近頃はパソコンで映画が鑑賞できる。便利になったものである。しかし,この便利さに溺れてしまうととんでもないことにる,と自戒もしつつ・・・・。でも,その便利さにはつい甘えてしまう。それが人間の弱みだ。
今日(10日)の午後,まるでエアポケットのように,なにもする気がなくなり突然の虚脱状態になってしまった。こういうときは受け身のことしかできない。そこで思いついたのが映画鑑賞。これなら,この気抜け状態でも大丈夫だ。
選んだ映画は,小津安二郎監督作品『秋日和』(1960年)。最近,なにかと小津安二郎作品が話題になっていることを思い出したのが動機。それと,わたしが22歳のときに見た記憶がよみがえってきたことも大きな動機のひとつ。ストーリーは単純明快。年頃の娘の結婚をめぐって起こる親と娘の,いわゆる世代間の考え方の違いを浮き彫りにするもの。親の理想とする結婚観と,戦後民主主義の洗礼を受けた若い娘の考える結婚観との軋轢。
ここでは,映画の評論はしない。その資格もない。
ただ,この映画を半世紀(53年)ぶりにみた,その不思議な感覚・感動について書いてみたい。
まず第一に,「モスグリーン」の色が印象に残った。映画全体が「モスグリーン」で彩られている。会社のドアも,当時の流行の先端を切っていた公団住宅のドアも,そして,銀座のバーのソファーも,さらには若い女性の服装も,いたるところに「モスグリーン」が多用されていたこと。そういえば,あの時代のカラーは「モスグリーン」だったと思い出す。わたしが好んで履いていたズボンの色も「モスグリーン」だった。そのせいか,なんとも懐かしい。なぜか,ほっとする。この気分は久しぶりのことだ。
つぎに印象に残ったのは,動作がゆったりしていること。別の言い方をすれば,のろくて,遅いのだ。登場人物がみんなワンテンポ,いまの人たちよりも動作がのろい。街行く人たちも,みんなゆったりと歩いている。そして,会話のテンポも遅い。たっぷりと間をとって会話をしている。家族の会話も,昔ながらの友人との会話も,せっかちではない。しかも,あまり多くを語らない。にもかかわらず,きちんと気持が通い合い,対話が成立している。どっしりとした,落ち着いた,人と人との信頼関係がここかしこから伝わってくる。これも「懐かしさ」の大きな要因のようだ。
もうひとつは,俳優たちの体型が,いまの人たちとはいささか違うようだ。そのもっとも大きな特徴は,男女を問わず,お尻が大きめだ。骨盤の幅といい,お尻まわりの筋肉の量といい,あのあたりの大きさがいまの人たちとはひとまわり違う。これは生活習慣からくる違いというべきか。
ひとつは,家のなかでの立ち居振る舞いからくるものなのだろうか。いわゆる椅子の生活ではない。だから,立ったり,座ったりを一日のうちに何回繰り返すことだろうか。これは相当に足腰を鍛える結果になっていたはず。だから,腰回り・お尻回りが頼もしい。
もうひとつの理由は,たぶん,歩く距離。つまり,歩行運動が多かったということ。いまのわたしたちに比べたら相当に長い距離を歩いていたはずだ。電車の路線もバス路線も,いまよりははるかに少なかった。その分,みんな,せっせと歩いていた。そういう記憶がわたしのからだにもしっかりと刻み込まれている。たとえば,靴がすぐに駄目になってしまって,あまり間をおくことなく何足も買わねばならなかった。いまでは,一足の靴が何年ももつ。
これは,ちょっと意外に思ったことだが,女性のおっぱいが外側を向いていることだ。当時はまったく気付かなかったが,この映画の途中から気になり,しっかりと確認してみたら,ほとんどの女性のおっぱいが,つまり,乳頭が外を向いている。おそらく,こんにちのようなブラジャーはしていなかったのだろう。それと女性の多くは和服を着ているのも面白いと思った。この和服を着ている女性は,明らかにブラジャーはしていないので,まぎれもなく乳頭は外を向いている。
いまでは,そんな女性をみることはまず少ない。みんなブラジャーできちんと整えられた美しい胸が演出されている。断然,こんにちの女性の方が美しいし,かっこいい。しかし,どこか人工的な,事物的で,自然な造作とは異なる「モノ」的なものを感じてしまうのは,わたしだけだろうか。こんなことも,わたしのなかに「懐かしさ」が沸き起こる一因になっているのがもしれない。もっと言ってしまえば,天下の女優さんとはいえ,わたしの母親のようなノー・ブラのままの体型に近い人たちが,まだまだ,この時代には主流をなしていたということだ。だから,なおいっそ懐かしい。
半世紀も前の映画は,発見することが多い。服装や町並みの景色や,電車や自動車も,いまとはまるで違う。まるでタイムスリップして,大昔にもどったような錯覚を起こす。この,たった50年という時間でしかないのに,大きく日本全体が変わってしまったことが,痛いほど伝わってくる。
考えてみれば,この映画が上映された4年後,つまり,1964年には,あの東京オリンピックが開催されたのだ。この4年間だけでも,新幹線が走り,首都高速道路ができ・・・という具合に東京そのものも大きく様変わりをしたのだ。だから,人間も大きく変化してしまった。でも,からだに刻み込まれた記憶はまだまだしっかりと残っている。だから,そこを刺激されると,古い記憶の層か活性化し,「懐かしさ」が呼び覚まされる。
こんな映画の鑑賞の仕方があった,とわれながら大きな驚きでもあった。
また,時間があったら,小津安二郎監督作品を,こんな眼で鑑賞してみたいと思う。もちろん,その他の作品でも,また,違った発見があるかもしれない。古い映画が,意外に面白い。
