兼ねて西谷さんから予告されていた名著の翻訳『聖なるものの刻印』─科学的合理性はなぜ盲目なのか(ジャン=ピエール・デュピュイ著,西谷修,森元庸介,渡名喜庸哲訳,以文社,2014年1月刊)が届きました。わたしが出張にでた留守中のことでした。
帰宅してすぐに,あちこちめくりながら感触を楽しみました。待望の本がでたときのいつものわたしの仕種です。臭いを嗅いでみたり,帯のキャッチ・コピーとにらめっこをしたり,表紙の絵(西谷さんが大好きな宇佐美圭司さんの「ホリゾント・黙示 8つのフォーカス5」1994-95年,セゾン現代美術館蔵)を心ゆくまで眺めたり,それからゆっくりと目次の序章から順に見出しを追いながら全体のイメージをつくり,そして,最後に「なぜ本書を訳出するのか 訳者あとがきにかえて」(西谷修)を熟読玩味しました。これだけでもうすっかり読んだような気分になりますから,不思議です。
いつものことですが,「訳者あとがきに代えて」と題した西谷さんの「なぜ本書を訳出するのか」に圧倒されました。今回は,これまでの訳者解説に比べたら,とてもコンパクトに,しかし,きわめて凝縮された濃密な文章で仕上がっています。ですから,わたしは続けて2回,繰り返して読みました。一回目は,あちこち線を引いたり,◎や☆や△やのマークをつけたり,その瞬間にひらめいたことを書き込んだり,という具合に熟読玩味しました。本はみるみるうちに真っ黒になってしまいました。そして,二回目は,さっとスピードを挙げて読み流しました。すると,西谷さんが書いた文章の全体の構成もみえてきて,デュピュイ理解のために,ことばの隅々まで気配りがなされているのが,とてもよく伝わってきました。
それはさておき,この西谷さんの「訳者あとがきに代えて」を読みながら,最初に大きな文字で書き込みをしたのは「1000分の1秒の世界」ということばでした。断るまでもなく,スポーツの世界で起きている「狂気」であり,科学的合理性への「盲目」です。人間の眼では確認できない「1000分の1秒」をハイテクノロジーを駆使して計測し,優劣を区別するという「愚」に多くの人は気づいていません。そして,大相撲でいえば「ビデオ判定」が持ち込まれ,行司さんの判定よりも優先される,この「愚」に疑問をいだく人はほとんどいません。つまり,テクノロジーによる判定に,人間が「隷従」する姿が,いつのまにやら「当たり前」になっています。しかし,なぜ,そのような事態を迎えることになってしまったのか,という疑問に答えるべき言説が極端に不足しています。
こんなことをひらめかせてくれた西谷さんの「あとがきに代えて」の文章は以下のようです。
「・・・グローバルに拡張される技術・産業・経済システムが,発展途上国を巻き込んで資源開発・乱獲に拍車をかけ,各地の大気汚染を深刻化し,かつ際限なく求められる「経済成長」がそれをいっそう促進するといった事実をだれも否定することはできない。そのように資源収奪型の産業が経済の基軸になる一方で,経済成長の可能性がテクノロジーの発展を方向付け,核エネルギーやバイオ・ナノ・テクノロジーなど,人間は生き物としてのみずからがもはやコントロールできない技術を,科学的進歩という衣装に包んだ経済的可能性のために際限なく創り出している。だが,その技術的進化の効果は,人間の把握のキャパシティをみるかに超えており,その活用のために必要とれれる巨大で非人称的なシステムによって逆に人間はコントロールされるはめになっている。」
という具合です。こんな,瞠目すべき文章が随所に散りばめられていて,ジャン=ピエール・デュピュイの本書を理解する手助けをしてくれます。
こうした西谷さんの解説を熟読してから,読んだのは「いささか趣の違う第七章」でした。「森元が自由に訳したものをほぼそのまま生かして採用した」という章です。
第七章のタイトルは「わたしが死ぬとき,わたしたちの愛はまるでなかったことになる」──ヒッチコック『めまい』の主題による変奏,というものです。デュピュイがこの映画に初めて出会ったのが17歳。あまりの感動で3回ぶっ通しでつづけてみた,といいます。そして,つぎの週には全部で10回以上は見た,といいます。さらに,その後の50年で少なくとも50回は見た,と書いています。そして,みずからの思考の発端も,そして,その後の思考の展開も,すべてこの映画『めまい』の変奏に終始していた,と断言しています。
この章のタイトルもいささか変わっています。なんのことだろうか,と思いながら読んでいきますと,なるほどと納得します。「わたしたちの愛」は,「わたしが死ぬ」と「まるでなかったことになる」というのです。つまり,「愛」は「わたしたち」という複数で成立するものです。しかし,この「わたしたち」のうちの一人が死んでしまえば,その代わりをする人間がいくら完璧に近い「そっくりさん」であっても,それはもはや同じ「愛」ではありえない,だから,「まるでなかったことになる」という次第です。このことを,デュピュイのいう「形而上学」を駆使して,迷宮のような世界に導きながら,精細に論じていきます。つまり,未来が過去になったり,フィクションのなかのフィクショナルな部分のもつ意味の不思議を探ったりしながら,人間としての「破綻」の根拠を炙り出していきます。そして,そこからの救済の道を,ヴィくトール・フランクル(強制収容所経験をもつ精神科医)の処方のことばに見出していきます。
丁寧に読んでいくうちに,読んでいるわたし自身もいつのまにかフィクションのなかに引きずり込まれていくような不思議体験をしながら,過去と未来が交錯する時間性の形而上学というめくるめく世界に導かれていきます。読んでいるわたしまでが「めまい」を覚えてしまいます。そして,「無からなにかを創り出す」ことは無意味なことだ,という最後の落とし所に深く感動してしまいました。
