戸沼智貴さんはわたしの友人です。みずから「義足の殺陣師」を名乗り,全国を股にかけて指導に歩き,その一方でNPO法人の仕事にも力を注ぎ,最近では,内閣府の仕事を引き受けてイギリスに出張したり,と多方面で活躍される超多忙人間です。
そのかれが,最近のFBでとても魅力的な発言をしています。その一つが,見出しに書いたように「わたしは障害者ではありません。サイボーグ人間です」という発言です。それともう一つは日本語の障害者ということばの代わりに「disoppotunity」ということばにしよう,という提言です。
わたしはこの戸沼さんのFBのことばに触れて,ハッと虚を突かれた思いに襲われました。なぜなら,わたしの意識の中では,戸沼さんは左足が義足である,という単純な理由で「障害者」の人と思い込んでいたからです。でも,ご本人にお会いするとそんな意識はまったくなく,また,感じさせもしない,ごくふつうの人です。なのに,わたしは勝手に仕分けをしていたというわけです。ですから,上記のようなことばに触れたとき,とても恥ずかしい思いがしました。
じつは,わたしも「障害者」ということばは嫌いで,もっと適切なことばはないものか,と考えていました。なぜなら,そのむかし,特殊教育ということばが教育学で用いられていましたが,あまりに酷いということでそれに代わって障害教育(障害者教育,障害児教育)ということばが公用語として用いられるようになりました。多くの人がこれで問題が解決したと受け止めたようですが,わたしには抵抗がありました。「特殊」を「障害」に置き換えただけのことであって,ことの本質はなにも変わってはいません。
それになによりも,「障害児」とか「障害者」ということばの概念がはっきりしません。「健康」ということばの定義がほとんど不可能なように(どこまでが健康で,どこからさきが健康ではないのか,その境界線は引けない),「障害児」「障害者」ということばの定義も釈然としません。つまり,「障害」であるかないかの境界線を引くことはできないからです。
嘘ばっかりついて平気な人(虚言癖・情緒障害),嘘を言っていることにも気がつかない人(無知・知的障害),他人の話を真っ正面から聞き取ることのできない人(無意識的聾者・身体障害),金と命のどちらが大切かがわからない人(金の亡者・守銭奴・価値障害),などなど・・・,こんな人は世の中にはざらにいます。とくに,政治家は酷いものです。とりわけ,いま,その筆頭に立つ人物は重篤な障害者以外のなにものでもありません。緊急入院して治療をする必要があります。しかし,こんな人が野放しになっていて,日本丸沈没に向かってまっしぐらです。でも,この人を「障害者」であるとは,だれも言いません。つまり,障害があるとも,障害はないとも,どちらとも言えないグレイ・ゾーンが無限に広がっていて,そこでのうのうと生きている,ということです。ということは,ほとんどの人間が「障害」と共に生きているということを意味します。この自覚が,いわゆる健常者には欠けています。
いささか脱線してしまいましたが,こんなことをSMSを用いて書くわたしは,そのうち手にお縄を頂戴することになる可能性大だということもついでに書いておきましょう。なぜなら,ことばの正しい意味での「障害者」が議会で多数を占め,自分たちにとって都合の悪い人間をつぎつぎに摘発できる法律を連発しているからです。もう,すでに,ほんとうのことは言ってはいけない社会になってしまっているのですから・・・。
さて,本題の戸沼智貴さんの話にもどします。
もっとも注目したい戸沼さんの「disoppotunity 」論です。10月31日のFBで,つぎのように主張していらっしゃいます。少し長いですが,大事な部分たけは引用しておきたいと思います。
まず最初に,日本語の障害者に相当する英語表記を,つぎのように整理していらっしゃいます。
people wity disability/challenged people/disabled person/handicapped people・・・と。
そして,これらの英語表記も,どれをとってもいま一つ釈然としない,とした上で以下のように主張されています。
そもそも障害者と健常者の境目はなんでしょう?
