2015年5月30日土曜日

「道」の道元的解釈について。道転法輪,仏道,得道,道元,一道。

 『老子道徳経』の冒頭には「道可道,非常道。名可名,非常名」(道の道とすべきは,常の道に非ず。名の名とすべきは,常の名に非ず)というよく知られたことば掲げられています。そして,「道」とはなにか,すなわち「タオ」(道)とはなにかを問い続けます。つまり,この世界の始源としての「道」を探求していきます。ここには,一般的に「道教」(タオイズム)と呼ばれる教えで説くところの「道」の世界が繰り広げられています。

 それに対して,仏教では,「道」は,一般的には「真理」「さとり」を意味します。しかし,禅宗では中国の漢の時代の口語的用法に則って「言う」の意味でも用いられています。道元の『正法眼蔵』のなかでは,「言う」とともにそれを名詞化して「言葉」としても用いられています。さらに,道元は,ふつうには「転法輪」といわれることばに,わざわざ「道」を加えて「道転法輪」ということばを用いています。一般の注釈書では,「道」に特別の意味をもたせずに,転法輪と道転法輪とは同じ意味だと解釈して済ませています。

 しかし,それは違うのではないか,と頼住光子さんは注目します(『正法眼蔵入門』,角川文庫,平成26年12月刊,P.161~167.)。なぜなら,道元は,ことばで表現することが不可能だとされる「さとり」の真相を,なんとか言語で伝えられないものかと創意工夫を加えながら,言説化に挑戦したのが『正法眼蔵』であることを踏まえると,一般に「転法輪」で済ませられているものを,わざわざ「道転法輪」ということばを編み出し,それを自著のなかに埋め込んだのには意味があるはずだ,と頼住光子さんは考えるからです。

 「転法輪」とは,一般には,釈迦の説法のことを意味します。つまり,釈迦の教えである「法」を車輪にたとえ,これを転がしていくことによって釈迦の教えをひろめる,というほどの意味です。このことばは釈迦の弟子のだれかが創案したもので,それが広く認知され用いられるようになったのだと考えられます。しかし,道元はそれでは不十分だと考えたのでしょう。そこで,道元がみずからの「さとり」の経験を踏まえて,より精確に表現するとしたら「道転法輪」というべきだ,と考えたに違いないと頼住光子さんは洞察しています。

 そして,つぎのように考察を展開しています。とても重要なところですので,そのまま引用しておきたいとおもいます。

 そこで,「道」に関して『正法眼蔵』の用例を調べてみると,多数の用例の中で特に注目されるのが,「菩提薩〇四摂法(ぼだいさったししょうほう)」巻の「道を道にまかするとき,得道す。得道のときは,道かならず道にまかせられゆくなり」(全上・764)である。ここで言っている「道」とは「仏道」であり,「仏のさとり」である。「道」を「道」に任せる時に,「得道」(「さとり」を得る)が可能になると言われている。この文章は,「道」を修行するのは個々の修行者ではあるものの,その修行は,他と二元対立的に切り離された個別的存在としての修行者が主体となって行う行為ではなくて,あらゆるものが結びつき合いはたらき合う「道」全体,真理の全体が主語となり,今,ここにおける修行というかたちで自らを顕現しているということを意味している。ここでは,真理としての「道」そのものが主体となっているのである。「道」を単なる「言う」と考えるならばその主体は誰か人間となるであろうが,ここでは真理としての「道」そのものが主体なのである。

 このように述べた上で,さらに,つぎのようにつづけています。

 この用例を踏まえて考えてみれば,「道転法輪」とは,「道」を「道」にまかせたものとしての,つまり,真理としての「道」が主語となった「道転法輪」であると理解することも可能となる。「道転法輪」とは,──中略── つまり,真理がたしかに顕現するということを真理自らが語っているということになる。「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という言葉は,仏性の有無を説明する言葉などではなくて,真理それ自身が,真理の現成する構造を言葉として語っているものとして理解すべきなのだと道元は言うのである。(だからこそ,「悉(ことごと)く仏性あり」ではなくて,悉有(しつう)は仏性なりと読み下される必要があるのである)。

 このように述べた上で,この「道転法輪」の考え方が『正法眼蔵』全体の基底をなすのだ,と頼住光子さんは述べ,道元の主張する「修証一等」という考え方もここにつながるのだ,と結論づけています。こんなにみごとにわたしを納得させてくれた類書は他にはありません。みごとなまでの道元解釈の頼住ワールドを切り拓いているようにおもいます。

 ことここに至って,「道元」という命名そのものにも深い意味があること,そして,この名の人こそ『正法眼蔵』の著者に値するということ,仏道とはたんに「ほとけの道」ではないこと,得道とは「道転法輪」をわがものとすることを意味すること,道元とは,まさに,その「道」の「元」を極めた人の号であること,ということなどがわたしのこころの奥深くで一気に得心されることになります。

 そして,最後に,にっこり笑顔でわたしの脳裏に登場するのが,わたしの尊敬する大伯父である一道和尚のことです。そして,「一道」と命名したわたしの祖父・仙鳳和尚の顔がつづきます。お二人とも,宝林寺の住職。道元が最初に建てた寺の名が「宝林禅寺」(通称,聖興寺)。おそらくは,生涯にわたって道元禅師を意識しながら,その生をまっとうされたに違いない,とこれはわたしの推測。

 いま,生きていてくれたら『正法眼蔵』読解の手ほどきを願い出たことだろうに・・・とかなわぬ夢を思い描いています。至福のとき。

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