2014年3月18日火曜日

もうすぐ春だというのに,気分は晴れません。足が地につかない不安。

 渥美半島の「おたがさま」も終わり,奈良の「お水取り」も終わり,日ごとに春の足音が大きくなってきます。昨日,今日と,ここ溝の口も春の陽気が漂いました。


 寒い間は,マンションのすぐ下にあるスーパーに食材を買いにいく程度で,それ以外はずっと部屋に閉じこもっていました。が,ようやく昨日,今日と暖かくなってきましたので,目と鼻のさきにある丸井まで「遠出」をしました。ちょっとした買い物もあったのですが,主たる目的は「歩行訓練」でした。ですから,各フロアーの隅から隅まで,くまなく見物しながら歩くことが課題でした。


 その結果は,軽いめまいのような不思議なショックを受けました。気晴らしに最適なところと思ってでかけたのに,気分は晴れるどころか逆に落ち込んでしまいました。そして,からだが浮き上がってしまっているようで,うまく足が地につきません。まるで幽体離脱のような,いやそうではないような,なんとも中途半端な「不安」だけがつきまとってきて離れません。


 2月の5日に入院してから,昨日の3月16日まで,約一カ月半ほど丸井から遠ざかっていました。この間に,冬物から春物へと商品がすっかり入れ代わっていました。が,これはいつものことで,季節ごとにデパートの商品は大きく入れ代わることは百も承知の上です。でも,その商品をくまなくみて歩いているうちに,どこか違う,どこか変だ,とからだが騒ぎ立てます。


 どうしたのだろうか,と考えてみました。一つは,丸井のなかの照明が明るくて,いや,異様に明るすぎて,店内全体が白っぽくみえる,ということに気がつきました。省エネ用の照明器具に変えたからなのか,と考えあちこち眺めてみたところ,それ以前に照明器具が圧倒的に多くなっていることがわかりました。その結果,あらゆる角度から店内をくまなく照らしだしていて,影がひとつもありません。つまり,影がどこにもないのっぺらぼうの,奥行きもなにも感じられない,ただひたすら明るいだけの空間が広がっているだけです。影がどこにもない景色,これは異様なものです。どうにも落ち着きません。苛立つというか,どこか現実離れをしているようで,足が地につかない不安に駆られました。


 どうしてこんなにも明るく照明を当てなくてはならないのか,だれがそれを望んでいるのか,だれがそうさせているのか,不思議です。これではまるで電気はいくらでもあるから使い放題でいいのだ,と言っているようなものです。一方で電気は足りない,足りないから原発を再稼働させるのだ,というとんでもない「神話」がまかりとおっています。


 これはひょっとすると,電気をじゃんじゃん使わせて,電気が足りない情況を意図的・計画的につくりだそうとしているのではないか,と思ったりしてしまいます。だとしたら,これは原子力ムラの戦略ではないのか,と勘繰りたくなってしまいます。こうなったら,電車に乗って渋谷まででかけて,あちこち観察してくる必要がありそうです。地下駅の照明がどうなっているか,地下街の照明がどんな具合になっているのか,デパートの照明はどうか,そして,夜の照明はどうか,などなど。


 精確な数字は忘れてしまいましたが,しばらく前の新聞に,節電に関する国民の意識調査の結果が報じられていました。それによりますと,3・11の大震災が起きた2011年はかなり多くの国民が節電に努力したけれども,その翌年から徐々に節電を意識している国民は減りつづけている,ということでした。そして,最近では節電しなくても電気は足りている,と思うようになった国民が圧倒的多数を占めている,と。この人たちは節電などは考えないで,必要なだけじゃんじゃん電気を使っているというわけです。


 あの大震災がわたしたちにつきつけた最大の問題は,3・11以前までのライフ・スタイルは間違っていた,ということだとわたしは考えています。だから,復興とは,3・11以前のライフ・スタイルに戻すことではなくて,それを否定し,超克していくこと,つまり,まったく新たなライフ・スタイルを模索していくことだ,というように考えています。


 ですから,昨日・今日と丸井でみた光景は,3・11以前よりももっともっと電力をつかって,明るさのリミットに挑戦しているかのような,とんでもないものだったのです。これではまったく逆行ではないか,と。これでは未来に希望のひとかけらも見出せない,と。それどころかカタストローフに向かってまっしぐらではないか,と。


 そんなわけで,もうすぐ春だというのに,気分は晴れません。そして,ますます足が地につかない不安ばかりが募ります。困ったものです。

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