ちかごろはよほどのことでもないかぎり渋谷にでることも少なくなってしまった。これではいけないと反省しつつ・・・・。でも,どうしても必要な本を探すときは渋谷まででかけることにしている。そのついでに,あちこちふらつくことにしている。
そんなふらつきさきのひとつが「たばこと塩の博物館」。ここは満70歳以上の人は無料。無料といえば聞こえはいいが,入館料大人100円,高校生までは50円。いっそのことみんな無料にすればいいのに・・・とわたしのような凡人は考える。だが,そうもいかないらしい。
この「たばこの塩の博物館」は,渋谷を歩き疲れたときの休憩場所にはうってつけ。とくに真夏の暑さに辟易としているときには,なんともいえないオアシスである。涼しいし,人がほとんど入っていないので,常設展などをのんびりと堪能することができる。しかも,あちこちに椅子が用意してあるのでとても助かる。ビデオ資料もふんだんなので,時間つぶしには,まことに結構。人と待ち合わせるにも便利。
ここで,いま,「江戸の判じ絵──これを判じてごろうじろ」展をやっている。会期は11月4日(日)まで。江戸時代に「判じ絵」が流行したことがあるということは聞いてはいたし,ときおり,どこかで見かけたこともある。が,こんなにたくさんの判じ絵を一度にみるのは初めてである。まあ,あるわ,あるわ・・・・。ざっと眺めて廻るだけで小一時間はかかる。しかも,一つひとつの判じ絵に詳細な解説が加えてあり,判じ絵の正解も一覧表にして掲示してある。だから,全部,判じてやろうと思ったら,まあ,一週間は通わないと無理でしょう。
そうはいかないので,図録を買ってきて(これがじつに安い),暇な折に開いては気分転換に利用している。判じ絵の内容は,たとえば,こんな風である。
大きな象と金太郎の上半身だけを描いた判じ絵がある。これをどう判じると正解となるか。しばらく眺めていてもなかなか正解には到達しない。仕方がないので,解答表で確認する。正解は「ぞうきん」。腹をかかえて笑ってしまった。そうか,こういう具合になっているのか,と。
大きなお釜を刀で真っ二つに切っている判じ絵がある。これもわかりやすかったので,すぐに,正解に到達した。「かまきり」。
上の前歯と唇が大きく描かれていて,その下に猫が上下逆さまにうずくまっている判じ絵がある。これは,いつまで眺めていてもわからない。正解をみたら「はこね」。こういう仕掛けもありか,とひとつ大きな学習をする。
まあ,こんな調子の絵がびっしりと展示してある。図録にはそのすべてが収録されている。だから,飽きることなく眺めつづけることができる。安い買い物である。
こんな判じ絵をじっと眺めていると,いつのまにか,そこはかとなく江戸の庶民の遊びごころの一端に触れているような,そんな感覚になってくるから不思議だ。なんとも,のんびりとした,素朴な楽しみ方をしていたものだ,と。こういう余裕というか,ゆったりとした時間の流れを,わたしたちはとうのむかしに置き忘れてきてしまった。
しかし,眺めれば眺めるほどに,こころの奥底から,なんとはなしに懐かしさのようなものが疼きはじめる。この感情というか,情緒というか,情感はいったいなんなのだろうか,と考えてしまう。こういう情感こそ,人が生きるということの根幹をなす,きわめて重要な要素なのではないか,と。そのほのぼのとした情感を,わたしたちは,いつから,どのようにして,切り捨ててきてしまったのだろうか,と考える。
わたしたちが伝統スポーツの問題を考えるのも,そして,グローバリゼーションとはなにかと問うのも,じつは,この「失われた情感」を求める(「失われた時を求めて」をもじったつもり)本能のようなものと,きっと不可分なのだ。もうひとつ飛躍させておけば,シモーヌ・ヴェーユのいう「根」を構成する要素のひとつもここにあるのではないか,と。
まあ,こんなことを考えながら,今日も図録『江戸の判じ絵──再び,これを判じてごろうじろ』をめくりながら,あれこれ楽しんでいる。こんな時間もあったっていいではないか,と自分自身に言い聞かせながら・・・・。
