「蘇我馬子,蝦夷,入鹿」という蘇我一族の三代にわたる名前を,はじめて教科書でみたとき,なにか妙な気分になりました。古代の日本人,それもエリートたちが,こんな妙な名前をもっていて,しかも,この名前にプライドをもっていたのだろうか,と。と同時に名字にも不思議なものを感じました。「蘇我」・・・「蘇るわれ」。わたしのイメージは,一度,死んだ人が命を吹き返す,蘇生する,というものでした。我が蘇生する・・・・なにかあるな,と。
のちになって,『古事記』のなかに,オオクニヌシの長男コトシロヌシが国譲りを承認したのちに,海に向かって駆け出し「宙返り」をして海に消えていった,という記述に接します。このことの意味がなんのことやら,長い間,わかりませんでした。しかし,この逸話を「コトシロヌシは国譲りを認めたあと,寝返って,相手のニニギノミコトの側についた」という記述に接し,ハッと虚をつかれたことがありました。それからしばらくして,「蘇我」とはこのコトシロヌシの寝返ったことの隠喩ではないか,と閃くことがありました。そうか,「蘇我」とは出雲のもう一つの顔なのか,と。
この仮説を立てて推理してみますと,いろいろのことが,わたしなりにすんなりと理解できるようになってきました。以下の推論は,その延長線上にあるものです。
馬子・・・「うまこ」。馬小屋で生まれたという伝承のあるイエス・キリスト。その伝承とあまりにも酷似している聖徳太子の出自。なにか,そこに謎が含まれているのではないか,と予感する。
蝦夷・・・「えみし」。文字通り,これは「えぞ」の読み替え。外来の人。よそ者のイメージ。どこか天皇家の本筋からはまったく別の存在であり,中央から排除しようという意図を感じ取ることができます。この時代にあっては,北方に住み,天皇にまつろわぬ人びとの代名詞でもありました。
入鹿・・・「いるか」。ことここにいたっては,もはや,意味不明。少なくとも,人間のイメージはない。しかも,動物にもいない。あるとすれば「海豚」(いるか)の当て字。だとすれば,入鹿は,人間と交信することができる海の哺乳類として,むかしから人間に近い存在。そのイメージでこの名を冠したとしたら・・・・。
この親子三代は,時代的には,推古天皇から斉明天皇にいたる女帝たちを支えていた一族だということになります。しかも,馬子を筆頭にその権力を乱用・悪用し,かずかずの悪事を重ねた,というレッテルが貼られています。しかし,この時期と,聖徳太子が素晴らしい政治を展開した,という伝承とはぴったりと重なる時期です。
しかも,近年になって,聖徳太子不在説が登場し,いまではこの説を否定する根拠が見当たらず,定説となりつつあります。この議論はいろいろに波紋を呼んでいますが,さらに,最近の議論では,聖徳太子を蘇我蝦夷に当てはめると,話の筋がすっきりする,というところにいたっています。これらの話は,本来ならば,もっと詳細に論ずる必要がありますが,ここではとりあえず,この程度にしておきます。
そんなことを考えていたら,つい最近になって『聖徳太子は天皇だった』(渡辺康則著,大空出版)という新聞広告に出会いました。そのコピーによると「万葉集に登場する軍王は斉明天皇の恋人であり,蘇我蝦夷であり,天皇だった。『万葉史観』が誘う日本書紀が隠蔽した事実とは?!」とあります。わたしは,これをみた瞬間に,やはりそうだったのか,となんの疑念もなくすんなりと納得してしまいました。
そして,不可解きわまりない「乙巳の乱」は,まぎれもなくクーデターだった,と。蘇我一族を抹殺・抹消するための,中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデターであった,と。
斉明天皇に仕えていた蘇我入鹿は,宮中で中大兄皇子に切りつけられ,殺されてしまいます。この知らせを聞いた父親の蝦夷は「もはやこれまで」と観念して,自害してしまいます。その上で,中大兄皇子は蘇我一族を皆殺しにしてしまいます。つまり,蘇我一族の血をひく者たちをすべて(女子どもの)抹殺してしまいます。これが「乙巳の乱」というわけです。
しかし,斉明天皇は中大兄皇子の母親です。しかも,入鹿の父親である蝦夷は斉明天皇の恋人であったとなれば,ことはそれほど単純ではなくなってきます。三代にわたる蘇我一族は相当に優秀な人物たちであったようで,素晴らしい業績を数多く残していて,絶大なる信頼をえていたように,わたしにはみえてきます。しかも,三代目の入鹿も若くしてその頭角を表していたようです。となると,中大兄皇子が,母親の斉明天皇のあとを引き継いで天皇になるチャンスはほとんどない,あるいは,大いに邪魔な存在である,と判断したとしても不思議ではありません。そこで,中臣鎌足と謀議を諮り,入鹿殺害に及んだ,というストーリーが浮上してきます。
