『文学界』に掲載されたときに,爆発的にヒットし,話題となり,とうとう何回にもわたって雑誌が増刷されたという話題作が単行本になりました。それも,もう,しばらく前のことで,そのころとても忙しくしていたために,とりあえず本だけ買っておきました。ようやく,一区切りついたので,つぎの仕事までの間を縫うようにして,大急ぎで読みました。
又吉直樹。お笑い芸人。この名前は知りませんでしたが,テレビで確認してみましたら,あの顔は覚えていました。あっ,そうか,あの男だったのか,と。一度,みたら忘れない個性的な顔であり,立ち居振る舞いです。長髪を真ん中で分けて両側に垂らし,ギャグを連発するだけの瞬発力もなく,どこか寂しげにお笑い芸人の中に溶け込んでいる男。わたしは,まだ,かれの漫才を聞いたことがありません。いったい,どんな漫才をやるのだろうか,とこの小説を読んで興味をもつようになりました。そうすれば,この小説のなかに隠された秘密のようなものが,もう少し,わかるのではないか,とおもいます。
といいますのは,この小説の主人公は明らかに著者自身を想定していると考えられるからです。じつに冷めた眼で世の中を受け止めていますし,人物観察もそのままです。逆に,そういう人物がお笑い芸人を目指したことの方が不思議でもあります。が,この小説を読んでみますと,お笑い芸人の「ふところ」の深さをしみじみと感じないではいられません。人を笑わせるためなら,なんでもする,その覚悟のようなものを,ひしひしと感じさせられる,そういう説得力をもった小説になっています。
わたしは明石家さんまのファンで,食事どきにテレビに登場する番組は,欠かさずみるようにしています。かれがつねづね口にする,お笑いの現場は「戦場」なのだ,というセリフは有名です。だから,だれよりも早く相手を「笑い」で打ち倒す,そういう格闘技のようなものなのだ,とかれはいう。したがって,間髪を入れずギャグを連発して,あらゆる人を笑いの渦のなかに巻き込まなくてはならない,とかれは主張します。ですから,かれのパフォーマンスをみていると,それはそれは恐ろしいまでの「芸」の深さに感動してしまいます。
この小説のなかにも,つぎのようなセリフが登場します。
「漫才は・・・・本物の阿呆と自分は真っ当であると信じている阿呆によってのみ実現できるもんやねん」
このように,主人公が尊敬する先輩のお笑い芸人に言わせています。しかも,この芸人こそ「本物の阿呆」の典型的な人物として描かれています。となると,「本物の阿呆」は,なろうとおもってもなれない,底抜けの「阿呆さ加減」が求められます。世間でいうところの「ボケ」と「ツッコミ」の関係は,そんなに単純なものではない,ということが透けてみえてきます。
考えてみれば,人が笑う,ということはきわめて哲学的なテーマであるということに気づきます。少しオーバーに言ってしまえば,「笑い」というものは人間の存在論に深く根ざしたテーマでもあります。つまり,人が生きることと「笑い」は不可分のものなのだ,と。ですから,お笑い芸人たちの人間観察は尋常一様ではありません。その「芸」の底の奥深くには,鋭い人間洞察力が隠されているというわけです。
この本の帯には,つぎのようなキャッチ・コピーが踊っています。
この物語は,人の心の中心を貫き通す
「文学界」を史上初の大増刷に導いた話題作。芸人の先輩・後輩が運命のように出会ってから劇は始まった。笑いとは何か,人間が生きるとは何なのか。
お笑い芸人二人。奇想の天才である一方で人間味溢れる神谷,彼を師と慕う後輩徳永。笑いの神髄について議論しながら,それぞれの道を歩んでいる。神谷は徳永に「俺の伝記を書け」と命令した。彼らの人生はどう変転していくのか。人間存在の根本を見つめた真摯な筆致が感動を呼ぶ!
