かねてから,西谷さんにお会いするたびに,J.P.デュピュイの集大成ともいうべき本のお話を伺っていました。まもなく本になります,というお話も伺っていました。一緒に翻訳を担当されていた森元庸介さんからも,たぶん,1月中には出ると思います,と伺っていてとても楽しみにしていました。その予告どおり,1月20日ころには書店に並ぶそうです。
その見本が翻訳者には届いていて,西谷さんはご自分のブログで新刊を写真入りで紹介をされています。いつものように,この紹介文がまた抜群ですので,ぜひ,ご覧になってみてください。そこを読むだけでも一読に値します。そして,いつものように読む前になんだかわかったような気分にしてくれます。世にいう西谷マジック。原著者よりもわかりやすくその核心を紹介するマジシャン。ですから,わたしなどは,いつのまにやら,西谷さんの解説を読むのがなによりの楽しみになっています。すでに,読んだ本も,ときおり取り出してきて,「解説」のところを繰り返し読んだりしています。そして,頭の整理をしています。ありがたいことです。
今回の本も,きっと,そうするでしょう。まずは,西谷さんの「解説」から,と。
J.P.デュピュイの翻訳近刊の書名は以下のとおりです。
『聖なるものの刻印──科学的合理性はなぜ盲目なのか』(西谷修・森元庸介・渡名喜庸哲訳,以文社)です。西谷さんのブログにも書いてあることですが,原著の書名は『聖なるものの刻印』だけなのだそうですが,それではわかりにくいということでサブタイトルを捕捉したとのことです。それが「科学的合理性はなぜ盲目なのか」というわけです。このサブタイトルをみただけで,パッと明るくなったように思います。そうか,科学的合理性が盲目になってしまった理由・原因・根拠・道理・推理(英語でいえば,reason の一語)を明らかにしてくれる本なのだ,と納得です。
そういえば,先週金曜日の授業でも,懇切丁寧に,科学や科学技術が(授業の内容に則していえば,医療や医療技術が),みずからの働きの功罪について省みることを忘れ,ただ,ひたすら「役に立つ」(有用性・バタイユ)ことだけに向かって盲目的に猪突猛進していくのはなぜか,というお話をしてくださいました。それを,ざっくりまとめてしまいますと,以下のとおりです。
科学の盲目性の起源は,古代ギリシアにはじまり,ユダヤ・キリスト教の聖書(たとえば,『福音書』)にその根を求めることができ(たとえば,神が,泥をこねて人型をつくり,そこに息を吹きかけてできあがったものが人間・アダム),その考え方はデカルトの心身二元論に引き継がれ,カリレイの科学以後,眼に見える「もの」だけが研究の対象とされ,眼にみえないものは科学の対象から除外されてしまい,人間機械論を生み出し,ついに,ヘーゲルの『精神現象学』を経て「世界の終焉」を迎えることになる,という次第です。ヨーロッパ近代は,このヘーゲルの考え方に依拠して,さまざまな制度や組織を立ち上げ,近代文明を大きく前進させることになり,その延長線上に,現代の科学の「全能神話」が乗っかっている,という次第です。しかし,その現代の科学は,まさに,デュピュイのいう「盲目性」の上に成り立っている,というわけです。
おそらく,デュピュイは,このあたりのことを精細に描き出しているに違いありません。わたしの頭のなかはもうすっかりその気になっています。あとは,読んで確認するだけ・・・のような気分です。なぜなら,西谷さんのブログを読んだだけで,そういう気分にしてくれるからです。その西谷さんのブログの核心部分を紹介しておきますと,以下のとおりです。
「この本はあらゆるものが単位化され,数値化されて,その合理的計算がそのすべてを解決するといった,科学技術や経済学に共通の「合理性」が,じつは盲目の信仰に支えられているとう事態を説明し,人間の社会とはどのようにできていて,それが存続するのはどういうことなのかを,もう一度考えさせるたぐいのものなのだ。
それが喫緊の課題であるのは,科学技術にせよ経済成長にせよ政治的事象(たとえば,選挙)にせよ,そこに埋め込まれた盲目性が人間の世界を破局に追いつめていることが,いまや明らかだからだ。そんな袋小路のなかで,個々の事象がそれぞれの地域的偏差を伴いながら起こっている。」
このような解説を読みますと,原著のタイトル『聖なる刻印』が,なにを意味しているかがわかってきます。それは指摘するまでもなく「科学的合理性」です。しかも,それが「盲目性」の上に成り立っているという,まさに「聖なる刻印」だ,というわけです(これは,わたしの推測です。まだ,読んでもいない本を解説してしまうのですから,なんたる「暴力」)。
あとは,西谷さんのブログで確認してみてください。「西谷修」で検索すると「西谷修─Global Studies Laboratory 」という見出しがでてきますので,そこをクリックしてみてください。ストレートに西谷さんのブログに入っていくことができます。過去のブログもすべて読むことができます。それだけで,優に本一冊になるほどの分量があります。そして,なにより読みごたえがあります。どうぞ,存分に楽しんでみてください。
