日々のストレスのために酒を呑みすぎたのか,それとも永田町界隈の原子力ムラの田んぼの泥沼にもぐりすぎたのか,ノンダ君,いや,ドジョウ君! 君の「理性」は狂っている。
たった15%の節電がなぜできぬ。しかも,夏場のピーク時だけの話だ。ほんのいっとき,気持を引き締めて,我慢すればいいだけのことだ。その気になれば,すぐにできることではないか。原発の危険性を犯すリスクを避けるためならば,15%の節電なんてなんでもない。
「計画停電」などという脅し文句に怯えた振りをして,ひたすら「原発再稼働ありき」でことを進めようとしているだけの話ではないか。ノンダ君,いや,ドジョウ君! 演技が下手すぎる。もう少し上手に芝居ができると思っていたのに・・・・。
昨夜のテレビに映し出された君のアップの顔は,大きさだけはどの役者にも負けないが,肝心要の眼が泳いでしまっている。役者の命は「眼」だ。眼力だ。その眼がおどおどしていては演説になんの迫力もない。もちろん,説得力もない。ただ,棒読みのような言説を連ねるだけだ。演説の名手が泣いている。内容になんの論理性もない「ひとりごと」は,たんなる儀式でしかない。「おれは意思表示をした」という・・・・。
それは,だれのための「意思表示」だったのか。それはひたすら原子力ムラの住人たちのご機嫌をうかがうためのものでしかなかった。国民の存在は虫(無視に)されたのだ。政権維持のためには,原子力ムラの住人の顔色の方が大事なのだ。国民などは,なんとでも誤魔化すことができる,と確信しているようだ。要するに,わたしたち国民は舐められているのだ。
しかし,そうは問屋が卸さない。「3・11」後の国民の意識がどれほどおおきく変化しつつあるか,政治家はもっと敏感になるべし。この1年3カ月,日本の国家の屋台骨がいかに脆弱なものでしかなかったのか,ということに国民の多くが唖然とさせられたのだ。連日,くる日もくる日も,驚くべき情報がつぎつぎに明るみに出されつづけた。その状態は,いまもつづいている。その最たるものが,昨日のノンダ君,いや,ドジョウ君! 君の記者会見だ。
わたしはテレビに向かって吼えつづけていた。腹の底から怒りを露わにして。大声で。バカかお前は! 許しがたい暴挙だ! いったいなにを考えてんだっ! と。
残ったのはむなしさだけ。なんとはかないことか。
でも,このまま黙っているわけにはいかない。
いよいよ,これからだ。
もう,これ以上,ノンダ君,いや,ドジョウ君! この国を君に任せておくわけにはいかない。
やること,なすこと,デタラメではないか。
いま,わたしたちの「理性」は狂っている。そのことに気づいていないのだ。ノンダ君,いや,ドジョウ君! 君の「理性」だけが狂っているのではない。原子力ムラの住人を筆頭に,大なり小なり,みんな「理性」が狂いはじめているのだ。だから,原子力ムラの住人が安穏としてこれまで権力を欲しいままにすることができたのであり,国民もまたそれを許してしまったのだ。
原発はその最たる象徴だ。サイエンスのための「理性」の素晴らしさを証明し,世界の最先端のテクノロジーを見せつけ,その恩恵を受けて経済発展をめざす,これが人びとに幸せをもたらすのだ,と。人びとはこの,みごとなまでの「神話」に騙されつづけてきた。すべてが「理性」的に語られてきたからだ。
しかし,その「理性」には,人の命というもっとも大事なものを考える視野を欠いていた。命のことをそっちのけにしたまま,サイエンスやテクノロジーや経済のための「理性」だけが,最大限に発揮された。その結果が,こんにちのわたしたちの姿だ。
もう一度,命を視野に入れた,「生きもの」としての人間のための「理性」を取り戻さなくてはならない。そこから仕切り直しをするしか,方法はない。
一旦,狂ってしまった「理性」を立ち直らせる方法は,それしかない。
原発を再稼働させるかどうかは,この一点が問われているのだ。
狂ったままの「理性」でいいのなら,原発を再稼働させればいい。しかし,そこは,もはや,「生きもの」としての人間の生きる世界ではない。人間のかたちをした「理性」的ロボットが棲息する世界なのだ。
「生きもの」としての人間の世界を確保したいのであれば,まずは,15%の節電からはじめるしかないのだ。
わたしは,さきほどから「です・ます」調でもない,「である」調でもない,徹底した「のだ」調のセンテンスを連発している。
ノンダ君,いや,ドジョウ君,そこのところをわかって欲しい「のだ」。
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