むかしから掃除は苦手。机上の整理も苦手。仕事の裁き方も苦手。最近はとくにはなはだしい。
苦手と言えば聞こえはいいが,なーに,ただ横着なだけ。そして,自分勝手なだけ。もっと言ってしまえばわがままなだけ。そのことは自分が一番よく知っているつもり。知っていることと,できるかできないかは別のこと。
官公庁の勤め人は昨日(27日)でことしの仕事納めだったらしい。新聞をみて,あっそうか,と思う。フリー・ワーカーにはその感覚はない。わたしの場合は,いつも,書けないままの原稿の締め切り日に怯えながら,暮れも正月もなしに,だらだらと日々を過ごす。急いで書いてしまえばいいものを・・・といつも書き終えたあとには思う。これも生来のわがまま・意志薄弱に起因する,悪しき習性。あとの祭り,後悔あるのみ。ただ,それだけ。わかっちゃいるけどやめられない。好きでやめられない晩酌と同じ。
いい歳をしてまだこんなことを言っている自分が恥ずかしい。それどころか,加齢とともに子ども返りをしていて,だんだん幼児のようにわがままになってくる。自分でもよくわかっているつもり。なにもかも我慢がきかなくなっている。堪え性が枯渇している。だから,すぐに怒る。ちかごろは怒る相手はもっぱらテレビ。とくに,ニュース番組。辺野古埋め立て容認だとッ! 靖国参拝を強行だとッ! 片っ端から吼えまくる。吼えたことは少し時間を空けて冷まし,できるだけ冷静になってからブログに書く。そうして,ほんの少しだけ昇華させて,バランスをとることにしている。そうしないとやってられない。
フリー・ワーカーには曜日は関係ない。だから,今日(28日)をことしの仕事収めと自分で勝手に決めて,大掃除にとりかかろう。と,まずは理性がそう指示する。とは言っても力仕事はもうできない。からだが言うことをきかない。だから,自分の身の回りの片づけだけ。それだけでも,じつはたいへんなのだ。ことしは築後30年が経過したマンションの部屋の中の給排水管の取り替え工事が行われたので,そのときに一時的に荷物を段ボール箱に入れて片づけた。応援部隊に手伝ってもらって。が,その段ボール箱がまだそのままになって残っている。だから,まだ,生活のペースがもとどおりにはなっていない。
冬の衣類もまだどれかの段ボール箱に入ったまま。早くみつけだしておかないと春がきてしまう。と,いくらかは焦りつつ,一向にからだは動かない。理性とこころとからだはますます別物になっていく。身心一元論なんて,最近は信じないことにしている。それどころか,理・心・身が,それぞれに好き勝手なことを要求してくる。その多くはみんな別方向を向いている。だから,いとも簡単に宙づり状態になる。だから,そのままなにもしないで,いや,なにもできないまま,悶々と時間をやりすごすことになる。というか,ぼーっと無為に時間をやりすごす。
こんなときに,ふと脳裏をよぎるのは「幕引き」。そうか,これからは加齢とともに,ますますこういう時間が増えてくるに違いない。父の晩年を思い出す。好きな散策からもどるとベッドに横になり,中空に向かって指で文字を書いている。どういう文字を書いているのか,と聞いてみる。頭に浮かんだ文字を書いている,という。しかし,よくみるとその指の動きは,何回も何回も同じだ。同じ文字が頭に浮かんでは消え,浮かんでは消え,を繰り返しているらしい。
ふと,存在と時間の関係はどうなっているのだろうか,と考えたことがある。いまや,そのように考えたわたしが,同じことを何回も何回も繰り返し考えている。考えているつもりでいる。しかし,実際にはなにも考えていないに等しい。なぜなら,いつまで経っても新しい考えは浮かんではこないのだから。同じ考えのままリングヴァンデルング(Ringwanderung )している。
そこには時間の観念は消えているので,あっという間に時間は過ぎ去っている。こうして,ことしも一年が過ぎ去ろうとしている。毎日,毎日,大掃除をしよう,しなければならない,と理性はいう。しかし,こころは今日はやめにして明日にしようと主張する。からだは完全に拒否反応をしめして,どうすれば楽ができるか,と主張する。
ああ,こうしてことしも暮れていく。
そんなことの繰り返し。そのインターバルがどんどん短くなっていく,というのが実感。
いよいよ幕引きのときが近づいてきたようだ。覚悟のほどはいいか,と自分に聞いてみる。いいんじゃないの,とぼんやりしたままの理性とこころとからだが答える。ここだけは一致する。それもまた不思議。
加齢とは?
サクセスフル・エイジングとは?