さて,つぎは,西谷さんが担当したという序章から読み始めようと思っています。いまから,とても楽しみです。
帰宅してすぐに,あちこちめくりながら感触を楽しみました。待望の本がでたときのいつものわたしの仕種です。臭いを嗅いでみたり,帯のキャッチ・コピーとにらめっこをしたり,表紙の絵(西谷さんが大好きな宇佐美圭司さんの「ホリゾント・黙示 8つのフォーカス5」1994-95年,セゾン現代美術館蔵)を心ゆくまで眺めたり,それからゆっくりと目次の序章から順に見出しを追いながら全体のイメージをつくり,そして,最後に「なぜ本書を訳出するのか 訳者あとがきにかえて」(西谷修)を熟読玩味しました。これだけでもうすっかり読んだような気分になりますから,不思議です。
いつものことですが,「訳者あとがきに代えて」と題した西谷さんの「なぜ本書を訳出するのか」に圧倒されました。今回は,これまでの訳者解説に比べたら,とてもコンパクトに,しかし,きわめて凝縮された濃密な文章で仕上がっています。ですから,わたしは続けて2回,繰り返して読みました。一回目は,あちこち線を引いたり,◎や☆や△やのマークをつけたり,その瞬間にひらめいたことを書き込んだり,という具合に熟読玩味しました。本はみるみるうちに真っ黒になってしまいました。そして,二回目は,さっとスピードを挙げて読み流しました。すると,西谷さんが書いた文章の全体の構成もみえてきて,デュピュイ理解のために,ことばの隅々まで気配りがなされているのが,とてもよく伝わってきました。
それはさておき,この西谷さんの「訳者あとがきに代えて」を読みながら,最初に大きな文字で書き込みをしたのは「1000分の1秒の世界」ということばでした。断るまでもなく,スポーツの世界で起きている「狂気」であり,科学的合理性への「盲目」です。人間の眼では確認できない「1000分の1秒」をハイテクノロジーを駆使して計測し,優劣を区別するという「愚」に多くの人は気づいていません。そして,大相撲でいえば「ビデオ判定」が持ち込まれ,行司さんの判定よりも優先される,この「愚」に疑問をいだく人はほとんどいません。つまり,テクノロジーによる判定に,人間が「隷従」する姿が,いつのまにやら「当たり前」になっています。しかし,なぜ,そのような事態を迎えることになってしまったのか,という疑問に答えるべき言説が極端に不足しています。
こんなことをひらめかせてくれた西谷さんの「あとがきに代えて」の文章は以下のようです。
「・・・グローバルに拡張される技術・産業・経済システムが,発展途上国を巻き込んで資源開発・乱獲に拍車をかけ,各地の大気汚染を深刻化し,かつ際限なく求められる「経済成長」がそれをいっそう促進するといった事実をだれも否定することはできない。そのように資源収奪型の産業が経済の基軸になる一方で,経済成長の可能性がテクノロジーの発展を方向付け,核エネルギーやバイオ・ナノ・テクノロジーなど,人間は生き物としてのみずからがもはやコントロールできない技術を,科学的進歩という衣装に包んだ経済的可能性のために際限なく創り出している。だが,その技術的進化の効果は,人間の把握のキャパシティをみるかに超えており,その活用のために必要とれれる巨大で非人称的なシステムによって逆に人間はコントロールされるはめになっている。」
という具合です。こんな,瞠目すべき文章が随所に散りばめられていて,ジャン=ピエール・デュピュイの本書を理解する手助けをしてくれます。
こうした西谷さんの解説を熟読してから,読んだのは「いささか趣の違う第七章」でした。「森元が自由に訳したものをほぼそのまま生かして採用した」という章です。
第七章のタイトルは「わたしが死ぬとき,わたしたちの愛はまるでなかったことになる」──ヒッチコック『めまい』の主題による変奏,というものです。デュピュイがこの映画に初めて出会ったのが17歳。あまりの感動で3回ぶっ通しでつづけてみた,といいます。そして,つぎの週には全部で10回以上は見た,といいます。さらに,その後の50年で少なくとも50回は見た,と書いています。そして,みずからの思考の発端も,そして,その後の思考の展開も,すべてこの映画『めまい』の変奏に終始していた,と断言しています。
この章のタイトルもいささか変わっています。なんのことだろうか,と思いながら読んでいきますと,なるほどと納得します。「わたしたちの愛」は,「わたしが死ぬ」と「まるでなかったことになる」というのです。つまり,「愛」は「わたしたち」という複数で成立するものです。しかし,この「わたしたち」のうちの一人が死んでしまえば,その代わりをする人間がいくら完璧に近い「そっくりさん」であっても,それはもはや同じ「愛」ではありえない,だから,「まるでなかったことになる」という次第です。このことを,デュピュイのいう「形而上学」を駆使して,迷宮のような世界に導きながら,精細に論じていきます。つまり,未来が過去になったり,フィクションのなかのフィクショナルな部分のもつ意味の不思議を探ったりしながら,人間としての「破綻」の根拠を炙り出していきます。そして,そこからの救済の道を,ヴィくトール・フランクル(強制収容所経験をもつ精神科医)の処方のことばに見出していきます。
丁寧に読んでいくうちに,読んでいるわたし自身もいつのまにかフィクションのなかに引きずり込まれていくような不思議体験をしながら,過去と未来が交錯する時間性の形而上学というめくるめく世界に導かれていきます。読んでいるわたしまでが「めまい」を覚えてしまいます。そして,「無からなにかを創り出す」ことは無意味なことだ,という最後の落とし所に深く感動してしまいました。
さて,つぎは,西谷さんが担当したという序章から読み始めようと思っています。いまから,とても楽しみです。
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