今日(10日)の午後,まるでエアポケットのように,なにもする気がなくなり突然の虚脱状態になってしまった。こういうときは受け身のことしかできない。そこで思いついたのが映画鑑賞。これなら,この気抜け状態でも大丈夫だ。
選んだ映画は,小津安二郎監督作品『秋日和』(1960年)。最近,なにかと小津安二郎作品が話題になっていることを思い出したのが動機。それと,わたしが22歳のときに見た記憶がよみがえってきたことも大きな動機のひとつ。ストーリーは単純明快。年頃の娘の結婚をめぐって起こる親と娘の,いわゆる世代間の考え方の違いを浮き彫りにするもの。親の理想とする結婚観と,戦後民主主義の洗礼を受けた若い娘の考える結婚観との軋轢。
ここでは,映画の評論はしない。その資格もない。
ただ,この映画を半世紀(53年)ぶりにみた,その不思議な感覚・感動について書いてみたい。
まず第一に,「モスグリーン」の色が印象に残った。映画全体が「モスグリーン」で彩られている。会社のドアも,当時の流行の先端を切っていた公団住宅のドアも,そして,銀座のバーのソファーも,さらには若い女性の服装も,いたるところに「モスグリーン」が多用されていたこと。そういえば,あの時代のカラーは「モスグリーン」だったと思い出す。わたしが好んで履いていたズボンの色も「モスグリーン」だった。そのせいか,なんとも懐かしい。なぜか,ほっとする。この気分は久しぶりのことだ。
つぎに印象に残ったのは,動作がゆったりしていること。別の言い方をすれば,のろくて,遅いのだ。登場人物がみんなワンテンポ,いまの人たちよりも動作がのろい。街行く人たちも,みんなゆったりと歩いている。そして,会話のテンポも遅い。たっぷりと間をとって会話をしている。家族の会話も,昔ながらの友人との会話も,せっかちではない。しかも,あまり多くを語らない。にもかかわらず,きちんと気持が通い合い,対話が成立している。どっしりとした,落ち着いた,人と人との信頼関係がここかしこから伝わってくる。これも「懐かしさ」の大きな要因のようだ。
もうひとつは,俳優たちの体型が,いまの人たちとはいささか違うようだ。そのもっとも大きな特徴は,男女を問わず,お尻が大きめだ。骨盤の幅といい,お尻まわりの筋肉の量といい,あのあたりの大きさがいまの人たちとはひとまわり違う。これは生活習慣からくる違いというべきか。
ひとつは,家のなかでの立ち居振る舞いからくるものなのだろうか。いわゆる椅子の生活ではない。だから,立ったり,座ったりを一日のうちに何回繰り返すことだろうか。これは相当に足腰を鍛える結果になっていたはず。だから,腰回り・お尻回りが頼もしい。
もうひとつの理由は,たぶん,歩く距離。つまり,歩行運動が多かったということ。いまのわたしたちに比べたら相当に長い距離を歩いていたはずだ。電車の路線もバス路線も,いまよりははるかに少なかった。その分,みんな,せっせと歩いていた。そういう記憶がわたしのからだにもしっかりと刻み込まれている。たとえば,靴がすぐに駄目になってしまって,あまり間をおくことなく何足も買わねばならなかった。いまでは,一足の靴が何年ももつ。
これは,ちょっと意外に思ったことだが,女性のおっぱいが外側を向いていることだ。当時はまったく気付かなかったが,この映画の途中から気になり,しっかりと確認してみたら,ほとんどの女性のおっぱいが,つまり,乳頭が外を向いている。おそらく,こんにちのようなブラジャーはしていなかったのだろう。それと女性の多くは和服を着ているのも面白いと思った。この和服を着ている女性は,明らかにブラジャーはしていないので,まぎれもなく乳頭は外を向いている。
いまでは,そんな女性をみることはまず少ない。みんなブラジャーできちんと整えられた美しい胸が演出されている。断然,こんにちの女性の方が美しいし,かっこいい。しかし,どこか人工的な,事物的で,自然な造作とは異なる「モノ」的なものを感じてしまうのは,わたしだけだろうか。こんなことも,わたしのなかに「懐かしさ」が沸き起こる一因になっているのがもしれない。もっと言ってしまえば,天下の女優さんとはいえ,わたしの母親のようなノー・ブラのままの体型に近い人たちが,まだまだ,この時代には主流をなしていたということだ。だから,なおいっそ懐かしい。
半世紀も前の映画は,発見することが多い。服装や町並みの景色や,電車や自動車も,いまとはまるで違う。まるでタイムスリップして,大昔にもどったような錯覚を起こす。この,たった50年という時間でしかないのに,大きく日本全体が変わってしまったことが,痛いほど伝わってくる。
考えてみれば,この映画が上映された4年後,つまり,1964年には,あの東京オリンピックが開催されたのだ。この4年間だけでも,新幹線が走り,首都高速道路ができ・・・という具合に東京そのものも大きく様変わりをしたのだ。だから,人間も大きく変化してしまった。でも,からだに刻み込まれた記憶はまだまだしっかりと残っている。だから,そこを刺激されると,古い記憶の層か活性化し,「懐かしさ」が呼び覚まされる。
こんな映画の鑑賞の仕方があった,とわれながら大きな驚きでもあった。
また,時間があったら,小津安二郎監督作品を,こんな眼で鑑賞してみたいと思う。もちろん,その他の作品でも,また,違った発見があるかもしれない。古い映画が,意外に面白い。
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