東京都の子どもたちの間に「白血病」が急増している,という情報が密やかに流れています。わたしも複数の方から話を聞いて,いささか驚いています。なぜなら,いかにもありそうな話ですから。しかも,トップシークレットだそうな,というおまけつきです。やっぱり・・・そうなんだぁ,と頷いてしまいます。
寒中の真っ只中での「さぶーく」なる話で恐縮です。
わたしはひとりで,あれこれ想像しながら,ぶるぶるとふるえています。
いまも,フクシマでは放射能が飛び散っています。しかも,時折,報道される放射能の量が日増しに増え続けていることも事実です。そういえば,東京都内の放射線量の情報がすっかり流れなくなっています。NHKを筆頭にテレビはもとより,大手新聞社もそろって足並みを揃えて,自発的に流さなくなっているようです。いまから「特定秘密保護法」の予行練習でもしているのでしょうか。
ちょうどそんなとき,太極拳の兄妹弟子である柏木裕美(能面アーティスト)さんのブログを読んで,ふたたび考え込んでしまいました。そこにはつぎのようにありました。映画『100,000年後の安全』,無料公開中,と。公開日は2014/01/22~02/10まで。アドレスは以下のとおり。
http://www.uplink.co.jp/100000/2014/
北欧・フィンランドに建造された放射性廃棄物の最終処分施設「オンカロ」についてのドキュメンタリーです。柏木さんのブログを読んで,すぐに,この映画をみました。またまた,「さぶーく」なってふるえています。
いま,世界には少なくとも25万トン以上の放射性廃棄物が存在するといわれています。これらの放射性廃棄物が無害になるには最低でも100,000年を要するといわれています。この膨大な量になってしまった放射性廃棄物の最終処分施設を,どこに,どのようにして建造するか,どこの原発稼働国も頭を悩ませています。にもかかわらず,まだ,平然と稼働させつづけていることは,よく知られているとおりです。
そんな中で,北欧・フィンランドはいち早く最終処分施設「オンカロ」を建造して,少なくともフィンランドの産出した放射性廃棄物だけは地中深く封じ込めることにした,というわけです。フィンランドには18億年前にできた岩盤があります。そこに何本もの坑道を掘って,地下500mから600mのところに大都市がすっぽり納まるほどの空間を確保し,そこに放射性廃棄物を封じ込めようという計画です。自己完結型にすること,すなわち,維持管理不要のものをつくる,というのです。完成目標は2100年。
この最終処分施設「オンカロ」が完成すれば,フィンランドの放射性廃棄物の問題は解決するのか,というとそうではありません。18億年前にできた岩盤だからといって,もう大丈夫だ,ということにはならないのだそうです。10万年という歳月の間に,この地球がどのような変化をするかは,だれも予測できないというのです。しかも,これから何回も襲うであろう氷河期を通過して,生き延びるであろう新人類に,この「オンカロ」が危険な場所であることをどのようにして伝えたらよいのか,その方法もわからない,といいます。その他,あらゆる分野の専門家たちが智恵を出し合っても,解決不可能な問題は山ほどあるというのです。
ですから,この「オンカロ」の建造にしても,「不確実性のもとでの決定」にすぎず,「さきのことはわからない」・・・・そういう前提での,仮の最終処分施設にすぎない,というのです。
ひとくちに「10万年」と聞いても,その時間の長さがなにを意味しているのか,その実態は,わたしたちには想像もできません。が,この映画をとおして,徹底的に討論されている内容にじっと耳を傾けていると,ほとんど予測不可能な時間なのだ,ということがよくわかってきます。要するに「さきのことはわからない」というのが結論です。それでも,とりあえず,こういう最終処分施設を建造しておいて,つぎなる手段・方法を考えるしかない,というのです。
こういう,文明社会に生きている人間ならだれもが考えなくてはならない喫緊かつ最大のテーマ「100,000年後の安全」を扱った映画を,一般の映画館で上映できない,この国のあり方を思うにつけ情けなくなってしまいます。それほどに,わたしたちの眼にみえないところで「原子力ムラ」の圧力がかかっていたり,また,その権力に「自発的」に隷従したりする人たちが圧倒的多数を占めているということです。情けなくなって「涙」も出ません。
この映画はイデオロギー論争でもなんでもありません。放射性廃棄物の最終処理場「オンガロ」の建造にとりかかったものの,それでも解決できない問題が山積しているので,それをどう考えればいいのか,ということを問題提起しているだけです。
こういう映画をみてみますと,J.P.デュピュイのいう「破局論」が,一気に現実味を帯びてきます。昨日,紹介しました『聖なるものの刻印』──科学的合理性はなぜ盲目なのか,をそのまま指し示してくれる事例がこの映画です。
とりあえず,インターネット時代の第二のメディアが,その窮地をすくってくれています。ぜひ,みなさんも,1時間少々,この映画を鑑賞するための時間をつくってください。そして,どうすればいいのか,じっくり考えてみてください。