私にはよく分かりません。
障害があるから社会参加が出来ないんじゃない。
社会参加する≪機会(oppotunity)≫や,可能性をみつける≪機会(oppotunity)≫かあまり無いのが問題なのです。
そこで,新しい言葉,新しい定義として
「people with disability」では無く,
「people with disoppotunity」
を日本から世界に向けて提案します。
日本語にすると,「機会(oppotunity)に恵まれない(dis)人」,「機会(oppotunity)を迫害(dis)されている人」といった訳になるでしょうか?
この時点で,障害も,高齢も,子どもも,不登校も,ニートも,一般も,全ての人に当てはまる「言葉」になると思います。
≪機会/キッカケ≫が目の前に与えられれば,
そこに選択の自由が与えられます。
やるのも,やらないのもその人の自由。
つまり,自主的な自己決定につながります。
「障害者をサポート」「高齢者をサポート」「ニートをサポート」といわれると,「専門的知識も無いし・・・」などと気後れする人は多く居るでしょう。
しかし,その人に「選択する≪機会(oppotunity)≫を一緒に作りませんか」といわれれば,
≪機会(oppotunity)≫を作るだけなら私でも出来そう,と思えるかもしれません。。。
自分が変われば,世界は変わる。
ぜひ,この生まれたての赤ん坊〔disoppotunity〕を
成人式まで,みんなで育ててみませんか?
なんとみごとな提言ではありませんか。戸沼さんはこの内容のものを内閣府への報告書として11月中にまとめて提出するといいます。ぜひ,読んでみたいものだと思います。
そして,さらに,戸沼さんはこの disoppotunity にぴったりの日本語訳を募集しています。それを,これまでの「障害者」ということばに替えて,広めたいという意向です。わたしもなんとか工夫をして,応募してみたいと思っています。
適材適所で役割分担をしていく社会を拡大していくこと,そうして,あらゆる人に社会参加の機会(oppotunity)を提供できる社会をつくること,そういう時代を早く迎えられるようにするためにはわたしたち一人ひとりの意識変革が必要です。戸沼さんのおっしゃるように「自分が変われば,世界は変わる」,この精神で取り組むこと。口でいうのは簡単ですが,実行するとなるとなかなか大変です。でも,その壁を超えないことには,なにも始まりません。
近日中に戸沼さんにお会いして,とっぷりとお話を伺いたいものだと思っています。とりあえずは,直訳の「被奪機会者」(disoppotunity )ということばを俎上に乗せて。
そのかれが,最近のFBでとても魅力的な発言をしています。その一つが,見出しに書いたように「わたしは障害者ではありません。サイボーグ人間です」という発言です。それともう一つは日本語の障害者ということばの代わりに「disoppotunity」ということばにしよう,という提言です。
わたしはこの戸沼さんのFBのことばに触れて,ハッと虚を突かれた思いに襲われました。なぜなら,わたしの意識の中では,戸沼さんは左足が義足である,という単純な理由で「障害者」の人と思い込んでいたからです。でも,ご本人にお会いするとそんな意識はまったくなく,また,感じさせもしない,ごくふつうの人です。なのに,わたしは勝手に仕分けをしていたというわけです。ですから,上記のようなことばに触れたとき,とても恥ずかしい思いがしました。
じつは,わたしも「障害者」ということばは嫌いで,もっと適切なことばはないものか,と考えていました。なぜなら,そのむかし,特殊教育ということばが教育学で用いられていましたが,あまりに酷いということでそれに代わって障害教育(障害者教育,障害児教育)ということばが公用語として用いられるようになりました。多くの人がこれで問題が解決したと受け止めたようですが,わたしには抵抗がありました。「特殊」を「障害」に置き換えただけのことであって,ことの本質はなにも変わってはいません。
それになによりも,「障害児」とか「障害者」ということばの概念がはっきりしません。「健康」ということばの定義がほとんど不可能なように(どこまでが健康で,どこからさきが健康ではないのか,その境界線は引けない),「障害児」「障害者」ということばの定義も釈然としません。つまり,「障害」であるかないかの境界線を引くことはできないからです。
