このブログでも予告しておきました「アフター国際セミナー」が無事に終わりました。
まずは,プログラムどおりに,5人のプレゼンテーターの問題提起に対して,西谷さんから一人ずつコメントをしていただきました。テーマがすべて異なる特殊なものばかりだったにも関わらず,ひとりずつ丁寧に,しかもきわめて重要な視点をそれぞれに提示してくださいました。プレゼンテーターを務めた5人はみんな大喜びというところ。
ごくごく簡単に,そのときの議論を紹介しておきますと,以下のとおりです。
井上邦子さんからは,現代のモンゴル人の土地所有の考え方と,身体を所有することとの関係性,そして,身体の自由とはなにか,という問いが提出されました。それに対して,西谷さんからは,モンゴル人の考える「自由」ということばや概念は,西洋的な概念とは異なるのではないか,私的所有とは排他的所有であることを前提にして,モンゴル人の身体所有の内実を掘り下げていくと,そこにはまったく新たな知の地平が開かれてくる可能性があり,とても面白いのではないかと思います,というご指摘がありました。
竹村匡弥さんは,翻訳ということばの壁のようなものが国際セミナーをとおしてつねにつきまとっていたことが気になっていること,かっぱの相撲好きの伝承の陰には「供犠」の考え方が透けてみえてくること,などが提示されました。それに対して西谷さんは,イエス・キリストの磔を引き合いに出しながら,旧約聖書に描かれているヤコブのすもうの例をとりあげ,自然神と一晩,朝まですもうをとりつづけることの含意を考えてみると面白いのではないか,と。さらには,マックス・ウェーバーの言った「脱魔術化」(=近代化)という考え方も,参考になるのでは,と。
三井悦子さんは,バスクでは子どもたちがとても大切にされていること,大人と同じ土俵で同じ身体経験を積み上げ,それが共同体を構築する上できわめて重要な役割をはたしているのではないか,と指摘。つまり,ローカルなものがまだ生き残っていて,劈(ひら)かれた身体が大切に護られているような印象を強く受けた,と。たとえば,アウレスクというダンスでは,大人も子どものみんな同じステップを,一人ずつ順番に踏んでみせる,それをみんなが真剣に見守っている,と。西谷さんは,ひたすら同じステップを踏むことに大事な意味があるように思う,と。みんなが,ひとりずつ,必死になってまったく同じステップを踏もうとして頑張るけれども,どうしても違ってしまう,だから,なおのこと同じステップを踏もうとする。つまり,みんなが同じステップを踏もうと努力することによって,その地域に住む人びとが共有する身体が形成されていくのだ,と。それは,シモーヌ・ヴェイユの言う「根をもつこと」につながっているように思う,と。あるいは,アバンドン=自己を投げ棄てる(イスラーム)こととも通底しているのでは,と。
松本芳明さんは,ヨーガがグローバル化するとはどういうことなのかと問い,インドの伝統的なヨーガとはまったく無縁のものに変質・変容していくプロセスを紹介し,最終的には「金儲け」のためのたんなる商品と化していくところに大きな問題がある,と指摘。西谷さんは,カトリック教会と修道院の関係,あるいは,沖縄(宮古島)の方言の問題(川満信一)などの事例を提示しながら,人間がよって立つべき「根」を,それこそ「根こそぎ」にしてしまう力学が近代化やグローバル化にはつきものである,グローバル化とはそういう暴力装置でもあるのだ,と。いま,わたしたちはそういう根源的な問題と真剣に向き合わなければならない,きわめて特異な時代を生きているのだ,と。
竹谷和之さんは,バスクの伝統スポーツのほとんどは「労働」に起源をもつ,と指摘。つまり,有用性が重視されている。しかし,それが次第にたんなる「消尽」に変化・変容していくプロセスがみられる,と。さらには,カセリオという「賭け」が公然と行われており,その「賭け」に強い人は共同体の英雄として尊敬されている,と。それを受けて西谷さんは,「賭け」が公然と行われているところに,完全なる近代化を阻止する大きな要因があるのではないか,などなど。そして,この「賭け」の問題については,日本人であるわれわれが考えているものとはいささか性質の違いがあること,などが竹谷さんから追加説明があり,さらに深い議論へと進展していきました。
ここまでが,第一部。このあと10分間の休憩をはさんで第二部が行われました。その内容については,順次,これはと思われるエポックを取り上げて,このブログでも追跡していきたいと思っています。
とりあえず,第一部の概要のご紹介まで。
