2015年8月19日水曜日

沖縄の翁長知事が重要会談を行う部屋の壁面を飾っている「書」が素晴らしい。

 このところずーっと気になっていたことがある。それは,久しぶりにみる「書」の素晴らしさ,である。それも新聞の写真をとおしてのものであって,実物はお目にかかってはいない。たぶん,実物をみることはよほどのことでもないかぎり,不可能に近い。

 それでもなんとかして,一度でいいから,実物を拝ませて欲しいとおもっている。同時に,そこに書かれている詩がどのような内容のもので,だれの作なのか,そして,なによりもこれを書いた人はだれなのか,を知りたい。もっとも,手をつくして調べれば,あるいは,どなたかに尋ねれば,わかることだろう。しかし,実物の「書」は,直接,見ないことにははじまらない。

 「書」に関心をもつ人であれば,みなさん同じ感想をお持ちではないかとおもう。しかも,このところ頻繁にお目にかかるから,なおのことだ。

 前置きが長くなってしまったが,その「書」とは,沖縄の翁長知事が重要会談を行う部屋の壁面を飾っている「書」のことである。もちろん,県知事の特別室に飾られている書なのだから,そんじょそこいらの書家の作品ではないことは百も承知だ。そんなことより,なにより,書そのものが素晴らしいのだ。

 
第一に,気品がある。それも別格だ。みる者のこころをくいと惹きつけて離さない,そういう力がある。一字,一字が生き生きしている。立派な楷書なのに,こちこちに固まってはいない。楷書にしては珍しいほど伸びやかで,随所に個性が表出している。

 この文字は,このように書こうとおもって書かれたものではない。書家の気持があるところで定まったとき,そのときの気持のままに筆が走った,そういう書だ。だから,じつに自由で伸びやかなのだ。そこには計算も打算もない。言ってみれば,そこにあるのは「無心」。その無心から紡ぎだされる書だ。だから,書家のもつありとあらゆる個性がそのまま表出している。つまり,書家の到達している「境地」がそのまま文字となって表出している,ということだ。

 しかも,もう一点,わたしのこころを捉えて離さないのは,最初から最後まで書体が変わらない,書家の精神性の高さと安定感だ。だから,どうしてもこの書の全体を視野に入れて,真っ正面から向き合ってみたいのだ。その場に立ちたいのだ。おそらくは,新聞の写真とはまったく違った迫力で,みる者のこころに迫ってくるものがあるに違いない。新聞に写る部分写真ですら,これだけの迫力があるのだから,実物のもつ力は計り知れないものがあるに違いない。

 アベ君も,スガ君も,ナカタニ君も,まずは,無言で迫ってくるこの書の迫力に圧倒されてしまったのではないか,とわたしは想像する。それに引き換え,翁長知事はこの書のもつ磐石の支えをバックにして,政府要人と対面したに違いない。この詩文の全体がわからないが,新聞に写っている部分を拾い読みするだけでも,この詩文は琉球国がいかに素晴らしい国であるかを謳った,沖縄県民であればだれでも知っている著名なものなのであろう。そして,翁長知事もそのことをよく承知した上で,また,自分自身もこころから気に入っていて,この重要な部屋に飾っているに違いない。

 書に反応する人間なら,そして,詩文に反応する人間なら,この部屋に一歩踏み入れた瞬間に,その足が止まってしまうだろう。そして,じっと向き合わずにはおかないだろう。そのくらいのことをした上で,翁長知事との対面をはたすべきだろう。それが,マナーというものだろう。そのあたりのことを新聞はなにも語ってはくれない。

 たぶん,現政権の要人たちは,この書にちらりと目をやるだけで,それ以上のことはしないだろう。そんな感性は持ち合わせてはいない,ということだ。もし,そのような感性を持ち合わせていたら,沖縄に基地を押しつけて平然とはしていられないはずだ。そういう「写し鏡」的な役割も,この書ははたしているに違いない。

 琉球王国のふところの深さが,この書にも表出しているように,わたしはおもう。だから,なおのこと,この書の前に立ってみたいのだ。そのとき,わたしはなにをおもうのだろうか。想像するだけで,胸がときめいてくる。

 良寛さんの書のなかに,般若心経の写経がある。この写経に初めて接したとき,わたしのからだは凍りついてしまった。もちろん,本物ではない。印刷された著書のなかでのものだ。にもかかわらず,わたしは固まってしまった。ことばも出ないまま,ただ,ただ,ひたすら一字,一字を目で追うのが精一杯だった。

 良寛さんは,一枚の紙の上に,般若心経を二回,繰り返して写経している。こちらも楷書である。しかも,力みのない,じつに伸びやかに書かれている。一字,一字が踊っているようにすらみえる。自由闊達な楷書なのである。いかにも良寛さんの「無心」の境地が表出している,心地よい文字が並んでいるのだ。しかし,よくみると,一回目の写経の文字と,二回目のそれが,まるでコピーしたかのように,ピタリと同じなのだ。文字の傾き具合も,踊り具合も,まったく同じなのだ。

 わたしはハンマーで頭を打ちのめされたかのように,なにも考えられなくなってしまった。それでいて,一字,一字が,まるで笑いながら語りかけてくるような,そんな誘惑の世界に浸っていた。それが,また,格別に心地よいのだ。

 それと同じようなものを,沖縄県知事室の書から感じてしまうのだ。しかし,そこに表出している世界はまるで違うものなのだが・・・・。

 それこそが書芸なるものの,恐るべき力ではないか,とわたしはぼんやりと考えてみる。

〔追記〕もう一つ,有名な空海さんの書にまつわる話があるが,長くなるので割愛する。いつか,機会をみつけて書いてみることにしよう。

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