それは,子どものころからの疑問でした。いまも,その謎は解けていません。
日本全国には八百万(やおよろず)の神様が点在していて,神無月(旧暦の10月)になると,すべての神様たちが出雲大社に集合するのだ,と初めて聞いたのは敗戦の年の秋(つまり,1945年10月),母方の祖母からでした。この祖母は結婚する前までは尼さんとして修行をしていた人です。そのとき,わたしは小学校2年生(戦中の国民学校が敗戦によって小学校に呼称が変わる)でした。
どういうきっかけで,なんのために祖母がこんな話を,それも敗戦直後の世の中が混乱している真っ最中に,しかも,まだ幼いわたしにしたのか,不思議でなりません。しかし,最近になって「ハッ」と気づくことがありました。ここからは,現段階でのわたしの推理であり,「幻視」です。
祖母の生まれは下佐脇(愛知県豊川市)。この「佐脇」には「上佐脇」と「下佐脇」の二つの集落があります。三河湾に面した海沿いの集落です。この辺りの海岸に,そのむかし,持統天皇が周囲の反対を押し切って伊勢行幸をはたし,さらに足を伸ばして伊勢から船で穂の国にやってきて上陸した,と言われています。この佐脇というロケーションは穂の国の玄関口に相当します。三河湾でいえば,一番奥まったところです。その地に,なぜ,わざわざ持統天皇はやってきたのでしょうか。しかも,持統天皇は歓迎されるどころか,激しい戦いとなり,尾張に逃れて,伊勢を経由して大和にもどって行ったと考えられています(柴田晴廣著『穂国幻史考』に詳しい)。
つまり,大和朝廷のあった瑞穂の国と,こんにちの東三河地方を指す穂の国とは,なんらかの深い関係があって,しかも,どうやら敵対する関係にあったらしい,ということです。その穂の国の玄関口の一つが佐脇です。ひょっとしたら,佐脇の祖先は,先陣を切って持統天皇と戦った人たちだったかもしれません。だとすると,その祖先とはいかなる人たちだったのでしょうか。もっと言っておけば,大和朝廷にまつろわぬ人びととは・・・?
そういう地政学的な背景をもつ下佐脇で生まれ,育った祖母が,なぜ,渥美半島の中程にある尼寺に修行にでたのか。そのとき,だれが,どのように仲介したのか。そこには表面にはでてこない,なにか大きな力がはたらいていたのではないか,と思われてしかたありません。
その近くには長仙寺という古刹があり,別名「おたがさま」とも呼ばれています。この地方の人たちの多くが,初詣にでかける名所です。わたしも何回も初詣をした思い出があります。「おたがさま」とは多賀神社の親称です。祭神はイザナギ・イザナミです。この地方では「おいせさん」よりも親しまれている,と言っていいでしょう。わたしのなかにもそういう心象があります。なぜなら,アマテラス(おいせさん)はイザナギ・イザナミ(おたがさま)の娘なのですから。
この渥美半島の「あつみ」という地名は,「あずみ」族との結びつきが考えられており,もしそうだとすると信州の安曇野に鎮座する穂高神社との関連も視野のうちに入ってきます。また,その近くには諏訪大社があります。いずれも出雲族との関係が深い神社です。こうなってきますと,穂の国だけの問題ではなくなり,さらに広大な視野に立つ考察が必要になってきます。しかも,きわめて煩瑣な分析・思考が必要になってきますので,ここでは,この程度にとどめおきたいと思います。(※この話を敷衍していくと,八百万の神様の話になっていきます。)
話をもとにもどします。祖母が下佐脇から渥美半島の尼寺に修行にでた経緯は不明ですが,なにか地政学的なつながりがあったのではないか,とわたしは推測しています。つまり,穂の国という視野に立つとき,下佐脇も渥美半島も同じ根をもつ同族意識がつよくはたらいていたのではないか,ということです。そして,祖母の若かったころにはまだその意識がかなり濃厚に残っていたのではないか,と。
さらに飛躍しますが,穂の国の時代からこの地方で重要な役割をはたしてきたと考えられる神社に砥鹿神社があります。のちに三河一宮となり,その祭神はオオクニヌシです。つまり,砥鹿神社を支えてきた氏子は出雲族ということになります。そういう目で,もう一度,この地域の神社を総ざらいしてみますと,まぎれもなく出雲系の神社が多いことがわかってきます。わたしの子どものころは,神社といえばみんなスサノオ神社だ,思い込んでいたほどです。
少なくともわたしの子どものころの生活圏で目にした神社は,そのほとんどがスサノオ神社でした。しかし,その当時,スサノオ神社がいかなる神社であるかということなど知るよしもありません。のちになって『古事記』に登場する神話によれば,アマテラスの弟がスサノオである,つまり姉弟関係である,ということになっていることを知ります。しかも,姉アマテラス神にまつろわぬ弟スサノオ神という設定になっています。このことがなにを意味しているのか,じつはまことに意味深長である,とわたしは考えています。
もっと言っておけば,アマテラスのモデルは持統天皇だ,というかなり有力な説もあります。だとすると,では,スサノオのモデルはいったいだれか,ということになります。姉弟なのに「うけい」までして,子孫を残しています。まことに不思議な話です。ここに隠されている秘密はなにか。アマテラスとスサノオを姉弟関係にして封じ込んでおかなければならなかった,きわめて重大な問題がそこにはあった,と考えるのが妥当でしょう。
まつろいつつ,まつろわぬ関係。それは大和と出雲の関係ではないか,とわたしは「幻視」しています。それが瑞穂の国と穂の国の関係にも影を落としているとしたら・・・・・。興味はつきません。
というところで,今日のところはおしまい。
