朝,起きると,まずはパソコンを立ち上げてメールを確認する。そのつぎは,自分のブログのページビューを確認。それから歯磨き・洗顔。起きた時間が早ければ朝食前の一仕事。わたしの朝食は午前9時。早起きすれば,かなりの時間が確保できる。が,就寝が遅いので,いつも寝坊する。この悪しき習慣からなかなか抜け出せない。
朝食後もすぐにパソコンを開いて,メールの返信を書く。それから鷺沼の事務所に向かう。これが日常の定番。しかし,ここでひとつ困ったことが起きている。メール・アドレスを持たない人(あるいは,わたしが知らない人)との交信がほとんどできなくなっていることだ。
たとえば,こうだ。本が送られてくる。ときには顔見知りではない人からもある。どこかにメール・アドレスが書いてあれば,すぐに礼状を書くことにしている。しかし,必ずしもメール・アドレスが書いてあるとはかぎらない。その場合には,手書きの手紙で応答することになる。
しかし,この手書きの手紙を書くことがいつのころからかやっかいだと思うようになっている。でも,努力して,万年筆なり,ボールペンなりで書いていた。が,とうとう,億劫になってしまって,最近ではどんどん後回しにするようになってしまった。そうして,いつのまにか礼状も書かないで(気持の上で書けないで)放置したままになっている郵便物が溜まっていく。これではいけない,と毎日のように返信しなくてはいけない封筒の山を茫然と眺めている。それでも,あとにしよう,明日でいいや,という弱気の虫が頭をもたげる。困ったものである。
こんなことを言うのもおこがましい話だが,若いころは手紙大好き人間で,毎日,せっせと手紙を書いていた。故郷をあとにして上京してからは,孤独をまきらすためのもっとも重要な手段が手紙を書くことだった。だから,わざわざ毛筆で書いたりもしていた。ほとんど,毎日,だれかから手紙がとどいた。それが嬉しかった。だから,すぐに返事を書いた。それは毎日の一番の楽しみですらあった。にもかかわらず,いまや・・・・・。
毛筆が万年筆に代わり,やがてボールペンとなり,いつのまにかワープロでメール交信することを覚え,これは気楽でいいと味をしめ,いまはパソコンに頼りきりである。その結果,とうとう手書きの手紙が書けなくなっている自分を発見して茫然としてしまう。
はがき1枚の手紙を書くことなど,ほかの雑用のことを考えれば大したことではないはずだ。しかし,いまや,大仕事なのだ。なぜか。パソコンによるメールは,ある種の隠れ蓑のようなもので,自分の素顔を見られなくてすむ。つまり,自分隠しの道具でもあるのだ。ことばを紡ぎだすという営みは同じでも,文字を書くという営みがまるで別だ。
手書きで文字を書くということは,生身の自分の心身の状態がそのまま表出することを意味する。心身のバランスのいいときには(つまり,気分のいいときには),自分でも納得のいく文字が書ける。しかし,そうでないときには,文字が勝手に叛乱を起こす。そして,こんな文字の手紙を送るのは恥ずかしい,と自制する力が強く働く。場合によっては,書いても投函しないで,放置してしまうこともある。
言ってしまえば,手書きの手紙は,自分のありのままの姿を曝け出すに等しいのだ。だから,なんとしても文字を上手に書きたいと思う。加えて,書きはじめた文章は,途中で変えるわけにはいかない。修正がきかない。だから,かなりの緊張感をともなう。ところが,パソコンなら,書き終えてから推敲もできる。文字も明朝でもゴシックでも好きな書体を選ぶことができる。そうして,表面を整えることができる。つまり,自分のボロ隠しができる。
これが常態化していくと,手書きの手紙は書けなくなってしまう。パソコンのメールは楽でいいし,修正ができるし,ポストまで行かなくてすむし,第一,料金が安い。手軽で,しかも,自分をこっそり隠すこともできる。すべては指先だけで処理できる。
パソコンをわがものとし,わたしの事物であるかのように使いこなしているうちに,パソコンの機能の枠組みのなかにわたし自身が閉じ込められてしまう,ということが起きる。もちろん,本人は気づいてはいない。あくまでもパソコンの主人はわたしで,パソコンはわたしの奴隷だと思い込んでいる。しかし,いつのまにか,事物であるパソコンを使っているうちに,主人であるわたしもいつのまにか事物と化し,ついには,パソコンに従属する奴隷になっていることに気づき,愕然とする。
いまのわたしがそのまま該当する。パソコンを使いこなすつもりが,パソコンの奴隷と化している。パソコンなしには手紙すら書けないのだ。なんたることか。まさに,頽落(Verfallen)そのものではないか。
もう一度,原点に戻って,毛筆を手にしようと思う。しかし,相当の勇気が必要だ。それほどに,いまのわたしは堕落してしまっている。でも,そうと知ったからには,そこから脱出しなくてはなるまい。もはや毛筆を握る手も落ちているだろうが,そんなことを気にしていてはならない。むしろ,それが「いま」のありのままのわたしなのだと覚悟を決めて・・・・。それどころか,毛筆の醸しだす,さまざまな文字の表情をこそ楽しむべきだ。二度と同じ文字を書くことはできない,その瞬間,瞬間に意識を集中すること,そこにこそわたしの「生」の表出があり,「生きる」実体があるのだから。
