道元の名著『正法眼蔵』を理解したい,と長年にわたって夢見てきた。だから,そのための入門書や解説本も何冊も手に入れて,自分なりに読解ができないものか,と挑戦をしてきた。しかし,必死の努力にもかかわらず,ことごとく跳ね返され,挫折を繰り返してきた。その結果は,生半可な理解しかえられず,忸怩たるものがあった。
が,ようやくその壁を打ち破るチャンスが到来した。まさに「ご縁」を覚えるようなテクストに出会ったからだ。それが,表題にかかげた頼住光子著『正法眼蔵入門』(角川文庫,2014年12月25日,初版)である。わたしにとっては運命の出会いともいうべきテクストとなった。なぜなら,じつによくこなれた頼住光子の文章が,ことごとくすとんとわたしの腑に落ちていくのである。一種の快感である。だから,読まずにはいられない,そういう衝動にかられるテクストなのである。これまでのような苦渋にみちた努力など必要ないのである。暇があれば,何回でも読みたくなる,そういうテクストなのだ。まことにありがたいことだ。
じつは,しばらく前の東京新聞に3回にわたって,かなり大きなコラムで「道元」を連載したことがあって,それで頼住光子という人の存在を知った。しかも,じつにわかりやすい文章なのが印象的だった。そのときは,新聞だから,読者のことを考えてわかりやすい平易な文章で語ってくれたのだろう,とおもっていた。しかし,そうではなかった。平易な文章で書けるほどに「道元」のことも「正法眼蔵」のことも自家薬籠中のものとしていたのだ。そのことを,このテクストをとおして知った。じつに難解な道元の文章を,じつにわかりやすくときほぐしてくれるのである。
その最初の手がかりとなったのは,道元の文体には二種類あって,道元はそれを使い分けて書いている,という頼住光子の指摘である。一つは,だれもが理解できる,いわゆる世俗の人びとが用いる説明調の文体である。つまり,わたしたちが用い,慣れ親しんだ,みんなが共有する言説である。この文体で書かれた部分はだれにもよくわかる,という。なるほど。以前から,こんなにわかりやすい文章を書く人が,肝心要のところにくると,なにを言っているのか杳としてその真意がつかめない,そういう文体が登場する。これが,道元の二つめの文体だ,という。
それは,仏教の世界で起きていることがらを説明するときの文体である。それは世俗の世界でみえている事態とはまるで異なる次元のことを語るときの文体なのだ。そこでは世俗の二項対立的な分節はなんの役にも立たず,むしろ,邪魔ですらある,という。もっと言ってしまえば,仏教世界のことがらは,ふつうの言語で説明できることがらではない,と道元は考えていた。これを禅の世界では「不立文字」という。しかし,周囲の弟子たちから請われるままに,言説化が不可能な世界を言説化するには,世俗とは異なる言語体系を構築し,そこに委ねるしかないと道元は考えたのだ,という。
たとえば,「迷悟一如」。迷いと悟りはひとつのことだ,という。そして,迷うのも悟りの一つであり,悟るのもまた迷いの一つなのだ,と道元はいう。だから,迷いと悟りはまったく同じものなのた,というのである。しかし,こういう論法は,世俗に生きるわたしたちには理解不能だ。そこに,頼住光子は割って入って,つぎのように読み解いてくれる。
人は迷いがあるから仏門を叩くことになる。仏門を叩くときすでにその段階での悟りをえている。そして,その悟り=迷いのレベルに応じて修行が開始される。すると,どことなく当初の迷いが消え,ある種の悟りをわがものとする。しかし,そのうちにまた新たな迷いが現れる。これは新しい悟りの境地なのだ。もうひとつレベルの高い悟りに達したから,それに対応する迷いが生ずるのだ,と。このようにして,迷いがなければ悟りには至らないし,悟りをえるとまた新しい迷いが生まれてくる,この繰り返しが仏(さとり)の道なのだ,と。これが,道元の説く「迷悟一如」なのだ,というわけである。
