このブログは5月8日のブログのつづきです。つまり,パウル・クレーの「十字架のもう一人の天使」と『ユダ福音書』について,のつづきです。
パウル・クレーの「天使」の絵を探していたら,「天使というよりむしろ鳥」という題の絵が見つかりました。この絵は眺めていると不思議な光景が立ち現れてきます。たとえば,天使が羽を休めてうたた寝をしているようにも見えます。そして,その内に自分が天使であることも忘れてしまって,いつのまにか鳥になってしまっている・・・・そのことにすら気づいてはいない天使・・・。そんな絵にもみえてきます。
たぶん,この絵を描いたクレー自身も描きあげてからじっと眺めているうちに,天使を描いたつもりだったのに,よくみると「むしろ鳥」ではないか,と気づいたに違いありません。そこで,ありのままに「天使というよりむしろ鳥」という題名をつけたのでしょう。
ここまではいいとして,ここからさきが大変です。
つまり,画家としてのパウル・クレーの立ち位置の問題です。つまり,この絵はパウル・クレーという人間の境涯がそのまま表出している・・・・,そのことに間違いがないとすれば,その立ち位置とはいかなるところになるのか,が問題となります。いろいろな見方があるかと思いますが,わたしの見方は,簡単に言ってしまえば,「天使と鳥の間」を自在に行き来することのできる位置,ということになります。それがクレーの創作の原点である,ということになります。
このあたりのことを,前回のブログの最後のところに掲げた詩がよく表現しているように思います。もう一度,確認の意味で,そのポイントの部分を引用してみましょう。
この世はぼくを捉えようもない。
死者たちや,生まれてもいない者たちのところで
ちょうどよく暮らしているのだから。
創造の中心にふつうよりちょっと近く。
でもまだ十分に近くはない。
ここが,恐らくパウル・クレーの立ち位置なのでしょう。つまり,内在性を生きる場。そこが「創造の中心」。その中心に「ふつうよりちょっと近く」「でもまだ十分に近くはない」とクレーが自覚しているその場。そこは「死者たちや,生まれてもいない者たちのところ」。すなわち,「この世」とは次元の異なる世界,自他の区別のない霊的な世界,なにものにも拘束されることのないまったくの自由自在の世界,すなわち「内在性の世界」。
その世界で身もこころも自由に浮遊しながら鉛筆を走らせ天使を描いてみる・・・・なにが表出してくるかは自分にもわからない。だって,自分の存在すら不明なのですから。そこから「天使というよりむしろ鳥」という作品が生まれてくるわけです。
このことを,わたしに確信させた作品が「動物たちが出会う」という作品です。
この作品に出会って,まっさきに直感したのが,バタイユのいう「動物性」の世界でした。あの有名な「水の中に水があるような存在」の仕方,それがバタイユのいう「動物性」の世界であり,「内在性」の世界です。
当然のことですが,この絵のなかにはヒトも描かれています。それは,もはや「人間」ではなく,純粋な動物としての「ヒト」です。まさに「ヒト」という動物になりきって,動物たちのなかに溶け込んでいます。クレーもまたこの世界のなかに溶け込んでしまっています。ですから,「この世はぼくを捉えようがない」と書き,「死者たちや,生まれてもいない者たちのところで」「ちょうどよく暮らしているのだから」と書くわけです。
もう少しだけジャンプしておけば,この世界は,『ユダ福音書』をとおしてグノーシス派が伝えるイエス・キリストの理想とした霊魂の自由な世界に通じているように思います。それは,同時に,仏教的世界観にも通底しているように思います。仏教は,死によってなにかと拘束の多い肉体から解放された霊魂が,ようやく自由を獲得し,涅槃の世界に遊ぶことを理想とするからです。禅の世界でいうところの禅定もまた「自己と自然存在との融合」をめざします。
さきほど引用した詩の最後の一行はつぎのようになっています。
「・・・・それで少しばかり腹を立てるのさ,律法学者の奴ら」。
ここのところをどのように読み解くかは,ここではこれ以上の深入りはしないでおこうと思います。また,機会をみつけて挑戦してみたいと思います。ただ,ひとことだけ。それは,クレーはグノーシス派のキリスト教解釈と共感していたのではないか,ということだけは指摘しておきたいと思います。
こうなってきますと,クレーの描いた「新しい天使」から「歴史の天使」をイメージしたベンヤミンの洞察力の深さに,いまさらのように驚いてしまいます。そして,「歴史とはなにか」と問う地平の深さの前で茫然自失してしまいます。このあたりのことを17日の午後に開催される5月大阪例会で,どこまで踏み込んで話すことができるか,わたし自身へのチャレンジです。
大きなテーマがまたまた立ち現れてきました。楽しみがまたひとつ増えました。これぞ,元気の源というべきか。とりあえず,今日はここまで。