この「乙巳の乱」が,そのまま事実として歴史に記録され,記憶として残されると困るのは,のちに天智天皇となる中大兄皇子です。ですから,蘇我一族の善政を,聖徳太子という架空の人物を創出し,この人物にすべてかぶせ,蘇我一族を悪者に仕立てあげる,という悪知恵が登場します。その仕掛け人が,藤原不比等です。
この藤原不比等もまた謎多き人物です。一説によれば,藤原不比等は天智天皇の子どもだとのこと。つまり,天智天皇が宮中に入れることのできない女性が身ごもったことを知り,この女性を中臣鎌足の妻として押しつけます。そして「生まれてきた子どもが女の子であったら,おれに返せ。もし,男の子であったら,お前の子どもとして育てろ」という密約があった,と。そうしたら男の子であった。だが,その子どもに中臣姓を名乗らせるのは忍びない,ということで鎌足に藤原姓を与え,中臣とは一線を画すことにしました。こうして中臣の血筋ではない,まったく新たな貴族・藤原不比等が誕生した,というわけです。
ですから,のちの持統天皇とは腹違いの姉弟であった,ということになります。天智天皇と天武天皇は斉明天皇の子どもで兄弟だ,ということになっていますが,この二人の関係もじつに複雑怪奇です。たとえば,天智天皇は自分の娘3人を天武天皇の妻にしています。そのうちの一人が持統天皇です。つまり,藤原不比等は,天智天皇を父に,天武天皇を叔父に,持統天皇とは腹違いの姉弟という関係の中で育ちます。しかし,天皇にはなれない系譜なので,もっぱら天皇を支援する側にまわります。そして,藤原不比等は自分の娘たちを天皇家に送り込む戦略にでます(ここにも面白い話が満載ですが割愛)。
かくして,藤原不比等は万世一系の天皇制を磐石なものにするために『日本書紀』の編纂にとりかかります。そのためには,なにがなんでも「乙巳の乱」を正当化する必要があります。そのために至りついたアイディアが「聖徳太子の創造」です。蘇我一族の善政をすべて聖徳太子の事跡として讃え,持ち上げておいて,あとは蘇我一族を悪者に仕立てあげればそれで万事OK,という空恐ろしい陰謀です。
しかし,この陰謀がもののみごとに成功し,藤原一族は権勢をほしいままにして繁栄をつづけます。そして,その流れはこんにちの天皇制護持にまでつながっています。
というところで,今日のところはここまでとします。このあとは,大化の改新と律令制の謎に迫ってみたいと思います。このアイディアはどこからでてくるのか,という問題です。では,その3.で。
のちになって,『古事記』のなかに,オオクニヌシの長男コトシロヌシが国譲りを承認したのちに,海に向かって駆け出し「宙返り」をして海に消えていった,という記述に接します。このことの意味がなんのことやら,長い間,わかりませんでした。しかし,この逸話を「コトシロヌシは国譲りを認めたあと,寝返って,相手のニニギノミコトの側についた」という記述に接し,ハッと虚をつかれたことがありました。それからしばらくして,「蘇我」とはこのコトシロヌシの寝返ったことの隠喩ではないか,と閃くことがありました。そうか,「蘇我」とは出雲のもう一つの顔なのか,と。
この仮説を立てて推理してみますと,いろいろのことが,わたしなりにすんなりと理解できるようになってきました。以下の推論は,その延長線上にあるものです。
馬子・・・「うまこ」。馬小屋で生まれたという伝承のあるイエス・キリスト。その伝承とあまりにも酷似している聖徳太子の出自。なにか,そこに謎が含まれているのではないか,と予感する。
蝦夷・・・「えみし」。文字通り,これは「えぞ」の読み替え。外来の人。よそ者のイメージ。どこか天皇家の本筋からはまったく別の存在であり,中央から排除しようという意図を感じ取ることができます。この時代にあっては,北方に住み,天皇にまつろわぬ人びとの代名詞でもありました。
入鹿・・・「いるか」。ことここにいたっては,もはや,意味不明。少なくとも,人間のイメージはない。しかも,動物にもいない。あるとすれば「海豚」(いるか)の当て字。だとすれば,入鹿は,人間と交信することができる海の哺乳類として,むかしから人間に近い存在。そのイメージでこの名を冠したとしたら・・・・。
この親子三代は,時代的には,推古天皇から斉明天皇にいたる女帝たちを支えていた一族だということになります。しかも,馬子を筆頭にその権力を乱用・悪用し,かずかずの悪事を重ねた,というレッテルが貼られています。しかし,この時期と,聖徳太子が素晴らしい政治を展開した,という伝承とはぴったりと重なる時期です。