これとまったく同じ論法が「修証一等」ということばだ。修行することと悟る(証)ことは一つのことであって,まったく同じものなのだ,という。修行をしようと発心するとき,すでに,人はある悟りをえている。だから,修行をしようと思い立つ。なにもなかったら修行などを思い立つこともない。こうして,修行と悟りは一つの鎖のように連鎖していく。だから,修行(=悟り)には終わりがない。無限につづく。しかも,行住坐臥,すべて修行だ,という。つまり,生きていることそのことが修行であり,悟りなのだ,と。
あるいは,「青山常運歩」という。つまり,「山は動く」と。人間が「動く」(運歩=歩く)のと同じように「青山」(=山)もまた「運歩」(=歩く)するのだ,と説く。こんなことは,世俗の世界ではありえない。しかし,仏(=さとり)の世界では,人と山とが一体化し,一つになってしまう。つまり,自己と他己(仏教用語で,他者のこと)との境がなくなってしまう。そこが「空」の世界であり,その境地に立てば,人と山は一つになっているので,人が動くのと同じように山も動く,そこになんの違和感もなくなる,それが「さとり」の世界なのだ,という。
いわゆる禅問答が展開していく。もちろん,道元が『正法眼蔵』で説いている仏教世界は,それまで先人たちによって蓄積されてきた遺産を引き継いだものだ。そこに,さらに道元固有の工夫や思考の深みを加えたものが『正法眼蔵』なのである。
ここに挙げた例はほんの一例にすぎない。が,しかし,このようにして道元の説く仏教世界の入り口が鮮明にみえてくると,もっと読もうという意欲が湧いてくる。いや,それどころか抑えようがなくなってくる。それほどのインパクトをこの頼住光子の入門書は持ち合わせている。
もっとも,この現象は,頼住光子の入門書を真っ正面から受け止められるレディネスを,たまたま,わたしが持ち合わせていたからこそ起きたことにすぎないかもしれない。それにしても,久しぶりに読書による愉悦に浸ることができた。そして,これからはいつでもその愉悦に入ることができる。幸せである。おまけに,ここをうまくクリアすれば,おそらく本丸である道元の『正法眼蔵』の解説本に踏み込んでいくことも可能だろう,と夢見ている。
そして,いつの日にか,念願の『正法眼蔵』読解・私家版を書いてみたい・・・・と。
が,ようやくその壁を打ち破るチャンスが到来した。まさに「ご縁」を覚えるようなテクストに出会ったからだ。それが,表題にかかげた頼住光子著『正法眼蔵入門』(角川文庫,2014年12月25日,初版)である。わたしにとっては運命の出会いともいうべきテクストとなった。なぜなら,じつによくこなれた頼住光子の文章が,ことごとくすとんとわたしの腑に落ちていくのである。一種の快感である。だから,読まずにはいられない,そういう衝動にかられるテクストなのである。これまでのような苦渋にみちた努力など必要ないのである。暇があれば,何回でも読みたくなる,そういうテクストなのだ。まことにありがたいことだ。
じつは,しばらく前の東京新聞に3回にわたって,かなり大きなコラムで「道元」を連載したことがあって,それで頼住光子という人の存在を知った。しかも,じつにわかりやすい文章なのが印象的だった。そのときは,新聞だから,読者のことを考えてわかりやすい平易な文章で語ってくれたのだろう,とおもっていた。しかし,そうではなかった。平易な文章で書けるほどに「道元」のことも「正法眼蔵」のことも自家薬籠中のものとしていたのだ。そのことを,このテクストをとおして知った。じつに難解な道元の文章を,じつにわかりやすくときほぐしてくれるのである。
その最初の手がかりとなったのは,道元の文体には二種類あって,道元はそれを使い分けて書いている,という頼住光子の指摘である。一つは,だれもが理解できる,いわゆる世俗の人びとが用いる説明調の文体である。つまり,わたしたちが用い,慣れ親しんだ,みんなが共有する言説である。この文体で書かれた部分はだれにもよくわかる,という。なるほど。以前から,こんなにわかりやすい文章を書く人が,肝心要のところにくると,なにを言っているのか杳としてその真意がつかめない,そういう文体が登場する。これが,道元の二つめの文体だ,という。
