「保健衛生」。このことば自体はなにも目新しいものではありません。ごくふつうに「保健衛生」,となにも考えないで,ごく当たり前のように使っています。しかし,N教授は,このことば,漢字をよくみてみなさい,とおっしゃる。わたしも言われるままにじっと見入ってみました。が,それがどうしたというのでしょうか,と訝しく思っていました。
が,N教授は,このことばを分解して,つぎのように説明してくれました。
「保健」とは,健を保つ。「健」とは健康のこと。つまり,健康を保つ。
「衛生」とは,生を衛る。「生」とは生活でもあり,生命でもある。つまり,命を衛る。
すなわち,健康を保ち,命を衛る。
これが「保健衛生」ということばの成り立ちであり,その意味です,と。
それだけなら,なるほど,で終わります。しかし,ここからがN教授の「医療思想史」のすごいところです。この「保健衛生」は,だれのためのものか,と問います。だれが,だれのために,そして,なんのために,このことばを編み出し,用いるようになったのか,と問います。わたしはスキを突かれたと気づき,あっ,と声を発していました。思い当たる節があったからです。
それは明治政府の文部大臣森有礼が打ち出した「富国強兵」策でした。教科書にも書かれていますように,かれの打ち出した「富国強兵策」はみんな知っていることです。国を富ますためには優れた労働者が,そして軍隊を強くするためには強い兵士が必要だ,とこれを日本近代の国民国家のスローガンにかかげたわけです。いかなる重労働にも耐えうる身体と意志をもった,よく働く労働者と,強い軍隊を支える身心ともに頑健な兵士を養成すること,これが日本近代の国民国家を支える国民を育成するための喫緊の課題でした。そのために,まずは日本国民の間に「保健衛生」という考え方を浸透させる必要がありました。
そこで,まずは,体操伝習所にアメリカのアモースト大学医学部を卒業したリーランド博士を招き,アモースト大学で行われていた身体測定や体力測定を取り入れ,一年間の発育・発達の実態を把握することになりました。やがて,この体操伝習所の卒業生たちが全国に散っていき,同じことを学校現場で児童・生徒たちを対象にして行うようになります。かくして,丈夫で健康なからだをもつことが日本国民としての美徳として高く評価されるようになります。
病気をしない丈夫なからだの持ち主,すなわち,健康であることが国民の理想として掲げられました。そうして,病気をしないための予防医学としての「衛生学」が,まずは広く知られるようになりました。手を洗いましょう。うがいをしましょう。歯を磨きましょう・・・・という具合にして衛生の考え方が国民の間に浸透していくことになります。こんにちのわたしたちもまた,外出から帰ると手を洗います。うがいをします。この慣習行動は明治以後にできたものです。それ以前の日本人はそんなことはしていませんでした。
かくして,「保健」(健康を保つ)と「衛生」(生活/生命を衛る)という概念がセットになって,ごく当たり前のように,なんの疑念もなく国民の間に理解されることになります。こんにちの学校の「保健体育」という教科の淵源はここにあります。健康を保ち,からだを育てるための知識と方法を教える教科の根拠はこの「保健衛生」という考え方からでてきます。
問題は,さきにも書きましたように,「保健衛生」も「保健体育」も,いったい,だれが,だれのために,そして,なんのために,ということを問う必要がある,とN教授は仰います。そして,この関係を丁寧に説明しながら,この考え方がじつは全体主義国家の根幹をなすものであることを,じゅんじゅんにに説いてくれます。その説得力のある論理に唖然としながら,ノートをとることさえ忘れてしまうほどでした。
それは,国民の身体が国家に絡め捕られていくプロセスであり,健康という美名のもとに国民の健康もまた国家の資産として確保されていく,そのプロセスのお話でした。
ここからはわたしの感想ですが,こんにちでは「健康管理学」という学問があり,体育学部の学生であれば必須科目になっているはずです。この「健康管理学」という表記もよくよく考えてみるとおかしなものにみえてきます。その点,「保健衛生学」はまだましな方です。健康を管理する学問とはいったいどういう学問なのか,と考えてしまいます。健康ということばの概念がまずは曖昧です。どこまでが健康であって,どこからは健康ではないのか,その境界線を引くことはほとんど不可能です。その健康を「管理」するというのです。だれが,なんのために?
