もう,内田樹さんの「街場」ものはいい,と思っていましたが,「五輪論」となれば見過ごすわけにもいかず,とりあえず,さっと読みました。大きな活字で,余白もいっぱい。3人の友情あふれる馴れ合った関係がまるみえの「雑談」。
ひとことで感想を言わせてもらえば,本にすれば「売れる」,という単純な発想の企画でしかありません。じつに安易で,いい加減なお話がほとんど。鼎談のなかでは,オリンピックが商業主義に毒された単なる金儲けでしかない,だから,東京での五輪開催に反対だ,とこき下ろしながら,自分たちもまったく同じことをやってらっしゃる。その自己矛盾にも気づいていないとしたら,この人たちももう「おわっ」ですね。
でも,さすがに内田樹さんは,ほかの二人のどうでもいい「雑談」にはほとんど参加せず,大事なポイントに入ってくると,いつもの切れ味鋭い「街場」論を展開しています。が,その部分があまりに少なく,いったいこの企画はなんだったのか,と首を傾げてしまいます。編集者の手抜きなのでしょうか。それとも計算されつくした企画だったのでしょうか。それにしても,なんでもいいから出せば売れる,という安易な発想がまるみえの企画。それにやすやすと便乗してしまった内田さん,いささか恥ずかしい。
もっとも,この程度のレベルの低さで本にするからこそよく売れる,という利点もあるのでしょう。それにしてもこんなことで「東京五輪論」を片づけられてしまったのでは困ります。これではほんとうの意味での「街場」の陰口でしかありません。もうほんの少しでもいい,「街場」でもこのくらいのことは論じているんだよ,という程度の激辛の論評を展開してくれてもよかったのではないでしょうか。これでは3人の論者が眼をつむって象のからだをなぜまわし,それぞれがその感想を述べているにすぎません。で,いったい,象とはなにか,という肝心要の話が欠落しています。
つまり,五輪の本体をなすものは「スポーツ」です。そのスポーツそのものが五輪という一大イベントの名のもとで,時の権力者たちによって都合のいいように歪曲され(ときには嘘で固められ:under control ),金儲けと政治のために好き勝手に利用されていることがもたらす弊害についてはなにも語られてはいません。つまり,この人たちにとっては,スポーツなどはどうでもいいのでしょう。そして,「東京五輪」という文化装置がここにきて目障りになってきたので,それを遠巻きにして,高みの見物よろしく,まさに無責任な「街場」の長屋談義を展開しているにすぎません。
わたしの主張したいことは以下のとおりです。
「いま」という時代に,この「日本」という場で生きているわたしたちにとって,スポーツとはなにか。もっとわかりやすく言えば,「3・11」以後を生きるわたしたちにとってスポーツとはなにか。さらには,沖縄基地移転問題をはじめ,尖閣諸島をめぐる日本の一方的な領有権主張の問題(「実効支配」の原則にもどすべし),これらと無縁ではない集団的自衛権の行使の問題,憲法9条をめぐる解釈改憲の問題,等々と直面しているわたしたちにとってスポーツとはなにか。その他のことは省略します。こうしたきわめて困難な問題を抱え込んでいる「いま,現在」の日本にとって,そして,東京にとって「スポーツ」とはなにか,その具現である「五輪」とはなにか,を問うことが喫緊の課題ではないか,というのがわたしの言い分です。
もし,五輪がほんとうの意味での「平和運動」であると考えるならば,五輪招致委員会(もうすでにお役が終わりましたが)や東京五輪組織委員会,日本スポーツ振興センター,文部科学省,そして,それらをバックアップしている日本政府,そして東京都は,なによりも「憲法9条」死守を,世界に向けて宣言すべきではないか。それこそが五輪精神を体現し,東京で五輪を開催することの意義ではないか,と。
もう,これ以上は書く必要はないでしょう。いま,日本は国を挙げて(財界と政界),戦争ができる国へと舵を切っています。そして,この動向に歯止めをかけることのできる政治勢力も存在しません。メディアもだんまり。学界もだんまり。国民もだんまり。つまりは,どこもかしこもみんな「自発的隷従」。そして,ほんのわずかな良識ある人びとが声を挙げると「国賊」よばわり。こんなにも狂ってしまった国情の中で,いま,わたしたちは生きていかなくてはならないのです。
まるで「裸の王様」よろしく,国のトップが精神に異常をきたすと,その異常が正常となり,正常が異常となってしまいます。いまの日本の姿は,わたしの眼には,そんな風にみえてきます。いまこそ,振り出しにもどって,仕切り直しをしないといけません。
「五輪論」を語るのであれば,スポーツとはなにか,という原点に立ち返って議論をはじめなくてはなりません。その意味で,いまこそ,東京五輪を考えるための啓蒙活動(たとえば「スポーツ教育」)が必要です。その原点は,「スポーツは平和のシンボルである」ということにつきます。つまり,スポーツは戦争を否定し,その対極に位置づく文化です。ですから,戦争の歯止めとしての,スポーツの存在意義を誇示していくべきです。
いまこそ,スポーツ界は一致団結して,声を大にして「平和」を訴えるべきです。東京五輪を成功させる最大の鍵は,東京から「戦争反対」と「平和推進運動」のメッセージを発信していくことです。それを目指さないかぎり,わたしは東京五輪開催には反対です。
このことを,このテクストの読後感として強く思いました。その意味では立派な反面教師的役割をはたしてくれる・・・と言うことも可能でしょう。