といった調子です。最初に,書店で手にとってこの帯を読んだとき,なんと大げさな・・・と苦笑してしまいました。が,中を読んでみて,こころの底から納得してしまいました。
なるほど,お笑い芸人は作家のまなざしも持ち合わせているのだ,と。そういえば,司会,役者,歌手,MC,画家,などさまざまな分野で驚くべき才能を発揮しているお笑い芸人は少なくありません。なぜ,このような現象がいま起きているのかを考える一助にもなる,とおもいます。お薦めです。
あのテレビに登場する,どこか焦点が定まらないような,あの又吉直樹が,ほんとうにこの小説を書いたのか,と疑問をいだいしてしまうほどの出来ばえのよさです。騙されたとおもって読んでみてください。
といいますのは,この小説の主人公は明らかに著者自身を想定していると考えられるからです。じつに冷めた眼で世の中を受け止めていますし,人物観察もそのままです。逆に,そういう人物がお笑い芸人を目指したことの方が不思議でもあります。が,この小説を読んでみますと,お笑い芸人の「ふところ」の深さをしみじみと感じないではいられません。人を笑わせるためなら,なんでもする,その覚悟のようなものを,ひしひしと感じさせられる,そういう説得力をもった小説になっています。
わたしは明石家さんまのファンで,食事どきにテレビに登場する番組は,欠かさずみるようにしています。かれがつねづね口にする,お笑いの現場は「戦場」なのだ,というセリフは有名です。だから,だれよりも早く相手を「笑い」で打ち倒す,そういう格闘技のようなものなのだ,とかれはいう。したがって,間髪を入れずギャグを連発して,あらゆる人を笑いの渦のなかに巻き込まなくてはならない,とかれは主張します。ですから,かれのパフォーマンスをみていると,それはそれは恐ろしいまでの「芸」の深さに感動してしまいます。
この小説のなかにも,つぎのようなセリフが登場します。
「漫才は・・・・本物の阿呆と自分は真っ当であると信じている阿呆によってのみ実現できるもんやねん」
このように,主人公が尊敬する先輩のお笑い芸人に言わせています。しかも,この芸人こそ「本物の阿呆」の典型的な人物として描かれています。となると,「本物の阿呆」は,なろうとおもってもなれない,底抜けの「阿呆さ加減」が求められます。世間でいうところの「ボケ」と「ツッコミ」の関係は,そんなに単純なものではない,ということが透けてみえてきます。
考えてみれば,人が笑う,ということはきわめて哲学的なテーマであるということに気づきます。少しオーバーに言ってしまえば,「笑い」というものは人間の存在論に深く根ざしたテーマでもあります。つまり,人が生きることと「笑い」は不可分のものなのだ,と。ですから,お笑い芸人たちの人間観察は尋常一様ではありません。その「芸」の底の奥深くには,鋭い人間洞察力が隠されているというわけです。
この本の帯には,つぎのようなキャッチ・コピーが踊っています。
この物語は,人の心の中心を貫き通す
「文学界」を史上初の大増刷に導いた話題作。芸人の先輩・後輩が運命のように出会ってから劇は始まった。笑いとは何か,人間が生きるとは何なのか。
お笑い芸人二人。奇想の天才である一方で人間味溢れる神谷,彼を師と慕う後輩徳永。笑いの神髄について議論しながら,それぞれの道を歩んでいる。神谷は徳永に「俺の伝記を書け」と命令した。彼らの人生はどう変転していくのか。人間存在の根本を見つめた真摯な筆致が感動を呼ぶ!
といった調子です。最初に,書店で手にとってこの帯を読んだとき,なんと大げさな・・・と苦笑してしまいました。が,中を読んでみて,こころの底から納得してしまいました。
なるほど,お笑い芸人は作家のまなざしも持ち合わせているのだ,と。そういえば,司会,役者,歌手,MC,画家,などさまざまな分野で驚くべき才能を発揮しているお笑い芸人は少なくありません。なぜ,このような現象がいま起きているのかを考える一助にもなる,とおもいます。お薦めです。
あのテレビに登場する,どこか焦点が定まらないような,あの又吉直樹が,ほんとうにこの小説を書いたのか,と疑問をいだいしてしまうほどの出来ばえのよさです。騙されたとおもって読んでみてください。
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