インタヴューなどで話をするときの笑顔が,なんとも味があって,好きだった。個人的な詳しい情報はほとんどなにも知らないが,ニコニコ笑いながら応答する笑顔に,どこか人間的な優しさを感じたものだ。その旭天鵬(元関脇・40歳)が,23年半の土俵生活に別れを告げた。まわし姿での,あの笑顔がもうみられないかとおもうと,ちょっぴり寂しい。
モンゴル人力士としては草分けの人。92年春場所,史上最多となる160人の新弟子検査を受けたなかに,この人がいた。将来を嘱望されたが,なかなか出世できず,一度はあきらめてモンゴルに逃げ帰ったこともある。親方がモンゴルまで出向いて,「才能がある,必ず一人前の力士になれる」と説得して連れ戻した,という逸話がある。
大器晩成型だったのだろう。出世はかならずしも順調とはいえなかったが,着実に力をつけた。本人もそのことに気づいてからは,じっくりと稽古に励んだ。大負けもしなければ,大勝ちもしない,どちらかといえば地味な,安定した力を徐々に伸ばしていった。そして,遅咲きではあったが,平幕優勝まで経験した。
このとき,横綱・白鵬が優勝パレードの旗手として祝福をした。しかし,日本相撲協会は,部屋も違うのに,なぜ,横綱が旗手をつとめるのか,と不快感を示した。白鵬としては,入門後のなにもわからない相撲界のことを,この先輩力士になにかと教えてもらった。懐が深く,思いやりのある旭天鵬をこころの師と仰いで,稽古に励んだ。その恩返しのつもりだった。
このあたりから,白鵬と部屋の親方や協会との,ちょっとしたすれ違いが目立つようになっていた。しかし,旭天鵬は,意に介することもなく,温かく白鵬を見守った。
こんなことの蓄積があってか,旭天鵬はモンゴル出身の力士たちに,頼りになる先輩として慕われた。たぶん,なにがあっても,あのニコニコした笑顔で,後輩たちを励ましつづけたのだろう。モンゴル出身力士のなかで,旭天鵬のことを悪く言う力士はひとりもいないという。
そういう人柄が,テレビをとおしてみているわたしにも,それとなく伝わってきた。人柄のよさが全身にあふれていた,といっていいだろう。
手足の長い大きなからだを武器に,がっぷり四つに組むと力を発揮した。ここでも,ふところの深さが生きていた。怪我をしない力士としても印象に残る。それは土俵にも現れていた。危ない,土俵際の攻防はほとんど見られなかった。勝つときは,綺麗に寄り切るか,投げを打って,すんなりと勝負をつけた。負けるときも,土俵際で無理をして抵抗するということはほとんどしなかった。どちらかといえば,あっさりと土俵を割った。
もの足りないといえばもの足りない相撲だった。しかし,これが旭天鵬の相撲だった。こんなところに旭天鵬の性格がでていたのだろう。わたしは,みていて,もう一踏ん張りしろよ,と何度もおもったが,でも,これがかれの相撲なのだ,と自分に言い聞かせた。たぶん,稽古場でも,闘志を剥き出しにした荒っぽい相撲はとらなかったのだろうとおもう。闘志は胸の奥深くにしまいこんで,きちっと勝負をつける相撲を心がけたのではないかとおもう。
星勘定のきびしい相撲界にあって,どこか勝敗を達観したような相撲を淡々ととり続ける力士は,そんなに多くはない。そういう希少価値をもった,ゆったりとした力士だった。だから,ここ数年は,あまり無理をするな,ゆったりとしたマイペースでとれ,と応援をしていた。その姿勢は,最後まで貫いたとおもう。負けが込んできて,いよいよ幕内陥落というところに追い込まれても,いつもどおりの旭天鵬の相撲をとりきった。
これでいいのだ,とわたしは自分に言い聞かせた。
現役の引き際はむつかしいものだ。しかし,最後まで,自分の姿勢を貫いて,静かに土俵を去っていく,これもまた立派な美学ではないか。
これからは親方として後輩の指導にあたるという。おそらく,あのこころのふところの深さを生かし,愛情をこめて,若い優秀な力士を育てるに違いない。
