2014年3月15日土曜日

「制御不能なもので成り立つ日常」。鷲田清一さんのエッセイに感動。

 東京新聞の夕刊に定期的に掲載される鷲田清一さんのエッセイ。毎回,わたしが楽しみにしている文化欄のエッセイです。最近は大半の人の書くエッセイに違和感を覚えるようになり,楽しみが減ってきて寂しいかぎりです。しかし,鷲田清一さんのエッセイは毎回,新鮮で,うーんと唸らされる,奥の深さを感じます。


 そのエッセイが,3月14日の東京新聞・夕刊に掲載されました。新聞に付された見出しは,「制御不能なもので成り立つ日常」「迫られる社会の再設計」です。これだけで勘のいい人ならすぐにピンとくることと思いますが,その書き出しは以下のとおりです。


 「東日本大震災から三年。すでにその記憶の風化を憂う声が聞こえる。が,それは何の風化を憂う声なのか。」と問いかけ,さらに問題の核心に迫っていきます。


 「震災後の三年,それもすでに一つの歴史として刻まれてきた。”復興の遅れ”に生活再建の途(みち)も見通せず,かつて描きかけたさまざまの可能性ももはや不可能と思い定めるほかないといった事態がいよいよあらわになり,だから人口流出も止めようがなく,それが復興事業に深い影を落とす・・・。これは風化どころか逆につのりつつある困難であり,その意味で震災はいまも続いている。」


 <震災の記憶を風化させてはならない>は,メディアが口を揃えるようにして投げかけている錦の御旗のようなキャンペーンです。そういうメディアの認識の甘さに対する強烈な一撃。「風化どころか逆につのりつつある困難であり,その意味で震災はいまも続いている」と主張する鷲田さんの歯切れのよさ。<風化>させているのはメディアの方ではないか,と言っているようにわたしには読めます。


 そして,「つのりつつある困難」は震災だけではない,福島第一原発を筆頭に,核廃棄物の処理,放射線被曝への不安,人口減少と「超」高齢化社会への突入・・・とつづき「わたしたちは未来をいくつかの<限界>のほうから考えるしかなくなった」と鷲田さんは書いています。


 そして「わたしたちの日々の暮らしが,『原発』という制御不能なものの上に成り立ってきたということ,このことをわたしたちは今回の震災で思い知った。そしてそれへの対応のなかでもう一つ,制御不能なものとして浮上しているのが,グローバル資本主義である」と鷲田さんはきびしく指摘しています。


 そして,このグローバル資本主義もまた「経済」という枠組みから大きく逸脱している,と鷲田さんは指摘します。「わたしがここで『経済』というのは,いうまでもなく『経世済民』(世を治め民を救う)という事業のことである。限られた資源と富の,適切な配分と運用を意味する『経済』は,いまや世界市場での熾烈なマネー・ゲームに,それを制御するすべもなく深く組み込まれている」と説いています。


 「こういう制御不能なものの上に,わたしたちの日常生活がある。物価や株価の変動も,もろもろの格差や過疎化の進行も,就労環境も,これに煽られ,左右される」と述べた上で,最後に,つぎのように結論づけています。


 「ここ数年で海面下から一気に顔を出したこれらの制御不能なものを前にして,わたしたちは,自然や人的資源とも折り合いながら,制御可能な,ということはみずからの判断で修正や停止が可能な,そういうスケールの『経世済民』の事業を軸に,社会を再設計してゆかねばならない」と。


 「そこでは当然,中央/地方という枠組みさえも問い返される。それにどのようなかたちで一歩踏みだすか。これこそ東北の震災復興のなかで問われていることだとおもう」と結んでいます。


 わたしは数日前(3月11日)のブログで,反省すべきは人間の「驕り」である,という抽象的な言い方で震災復興の問題を結論づけました。しかし,鷲田さんは,きわめて平易な文章で,しかも,具体的にわかりやすく,制御可能な「経世済民」を取り戻すべく「社会を再設計」することこそが,「東北の震災復興のなかで問われていることだ」と言い切っています。この明快さに,わたしは感動を禁じ得ません。


 こんな透明感のある,そして説得力のある文章をわたしも書いてみたいとしみじみ思います。もうすでに遅きに失しているとはいえ・・・・。

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