まずは,プログラムどおりに,5人のプレゼンテーターの問題提起に対して,西谷さんから一人ずつコメントをしていただきました。テーマがすべて異なる特殊なものばかりだったにも関わらず,ひとりずつ丁寧に,しかもきわめて重要な視点をそれぞれに提示してくださいました。プレゼンテーターを務めた5人はみんな大喜びというところ。
ごくごく簡単に,そのときの議論を紹介しておきますと,以下のとおりです。
井上邦子さんからは,現代のモンゴル人の土地所有の考え方と,身体を所有することとの関係性,そして,身体の自由とはなにか,という問いが提出されました。それに対して,西谷さんからは,モンゴル人の考える「自由」ということばや概念は,西洋的な概念とは異なるのではないか,私的所有とは排他的所有であることを前提にして,モンゴル人の身体所有の内実を掘り下げていくと,そこにはまったく新たな知の地平が開かれてくる可能性があり,とても面白いのではないかと思います,というご指摘がありました。
竹村匡弥さんは,翻訳ということばの壁のようなものが国際セミナーをとおしてつねにつきまとっていたことが気になっていること,かっぱの相撲好きの伝承の陰には「供犠」の考え方が透けてみえてくること,などが提示されました。それに対して西谷さんは,イエス・キリストの磔を引き合いに出しながら,旧約聖書に描かれているヤコブのすもうの例をとりあげ,自然神と一晩,朝まですもうをとりつづけることの含意を考えてみると面白いのではないか,と。さらには,マックス・ウェーバーの言った「脱魔術化」(=近代化)という考え方も,参考になるのでは,と。
三井悦子さんは,バスクでは子どもたちがとても大切にされていること,大人と同じ土俵で同じ身体経験を積み上げ,それが共同体を構築する上できわめて重要な役割をはたしているのではないか,と指摘。つまり,ローカルなものがまだ生き残っていて,劈(ひら)かれた身体が大切に護られているような印象を強く受けた,と。たとえば,アウレスクというダンスでは,大人も子どものみんな同じステップを,一人ずつ順番に踏んでみせる,それをみんなが真剣に見守っている,と。西谷さんは,ひたすら同じステップを踏むことに大事な意味があるように思う,と。みんなが,ひとりずつ,必死になってまったく同じステップを踏もうとして頑張るけれども,どうしても違ってしまう,だから,なおのこと同じステップを踏もうとする。つまり,みんなが同じステップを踏もうと努力することによって,その地域に住む人びとが共有する身体が形成されていくのだ,と。それは,シモーヌ・ヴェイユの言う「根をもつこと」につながっているように思う,と。あるいは,アバンドン=自己を投げ棄てる(イスラーム)こととも通底しているのでは,と。
松本芳明さんは,ヨーガがグローバル化するとはどういうことなのかと問い,インドの伝統的なヨーガとはまったく無縁のものに変質・変容していくプロセスを紹介し,最終的には「金儲け」のためのたんなる商品と化していくところに大きな問題がある,と指摘。西谷さんは,カトリック教会と修道院の関係,あるいは,沖縄(宮古島)の方言の問題(川満信一)などの事例を提示しながら,人間がよって立つべき「根」を,それこそ「根こそぎ」にしてしまう力学が近代化やグローバル化にはつきものである,グローバル化とはそういう暴力装置でもあるのだ,と。いま,わたしたちはそういう根源的な問題と真剣に向き合わなければならない,きわめて特異な時代を生きているのだ,と。
竹谷和之さんは,バスクの伝統スポーツのほとんどは「労働」に起源をもつ,と指摘。つまり,有用性が重視されている。しかし,それが次第にたんなる「消尽」に変化・変容していくプロセスがみられる,と。さらには,カセリオという「賭け」が公然と行われており,その「賭け」に強い人は共同体の英雄として尊敬されている,と。それを受けて西谷さんは,「賭け」が公然と行われているところに,完全なる近代化を阻止する大きな要因があるのではないか,などなど。そして,この「賭け」の問題については,日本人であるわれわれが考えているものとはいささか性質の違いがあること,などが竹谷さんから追加説明があり,さらに深い議論へと進展していきました。
ここまでが,第一部。このあと10分間の休憩をはさんで第二部が行われました。その内容については,順次,これはと思われるエポックを取り上げて,このブログでも追跡していきたいと思っています。
とりあえず,第一部の概要のご紹介まで。
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