昨日(17日)の毎日新聞の「余祿」に,ソチ・オリンピック開催三週間前の憂慮が,手際よくまとめられていた。たぶん,あの人(論説委員の一人)が書いたな,とわたしにはなんとなく伝わるものがあった。なかなかの勉強家で,わたしの知らないことも盛り込まれていて,ああ,なるほどと納得させられる内容になっていた。と同時に,ここはどうかと思われる大問題もあった。
まず,勉強になったのは,「スポンドフォロイ」(休戦を運ぶ人)というギリシャ語。「エケケイリア」(古代オリンピアの祭典競技を開催するための休戦)はよく知られていることばだが,「スポンドフォロイ」ということばは知らなかった。そういう使者が派遣されたということは知っていたが,その使者を表すことばまでは記憶していなかった。専門家の端くれとしてはいささか恥ずかしい。「余祿」の筆者は,冬季五輪が目前に迫ったソチの地に「休戦を運ぶ人」=「スポンドフォロイ」が一人もいない21世紀が情けない,と結んでいる。
その理由は,言うまでもなく,このところ連続して起きている爆破事件であり,それを力づくで抑え込もうとするロシア治安部隊による掃討作戦である。具体的な内容を「余祿」から引いておこう。
「昨年末,ボルゴグラードの駅やバスを狙った連続爆破テロ後も,自動車爆弾騒ぎなどが続くロシア南部である。犯行はイスラム過激派によるものと見られ,先日もロシア治安部隊の掃討作戦で7人の死者が出た。一方,過激派からも五輪妨害の声明が発せられている。」
つづけて,つぎのようにも書いている。
「五輪1カ月前の7日からは関係者以外のソチ立ち入りが厳しく規制され,住民も移動が制限された。また観客も個人情報を登録した観戦パスポートの所持が義務づけられる。市内には人口の1割にあたる治安要員が投入され,無人機や衛星が監視の目を光らせている。」
こうした異常な情況を「余祿」の筆者は,「ソチはまがまがしい暴力の影への対応に追われている」と集約している。こんにちの新聞などの記事の書き方としては,ごく普通の良識的な書き方であろう。しかも,毎日新聞という看板を背負って論説委員が書く「余祿」の文章としては,これで仕方がないのだろう。
と,一応の理解を示した上で,でも,それでいいのか,と問いたい。つまり「まがまがしい暴力」=「テロ」という図式化された思考が,マス・メディアをとおして無批判に繰り返されることの「暴力」に,どれだけ自覚的であるのか,と。このメディアの「暴力」は,当然のことながら,「ロシア治安部隊の掃討作戦」を正当化する,もう一つの「暴力」へと連鎖していく。そして,悪いのは「テロ」だというプロパガンダの一助と化すことになる。
「テロ」とは権力の側が勝手に名づけただけの話である。だから,「ロシア治安部隊」の行為こそ,とてつもない「テロ」行為だ,とイスラム過激派が主張するのも,対等の意味で「正当性」がある。つまり,「暴力」には,その立場こそ違え,一定の理由があるということだ。そこを無視して,一方的に相手を「テロ」呼ばわりすることは,権力者の驕りというものだろう。そこにマス・メディアが加担するのもまた大いなる驕りに便乗した「テロ」行為だ,と言わねばならない。
結論を急ごう。
このような「暴力」と「暴力」による対立抗争が,いま,ソチの冬季五輪開催をめぐって激しさを増している。それほどまでしても,なお,五輪を開催することにこだわるには理由がある。簡単に言っておけば,ロシア南部地方に深く根を下ろしているイスラム過激派を徹底的に弾圧・排除するための絶好の口実としてソチ冬季五輪が「利用」されていることが一つ。もう一つは「同性愛」問題から目を逸らすための,より過激な方法として選ばれたのが,ロシア治安部隊による掃討作戦の展開である。
こうなると,もはや,国際平和運動としてのオリンピック・ムーブメントという最大の看板は,どこかに吹き飛んでしまっている。だから,欧米各国のリーダーたちもまた,いろいろと理由をつけて,開会式への出席を拒否している。この事実をしっかりと見極めておくことが肝要である。
くどいようだが,東京五輪もまた,日本国として,それ以前にやらなければならないことが山積しているにもかかわらず,それに「蓋」をするための装置として,権力の「道具」と化しつつある。だから,わたしにとっては,ソチ冬季五輪も東京五輪も「他山の石以て玉を攻(おさ)むべし」にしてもらっては困るのである。一人の人間として。もっと言えば,生身の「生きもの」として。
