2014年1月4日土曜日

無慈悲な「繰り上げスタート」。選手たちのこころをへし折る暴力装置。心情主義と効率主義の葛藤の露呈。

 箱根駅伝が終わってもなおその余韻に浸っている。それは単に楽しかったからということではない。箱根駅伝とは,だれのために,なんのために開催されているのか,ということを考える宝庫だからである。つまり,現代社会の諸矛盾がいっぱい詰め込まれた,きわめて優れた文化装置だから,ということだ。

 その典型的な事例が「繰り上げスタート」。この無慈悲なるルール。駅伝の精神をぶった切る,恐るべき装置。わたしには許せない。断じて許せない。だから,考える。

 トップとの差が「20分」を超えたところで,それ以下の遅れたチームに有無をいわさず「繰り上げスタート」を命じる制度。これは駅伝ではない。タスキが手渡せないということは,つまり,手紙が届かないということだ。手紙をもたずに走る選手とはいったいなんのために走っているのか。それはいったい何を意味しているのか。それは単なる「走る人」。走るロボット。そこには「こころ」がかよっていない。

 タスキをリレーするからこそ「駅伝」である。「繰り上げスタート」とは,この「駅伝」を否定することを意味している。ということは,箱根駅伝は,みずから自分の身体の一部を切り捨てる,という暴挙にでたということだ。つまり,みずからの意志で,半分ほど死に体にしてしまった,ということだ。

 聖火リレーを考えてみるがいい。オリンピアの聖地で,太陽光から火をいただいた「聖なる火」をリレーするからこその「聖火リレー」である。それが途中で消えてしまったら,それは,もはや「聖火リレー」とはいわない。0(ゼロ)からのやり直しが必要だ。

 詳しいことは忘れてしまったが,聖火リレーの途中で「聖火」が消えてしまったことがある。あわてて近くにいた役員らしき人が飛び出してきて,ライターで点火して,ふたたび走らせたシーンをテレビで見たことがある。あのあと運ばれていった「火」は「聖火」ではない。したがって,あの大会は「聖火」ではない「俗なる火」(=「ライターの火」)のもとでオリンピックが開催されたのだ。いろいろ話題になったが,「俗なる火」で押し切られてしまった。が,それは間違いだ。なぜなら,「聖火リレー」の精神をみずから否定してしまったのだから。

 箱根駅伝の「繰り上げスタート」なるものが,いつから始まったのか,精確には確認していないが,調べればすぐにわかる。そんなに古いことではない,と記憶している。が,こんな馬鹿げた制度を定めたことに「自己矛盾」を感じなかった,当時の競技役員たちの力不足を嘆かわしく思う。もちろん,その背景には,いろいろの事情があっただろうことも想像に難くない。

 その最大の理由をひとことで言ってしまえば,それは「経済的効率主義」だ。箱根駅伝がごときに,長時間にわたる道路の専用を許すのは「無駄」だ,という考え方。どこから,どのようにして,このような考え方が出てきたかはいまさら説明するまでもないだろう。

 ならば,箱根駅伝を縮小して,参加チームを少なくすればいい。それでも「20分」以上遅れたら,その時点で失格にすればいい。そういうルールをつくれば,残るのはほんのわずかな大学しかなくなるだろう。それは箱根駅伝を消滅させるシナリオでしかない,ということに気づくはずだ。

 そのことは熟知しているからこそ,その苦肉の策として編み出されたのが「繰り上げスタート」であろう。ことしは参加大学を23大学に増やした(なぜ,そうしたのか,そこには理由がある。が詳しくはまたいずれ)。だから,ますます「繰り上げスタート」が必要になった。上位チームとの力の差は歴然としていた。そのため,何回もカウントダウンをしなければならない場面が生まれた。

 可哀相な場面もあった。中継点に入ってきて,あと数秒あればタスキを渡すことができる二人のランナーが,ラストスパートをかけて飛び込んでくるその目の前で,無慈悲にも「繰り上げスタート」のピストルが鳴り響いた。ゴールしてきた選手たちは二人とも,タスキを握りしめたまま,崩れ落ちるようにして地に這った。なんという無惨なことを・・・。とわたしは憤った。そして,涙した。

 こういう「自己矛盾」「自己否定」に蓋をして,「経済的効率主義」に支配されている,というのが箱根駅伝の現実の姿とし浮かび上がってくる。この風景はどこぞの景色にそっくりそのままではないか。そう,原発だ。まるで詐欺のような「経済的効率主義」で塗り固められた原発だ。違うのは,原発はいま,すぐにでも廃炉に持ち込まなくてはならないが,駅伝は止める必要はまったくない,という点だけだ。

 したがって,駅伝に残された問題は,駅伝から生まれる感動を守ろうとする「心情主義」と,短時間で競技を管理・運営しようとする「経済的効率主義」との葛藤をどのように超克していくか,ということだろう。ここに叡知を結集しなくてはならない。

 以上,大づかみに箱根駅伝が抱える問題の所在だけを描きだしてみた。ここからさきは各論となって,もっともっと,さまざまな局面を捉えて,詳論を展開することが必要であろう。いな,ぜひとも,そういう分析をしていかなくてはならないだろう。

 結論:少なくとも選手たちのこころをへし折るようなルールは廃止しよう。

 まずは,とりあえずの問題提起まで。
 

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