『東京新聞』が「脱原発」路線を鮮明にしてから記事が生き生きとしてきて,一本筋の通った主張をするようになり,評判をとったのはよく知られているとおりです。その結果,購読者が増えつづけているという情報も流れ,ひところ話題になりました。わたしも長い間,愛読してきた「朝日」から「東京」に乗り換えました。このときのいきさつはかなり詳しく,このブログにも書きましたので,参照してみてください。
それからしばらくしたら,新聞紙がペラペラに薄くなりました。それは切り抜きをしていますので,すぐに気がつきました。そのときは,そうか,『東京新聞』はパルプ資源節約のために紙質を落として薄くしたんだ,偉いッ!とある種の感動がありました。経費も安上がりになる分,取材費に金をかけることができるなぁ,とエールを送りたい気分でした。よし,それでいいのだ,と。
それからまたしばらくしたら,新聞の広告欄から大手出版社の名が消えてしまいました。週刊誌はさすがに残っていますが・・・・。これはどう考えてみても奇怪しな話です。『東京新聞』の広告代は安いと聞いています。購読者数も増えています。ならば,広告を出す方は文句はないはずです。なのに,大手出版社は姿を消し,いまではあまり名前を聞いたことのない弱小出版社ばかりが広告を出しています。その結果,大手出版社がどんな新刊を出しているのか,その情報が入らなくなってしまいました。仕方がないので,できるだけ本屋さんに立ち寄って,新刊情報を手に入れるようにしています。
わたしは『週刊読書人』の定期購読者なので,いま話題の本や,書評などはそこからの情報が中心になっています。ですから,そんなに困ることはありません。インターネットにも,ブック情報はかなり豊富に出回っていますので,困りはしません。しかし,いままで新聞の広告から日常的に得ていた新刊情報は極端に少なくなってしまいました。
がしかし,最近になって,奇怪しな噂が耳に入るようになりました。広告収入が激減して,経営が危ないらしい,と。それも「脱原発」路線に対する報復らしい,と。だとしたら,その主犯はだれか?あるいは,その主犯たるグループはどういう人たちなのか。もう,賢明なる読者には説明する必要もないでしょう。このブログでも,何度も,何度も,取り上げてきたことですから。
とうとうここまできてしまったか,と情けないやら,口惜しいやら・・・・。世も末です。
「未来」はもはや「過去」になってしまった・・・というジャン=ピエール・デュピュイのことばが頭のなかで鳴り響いています。「破局」(カタストローフ)という「過去」が。「3・11」という「過去」が。
こうなったら,『東京新聞』は広告を当てにしない新聞づくりに路線変更をする以外にはないでしょう。いま,置かれている実態も,まさに,「いま」という時代を象徴するできごとに直面しているわけですので,そのまま記事にして報道したらどうでしょう。徹底して「脱原発」路線を押しとおしてみてはどうでしょう。読者は確実に増えると思います。
それでも経営が困難ならば,値上げをするしかないでしょう。場合によっては「寄付」を募ったらどうでしょう。ほんとうに「報道の自由」を守るためであるなら,それしか方法はない,ということになります。堂々と,ことの真相を報道しつづけるという姿勢を貫くためであるのなら,わたしは「値上げ」も「寄付」も大賛成です。
そうまでしても支援をしていかないと,わたしたちはますます「闇」の世界に放り込まれてしまうことになります。「特定秘密保護法」が施行されたら,国民に知られたら都合の悪い「真実」はすべて「秘密」。となると,そのさきはフィクションの世界を生きるしか方法はありません。
いや,もうすでに,ノン・フィクションを生きているつもりでも,それ自体がフィクションなのですから。となりますと,フィクションのなかに,もう一つのフィクションが生まれることになります。ああ,またまた,ジャン=ピエール・デュピュイが注目したヒッチコックの映画『めまい』の世界の「日本版」を彷彿とさせるような話になってきてしまいました。
やはり,ここからの思考を練り上げ,立ち上げるしか「方法」はないのでしょうか。しばらくは考えつづけたいと思います。
それからしばらくしたら,新聞紙がペラペラに薄くなりました。それは切り抜きをしていますので,すぐに気がつきました。そのときは,そうか,『東京新聞』はパルプ資源節約のために紙質を落として薄くしたんだ,偉いッ!とある種の感動がありました。経費も安上がりになる分,取材費に金をかけることができるなぁ,とエールを送りたい気分でした。よし,それでいいのだ,と。
それからまたしばらくしたら,新聞の広告欄から大手出版社の名が消えてしまいました。週刊誌はさすがに残っていますが・・・・。これはどう考えてみても奇怪しな話です。『東京新聞』の広告代は安いと聞いています。購読者数も増えています。ならば,広告を出す方は文句はないはずです。なのに,大手出版社は姿を消し,いまではあまり名前を聞いたことのない弱小出版社ばかりが広告を出しています。その結果,大手出版社がどんな新刊を出しているのか,その情報が入らなくなってしまいました。仕方がないので,できるだけ本屋さんに立ち寄って,新刊情報を手に入れるようにしています。
わたしは『週刊読書人』の定期購読者なので,いま話題の本や,書評などはそこからの情報が中心になっています。ですから,そんなに困ることはありません。インターネットにも,ブック情報はかなり豊富に出回っていますので,困りはしません。しかし,いままで新聞の広告から日常的に得ていた新刊情報は極端に少なくなってしまいました。
がしかし,最近になって,奇怪しな噂が耳に入るようになりました。広告収入が激減して,経営が危ないらしい,と。それも「脱原発」路線に対する報復らしい,と。だとしたら,その主犯はだれか?あるいは,その主犯たるグループはどういう人たちなのか。もう,賢明なる読者には説明する必要もないでしょう。このブログでも,何度も,何度も,取り上げてきたことですから。
とうとうここまできてしまったか,と情けないやら,口惜しいやら・・・・。世も末です。
「未来」はもはや「過去」になってしまった・・・というジャン=ピエール・デュピュイのことばが頭のなかで鳴り響いています。「破局」(カタストローフ)という「過去」が。「3・11」という「過去」が。
こうなったら,『東京新聞』は広告を当てにしない新聞づくりに路線変更をする以外にはないでしょう。いま,置かれている実態も,まさに,「いま」という時代を象徴するできごとに直面しているわけですので,そのまま記事にして報道したらどうでしょう。徹底して「脱原発」路線を押しとおしてみてはどうでしょう。読者は確実に増えると思います。
それでも経営が困難ならば,値上げをするしかないでしょう。場合によっては「寄付」を募ったらどうでしょう。ほんとうに「報道の自由」を守るためであるなら,それしか方法はない,ということになります。堂々と,ことの真相を報道しつづけるという姿勢を貫くためであるのなら,わたしは「値上げ」も「寄付」も大賛成です。
そうまでしても支援をしていかないと,わたしたちはますます「闇」の世界に放り込まれてしまうことになります。「特定秘密保護法」が施行されたら,国民に知られたら都合の悪い「真実」はすべて「秘密」。となると,そのさきはフィクションの世界を生きるしか方法はありません。
いや,もうすでに,ノン・フィクションを生きているつもりでも,それ自体がフィクションなのですから。となりますと,フィクションのなかに,もう一つのフィクションが生まれることになります。ああ,またまた,ジャン=ピエール・デュピュイが注目したヒッチコックの映画『めまい』の世界の「日本版」を彷彿とさせるような話になってきてしまいました。
やはり,ここからの思考を練り上げ,立ち上げるしか「方法」はないのでしょうか。しばらくは考えつづけたいと思います。
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