まず,勉強になったのは,「スポンドフォロイ」(休戦を運ぶ人)というギリシャ語。「エケケイリア」(古代オリンピアの祭典競技を開催するための休戦)はよく知られていることばだが,「スポンドフォロイ」ということばは知らなかった。そういう使者が派遣されたということは知っていたが,その使者を表すことばまでは記憶していなかった。専門家の端くれとしてはいささか恥ずかしい。「余祿」の筆者は,冬季五輪が目前に迫ったソチの地に「休戦を運ぶ人」=「スポンドフォロイ」が一人もいない21世紀が情けない,と結んでいる。
その理由は,言うまでもなく,このところ連続して起きている爆破事件であり,それを力づくで抑え込もうとするロシア治安部隊による掃討作戦である。具体的な内容を「余祿」から引いておこう。
「昨年末,ボルゴグラードの駅やバスを狙った連続爆破テロ後も,自動車爆弾騒ぎなどが続くロシア南部である。犯行はイスラム過激派によるものと見られ,先日もロシア治安部隊の掃討作戦で7人の死者が出た。一方,過激派からも五輪妨害の声明が発せられている。」
つづけて,つぎのようにも書いている。
「五輪1カ月前の7日からは関係者以外のソチ立ち入りが厳しく規制され,住民も移動が制限された。また観客も個人情報を登録した観戦パスポートの所持が義務づけられる。市内には人口の1割にあたる治安要員が投入され,無人機や衛星が監視の目を光らせている。」
こうした異常な情況を「余祿」の筆者は,「ソチはまがまがしい暴力の影への対応に追われている」と集約している。こんにちの新聞などの記事の書き方としては,ごく普通の良識的な書き方であろう。しかも,毎日新聞という看板を背負って論説委員が書く「余祿」の文章としては,これで仕方がないのだろう。
と,一応の理解を示した上で,でも,それでいいのか,と問いたい。つまり「まがまがしい暴力」=「テロ」という図式化された思考が,マス・メディアをとおして無批判に繰り返されることの「暴力」に,どれだけ自覚的であるのか,と。このメディアの「暴力」は,当然のことながら,「ロシア治安部隊の掃討作戦」を正当化する,もう一つの「暴力」へと連鎖していく。そして,悪いのは「テロ」だというプロパガンダの一助と化すことになる。
「テロ」とは権力の側が勝手に名づけただけの話である。だから,「ロシア治安部隊」の行為こそ,とてつもない「テロ」行為だ,とイスラム過激派が主張するのも,対等の意味で「正当性」がある。つまり,「暴力」には,その立場こそ違え,一定の理由があるということだ。そこを無視して,一方的に相手を「テロ」呼ばわりすることは,権力者の驕りというものだろう。そこにマス・メディアが加担するのもまた大いなる驕りに便乗した「テロ」行為だ,と言わねばならない。
結論を急ごう。
このような「暴力」と「暴力」による対立抗争が,いま,ソチの冬季五輪開催をめぐって激しさを増している。それほどまでしても,なお,五輪を開催することにこだわるには理由がある。簡単に言っておけば,ロシア南部地方に深く根を下ろしているイスラム過激派を徹底的に弾圧・排除するための絶好の口実としてソチ冬季五輪が「利用」されていることが一つ。もう一つは「同性愛」問題から目を逸らすための,より過激な方法として選ばれたのが,ロシア治安部隊による掃討作戦の展開である。
こうなると,もはや,国際平和運動としてのオリンピック・ムーブメントという最大の看板は,どこかに吹き飛んでしまっている。だから,欧米各国のリーダーたちもまた,いろいろと理由をつけて,開会式への出席を拒否している。この事実をしっかりと見極めておくことが肝要である。
くどいようだが,東京五輪もまた,日本国として,それ以前にやらなければならないことが山積しているにもかかわらず,それに「蓋」をするための装置として,権力の「道具」と化しつつある。だから,わたしにとっては,ソチ冬季五輪も東京五輪も「他山の石以て玉を攻(おさ)むべし」にしてもらっては困るのである。一人の人間として。もっと言えば,生身の「生きもの」として。
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