寒中の真っ只中での「さぶーく」なる話で恐縮です。
わたしはひとりで,あれこれ想像しながら,ぶるぶるとふるえています。
いまも,フクシマでは放射能が飛び散っています。しかも,時折,報道される放射能の量が日増しに増え続けていることも事実です。そういえば,東京都内の放射線量の情報がすっかり流れなくなっています。NHKを筆頭にテレビはもとより,大手新聞社もそろって足並みを揃えて,自発的に流さなくなっているようです。いまから「特定秘密保護法」の予行練習でもしているのでしょうか。
ちょうどそんなとき,太極拳の兄妹弟子である柏木裕美(能面アーティスト)さんのブログを読んで,ふたたび考え込んでしまいました。そこにはつぎのようにありました。映画『100,000年後の安全』,無料公開中,と。公開日は2014/01/22~02/10まで。アドレスは以下のとおり。
http://www.uplink.co.jp/100000/2014/
北欧・フィンランドに建造された放射性廃棄物の最終処分施設「オンカロ」についてのドキュメンタリーです。柏木さんのブログを読んで,すぐに,この映画をみました。またまた,「さぶーく」なってふるえています。
いま,世界には少なくとも25万トン以上の放射性廃棄物が存在するといわれています。これらの放射性廃棄物が無害になるには最低でも100,000年を要するといわれています。この膨大な量になってしまった放射性廃棄物の最終処分施設を,どこに,どのようにして建造するか,どこの原発稼働国も頭を悩ませています。にもかかわらず,まだ,平然と稼働させつづけていることは,よく知られているとおりです。
そんな中で,北欧・フィンランドはいち早く最終処分施設「オンカロ」を建造して,少なくともフィンランドの産出した放射性廃棄物だけは地中深く封じ込めることにした,というわけです。フィンランドには18億年前にできた岩盤があります。そこに何本もの坑道を掘って,地下500mから600mのところに大都市がすっぽり納まるほどの空間を確保し,そこに放射性廃棄物を封じ込めようという計画です。自己完結型にすること,すなわち,維持管理不要のものをつくる,というのです。完成目標は2100年。
この最終処分施設「オンカロ」が完成すれば,フィンランドの放射性廃棄物の問題は解決するのか,というとそうではありません。18億年前にできた岩盤だからといって,もう大丈夫だ,ということにはならないのだそうです。10万年という歳月の間に,この地球がどのような変化をするかは,だれも予測できないというのです。しかも,これから何回も襲うであろう氷河期を通過して,生き延びるであろう新人類に,この「オンカロ」が危険な場所であることをどのようにして伝えたらよいのか,その方法もわからない,といいます。その他,あらゆる分野の専門家たちが智恵を出し合っても,解決不可能な問題は山ほどあるというのです。
ですから,この「オンカロ」の建造にしても,「不確実性のもとでの決定」にすぎず,「さきのことはわからない」・・・・そういう前提での,仮の最終処分施設にすぎない,というのです。
ひとくちに「10万年」と聞いても,その時間の長さがなにを意味しているのか,その実態は,わたしたちには想像もできません。が,この映画をとおして,徹底的に討論されている内容にじっと耳を傾けていると,ほとんど予測不可能な時間なのだ,ということがよくわかってきます。要するに「さきのことはわからない」というのが結論です。それでも,とりあえず,こういう最終処分施設を建造しておいて,つぎなる手段・方法を考えるしかない,というのです。
こういう,文明社会に生きている人間ならだれもが考えなくてはならない喫緊かつ最大のテーマ「100,000年後の安全」を扱った映画を,一般の映画館で上映できない,この国のあり方を思うにつけ情けなくなってしまいます。それほどに,わたしたちの眼にみえないところで「原子力ムラ」の圧力がかかっていたり,また,その権力に「自発的」に隷従したりする人たちが圧倒的多数を占めているということです。情けなくなって「涙」も出ません。
この映画はイデオロギー論争でもなんでもありません。放射性廃棄物の最終処理場「オンガロ」の建造にとりかかったものの,それでも解決できない問題が山積しているので,それをどう考えればいいのか,ということを問題提起しているだけです。
こういう映画をみてみますと,J.P.デュピュイのいう「破局論」が,一気に現実味を帯びてきます。昨日,紹介しました『聖なるものの刻印』──科学的合理性はなぜ盲目なのか,をそのまま指し示してくれる事例がこの映画です。
とりあえず,インターネット時代の第二のメディアが,その窮地をすくってくれています。ぜひ,みなさんも,1時間少々,この映画を鑑賞するための時間をつくってください。そして,どうすればいいのか,じっくり考えてみてください。
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