この学問は,わたしの記憶に間違いがなければ,アメリカから日本に移入された学問です。つまり,キリスト教文化圏で生まれた学問です。それは「健康」という物品を「管理」するという,工場の製品管理と同じ発想です。つまり,健康を「モノ化」した発想です。国民の健康を「モノ」としてとらえる発想です。そこには,もはや,人間は存在しません。必要なのは,「健康な身体」だけです。それを,だれが,どのように利用しようというのか。母子手帳にはじまる国家による健康の「管理」に疑問をいだく人は,いまや,ほとんどいないことでしょう。
しかし,よくよく考えてみれば,なにゆえに国家によってわたしたち国民の健康が管理されなければならないのか,とても不思議です。ここには,だれかが国民の健康を必要としており,なにかの役に立てようとしている,という明確な意図が働いています。そこのところをN教授は,もっともっと注意深く考える必要がある,と説きます。その謎が解けてくれば,いま,わたしたちがどのような国家に生まれ,生きているのか,ということがはっきりしてくるという次第です。
N教授が「医療思想史」にこだわる理由が,わたしにも少しずつわかってきました。このあとの講義がいまから楽しみです。とりあえず,今日のところはここまで。
が,N教授は,このことばを分解して,つぎのように説明してくれました。
「保健」とは,健を保つ。「健」とは健康のこと。つまり,健康を保つ。
「衛生」とは,生を衛る。「生」とは生活でもあり,生命でもある。つまり,命を衛る。
すなわち,健康を保ち,命を衛る。
これが「保健衛生」ということばの成り立ちであり,その意味です,と。
それだけなら,なるほど,で終わります。しかし,ここからがN教授の「医療思想史」のすごいところです。この「保健衛生」は,だれのためのものか,と問います。だれが,だれのために,そして,なんのために,このことばを編み出し,用いるようになったのか,と問います。わたしはスキを突かれたと気づき,あっ,と声を発していました。思い当たる節があったからです。
それは明治政府の文部大臣森有礼が打ち出した「富国強兵」策でした。教科書にも書かれていますように,かれの打ち出した「富国強兵策」はみんな知っていることです。国を富ますためには優れた労働者が,そして軍隊を強くするためには強い兵士が必要だ,とこれを日本近代の国民国家のスローガンにかかげたわけです。いかなる重労働にも耐えうる身体と意志をもった,よく働く労働者と,強い軍隊を支える身心ともに頑健な兵士を養成すること,これが日本近代の国民国家を支える国民を育成するための喫緊の課題でした。そのために,まずは日本国民の間に「保健衛生」という考え方を浸透させる必要がありました。
そこで,まずは,体操伝習所にアメリカのアモースト大学医学部を卒業したリーランド博士を招き,アモースト大学で行われていた身体測定や体力測定を取り入れ,一年間の発育・発達の実態を把握することになりました。やがて,この体操伝習所の卒業生たちが全国に散っていき,同じことを学校現場で児童・生徒たちを対象にして行うようになります。かくして,丈夫で健康なからだをもつことが日本国民としての美徳として高く評価されるようになります。
病気をしない丈夫なからだの持ち主,すなわち,健康であることが国民の理想として掲げられました。そうして,病気をしないための予防医学としての「衛生学」が,まずは広く知られるようになりました。手を洗いましょう。うがいをしましょう。歯を磨きましょう・・・・という具合にして衛生の考え方が国民の間に浸透していくことになります。こんにちのわたしたちもまた,外出から帰ると手を洗います。うがいをします。この慣習行動は明治以後にできたものです。それ以前の日本人はそんなことはしていませんでした。
かくして,「保健」(健康を保つ)と「衛生」(生活/生命を衛る)という概念がセットになって,ごく当たり前のように,なんの疑念もなく国民の間に理解されることになります。こんにちの学校の「保健体育」という教科の淵源はここにあります。健康を保ち,からだを育てるための知識と方法を教える教科の根拠はこの「保健衛生」という考え方からでてきます。
問題は,さきにも書きましたように,「保健衛生」も「保健体育」も,いったい,だれが,だれのために,そして,なんのために,ということを問う必要がある,とN教授は仰います。そして,この関係を丁寧に説明しながら,この考え方がじつは全体主義国家の根幹をなすものであることを,じゅんじゅんにに説いてくれます。その説得力のある論理に唖然としながら,ノートをとることさえ忘れてしまうほどでした。
それは,国民の身体が国家に絡め捕られていくプロセスであり,健康という美名のもとに国民の健康もまた国家の資産として確保されていく,そのプロセスのお話でした。
ここからはわたしの感想ですが,こんにちでは「健康管理学」という学問があり,体育学部の学生であれば必須科目になっているはずです。この「健康管理学」という表記もよくよく考えてみるとおかしなものにみえてきます。その点,「保健衛生学」はまだましな方です。健康を管理する学問とはいったいどういう学問なのか,と考えてしまいます。健康ということばの概念がまずは曖昧です。どこまでが健康であって,どこからは健康ではないのか,その境界線を引くことはほとんど不可能です。その健康を「管理」するというのです。だれが,なんのために?
この学問は,わたしの記憶に間違いがなければ,アメリカから日本に移入された学問です。つまり,キリスト教文化圏で生まれた学問です。それは「健康」という物品を「管理」するという,工場の製品管理と同じ発想です。つまり,健康を「モノ化」した発想です。国民の健康を「モノ」としてとらえる発想です。そこには,もはや,人間は存在しません。必要なのは,「健康な身体」だけです。それを,だれが,どのように利用しようというのか。母子手帳にはじまる国家による健康の「管理」に疑問をいだく人は,いまや,ほとんどいないことでしょう。
しかし,よくよく考えてみれば,なにゆえに国家によってわたしたち国民の健康が管理されなければならないのか,とても不思議です。ここには,だれかが国民の健康を必要としており,なにかの役に立てようとしている,という明確な意図が働いています。そこのところをN教授は,もっともっと注意深く考える必要がある,と説きます。その謎が解けてくれば,いま,わたしたちがどのような国家に生まれ,生きているのか,ということがはっきりしてくるという次第です。
N教授が「医療思想史」にこだわる理由が,わたしにも少しずつわかってきました。このあとの講義がいまから楽しみです。とりあえず,今日のところはここまで。
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