2015年6月18日木曜日

PET検査を受けてきました。問診票に記入,同意書にサイン。「モノ」そのものになりきる経験。

 数日前に「PET検査を受けることになりました」というブログをアップしたら,たちまちにして何人かの人から,メールがありました。いずれも経験者でした。意外に多くの人が検査を受けていると知り,なんだか少しだけほっとしました。

 しかし,その検査の方法はかなりヴァリエーションがあることがわかり,さてはて,わたしの場合はどうなんだろうと身構えてしまいました。が,意外にも,もっともシンプルな方法の部類に入るものでした。これまで経験してきたCT検査よりも合理的でした。たぶん,設備がPET/CT検査用に特化されていたからではないか,とこれは素人判断。

 とりあえずは,痛くも痒くもなく,無事に終了。問題はその結果です。23日には,この検査結果がわたしの主治医に届くことになっています。が,わたしとの面談は6月29日(月)。それまでの執行猶予の身。あれこれ考えるとなにかと不安が募りますので,まあ,なるようにしかならない,と腹をくくることにしました。いまは,できるだけいい結果であることを祈るのみ。

 ただひたすら,祈りあるのみです。

 ブドウ糖の注射をしてから1時間ほどの安静時間がありました。リクライニングの椅子を倒して,ほとんど横になった状態で,じっとしていなさいという。本を読んでもいけません。お話をしてもいけません。黙って静かにしていなさい。水は多めに飲んでください。おしっこにも自由に行ってください。なにかなったら,このブザーを鳴らしてください。

 という具合で,なんだか妙な時間がありました。その間,ぼんやりと,この検査はいったいなんなのだろうか,と考えていました。そうだ,このところ受けている医療は,まさにわたしの「ボディ」だけが対象になっていて,「マインド」の方は対象外だなぁ,とそんなことを考えていたら,妙に面白くなってきて,あれこれ考えることになりました。

 明治になって「身体検査」なるものが導入されたなぁ。その結果,日本国民は小学校に入学するとすぐに全員が「身体検査」を受けることになったなぁ。このときから,国民の「ボディ」が国家の管理下に置かれることになったんだよなぁ。国民はとくに考えることもなく,無意識のうちにそれを受容してしまったんだよなぁ。こんな風にして,近代国民国家が求めた国民の「身体」は,文字どおり「ボディ」=Body=「物質,モノ」として取り扱われることになってしまったんだよなぁ,という具合です。

 その後の医療の主流もこの路線を走ることになったようなんだよなぁ。だから,今日,記入して提出した問診票も,あくまでもPET検査のために必要最小限の「問診」であって,わたしの方からの要望を述べる欄はどこにもないんだよなぁ。すべては「物質,モノ」に向けての問いかけばかり。だから,わたしはひたすら「物質,モノ」として応答するのみ。なんだかもの足りないんだよなぁ。

 最終目的の検査も,狭い台の上に横たわると,両腕はだらりと台から落ちてしまいますので,思わず,この腕はどうしたらいいですか,と聞いてしまいました。すると,なんということはない,太くて厚めのベルトでからだの両サイドに「気をつけ」の姿勢のまま固定してしまいました。かくして,わたしのからだは,まさに検査を受けるための「ボディ」そのものになりきってしまいました。あとは,音声による指示にしたがい,呼吸をし,停止し,楽にする,これの繰り返しでした。なるほど,「モノ」そのものになりきること,ただ,これだけがこの検査では要求されることでした。

 もっとも,これまで受けてきたCT検査も同じでした。要するに検査の対象として必要なものは「モノ」そのものとしての「物体」だけなのです。その「物体」としての「身体」を精確に把握するための検査,それがPET検査である,ということなわけです。当然といえば当然のこと。そのための検査なのですから。

 でも,少し落ち着いて考えてみると妙なものではあります。と同時に,つぎなる治療にあたっては必要不可欠なものであることも事実です。ここでは人間としてのわたしはひとまず措くことにして,まずは,「ボディ」としての「身体」だけがその対象になる,ただ,そのことだけが重要なのです。ああ,心身二元論・・・・・。

 とまあ,こんなことを考えながら,帰ってきました。朝からなにも食べていませんので,途中で空腹に襲われ,これだけが苦痛でした。以上,ご報告まで。

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