2015年6月23日火曜日

天保10(1839)年ころの菖蒲打ち(子どもたちの遊び)。

 月刊雑誌『SF』(体育施設出版刊)の6月号に掲載した,江戸時代の子どもの遊び「菖蒲打ち」を紹介したいとおもいます。隔月の連載で,これが第38回目になります。単純に計算して,年6回ですので,6年を超える長期連載となっています。まあ,素材はいくらでもありますので,もういい,と言われるまでは続けてみようとおもっています。


今回は,「天保10(1938)年ころの菖蒲打ち」がテーマ。掲載されたページをそのままアップしてみましたが,絵も小さいし,文字も小さくて読めません。仕方がないので,絵だけ大きくして,文章はもう一度,書き直して紹介してみたいとおもいます。


まずは,絵の拡大写真です。急いで複写をし,そのまま送ってしまったので,ピントが合っていません。残念。というより,恥ずかしい。これからは時間に余裕をもって,きちんと写真を撮って,チェックしなくては・・・と反省しています。

 菖蒲打ちという遊びを知っている人はもうほとんどいないとおもいます。が,敗戦直後の,おもちゃもなにもない時代には,子どもたちはみんな手作りの遊具を工夫して遊んだものです。それも自然の野草に手を加えて遊具にするのが主流でした。ありとあらゆる野草の葉っぱで草笛をつくって鳴らしました。絶対に鳴らないとおもわれる野草の葉っぱをみごとに鳴らした者が英雄でした。

 そんな,むかしからの遊びの一つが,この菖蒲打ちでした。それも五月限定の遊びでした。菖蒲の花が咲くころ,つまり,5月5日の端午の節句のころには,菖蒲湯を涌かし,父親は菖蒲酒を楽しみ,子どもたちは菖蒲打ちで遊ぶ,これは定番のようなものでした。この遊びが天保時代にはもっと盛んに行われていたと知ると,なんとも懐かしいものです。

 しかし,こうしたむかしからの慣習行動も,敗戦後の占領政策によってあえなく費えさってしまいます。アメリカ流の民主主義とアメリカ的な「生活の合理化」運動の推進によって,日本の古い慣習や年中行事がすべて封建主義の名のもとに排除されてしまったからです。

 菖蒲打ちをして遊んだのはわたしたちの世代が最後だったかもしれません。

 菖蒲は勝負の意。その葉は刀剣の形に似ていて,切ると強い香りを発します。菖蒲湯はその香りと成分によってからだが温まり,身が引き締まるようにも感じたものです。

 菖蒲打ちという遊びは,菖蒲の葉を三つ編みにして長い紐のようにし,それを地面に強く打ちつけます。すると,ビシッという鋭い音を発します。その音色のよさを競い合う遊びです。ポイントは三つ編みの技術と打ちつける技術の二つです。いい音色が出はじめると,ほどなく千切れてばらばらになってしまいます。そうなったら,また,すぐに新しく編み直して挑戦というわけです。「ビシッ」といい音色が響いたときの快感はたまりません。ですから,友だちと交互に必死になって地面に打ちつけました。こんな単純な遊びにこのころの子どもたちはみんな熱中したものでした。

 この図版には,歌川国芳が天保10(1839)年ころに描いた大判錦絵五枚組「雅遊五節句之内端午(みやびあそびごせっくのうちたんご)」と名前がついています。端午の節句はむかしから男の子の健康と出世を祈る祭日でした。とくに,初節句には親戚から武者人形,飾兜,鎧,青龍刀,などが贈られました。この風習はいまもつづいています。最近では「鯉のぼり」が人気のようです。

 天保年間でも「鯉のぼり」は人気があったのですが,防火の邪魔になるとか,華美に走りすぎるとして禁止されていました。ですから,この図版でも,室内飾り用の鯉のぼりが描かれています。鯉のぼりは,鯉の滝登りの故事にならい立身出世のシンボルでした。

 この図版をよくみると,ずいぶん太く菖蒲の葉が編み込まれていることがわかります。これは,たぶん,三つ編みにしたものを3本つくり,それをさらに三つ編みにしたものではないか,とこれはわたしの推測です。

 もっとよく見てみますと,強く打ちつけられた菖蒲の葉が千切れて散らばっています。後ろには大きな青龍刀をかついだ子どもと小さな鯉のぼりを手にした子どもが描かれています。左側奥には幟旗を固定する土台がみえていますので,この遊びは神社の境内で行われたようです。神社の境内は子どもたちの絶好の遊び場でもあったことが,ここからも窺い知ることがてきます。

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