日本全国には八百万(やおよろず)の神様が点在していて,神無月(旧暦の10月)になると,すべての神様たちが出雲大社に集合するのだ,と初めて聞いたのは敗戦の年の秋(つまり,1945年10月),母方の祖母からでした。この祖母は結婚する前までは尼さんとして修行をしていた人です。そのとき,わたしは小学校2年生(戦中の国民学校が敗戦によって小学校に呼称が変わる)でした。
どういうきっかけで,なんのために祖母がこんな話を,それも敗戦直後の世の中が混乱している真っ最中に,しかも,まだ幼いわたしにしたのか,不思議でなりません。しかし,最近になって「ハッ」と気づくことがありました。ここからは,現段階でのわたしの推理であり,「幻視」です。
祖母の生まれは下佐脇(愛知県豊川市)。この「佐脇」には「上佐脇」と「下佐脇」の二つの集落があります。三河湾に面した海沿いの集落です。この辺りの海岸に,そのむかし,持統天皇が周囲の反対を押し切って伊勢行幸をはたし,さらに足を伸ばして伊勢から船で穂の国にやってきて上陸した,と言われています。この佐脇というロケーションは穂の国の玄関口に相当します。三河湾でいえば,一番奥まったところです。その地に,なぜ,わざわざ持統天皇はやってきたのでしょうか。しかも,持統天皇は歓迎されるどころか,激しい戦いとなり,尾張に逃れて,伊勢を経由して大和にもどって行ったと考えられています(柴田晴廣著『穂国幻史考』に詳しい)。
つまり,大和朝廷のあった瑞穂の国と,こんにちの東三河地方を指す穂の国とは,なんらかの深い関係があって,しかも,どうやら敵対する関係にあったらしい,ということです。その穂の国の玄関口の一つが佐脇です。ひょっとしたら,佐脇の祖先は,先陣を切って持統天皇と戦った人たちだったかもしれません。だとすると,その祖先とはいかなる人たちだったのでしょうか。もっと言っておけば,大和朝廷にまつろわぬ人びととは・・・?
そういう地政学的な背景をもつ下佐脇で生まれ,育った祖母が,なぜ,渥美半島の中程にある尼寺に修行にでたのか。そのとき,だれが,どのように仲介したのか。そこには表面にはでてこない,なにか大きな力がはたらいていたのではないか,と思われてしかたありません。
その近くには長仙寺という古刹があり,別名「おたがさま」とも呼ばれています。この地方の人たちの多くが,初詣にでかける名所です。わたしも何回も初詣をした思い出があります。「おたがさま」とは多賀神社の親称です。祭神はイザナギ・イザナミです。この地方では「おいせさん」よりも親しまれている,と言っていいでしょう。わたしのなかにもそういう心象があります。なぜなら,アマテラス(おいせさん)はイザナギ・イザナミ(おたがさま)の娘なのですから。
この渥美半島の「あつみ」という地名は,「あずみ」族との結びつきが考えられており,もしそうだとすると信州の安曇野に鎮座する穂高神社との関連も視野のうちに入ってきます。また,その近くには諏訪大社があります。いずれも出雲族との関係が深い神社です。こうなってきますと,穂の国だけの問題ではなくなり,さらに広大な視野に立つ考察が必要になってきます。しかも,きわめて煩瑣な分析・思考が必要になってきますので,ここでは,この程度にとどめおきたいと思います。(※この話を敷衍していくと,八百万の神様の話になっていきます。)
話をもとにもどします。祖母が下佐脇から渥美半島の尼寺に修行にでた経緯は不明ですが,なにか地政学的なつながりがあったのではないか,とわたしは推測しています。つまり,穂の国という視野に立つとき,下佐脇も渥美半島も同じ根をもつ同族意識がつよくはたらいていたのではないか,ということです。そして,祖母の若かったころにはまだその意識がかなり濃厚に残っていたのではないか,と。
さらに飛躍しますが,穂の国の時代からこの地方で重要な役割をはたしてきたと考えられる神社に砥鹿神社があります。のちに三河一宮となり,その祭神はオオクニヌシです。つまり,砥鹿神社を支えてきた氏子は出雲族ということになります。そういう目で,もう一度,この地域の神社を総ざらいしてみますと,まぎれもなく出雲系の神社が多いことがわかってきます。わたしの子どものころは,神社といえばみんなスサノオ神社だ,思い込んでいたほどです。
少なくともわたしの子どものころの生活圏で目にした神社は,そのほとんどがスサノオ神社でした。しかし,その当時,スサノオ神社がいかなる神社であるかということなど知るよしもありません。のちになって『古事記』に登場する神話によれば,アマテラスの弟がスサノオである,つまり姉弟関係である,ということになっていることを知ります。しかも,姉アマテラス神にまつろわぬ弟スサノオ神という設定になっています。このことがなにを意味しているのか,じつはまことに意味深長である,とわたしは考えています。
もっと言っておけば,アマテラスのモデルは持統天皇だ,というかなり有力な説もあります。だとすると,では,スサノオのモデルはいったいだれか,ということになります。姉弟なのに「うけい」までして,子孫を残しています。まことに不思議な話です。ここに隠されている秘密はなにか。アマテラスとスサノオを姉弟関係にして封じ込んでおかなければならなかった,きわめて重大な問題がそこにはあった,と考えるのが妥当でしょう。
まつろいつつ,まつろわぬ関係。それは大和と出雲の関係ではないか,とわたしは「幻視」しています。それが瑞穂の国と穂の国の関係にも影を落としているとしたら・・・・・。興味はつきません。
というところで,今日のところはおしまい。
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