たしか以前,この寺にきた記憶がある。しかし,記憶にある寺とはまるで違う門構え,本堂の立派さ,雰囲気の重々しさにしばしとまどう。左手の丘陵に沿った墓地をみると,間違いなく以前,ここにきて,墓地も歩き回った記憶がある。なぜなら,濱田庄司のお墓があるという小さな看板があり,それにつられて,いきなり墓地に入っていった記憶が鮮明に残っているからだ。
そんなことを思い浮かべながら,じっと山門を仰ぎ見る。「興林山」という山号の扁額が掲げられている。以前はこんな山門はなかったはず・・・。そして,その周囲を囲む土塀もなかったはず・・・。正面の本堂も,もっともっと奥まったところにひっそりと佇んでいたようにおもう。つまり,なんにもないだだぴろい境内と,左側の墓地を区切る金網の柵があっただけのはず・・・。
この山門の周囲でうろうろしていたら,右脇の道路に面して「陶工 濱田庄司の墓」という表示板をみつける。これをみて,ああ,間違いない,と確信。以前(といっても,すでに17年も前の話)は,もっと小さな板ッぴれに「濱田庄司の墓がある」寺,と書いてあっただけだった。でも,それをみて,すぐに墓地の中に入り,濱田庄司の墓をさがした記憶がある。左側の墓地のいちばん奥まったところにその墓はあった。
この掲示板のすぐ左脇に,濱田庄司の筆跡を残す碑まで立っている。そうか,こういう文字を書く人だったのだ,としみじみ眺め入る。大きな皿絵や,ときおり,その中に書き込まれている文字はお目にかかったことはあるが,碑文としてみるのは初めて。「昨日在庵 今日不在 明日他行」とみごとに,昨日・今日・明日の時間認識を四文字で言い表している。そういえば,濱田庄司は仏教にも造詣の深い人だったことを思い出す。
そうか,以前,ここを尋ねたときからすでに17年もの歳月が流れているのだから,寺のたたずまいも変化して当たり前だ。しかも,こんなに立派になっている。おそらく当代の住職は相当の力量の持ち主に違いない。山門から本堂までの石畳の道もつけて,しかも,以前の本堂とは比べ物にならないほどの立派な本堂を,ずっと手前に引き寄せて,山門からの距離もちょうどいい。
本堂に向かって歩いていくと,左側には立派な石段を登っていった先に大きな「祖師廟」が建っている。これも,以前はなかったものだ。本堂の右側には,「善日麿」の像が立っている。善日麿とは日蓮の幼名だと書いてある。そうか,ここは日蓮宗の寺だ,と知る。そして,本堂の正面に立ってみると「宗隆寺」という扁額がかかっている。この寺は日蓮宗の興林山宗隆寺だったのだ。
わたしの育った寺は道元さんの曹洞宗だったが,中学時代に日蓮さんに興味をもち,何冊か伝記本を熱中して読んだ記憶がある。しかし,幼名が善日麿だったことはすっかり忘れていた。まずは,お顔をしっかりと拝ませてもらう。童顔とはいえ,しっかりした顔だちである。成人してからの日蓮さんの肖像は,あちこちで拝ませてもらっている。とくに印象に残っているのは,洗足池のほとりに立つ日蓮像だ。見る者を圧倒する迫力満点の大きな顔と鋭い眼力,一度,見たら忘れない,その意味では傑作の像が立っている。だから,この善日麿のお顔に,わたしの眼は吸い込まれていく。まだ,幼児とはいえ,いいお顔である。
そんな感慨にふけっていたら,若い僧が現れ,5時で山門を閉めるからお帰りください,という。そうか,ちかごろは不用心なので,午後5時には閉め切ってしまうのだ,と納得。しかし,これでは寺本来の姿(機能)からは遠ざかっていくことになる,このことをどうお考えなのか,とつい尋ねてみたくなった。が,ぐっと我慢することに。
と同時に,17年前は,門構えも囲い(土塀)もなにもなく,だれでも,いつでも,出入り自由,そういう昔からの寺の役割をはたしていた。だから,迷わず濱田庄司の墓を探しに,こころの赴くままに入っていった。しかし,今回は,墓地に入っていくこと,そのことにいたく抵抗を覚える,そういう寺の構え,墓地への入口の重苦しい雰囲気にしり込みをしてまった。不用心という世の中の変化が,寺をも閉鎖的にしてしまうのだ,と山門の外に立ってしみじみと考えてしまう。
こんな世の中にだれがしたんだ,と自問自答を繰り返す。政治の貧困をこころからおもう。
〔追記〕
この興林山宗隆寺と溝口神社はすぐ隣合わせのところにある。いまは,この寺と神社の間に民家が建っているが,江戸時代の大山街道がにぎわっていたころには,この寺と神社は大きな境内をもち,お互いに接していたのではないか,とわたしは想像する。そして,「赤城大明神」として賑わっていたのではないか・・・とも。
そんなことを思い浮かべながら,じっと山門を仰ぎ見る。「興林山」という山号の扁額が掲げられている。以前はこんな山門はなかったはず・・・。そして,その周囲を囲む土塀もなかったはず・・・。正面の本堂も,もっともっと奥まったところにひっそりと佇んでいたようにおもう。つまり,なんにもないだだぴろい境内と,左側の墓地を区切る金網の柵があっただけのはず・・・。
この山門の周囲でうろうろしていたら,右脇の道路に面して「陶工 濱田庄司の墓」という表示板をみつける。これをみて,ああ,間違いない,と確信。以前(といっても,すでに17年も前の話)は,もっと小さな板ッぴれに「濱田庄司の墓がある」寺,と書いてあっただけだった。でも,それをみて,すぐに墓地の中に入り,濱田庄司の墓をさがした記憶がある。左側の墓地のいちばん奥まったところにその墓はあった。
そんな感慨にふけっていたら,若い僧が現れ,5時で山門を閉めるからお帰りください,という。そうか,ちかごろは不用心なので,午後5時には閉め切ってしまうのだ,と納得。しかし,これでは寺本来の姿(機能)からは遠ざかっていくことになる,このことをどうお考えなのか,とつい尋ねてみたくなった。が,ぐっと我慢することに。
と同時に,17年前は,門構えも囲い(土塀)もなにもなく,だれでも,いつでも,出入り自由,そういう昔からの寺の役割をはたしていた。だから,迷わず濱田庄司の墓を探しに,こころの赴くままに入っていった。しかし,今回は,墓地に入っていくこと,そのことにいたく抵抗を覚える,そういう寺の構え,墓地への入口の重苦しい雰囲気にしり込みをしてまった。不用心という世の中の変化が,寺をも閉鎖的にしてしまうのだ,と山門の外に立ってしみじみと考えてしまう。
こんな世の中にだれがしたんだ,と自問自答を繰り返す。政治の貧困をこころからおもう。
〔追記〕
この興林山宗隆寺と溝口神社はすぐ隣合わせのところにある。いまは,この寺と神社の間に民家が建っているが,江戸時代の大山街道がにぎわっていたころには,この寺と神社は大きな境内をもち,お互いに接していたのではないか,とわたしは想像する。そして,「赤城大明神」として賑わっていたのではないか・・・とも。
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