ぜひ,本屋さんでの立ち読みをお薦めします。斜め読みで結構ですから。
ひとことで感想を言わせてもらえば,本にすれば「売れる」,という単純な発想の企画でしかありません。じつに安易で,いい加減なお話がほとんど。鼎談のなかでは,オリンピックが商業主義に毒された単なる金儲けでしかない,だから,東京での五輪開催に反対だ,とこき下ろしながら,自分たちもまったく同じことをやってらっしゃる。その自己矛盾にも気づいていないとしたら,この人たちももう「おわっ」ですね。
でも,さすがに内田樹さんは,ほかの二人のどうでもいい「雑談」にはほとんど参加せず,大事なポイントに入ってくると,いつもの切れ味鋭い「街場」論を展開しています。が,その部分があまりに少なく,いったいこの企画はなんだったのか,と首を傾げてしまいます。編集者の手抜きなのでしょうか。それとも計算されつくした企画だったのでしょうか。それにしても,なんでもいいから出せば売れる,という安易な発想がまるみえの企画。それにやすやすと便乗してしまった内田さん,いささか恥ずかしい。
もっとも,この程度のレベルの低さで本にするからこそよく売れる,という利点もあるのでしょう。それにしてもこんなことで「東京五輪論」を片づけられてしまったのでは困ります。これではほんとうの意味での「街場」の陰口でしかありません。もうほんの少しでもいい,「街場」でもこのくらいのことは論じているんだよ,という程度の激辛の論評を展開してくれてもよかったのではないでしょうか。これでは3人の論者が眼をつむって象のからだをなぜまわし,それぞれがその感想を述べているにすぎません。で,いったい,象とはなにか,という肝心要の話が欠落しています。
つまり,五輪の本体をなすものは「スポーツ」です。そのスポーツそのものが五輪という一大イベントの名のもとで,時の権力者たちによって都合のいいように歪曲され(ときには嘘で固められ:under control ),金儲けと政治のために好き勝手に利用されていることがもたらす弊害についてはなにも語られてはいません。つまり,この人たちにとっては,スポーツなどはどうでもいいのでしょう。そして,「東京五輪」という文化装置がここにきて目障りになってきたので,それを遠巻きにして,高みの見物よろしく,まさに無責任な「街場」の長屋談義を展開しているにすぎません。
わたしの主張したいことは以下のとおりです。
「いま」という時代に,この「日本」という場で生きているわたしたちにとって,スポーツとはなにか。もっとわかりやすく言えば,「3・11」以後を生きるわたしたちにとってスポーツとはなにか。さらには,沖縄基地移転問題をはじめ,尖閣諸島をめぐる日本の一方的な領有権主張の問題(「実効支配」の原則にもどすべし),これらと無縁ではない集団的自衛権の行使の問題,憲法9条をめぐる解釈改憲の問題,等々と直面しているわたしたちにとってスポーツとはなにか。その他のことは省略します。こうしたきわめて困難な問題を抱え込んでいる「いま,現在」の日本にとって,そして,東京にとって「スポーツ」とはなにか,その具現である「五輪」とはなにか,を問うことが喫緊の課題ではないか,というのがわたしの言い分です。
もし,五輪がほんとうの意味での「平和運動」であると考えるならば,五輪招致委員会(もうすでにお役が終わりましたが)や東京五輪組織委員会,日本スポーツ振興センター,文部科学省,そして,それらをバックアップしている日本政府,そして東京都は,なによりも「憲法9条」死守を,世界に向けて宣言すべきではないか。それこそが五輪精神を体現し,東京で五輪を開催することの意義ではないか,と。
もう,これ以上は書く必要はないでしょう。いま,日本は国を挙げて(財界と政界),戦争ができる国へと舵を切っています。そして,この動向に歯止めをかけることのできる政治勢力も存在しません。メディアもだんまり。学界もだんまり。国民もだんまり。つまりは,どこもかしこもみんな「自発的隷従」。そして,ほんのわずかな良識ある人びとが声を挙げると「国賊」よばわり。こんなにも狂ってしまった国情の中で,いま,わたしたちは生きていかなくてはならないのです。
まるで「裸の王様」よろしく,国のトップが精神に異常をきたすと,その異常が正常となり,正常が異常となってしまいます。いまの日本の姿は,わたしの眼には,そんな風にみえてきます。いまこそ,振り出しにもどって,仕切り直しをしないといけません。
「五輪論」を語るのであれば,スポーツとはなにか,という原点に立ち返って議論をはじめなくてはなりません。その意味で,いまこそ,東京五輪を考えるための啓蒙活動(たとえば「スポーツ教育」)が必要です。その原点は,「スポーツは平和のシンボルである」ということにつきます。つまり,スポーツは戦争を否定し,その対極に位置づく文化です。ですから,戦争の歯止めとしての,スポーツの存在意義を誇示していくべきです。
いまこそ,スポーツ界は一致団結して,声を大にして「平和」を訴えるべきです。東京五輪を成功させる最大の鍵は,東京から「戦争反対」と「平和推進運動」のメッセージを発信していくことです。それを目指さないかぎり,わたしは東京五輪開催には反対です。
このことを,このテクストの読後感として強く思いました。その意味では立派な反面教師的役割をはたしてくれる・・・と言うことも可能でしょう。
ぜひ,本屋さんでの立ち読みをお薦めします。斜め読みで結構ですから。
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