それは,仏教の世界で起きていることがらを説明するときの文体である。それは世俗の世界でみえている事態とはまるで異なる次元のことを語るときの文体なのだ。そこでは世俗の二項対立的な分節はなんの役にも立たず,むしろ,邪魔ですらある,という。もっと言ってしまえば,仏教世界のことがらは,ふつうの言語で説明できることがらではない,と道元は考えていた。これを禅の世界では「不立文字」という。しかし,周囲の弟子たちから請われるままに,言説化が不可能な世界を言説化するには,世俗とは異なる言語体系を構築し,そこに委ねるしかないと道元は考えたのだ,という。
たとえば,「迷悟一如」。迷いと悟りはひとつのことだ,という。そして,迷うのも悟りの一つであり,悟るのもまた迷いの一つなのだ,と道元はいう。だから,迷いと悟りはまったく同じものなのた,というのである。しかし,こういう論法は,世俗に生きるわたしたちには理解不能だ。そこに,頼住光子は割って入って,つぎのように読み解いてくれる。
人は迷いがあるから仏門を叩くことになる。仏門を叩くときすでにその段階での悟りをえている。そして,その悟り=迷いのレベルに応じて修行が開始される。すると,どことなく当初の迷いが消え,ある種の悟りをわがものとする。しかし,そのうちにまた新たな迷いが現れる。これは新しい悟りの境地なのだ。もうひとつレベルの高い悟りに達したから,それに対応する迷いが生ずるのだ,と。このようにして,迷いがなければ悟りには至らないし,悟りをえるとまた新しい迷いが生まれてくる,この繰り返しが仏(さとり)の道なのだ,と。これが,道元の説く「迷悟一如」なのだ,というわけである。
これとまったく同じ論法が「修証一等」ということばだ。修行することと悟る(証)ことは一つのことであって,まったく同じものなのだ,という。修行をしようと発心するとき,すでに,人はある悟りをえている。だから,修行をしようと思い立つ。なにもなかったら修行などを思い立つこともない。こうして,修行と悟りは一つの鎖のように連鎖していく。だから,修行(=悟り)には終わりがない。無限につづく。しかも,行住坐臥,すべて修行だ,という。つまり,生きていることそのことが修行であり,悟りなのだ,と。
あるいは,「青山常運歩」という。つまり,「山は動く」と。人間が「動く」(運歩=歩く)のと同じように「青山」(=山)もまた「運歩」(=歩く)するのだ,と説く。こんなことは,世俗の世界ではありえない。しかし,仏(=さとり)の世界では,人と山とが一体化し,一つになってしまう。つまり,自己と他己(仏教用語で,他者のこと)との境がなくなってしまう。そこが「空」の世界であり,その境地に立てば,人と山は一つになっているので,人が動くのと同じように山も動く,そこになんの違和感もなくなる,それが「さとり」の世界なのだ,という。
いわゆる禅問答が展開していく。もちろん,道元が『正法眼蔵』で説いている仏教世界は,それまで先人たちによって蓄積されてきた遺産を引き継いだものだ。そこに,さらに道元固有の工夫や思考の深みを加えたものが『正法眼蔵』なのである。
ここに挙げた例はほんの一例にすぎない。が,しかし,このようにして道元の説く仏教世界の入り口が鮮明にみえてくると,もっと読もうという意欲が湧いてくる。いや,それどころか抑えようがなくなってくる。それほどのインパクトをこの頼住光子の入門書は持ち合わせている。
もっとも,この現象は,頼住光子の入門書を真っ正面から受け止められるレディネスを,たまたま,わたしが持ち合わせていたからこそ起きたことにすぎないかもしれない。それにしても,久しぶりに読書による愉悦に浸ることができた。そして,これからはいつでもその愉悦に入ることができる。幸せである。おまけに,ここをうまくクリアすれば,おそらく本丸である道元の『正法眼蔵』の解説本に踏み込んでいくことも可能だろう,と夢見ている。
そして,いつの日にか,念願の『正法眼蔵』読解・私家版を書いてみたい・・・・と。
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