パウル・クレーの「天使」の絵を探していたら,「天使というよりむしろ鳥」という題の絵が見つかりました。この絵は眺めていると不思議な光景が立ち現れてきます。たとえば,天使が羽を休めてうたた寝をしているようにも見えます。そして,その内に自分が天使であることも忘れてしまって,いつのまにか鳥になってしまっている・・・・そのことにすら気づいてはいない天使・・・。そんな絵にもみえてきます。
たぶん,この絵を描いたクレー自身も描きあげてからじっと眺めているうちに,天使を描いたつもりだったのに,よくみると「むしろ鳥」ではないか,と気づいたに違いありません。そこで,ありのままに「天使というよりむしろ鳥」という題名をつけたのでしょう。
ここまではいいとして,ここからさきが大変です。
つまり,画家としてのパウル・クレーの立ち位置の問題です。つまり,この絵はパウル・クレーという人間の境涯がそのまま表出している・・・・,そのことに間違いがないとすれば,その立ち位置とはいかなるところになるのか,が問題となります。いろいろな見方があるかと思いますが,わたしの見方は,簡単に言ってしまえば,「天使と鳥の間」を自在に行き来することのできる位置,ということになります。それがクレーの創作の原点である,ということになります。
このあたりのことを,前回のブログの最後のところに掲げた詩がよく表現しているように思います。もう一度,確認の意味で,そのポイントの部分を引用してみましょう。
この世はぼくを捉えようもない。
死者たちや,生まれてもいない者たちのところで
ちょうどよく暮らしているのだから。
創造の中心にふつうよりちょっと近く。
でもまだ十分に近くはない。
ここが,恐らくパウル・クレーの立ち位置なのでしょう。つまり,内在性を生きる場。そこが「創造の中心」。その中心に「ふつうよりちょっと近く」「でもまだ十分に近くはない」とクレーが自覚しているその場。そこは「死者たちや,生まれてもいない者たちのところ」。すなわち,「この世」とは次元の異なる世界,自他の区別のない霊的な世界,なにものにも拘束されることのないまったくの自由自在の世界,すなわち「内在性の世界」。
その世界で身もこころも自由に浮遊しながら鉛筆を走らせ天使を描いてみる・・・・なにが表出してくるかは自分にもわからない。だって,自分の存在すら不明なのですから。そこから「天使というよりむしろ鳥」という作品が生まれてくるわけです。
このことを,わたしに確信させた作品が「動物たちが出会う」という作品です。
この作品に出会って,まっさきに直感したのが,バタイユのいう「動物性」の世界でした。あの有名な「水の中に水があるような存在」の仕方,それがバタイユのいう「動物性」の世界であり,「内在性」の世界です。
当然のことですが,この絵のなかにはヒトも描かれています。それは,もはや「人間」ではなく,純粋な動物としての「ヒト」です。まさに「ヒト」という動物になりきって,動物たちのなかに溶け込んでいます。クレーもまたこの世界のなかに溶け込んでしまっています。ですから,「この世はぼくを捉えようがない」と書き,「死者たちや,生まれてもいない者たちのところで」「ちょうどよく暮らしているのだから」と書くわけです。
もう少しだけジャンプしておけば,この世界は,『ユダ福音書』をとおしてグノーシス派が伝えるイエス・キリストの理想とした霊魂の自由な世界に通じているように思います。それは,同時に,仏教的世界観にも通底しているように思います。仏教は,死によってなにかと拘束の多い肉体から解放された霊魂が,ようやく自由を獲得し,涅槃の世界に遊ぶことを理想とするからです。禅の世界でいうところの禅定もまた「自己と自然存在との融合」をめざします。
さきほど引用した詩の最後の一行はつぎのようになっています。
「・・・・それで少しばかり腹を立てるのさ,律法学者の奴ら」。
ここのところをどのように読み解くかは,ここではこれ以上の深入りはしないでおこうと思います。また,機会をみつけて挑戦してみたいと思います。ただ,ひとことだけ。それは,クレーはグノーシス派のキリスト教解釈と共感していたのではないか,ということだけは指摘しておきたいと思います。
こうなってきますと,クレーの描いた「新しい天使」から「歴史の天使」をイメージしたベンヤミンの洞察力の深さに,いまさらのように驚いてしまいます。そして,「歴史とはなにか」と問う地平の深さの前で茫然自失してしまいます。このあたりのことを17日の午後に開催される5月大阪例会で,どこまで踏み込んで話すことができるか,わたし自身へのチャレンジです。
大きなテーマがまたまた立ち現れてきました。楽しみがまたひとつ増えました。これぞ,元気の源というべきか。とりあえず,今日はここまで。
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