今日(24日)は,多くの日本人がにわかクリスチャンになって,クリスマスを言祝ぐ日。あるいは,ただ,クリスマスケーキを食べる日。もちろん,ホテルが満室になる日でもある。なんともはや,日本人が何人でもない,国籍不明人になる,まことにめでたい日。自己を忘れ,自己ではない他者と一体化する日。
信仰心の篤い仏教徒はひたすら仏に帰依(きえ)することに専念する。真のクリスチャンもまた神にわが身も心も捧げ,イエス・キリストと一体化するためにひたすら祈る。これすなわち,自己を捨てて,他者と一体化することを是とする宗教の原点の姿。自発的隷従の基。
この議論はともかくとして,なぜ,クリスマスにはヒイラギが飾られるのか,わたしは長い間,不思議だった。同時に,なぜ,節分の日にヒイラギと鰯の頭を戸口に飾るのか,これも不思議だった。そして,なぜ,洋の東西を問わず,「ヒイラギ」なのか,と考えていた。しかし,この問題,考えてみるとなかなか面白い。
そこで調べてみたら,意外なことがわかって,驚いた。
まずは,クリスマスとヒイラギの関係。
ヒイラギは英語で,holly. この発音が,聖なる夜の英語 holy night の holy とよく似ているので,クリスマスの夜には,holy とひっかけて, holly を飾ることになった,と辞典に書いてあった。なーんだ,そんなことだったのか,といささかあきれてしまった。意外に根も葉もない話が,宗教の世界では大まじめに受け止められ,大まじめに継承されていることが多い。そして,いつのまにか,もともとはこうだったんだよ,という元の話も忘れられていく。この話もその一例。
でも,ヒイラギの木の枝が,なんともみごとにクリスマスの飾り物にマッチしているように見えるのも,考えてみれば不思議ではある。人間とは不思議なもので,生まれたときから身のまわりにあるものは,なんの抵抗もなく受け入れ,無意識のうちに骨肉化し,一体化してしまう。だから,クリスマスにはヒイラギの木の枝は必須不可欠のアイテムの一つになっている。これもまた,自発的隷従? いや,こちらは無意識の隷従? しかも,この慣習行動に隷従している方が心地よい。まるでだれに束縛されることもなく「自由」にみずから選択しているかのように。かくして,隷従と自由の境界はどこかに消え去ってしまうことになる。
おやおや,いつのまにか,エチエンヌ・ド・ラ・ボエシの『自発的隷従論』の話になってしまった。それほどに,いま,わたしの頭のなかは西谷さんが仕掛けたラウンドテーブルの議論でいっぱいになっている。自発的隷従は,わたしたちの生活習慣の細部のなかにもさまざまに組み込まれていて,それがある種の潤滑油として機能していることも多い。問題は,自発的隷従が権力関係となって,わたしたちの生活をがんじがらめにして,身動きがとれなくしてしまう,そういう人為的な構造となるところにある。だから,それとこれとは区別して考えないといけない。
というわけで,こんどは日本の節分とヒイラギの関係について。
これも調べてみたら,よく知られるように「イワシの頭も信心から」という類のものでしかないということがわかってきた。つまり,豆まきと同じように鬼を家の中に入れないためのまじないでしかない。さらに,もとをたどっていくと,中国から伝わった追儺(金色の眼を四つもった鬼を追い払う儀礼)にゆきつく。この話は調べればすぐにわかることなので,ここでは割愛。
で,今日は快晴の青空が広がり,とてもいい天気だったので,いつもの植木屋さんの屋敷にあるヒイラギの写真を撮る。ちょうど,いまにも開花する寸前のとてもいいタイミング。しかも,クリスマス・イブ。そのヒイラギの写真を最後に掲げておく。毎年,この花が咲くのを眺めるのも,わたしの楽しみの一つ。冬はとりわけ花が少ないシーズンなのでなおさら貴重な花。真夏の暑い盛りに花を咲かせるサルスベリと同じように,わたしは尊敬している。
信仰心の篤い仏教徒はひたすら仏に帰依(きえ)することに専念する。真のクリスチャンもまた神にわが身も心も捧げ,イエス・キリストと一体化するためにひたすら祈る。これすなわち,自己を捨てて,他者と一体化することを是とする宗教の原点の姿。自発的隷従の基。
この議論はともかくとして,なぜ,クリスマスにはヒイラギが飾られるのか,わたしは長い間,不思議だった。同時に,なぜ,節分の日にヒイラギと鰯の頭を戸口に飾るのか,これも不思議だった。そして,なぜ,洋の東西を問わず,「ヒイラギ」なのか,と考えていた。しかし,この問題,考えてみるとなかなか面白い。
そこで調べてみたら,意外なことがわかって,驚いた。
まずは,クリスマスとヒイラギの関係。
ヒイラギは英語で,holly. この発音が,聖なる夜の英語 holy night の holy とよく似ているので,クリスマスの夜には,holy とひっかけて, holly を飾ることになった,と辞典に書いてあった。なーんだ,そんなことだったのか,といささかあきれてしまった。意外に根も葉もない話が,宗教の世界では大まじめに受け止められ,大まじめに継承されていることが多い。そして,いつのまにか,もともとはこうだったんだよ,という元の話も忘れられていく。この話もその一例。
でも,ヒイラギの木の枝が,なんともみごとにクリスマスの飾り物にマッチしているように見えるのも,考えてみれば不思議ではある。人間とは不思議なもので,生まれたときから身のまわりにあるものは,なんの抵抗もなく受け入れ,無意識のうちに骨肉化し,一体化してしまう。だから,クリスマスにはヒイラギの木の枝は必須不可欠のアイテムの一つになっている。これもまた,自発的隷従? いや,こちらは無意識の隷従? しかも,この慣習行動に隷従している方が心地よい。まるでだれに束縛されることもなく「自由」にみずから選択しているかのように。かくして,隷従と自由の境界はどこかに消え去ってしまうことになる。
おやおや,いつのまにか,エチエンヌ・ド・ラ・ボエシの『自発的隷従論』の話になってしまった。それほどに,いま,わたしの頭のなかは西谷さんが仕掛けたラウンドテーブルの議論でいっぱいになっている。自発的隷従は,わたしたちの生活習慣の細部のなかにもさまざまに組み込まれていて,それがある種の潤滑油として機能していることも多い。問題は,自発的隷従が権力関係となって,わたしたちの生活をがんじがらめにして,身動きがとれなくしてしまう,そういう人為的な構造となるところにある。だから,それとこれとは区別して考えないといけない。
というわけで,こんどは日本の節分とヒイラギの関係について。
これも調べてみたら,よく知られるように「イワシの頭も信心から」という類のものでしかないということがわかってきた。つまり,豆まきと同じように鬼を家の中に入れないためのまじないでしかない。さらに,もとをたどっていくと,中国から伝わった追儺(金色の眼を四つもった鬼を追い払う儀礼)にゆきつく。この話は調べればすぐにわかることなので,ここでは割愛。
で,今日は快晴の青空が広がり,とてもいい天気だったので,いつもの植木屋さんの屋敷にあるヒイラギの写真を撮る。ちょうど,いまにも開花する寸前のとてもいいタイミング。しかも,クリスマス・イブ。そのヒイラギの写真を最後に掲げておく。毎年,この花が咲くのを眺めるのも,わたしの楽しみの一つ。冬はとりわけ花が少ないシーズンなのでなおさら貴重な花。真夏の暑い盛りに花を咲かせるサルスベリと同じように,わたしは尊敬している。
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