2014年1月23日木曜日

田中将大という商品・7年契約,161億円でヤンキースに。売買成立。

 たなかまさひろ。名前がいい。「まさひろ」と呼んでみる。いいなぁ,と自画自賛。なぜなら,わたしの名前も「まさひろ」。だから,とても他人事とは思えない。

 沖縄の比嘉酒造では「まさひろ」という銘柄の泡盛を製造・販売している。最近では,わたしの住んでいる溝の口でも「まさひろ」という泡盛が売られるようになったので,わたしも愛飲することができるようになった。これも,とても嬉しい。夏はロックで,冬はお湯割で。冬はからだが暖まって,わたしにはピッタリだ。

 泡盛の「まさひろ」は比嘉酒造の二代目社長の名前をとってつけたものだそうだ。身分証明書(まさひろという名前であることを立証するための)を持って工場を尋ねると,工場見学をさせてくれたあと,「おれもまさひろ」というラベルを張った泡盛がおみやげでもらえる。わたしは,なにを隠そう,その経験者である。

 泡盛は名前が「まさひろ」であれ,なんであれ,商品としてなんの違和感もない。しかし,同じ名前のスポーツ選手が「売買」されると,なんとも妙な気持になる。本人が希望しての「売買」だから,人身売買ではないが,どこかザラザラした感覚が残る。人間が「商品」として扱われ,実際に金銭の取り引きがなされるのだから。

 契約金は7年間で総額1億5千5百万ドル(約161億円=年平均約23億円)。気の遠くなるような金額である。25歳の若者が手にする金額とはとても思えない。契約が完了すれば,2千万ドル(約21億円)の譲渡金が,ヤンキースから楽天に支払われる,という。楽天は不本意ながら,本人の意思を尊重して「まさひろ」をヤンキースに売ったわけだ。楽天は,この売上金をもとに「まさひろ」の穴埋めとなる別の商品を探してきて,購入することになるのだろう。

 「たなかまさひろ」が,それだけの価値のある商品であることは,だれしも認めるところである。だから,売買が成立したわけだ。したがって,商取引上はなんの問題もない。

 しかし,どこか引っかかるものが残る。

 いまのご時世,人間の臓器ですら売買されたり(カズオ・イシグロの小説「わたしを離さないで」,など)する時代なのだから,なにも驚くには値しない。しかし,こんなことが当たり前になっていく現代社会とはいったいなんなのか,と考えてしまう。人間という生きものがたどりついた「傲慢」というか,「驕り」というか,それが野放しになっていることの不可解さ。

 わたしの思考は一直線にバタイユの『宗教の理論』に向かっていく。動物の世界から<横滑り>した人間は,新たに手にした<理性>を武器に,植物を栽培し,動物を飼育して,それらを自分たちの思うままに取り扱うことのできる「事物」(ショーズ)と化していく。ここからいろいろの問題が派生することになるのだが,ここでは詳しいことは飛ばしておく。

 そして,人間がもともと自然のままの存在であった植物や動物を栽培・飼育して,わがものとし,「事物」化したつもりでいたら,その「事物」化した植物や動物によって,こんどは,いつのまにか,人間も「事物」化されてしまうことになる。つまり,気づけば,栽培させられ,飼育させられている人間がそこに立ち現れる。ヘーゲルのいう「主人と奴隷」の逆転現象だ。

 人間が「事物」になってしまえば,あとは,商品になろうが,金融化されようが,自由自在だ。資本やマーケットの思うままに操作可能となる。そして,ついには人間の身体を切り売りする時代に入ってしまった。

 そのうち,商品「たなかまさひろ」の精子や遺伝子が(秘密裏に)売買されたり,細胞(iPS利用)も特別価格で売りに出されたりする日も遠くないだろう。そして,こんなことが,いまではなんの違和感もなく受け入れられる情況ができあがりつつある。

 そのなによりの証拠が,田中将大・7年契約・161億円,という情報が,ごくふつうに流されている,という現状をみれば明らかだ。

 スポーツは,人間が人間であるための最後の砦である,とわたしは長い間,考えてきた。しかし,その聖域もいつのまにか「マネー・ゲーム」のためのアリーナと化し(たとえば,オリンピック。昨年の『世界』11月号の拙稿を参照のこと),とうとうアスリートの身体にも魔の手が伸びてきて,徐々に蝕まれつつある。そして,今回の商品「たなかまさひろ」の売買は堂々たる商取引として,NHKのトップ・ニュースとして流されている。それを,みんな羨望のまなざしで眺めている。そして,大多数の人たちは「素晴らしいことだ」と感動さえしている。

 このようにして,生身の人間の身体が売買の対象となり,それが「習慣化」することにより,なんの違和感も感じない人間がつぎつぎに再生産されていく。言ってみれば,無意識のうちに市場原理に「隷従」することが「習慣」となってしまい(齋藤美奈子),それが日常となる。そこにはもはやなんの違和感も存在しなくなってしまう。ド・ラ・ボエシのいう「自発的隷従」の「からくり」のひとつがこんなところにも潜んでいる・・・・と考えると空恐ろしくなってくる。

 人間という,この摩訶不思議な「生きもの」について,いまこそ真っ正面から考え直さなくてはならない,その最後のチャンスなのだろう,としみじみ考える。このまま放置しておけば,そのあとに待つものは「破局」(カタストローフ)があるのみ。J.P.デュピュイ。

 ここからさきのことは,泡盛の「まさひろ」でも飲みながら,商品「たなかまさひろ」の売買について,本人「まさひろ」の鈍った頭脳を鞭打って,叱咤激励しながら,じっくり考えることにしよう。

 みなさんも,ぜひ一度,考えてみていただきたい。

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