6月23日の「慰霊の日」に挙行された追悼式で,自作の詩を朗読した知念捷君(17)の印象が鮮烈だった。随所にちりばめられた琉球語はまったく理解できないのに,なぜか,わたしのこころの奥深く染み込んでくる。だから,いまも,時折,YOUTUBEで,繰り返し知念君の詩の朗読の部分だけに,じっと耳を傾ける。不思議なことに涙が流れてくる。
なにがなせるわざなのだろうか,と考えてしまう。これは理屈を超えている。理性の手のとどかない次元の問題だ。人間のこころを打つのは,その次元だ。
知念君の落ち着きはらった,清々しい態度,顔,透きとおった声,あふれくる感情を抑制しつつ,そこに深い思いをこめる詩の朗読。そして,その途中に織り込まれた「琉歌」。意味はなにもわからないのにわたしのこころを「ぐいっ」と鷲づかみにする。そして,陶酔させられてしまうその声,旋律。なにが起きているのだろうか,とわが耳を疑う。しかし,まぎれもなく遠いどこかにわたしをまるごと誘ってくれる。そして,ふたたび詩の朗読にもどる。
まるで浦島太郎のような気分だ。
この知念君の詩の朗読を聞いてしまうと,翁長知事の静かな気魄のこもった平和宣言も,どこか霞んでしまう。なぜか。それは理性のレベルでの深い感動と共感をともなうものではあるが,それ以上ではない。よくぞここまで覚悟を決めて言い切ってくれた,という感動と共感のレベルなのだ。ましてや,アベ君の祝辞は,まったくとってつけただけのことばの羅列を,ただ,朗読するだけだ。そこに人間としての気持が籠もっていない。だから,「戦争屋,帰れ!」と怒声がとぶ。それにうろたえ,泳いだアベ君の眼だけが印象的だった。唯一,人間アベが露呈したからだ。
やはり,詩のもつ力,琉歌に籠められたさまざまな情感,言ってしまえば芸能の力,これに勝るものはない。それを,また,みごとに演じきってみせた知念君の力量。恐るべし。だから,何回,聞いても,そのつど新たな感動をよぶ。不思議な力が満ちあふれている。
このときの様子を,沖縄タイムスがネットをとおしてつぎのように伝えている。あまりの名文なので,そのまま書き写しておく。(沖縄タイムス,6月24日 06時00分配信)。
鎮魂の思いを込めた古(いにしえ)の歌が夏の風に乗り,人々の胸に届いた。
「戦世(いくさゆ)や済(し)まち みるく世(ゆ)や やがて嘆(なじ)くなよ臣下 命(いぬち)ど宝」
追悼式で自作の平和の詩「みるく世がゆやら」を朗読した与勝高校3年知念捷君(17)。第1連の琉歌は,「つらね」と呼ばれる独特の節をつけて歌い上げた。凛(りん)とした響きに会場は一気に引き込まれ,呼応するように指笛や拍手も起きた。
「琉歌には沖縄の人の悲しみも喜びも,価値観もアイデンティティーもすべて含まれる。心に伝わるものがあったらうれしい」。琉球舞踊などの素養があり,「緊張することなく思いを表現できた」と涼やかな笑顔で話す。
詩では「みるく世がやゆら(今の世は平和でしょうか)」との問いかけが静かに繰り返される。参列者はうなずいたり,目を閉じたりしながら,思いを巡らせている様子だった。
試作に駆り立てたのは,戦争で夫を失った祖父の姉の姿。会場には,同じような年代のお年寄りも多数詰め掛けた。「戦争が終わってから70年たっても,悲しみを背負っている人がこんなにいると感じた。少しでも寄り添いたい」と誓う。
この記事を読みながら,わたしはふたたび涙する。沖縄にはこんな文章の書ける記者がいる。持ち合わせているハートが違う。沖縄の底力,恐るべし。高校教員や県庁の役人や新聞記者のなかから芥川賞作家や詩人がいくらでも輩出する地力が沖縄にはある。芸能人,しかり。知念君もそういう系譜につらなる逸材に違いない。