嘘ばっかりついて平気な人(虚言癖・情緒障害),嘘を言っていることにも気がつかない人(無知・知的障害),他人の話を真っ正面から聞き取ることのできない人(無意識的聾者・身体障害),金と命のどちらが大切かがわからない人(金の亡者・守銭奴・価値障害),などなど・・・,こんな人は世の中にはざらにいます。とくに,政治家は酷いものです。とりわけ,いま,その筆頭に立つ人物は重篤な障害者以外のなにものでもありません。緊急入院して治療をする必要があります。しかし,こんな人が野放しになっていて,日本丸沈没に向かってまっしぐらです。でも,この人を「障害者」であるとは,だれも言いません。つまり,障害があるとも,障害はないとも,どちらとも言えないグレイ・ゾーンが無限に広がっていて,そこでのうのうと生きている,ということです。ということは,ほとんどの人間が「障害」と共に生きているということを意味します。この自覚が,いわゆる健常者には欠けています。
いささか脱線してしまいましたが,こんなことをSMSを用いて書くわたしは,そのうち手にお縄を頂戴することになる可能性大だということもついでに書いておきましょう。なぜなら,ことばの正しい意味での「障害者」が議会で多数を占め,自分たちにとって都合の悪い人間をつぎつぎに摘発できる法律を連発しているからです。もう,すでに,ほんとうのことは言ってはいけない社会になってしまっているのですから・・・。
さて,本題の戸沼智貴さんの話にもどします。
もっとも注目したい戸沼さんの「disoppotunity 」論です。10月31日のFBで,つぎのように主張していらっしゃいます。少し長いですが,大事な部分たけは引用しておきたいと思います。
まず最初に,日本語の障害者に相当する英語表記を,つぎのように整理していらっしゃいます。
people wity disability/challenged people/disabled person/handicapped people・・・と。
そして,これらの英語表記も,どれをとってもいま一つ釈然としない,とした上で以下のように主張されています。
そもそも障害者と健常者の境目はなんでしょう?
私にはよく分かりません。
障害があるから社会参加が出来ないんじゃない。
社会参加する≪機会(oppotunity)≫や,可能性をみつける≪機会(oppotunity)≫かあまり無いのが問題なのです。
そこで,新しい言葉,新しい定義として
「people with disability」では無く,
「people with disoppotunity」
を日本から世界に向けて提案します。
日本語にすると,「機会(oppotunity)に恵まれない(dis)人」,「機会(oppotunity)を迫害(dis)されている人」といった訳になるでしょうか?
この時点で,障害も,高齢も,子どもも,不登校も,ニートも,一般も,全ての人に当てはまる「言葉」になると思います。
≪機会/キッカケ≫が目の前に与えられれば,
そこに選択の自由が与えられます。
やるのも,やらないのもその人の自由。
つまり,自主的な自己決定につながります。
「障害者をサポート」「高齢者をサポート」「ニートをサポート」といわれると,「専門的知識も無いし・・・」などと気後れする人は多く居るでしょう。
しかし,その人に「選択する≪機会(oppotunity)≫を一緒に作りませんか」といわれれば,
≪機会(oppotunity)≫を作るだけなら私でも出来そう,と思えるかもしれません。。。
自分が変われば,世界は変わる。
ぜひ,この生まれたての赤ん坊〔disoppotunity〕を
成人式まで,みんなで育ててみませんか?
なんとみごとな提言ではありませんか。戸沼さんはこの内容のものを内閣府への報告書として11月中にまとめて提出するといいます。ぜひ,読んでみたいものだと思います。
そして,さらに,戸沼さんはこの disoppotunity にぴったりの日本語訳を募集しています。それを,これまでの「障害者」ということばに替えて,広めたいという意向です。わたしもなんとか工夫をして,応募してみたいと思っています。
適材適所で役割分担をしていく社会を拡大していくこと,そうして,あらゆる人に社会参加の機会(oppotunity)を提供できる社会をつくること,そういう時代を早く迎えられるようにするためにはわたしたち一人ひとりの意識変革が必要です。戸沼さんのおっしゃるように「自分が変われば,世界は変わる」,この精神で取り組むこと。口でいうのは簡単ですが,実行するとなるとなかなか大変です。でも,その壁を超えないことには,なにも始まりません。
近日中に戸沼さんにお会いして,とっぷりとお話を伺いたいものだと思っています。とりあえずは,直訳の「被奪機会者」(disoppotunity )ということばを俎上に乗せて。
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