくる友人たちの顔ぶれがいい。みなさん自律した大人ばかりですので,しかも,厳しいお仕事と対決していらっしゃる方たちばかりですので,他者を思いやる気配りも尋常ではありません。それが,そこはかとなく伝わってきます。こういう人たちに囲まれて,そこに空気のように存在するだけで,わたしは幸せです。
のみならず,大発見がありました。
前回の術後に,李老師から「高い姿勢で,からだもこころも力を抜いて,のらりくらり」と適当にやりなさい,と繰り返し言われていました。しかし,それがどうしてもできませんでした。からだに力がもどっていて,そんなに力まなくてもふつうにできてしまうからです。ですが,今回は,そうではありませんでした。
腹部の切開した傷跡の周囲の皮膚が,まだ,ピリピリと痛みます。のみならず,切除した肝臓の傷口も,周期的に痛くなってきます。周期的というのは,鎮痛剤を飲んでいますので,その薬効が切れてくると,ズキズキと痛みます。ですから,つねにからだの声に耳を傾けながら,恐るおそるからだを動かすことになります。その結果が,今日の太極拳の稽古でした。とにかく,痛みのないところで,それんとなく流していくことになりました。
やっている途中で,「ああ,李老師が仰っていたことはこれだな」と感じとることができる部分がありました。と同時に,なんだか嬉しくなってきて,こころもからだも喜びでいっぱいになってきます。あふれるほどの喜びであり,快感でもありました。これなんだ,これこそが李老師が「めざせ!」と仰ってくださっていたことだったのだ・・・・と。
こと運動に関しては,近代合理主義者であり,体操競技出身のわたしとしては,そんな「でれでれした」太極拳などはあってはならない,ありえない,と固く信じていました。しかし,そうではありませんでした。これこそ怪我の功名というやつでしょうか。動かすことのできないからだで,いま,できることをやるとしたら,これしかない・・・・この「これしかない」がじつは太極拳の奥義のひとつだったのです。
「からだの力を抜く」ことの,ようやく,その入口に立ったようにおもいました。なにごとによらず,ある境地が開かれてくる,その現場に立ち合うことのできる喜びは筆舌につくしがたいものがあります。ことばで表現のしようがないことを,禅仏教では「不立文字」といいます。だからこそ,もっともっと言語化すべきだ,と道元さんは説きました。そして,既製の概念をつぎつぎに打ち壊していく,その作業の連続が修行であり悟りなのだ,と力説しています。すなわち,道元のいう「修証一等」というわけです。
かつて,森本和夫さんが『デリダから道元へ』という著作のなかで,説いていらっしゃったツボがここです。
たぶん,「からだの力を抜く」の極意も,まだまだ奥が深いようで,これからさき何回も,到達した境地を「脱構築」しながら,より深いところに根を下ろしていくことになるのだろう,といまから楽しみで仕方がありません。
術後復帰の初日に,こんな貴重な経験をさせていただきました。ありがたいことです。この気持ちよさ,快感を追っていってみたいとおもいます。まさに怪我の功名そのもの。病徳。
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