だから,わたしは魅せられてしまうのだ。もう一度,繰り返すが,それは理性の力ではない。芸能の力だ。
なにがなせるわざなのだろうか,と考えてしまう。これは理屈を超えている。理性の手のとどかない次元の問題だ。人間のこころを打つのは,その次元だ。
知念君の落ち着きはらった,清々しい態度,顔,透きとおった声,あふれくる感情を抑制しつつ,そこに深い思いをこめる詩の朗読。そして,その途中に織り込まれた「琉歌」。意味はなにもわからないのにわたしのこころを「ぐいっ」と鷲づかみにする。そして,陶酔させられてしまうその声,旋律。なにが起きているのだろうか,とわが耳を疑う。しかし,まぎれもなく遠いどこかにわたしをまるごと誘ってくれる。そして,ふたたび詩の朗読にもどる。
まるで浦島太郎のような気分だ。
この知念君の詩の朗読を聞いてしまうと,翁長知事の静かな気魄のこもった平和宣言も,どこか霞んでしまう。なぜか。それは理性のレベルでの深い感動と共感をともなうものではあるが,それ以上ではない。よくぞここまで覚悟を決めて言い切ってくれた,という感動と共感のレベルなのだ。ましてや,アベ君の祝辞は,まったくとってつけただけのことばの羅列を,ただ,朗読するだけだ。そこに人間としての気持が籠もっていない。だから,「戦争屋,帰れ!」と怒声がとぶ。それにうろたえ,泳いだアベ君の眼だけが印象的だった。唯一,人間アベが露呈したからだ。
やはり,詩のもつ力,琉歌に籠められたさまざまな情感,言ってしまえば芸能の力,これに勝るものはない。それを,また,みごとに演じきってみせた知念君の力量。恐るべし。だから,何回,聞いても,そのつど新たな感動をよぶ。不思議な力が満ちあふれている。
このときの様子を,沖縄タイムスがネットをとおしてつぎのように伝えている。あまりの名文なので,そのまま書き写しておく。(沖縄タイムス,6月24日 06時00分配信)。
鎮魂の思いを込めた古(いにしえ)の歌が夏の風に乗り,人々の胸に届いた。
「戦世(いくさゆ)や済(し)まち みるく世(ゆ)や やがて嘆(なじ)くなよ臣下 命(いぬち)ど宝」
追悼式で自作の平和の詩「みるく世がゆやら」を朗読した与勝高校3年知念捷君(17)。第1連の琉歌は,「つらね」と呼ばれる独特の節をつけて歌い上げた。凛(りん)とした響きに会場は一気に引き込まれ,呼応するように指笛や拍手も起きた。
「琉歌には沖縄の人の悲しみも喜びも,価値観もアイデンティティーもすべて含まれる。心に伝わるものがあったらうれしい」。琉球舞踊などの素養があり,「緊張することなく思いを表現できた」と涼やかな笑顔で話す。
詩では「みるく世がやゆら(今の世は平和でしょうか)」との問いかけが静かに繰り返される。参列者はうなずいたり,目を閉じたりしながら,思いを巡らせている様子だった。
試作に駆り立てたのは,戦争で夫を失った祖父の姉の姿。会場には,同じような年代のお年寄りも多数詰め掛けた。「戦争が終わってから70年たっても,悲しみを背負っている人がこんなにいると感じた。少しでも寄り添いたい」と誓う。
この記事を読みながら,わたしはふたたび涙する。沖縄にはこんな文章の書ける記者がいる。持ち合わせているハートが違う。沖縄の底力,恐るべし。高校教員や県庁の役人や新聞記者のなかから芥川賞作家や詩人がいくらでも輩出する地力が沖縄にはある。芸能人,しかり。知念君もそういう系譜につらなる逸材に違いない。
だから,わたしは魅せられてしまうのだ。もう一度,繰り返すが,それは理性の力ではない。芸能の力だ。
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