しかも,近年になって,聖徳太子不在説が登場し,いまではこの説を否定する根拠が見当たらず,定説となりつつあります。この議論はいろいろに波紋を呼んでいますが,さらに,最近の議論では,聖徳太子を蘇我蝦夷に当てはめると,話の筋がすっきりする,というところにいたっています。これらの話は,本来ならば,もっと詳細に論ずる必要がありますが,ここではとりあえず,この程度にしておきます。
そんなことを考えていたら,つい最近になって『聖徳太子は天皇だった』(渡辺康則著,大空出版)という新聞広告に出会いました。そのコピーによると「万葉集に登場する軍王は斉明天皇の恋人であり,蘇我蝦夷であり,天皇だった。『万葉史観』が誘う日本書紀が隠蔽した事実とは?!」とあります。わたしは,これをみた瞬間に,やはりそうだったのか,となんの疑念もなくすんなりと納得してしまいました。
そして,不可解きわまりない「乙巳の乱」は,まぎれもなくクーデターだった,と。蘇我一族を抹殺・抹消するための,中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデターであった,と。
斉明天皇に仕えていた蘇我入鹿は,宮中で中大兄皇子に切りつけられ,殺されてしまいます。この知らせを聞いた父親の蝦夷は「もはやこれまで」と観念して,自害してしまいます。その上で,中大兄皇子は蘇我一族を皆殺しにしてしまいます。つまり,蘇我一族の血をひく者たちをすべて(女子どもの)抹殺してしまいます。これが「乙巳の乱」というわけです。
しかし,斉明天皇は中大兄皇子の母親です。しかも,入鹿の父親である蝦夷は斉明天皇の恋人であったとなれば,ことはそれほど単純ではなくなってきます。三代にわたる蘇我一族は相当に優秀な人物たちであったようで,素晴らしい業績を数多く残していて,絶大なる信頼をえていたように,わたしにはみえてきます。しかも,三代目の入鹿も若くしてその頭角を表していたようです。となると,中大兄皇子が,母親の斉明天皇のあとを引き継いで天皇になるチャンスはほとんどない,あるいは,大いに邪魔な存在である,と判断したとしても不思議ではありません。そこで,中臣鎌足と謀議を諮り,入鹿殺害に及んだ,というストーリーが浮上してきます。
この「乙巳の乱」が,そのまま事実として歴史に記録され,記憶として残されると困るのは,のちに天智天皇となる中大兄皇子です。ですから,蘇我一族の善政を,聖徳太子という架空の人物を創出し,この人物にすべてかぶせ,蘇我一族を悪者に仕立てあげる,という悪知恵が登場します。その仕掛け人が,藤原不比等です。
この藤原不比等もまた謎多き人物です。一説によれば,藤原不比等は天智天皇の子どもだとのこと。つまり,天智天皇が宮中に入れることのできない女性が身ごもったことを知り,この女性を中臣鎌足の妻として押しつけます。そして「生まれてきた子どもが女の子であったら,おれに返せ。もし,男の子であったら,お前の子どもとして育てろ」という密約があった,と。そうしたら男の子であった。だが,その子どもに中臣姓を名乗らせるのは忍びない,ということで鎌足に藤原姓を与え,中臣とは一線を画すことにしました。こうして中臣の血筋ではない,まったく新たな貴族・藤原不比等が誕生した,というわけです。
ですから,のちの持統天皇とは腹違いの姉弟であった,ということになります。天智天皇と天武天皇は斉明天皇の子どもで兄弟だ,ということになっていますが,この二人の関係もじつに複雑怪奇です。たとえば,天智天皇は自分の娘3人を天武天皇の妻にしています。そのうちの一人が持統天皇です。つまり,藤原不比等は,天智天皇を父に,天武天皇を叔父に,持統天皇とは腹違いの姉弟という関係の中で育ちます。しかし,天皇にはなれない系譜なので,もっぱら天皇を支援する側にまわります。そして,藤原不比等は自分の娘たちを天皇家に送り込む戦略にでます(ここにも面白い話が満載ですが割愛)。
かくして,藤原不比等は万世一系の天皇制を磐石なものにするために『日本書紀』の編纂にとりかかります。そのためには,なにがなんでも「乙巳の乱」を正当化する必要があります。そのために至りついたアイディアが「聖徳太子の創造」です。蘇我一族の善政をすべて聖徳太子の事跡として讃え,持ち上げておいて,あとは蘇我一族を悪者に仕立てあげればそれで万事OK,という空恐ろしい陰謀です。
しかし,この陰謀がもののみごとに成功し,藤原一族は権勢をほしいままにして繁栄をつづけます。そして,その流れはこんにちの天皇制護持にまでつながっています。
というところで,今日のところはここまでとします。このあとは,大化の改新と律令制の謎に迫ってみたいと思います。このアイディアはどこからでてくるのか,という問題です。では,その3.で。
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