このさきは別のテーマ(哲学上の大テーマ)に入っていきそうなので,このブログはひとまずここで終わりにする。
結論:生の原点に立ち戻れ。自戒を籠めて。
朝食後もすぐにパソコンを開いて,メールの返信を書く。それから鷺沼の事務所に向かう。これが日常の定番。しかし,ここでひとつ困ったことが起きている。メール・アドレスを持たない人(あるいは,わたしが知らない人)との交信がほとんどできなくなっていることだ。
たとえば,こうだ。本が送られてくる。ときには顔見知りではない人からもある。どこかにメール・アドレスが書いてあれば,すぐに礼状を書くことにしている。しかし,必ずしもメール・アドレスが書いてあるとはかぎらない。その場合には,手書きの手紙で応答することになる。
しかし,この手書きの手紙を書くことがいつのころからかやっかいだと思うようになっている。でも,努力して,万年筆なり,ボールペンなりで書いていた。が,とうとう,億劫になってしまって,最近ではどんどん後回しにするようになってしまった。そうして,いつのまにか礼状も書かないで(気持の上で書けないで)放置したままになっている郵便物が溜まっていく。これではいけない,と毎日のように返信しなくてはいけない封筒の山を茫然と眺めている。それでも,あとにしよう,明日でいいや,という弱気の虫が頭をもたげる。困ったものである。
こんなことを言うのもおこがましい話だが,若いころは手紙大好き人間で,毎日,せっせと手紙を書いていた。故郷をあとにして上京してからは,孤独をまきらすためのもっとも重要な手段が手紙を書くことだった。だから,わざわざ毛筆で書いたりもしていた。ほとんど,毎日,だれかから手紙がとどいた。それが嬉しかった。だから,すぐに返事を書いた。それは毎日の一番の楽しみですらあった。にもかかわらず,いまや・・・・・。
毛筆が万年筆に代わり,やがてボールペンとなり,いつのまにかワープロでメール交信することを覚え,これは気楽でいいと味をしめ,いまはパソコンに頼りきりである。その結果,とうとう手書きの手紙が書けなくなっている自分を発見して茫然としてしまう。
はがき1枚の手紙を書くことなど,ほかの雑用のことを考えれば大したことではないはずだ。しかし,いまや,大仕事なのだ。なぜか。パソコンによるメールは,ある種の隠れ蓑のようなもので,自分の素顔を見られなくてすむ。つまり,自分隠しの道具でもあるのだ。ことばを紡ぎだすという営みは同じでも,文字を書くという営みがまるで別だ。
手書きで文字を書くということは,生身の自分の心身の状態がそのまま表出することを意味する。心身のバランスのいいときには(つまり,気分のいいときには),自分でも納得のいく文字が書ける。しかし,そうでないときには,文字が勝手に叛乱を起こす。そして,こんな文字の手紙を送るのは恥ずかしい,と自制する力が強く働く。場合によっては,書いても投函しないで,放置してしまうこともある。
言ってしまえば,手書きの手紙は,自分のありのままの姿を曝け出すに等しいのだ。だから,なんとしても文字を上手に書きたいと思う。加えて,書きはじめた文章は,途中で変えるわけにはいかない。修正がきかない。だから,かなりの緊張感をともなう。ところが,パソコンなら,書き終えてから推敲もできる。文字も明朝でもゴシックでも好きな書体を選ぶことができる。そうして,表面を整えることができる。つまり,自分のボロ隠しができる。
これが常態化していくと,手書きの手紙は書けなくなってしまう。パソコンのメールは楽でいいし,修正ができるし,ポストまで行かなくてすむし,第一,料金が安い。手軽で,しかも,自分をこっそり隠すこともできる。すべては指先だけで処理できる。
パソコンをわがものとし,わたしの事物であるかのように使いこなしているうちに,パソコンの機能の枠組みのなかにわたし自身が閉じ込められてしまう,ということが起きる。もちろん,本人は気づいてはいない。あくまでもパソコンの主人はわたしで,パソコンはわたしの奴隷だと思い込んでいる。しかし,いつのまにか,事物であるパソコンを使っているうちに,主人であるわたしもいつのまにか事物と化し,ついには,パソコンに従属する奴隷になっていることに気づき,愕然とする。
いまのわたしがそのまま該当する。パソコンを使いこなすつもりが,パソコンの奴隷と化している。パソコンなしには手紙すら書けないのだ。なんたることか。まさに,頽落(Verfallen)そのものではないか。
もう一度,原点に戻って,毛筆を手にしようと思う。しかし,相当の勇気が必要だ。それほどに,いまのわたしは堕落してしまっている。でも,そうと知ったからには,そこから脱出しなくてはなるまい。もはや毛筆を握る手も落ちているだろうが,そんなことを気にしていてはならない。むしろ,それが「いま」のありのままのわたしなのだと覚悟を決めて・・・・。それどころか,毛筆の醸しだす,さまざまな文字の表情をこそ楽しむべきだ。二度と同じ文字を書くことはできない,その瞬間,瞬間に意識を集中すること,そこにこそわたしの「生」の表出があり,「生きる」実体があるのだから。
このさきは別のテーマ(哲学上の大テーマ)に入っていきそうなので,このブログはひとまずここで終わりにする。
結論:生の原点に立ち戻れ。自戒を籠めて。
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