というところで今日のところはここまで。
その見本が翻訳者には届いていて,西谷さんはご自分のブログで新刊を写真入りで紹介をされています。いつものように,この紹介文がまた抜群ですので,ぜひ,ご覧になってみてください。そこを読むだけでも一読に値します。そして,いつものように読む前になんだかわかったような気分にしてくれます。世にいう西谷マジック。原著者よりもわかりやすくその核心を紹介するマジシャン。ですから,わたしなどは,いつのまにやら,西谷さんの解説を読むのがなによりの楽しみになっています。すでに,読んだ本も,ときおり取り出してきて,「解説」のところを繰り返し読んだりしています。そして,頭の整理をしています。ありがたいことです。
今回の本も,きっと,そうするでしょう。まずは,西谷さんの「解説」から,と。
J.P.デュピュイの翻訳近刊の書名は以下のとおりです。
『聖なるものの刻印──科学的合理性はなぜ盲目なのか』(西谷修・森元庸介・渡名喜庸哲訳,以文社)です。西谷さんのブログにも書いてあることですが,原著の書名は『聖なるものの刻印』だけなのだそうですが,それではわかりにくいということでサブタイトルを捕捉したとのことです。それが「科学的合理性はなぜ盲目なのか」というわけです。このサブタイトルをみただけで,パッと明るくなったように思います。そうか,科学的合理性が盲目になってしまった理由・原因・根拠・道理・推理(英語でいえば,reason の一語)を明らかにしてくれる本なのだ,と納得です。
そういえば,先週金曜日の授業でも,懇切丁寧に,科学や科学技術が(授業の内容に則していえば,医療や医療技術が),みずからの働きの功罪について省みることを忘れ,ただ,ひたすら「役に立つ」(有用性・バタイユ)ことだけに向かって盲目的に猪突猛進していくのはなぜか,というお話をしてくださいました。それを,ざっくりまとめてしまいますと,以下のとおりです。
科学の盲目性の起源は,古代ギリシアにはじまり,ユダヤ・キリスト教の聖書(たとえば,『福音書』)にその根を求めることができ(たとえば,神が,泥をこねて人型をつくり,そこに息を吹きかけてできあがったものが人間・アダム),その考え方はデカルトの心身二元論に引き継がれ,カリレイの科学以後,眼に見える「もの」だけが研究の対象とされ,眼にみえないものは科学の対象から除外されてしまい,人間機械論を生み出し,ついに,ヘーゲルの『精神現象学』を経て「世界の終焉」を迎えることになる,という次第です。ヨーロッパ近代は,このヘーゲルの考え方に依拠して,さまざまな制度や組織を立ち上げ,近代文明を大きく前進させることになり,その延長線上に,現代の科学の「全能神話」が乗っかっている,という次第です。しかし,その現代の科学は,まさに,デュピュイのいう「盲目性」の上に成り立っている,というわけです。
おそらく,デュピュイは,このあたりのことを精細に描き出しているに違いありません。わたしの頭のなかはもうすっかりその気になっています。あとは,読んで確認するだけ・・・のような気分です。なぜなら,西谷さんのブログを読んだだけで,そういう気分にしてくれるからです。その西谷さんのブログの核心部分を紹介しておきますと,以下のとおりです。
「この本はあらゆるものが単位化され,数値化されて,その合理的計算がそのすべてを解決するといった,科学技術や経済学に共通の「合理性」が,じつは盲目の信仰に支えられているとう事態を説明し,人間の社会とはどのようにできていて,それが存続するのはどういうことなのかを,もう一度考えさせるたぐいのものなのだ。
それが喫緊の課題であるのは,科学技術にせよ経済成長にせよ政治的事象(たとえば,選挙)にせよ,そこに埋め込まれた盲目性が人間の世界を破局に追いつめていることが,いまや明らかだからだ。そんな袋小路のなかで,個々の事象がそれぞれの地域的偏差を伴いながら起こっている。」
このような解説を読みますと,原著のタイトル『聖なる刻印』が,なにを意味しているかがわかってきます。それは指摘するまでもなく「科学的合理性」です。しかも,それが「盲目性」の上に成り立っているという,まさに「聖なる刻印」だ,というわけです(これは,わたしの推測です。まだ,読んでもいない本を解説してしまうのですから,なんたる「暴力」)。
あとは,西谷さんのブログで確認してみてください。「西谷修」で検索すると「西谷修─Global Studies Laboratory 」という見出しがでてきますので,そこをクリックしてみてください。ストレートに西谷さんのブログに入っていくことができます。過去のブログもすべて読むことができます。それだけで,優に本一冊になるほどの分量があります。そして,なにより読みごたえがあります。どうぞ,存分に楽しんでみてください。
というところで今日のところはここまで。
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