と考えてみる。こうしてことしも暮れていく。あと3日。
苦手と言えば聞こえはいいが,なーに,ただ横着なだけ。そして,自分勝手なだけ。もっと言ってしまえばわがままなだけ。そのことは自分が一番よく知っているつもり。知っていることと,できるかできないかは別のこと。
官公庁の勤め人は昨日(27日)でことしの仕事納めだったらしい。新聞をみて,あっそうか,と思う。フリー・ワーカーにはその感覚はない。わたしの場合は,いつも,書けないままの原稿の締め切り日に怯えながら,暮れも正月もなしに,だらだらと日々を過ごす。急いで書いてしまえばいいものを・・・といつも書き終えたあとには思う。これも生来のわがまま・意志薄弱に起因する,悪しき習性。あとの祭り,後悔あるのみ。ただ,それだけ。わかっちゃいるけどやめられない。好きでやめられない晩酌と同じ。
いい歳をしてまだこんなことを言っている自分が恥ずかしい。それどころか,加齢とともに子ども返りをしていて,だんだん幼児のようにわがままになってくる。自分でもよくわかっているつもり。なにもかも我慢がきかなくなっている。堪え性が枯渇している。だから,すぐに怒る。ちかごろは怒る相手はもっぱらテレビ。とくに,ニュース番組。辺野古埋め立て容認だとッ! 靖国参拝を強行だとッ! 片っ端から吼えまくる。吼えたことは少し時間を空けて冷まし,できるだけ冷静になってからブログに書く。そうして,ほんの少しだけ昇華させて,バランスをとることにしている。そうしないとやってられない。
フリー・ワーカーには曜日は関係ない。だから,今日(28日)をことしの仕事収めと自分で勝手に決めて,大掃除にとりかかろう。と,まずは理性がそう指示する。とは言っても力仕事はもうできない。からだが言うことをきかない。だから,自分の身の回りの片づけだけ。それだけでも,じつはたいへんなのだ。ことしは築後30年が経過したマンションの部屋の中の給排水管の取り替え工事が行われたので,そのときに一時的に荷物を段ボール箱に入れて片づけた。応援部隊に手伝ってもらって。が,その段ボール箱がまだそのままになって残っている。だから,まだ,生活のペースがもとどおりにはなっていない。
冬の衣類もまだどれかの段ボール箱に入ったまま。早くみつけだしておかないと春がきてしまう。と,いくらかは焦りつつ,一向にからだは動かない。理性とこころとからだはますます別物になっていく。身心一元論なんて,最近は信じないことにしている。それどころか,理・心・身が,それぞれに好き勝手なことを要求してくる。その多くはみんな別方向を向いている。だから,いとも簡単に宙づり状態になる。だから,そのままなにもしないで,いや,なにもできないまま,悶々と時間をやりすごすことになる。というか,ぼーっと無為に時間をやりすごす。
こんなときに,ふと脳裏をよぎるのは「幕引き」。そうか,これからは加齢とともに,ますますこういう時間が増えてくるに違いない。父の晩年を思い出す。好きな散策からもどるとベッドに横になり,中空に向かって指で文字を書いている。どういう文字を書いているのか,と聞いてみる。頭に浮かんだ文字を書いている,という。しかし,よくみるとその指の動きは,何回も何回も同じだ。同じ文字が頭に浮かんでは消え,浮かんでは消え,を繰り返しているらしい。
ふと,存在と時間の関係はどうなっているのだろうか,と考えたことがある。いまや,そのように考えたわたしが,同じことを何回も何回も繰り返し考えている。考えているつもりでいる。しかし,実際にはなにも考えていないに等しい。なぜなら,いつまで経っても新しい考えは浮かんではこないのだから。同じ考えのままリングヴァンデルング(Ringwanderung )している。
そこには時間の観念は消えているので,あっという間に時間は過ぎ去っている。こうして,ことしも一年が過ぎ去ろうとしている。毎日,毎日,大掃除をしよう,しなければならない,と理性はいう。しかし,こころは今日はやめにして明日にしようと主張する。からだは完全に拒否反応をしめして,どうすれば楽ができるか,と主張する。
ああ,こうしてことしも暮れていく。
そんなことの繰り返し。そのインターバルがどんどん短くなっていく,というのが実感。
いよいよ幕引きのときが近づいてきたようだ。覚悟のほどはいいか,と自分に聞いてみる。いいんじゃないの,とぼんやりしたままの理性とこころとからだが答える。ここだけは一致する。それもまた不思議。
加齢とは?
サクセスフル・エイジングとは?
と考えてみる。こうしてことしも暮れていく。あと3日。
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