旭天鵬の,第二の相撲人生に期待したい。
23年半にわたる土俵生活,ご苦労さんでした。こころからエールを送りたい。
モンゴル人力士としては草分けの人。92年春場所,史上最多となる160人の新弟子検査を受けたなかに,この人がいた。将来を嘱望されたが,なかなか出世できず,一度はあきらめてモンゴルに逃げ帰ったこともある。親方がモンゴルまで出向いて,「才能がある,必ず一人前の力士になれる」と説得して連れ戻した,という逸話がある。
大器晩成型だったのだろう。出世はかならずしも順調とはいえなかったが,着実に力をつけた。本人もそのことに気づいてからは,じっくりと稽古に励んだ。大負けもしなければ,大勝ちもしない,どちらかといえば地味な,安定した力を徐々に伸ばしていった。そして,遅咲きではあったが,平幕優勝まで経験した。
このとき,横綱・白鵬が優勝パレードの旗手として祝福をした。しかし,日本相撲協会は,部屋も違うのに,なぜ,横綱が旗手をつとめるのか,と不快感を示した。白鵬としては,入門後のなにもわからない相撲界のことを,この先輩力士になにかと教えてもらった。懐が深く,思いやりのある旭天鵬をこころの師と仰いで,稽古に励んだ。その恩返しのつもりだった。
このあたりから,白鵬と部屋の親方や協会との,ちょっとしたすれ違いが目立つようになっていた。しかし,旭天鵬は,意に介することもなく,温かく白鵬を見守った。
こんなことの蓄積があってか,旭天鵬はモンゴル出身の力士たちに,頼りになる先輩として慕われた。たぶん,なにがあっても,あのニコニコした笑顔で,後輩たちを励ましつづけたのだろう。モンゴル出身力士のなかで,旭天鵬のことを悪く言う力士はひとりもいないという。
そういう人柄が,テレビをとおしてみているわたしにも,それとなく伝わってきた。人柄のよさが全身にあふれていた,といっていいだろう。
手足の長い大きなからだを武器に,がっぷり四つに組むと力を発揮した。ここでも,ふところの深さが生きていた。怪我をしない力士としても印象に残る。それは土俵にも現れていた。危ない,土俵際の攻防はほとんど見られなかった。勝つときは,綺麗に寄り切るか,投げを打って,すんなりと勝負をつけた。負けるときも,土俵際で無理をして抵抗するということはほとんどしなかった。どちらかといえば,あっさりと土俵を割った。
もの足りないといえばもの足りない相撲だった。しかし,これが旭天鵬の相撲だった。こんなところに旭天鵬の性格がでていたのだろう。わたしは,みていて,もう一踏ん張りしろよ,と何度もおもったが,でも,これがかれの相撲なのだ,と自分に言い聞かせた。たぶん,稽古場でも,闘志を剥き出しにした荒っぽい相撲はとらなかったのだろうとおもう。闘志は胸の奥深くにしまいこんで,きちっと勝負をつける相撲を心がけたのではないかとおもう。
星勘定のきびしい相撲界にあって,どこか勝敗を達観したような相撲を淡々ととり続ける力士は,そんなに多くはない。そういう希少価値をもった,ゆったりとした力士だった。だから,ここ数年は,あまり無理をするな,ゆったりとしたマイペースでとれ,と応援をしていた。その姿勢は,最後まで貫いたとおもう。負けが込んできて,いよいよ幕内陥落というところに追い込まれても,いつもどおりの旭天鵬の相撲をとりきった。
これでいいのだ,とわたしは自分に言い聞かせた。
現役の引き際はむつかしいものだ。しかし,最後まで,自分の姿勢を貫いて,静かに土俵を去っていく,これもまた立派な美学ではないか。
これからは親方として後輩の指導にあたるという。おそらく,あのこころのふところの深さを生かし,愛情をこめて,若い優秀な力士を育てるに違いない。
旭天鵬の,第二の相撲人生に期待したい。
23年半にわたる土俵生活,ご苦労さんでした。こころからエールを送りたい。
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