そんなふらつきさきのひとつが「たばこと塩の博物館」。ここは満70歳以上の人は無料。無料といえば聞こえはいいが,入館料大人100円,高校生までは50円。いっそのことみんな無料にすればいいのに・・・とわたしのような凡人は考える。だが,そうもいかないらしい。
この「たばこの塩の博物館」は,渋谷を歩き疲れたときの休憩場所にはうってつけ。とくに真夏の暑さに辟易としているときには,なんともいえないオアシスである。涼しいし,人がほとんど入っていないので,常設展などをのんびりと堪能することができる。しかも,あちこちに椅子が用意してあるのでとても助かる。ビデオ資料もふんだんなので,時間つぶしには,まことに結構。人と待ち合わせるにも便利。
ここで,いま,「江戸の判じ絵──これを判じてごろうじろ」展をやっている。会期は11月4日(日)まで。江戸時代に「判じ絵」が流行したことがあるということは聞いてはいたし,ときおり,どこかで見かけたこともある。が,こんなにたくさんの判じ絵を一度にみるのは初めてである。まあ,あるわ,あるわ・・・・。ざっと眺めて廻るだけで小一時間はかかる。しかも,一つひとつの判じ絵に詳細な解説が加えてあり,判じ絵の正解も一覧表にして掲示してある。だから,全部,判じてやろうと思ったら,まあ,一週間は通わないと無理でしょう。
『図録』の表紙 |
大きな象と金太郎の上半身だけを描いた判じ絵がある。これをどう判じると正解となるか。しばらく眺めていてもなかなか正解には到達しない。仕方がないので,解答表で確認する。正解は「ぞうきん」。腹をかかえて笑ってしまった。そうか,こういう具合になっているのか,と。
蝦蟇蛙がかしこまってお抹茶を立てている。さて,正解は?これはわたしにもすぐにピンとくるものがあった。答えは「ちゃがま」。
大きなお釜を刀で真っ二つに切っている判じ絵がある。これもわかりやすかったので,すぐに,正解に到達した。「かまきり」。
上の前歯と唇が大きく描かれていて,その下に猫が上下逆さまにうずくまっている判じ絵がある。これは,いつまで眺めていてもわからない。正解をみたら「はこね」。こういう仕掛けもありか,とひとつ大きな学習をする。
まあ,こんな調子の絵がびっしりと展示してある。図録にはそのすべてが収録されている。だから,飽きることなく眺めつづけることができる。安い買い物である。
こんな判じ絵をじっと眺めていると,いつのまにか,そこはかとなく江戸の庶民の遊びごころの一端に触れているような,そんな感覚になってくるから不思議だ。なんとも,のんびりとした,素朴な楽しみ方をしていたものだ,と。こういう余裕というか,ゆったりとした時間の流れを,わたしたちはとうのむかしに置き忘れてきてしまった。
しかし,眺めれば眺めるほどに,こころの奥底から,なんとはなしに懐かしさのようなものが疼きはじめる。この感情というか,情緒というか,情感はいったいなんなのだろうか,と考えてしまう。こういう情感こそ,人が生きるということの根幹をなす,きわめて重要な要素なのではないか,と。そのほのぼのとした情感を,わたしたちは,いつから,どのようにして,切り捨ててきてしまったのだろうか,と考える。
わたしたちが伝統スポーツの問題を考えるのも,そして,グローバリゼーションとはなにかと問うのも,じつは,この「失われた情感」を求める(「失われた時を求めて」をもじったつもり)本能のようなものと,きっと不可分なのだ。もうひとつ飛躍させておけば,シモーヌ・ヴェーユのいう「根」を構成する要素のひとつもここにあるのではないか,と。
まあ,こんなことを考えながら,今日も図録『江戸の判じ絵──再び,これを判じてごろうじろ』をめくりながら,あれこれ楽しんでいる。こんな時間もあったっていいではないか,と自分自身に言い聞かせながら・・・・。
0 件のコメント:
コメントを投稿