2015年5月7日木曜日

Tokyo Contact Impro Festival 2015 のPERFORMANCE を見学してきました。

 高橋弘子さんからお知らせをいただき,昨日(5月6日)の夜(午後7時~9時),Tokyo Contct Impro Festival 2015 の PERFORMANCE を見学してきました。場所は,代々木のオリンピック記念青少年総合センターのカルチャー棟・4F。

 まずは,昨日行われたプログラムを紹介しておきましょう。

 1.コンタクト・インプロヴィゼーション/パフォーマンス
  出演:サシャ・ベズロドゥノワ,デヴィッド・フランス,アンドリュー・ワス,池田理枝,池田仁徳,国枝昌人,高橋弘子,永井美里,長嶋務,野村絵里,福本まあや(50音順)
 サウンド:栗林いずみ,Manhan マニャン
 (休憩・10分)
 2.フェスティバル報告会
  招聘講師と受講生による各クラスのデモンストレーション
   ボディ・マインド・センタリング/デヴィッド・フランス
   コンタクト・インプロヴィゼーション/アンドリュー・ワス
   コンタクト・インプロヴィゼーション/サシャ・ベズロドゥノワ
 3.ジャムセッション

 主催:CIIN.
 Special Thanks :カタヨセヒロシ,成瀬知詠子,上本竜平,日本体育大学ダンス部

 以上で大枠は理解できたこととおもいます。じつは,高橋弘子さんの活動を拝見させてもらうのが,今回が初めてでした。ですから,内容については,その場に立って,見せていただいて,はじめてなるほどこういうものであったか,と納得しました。とはいえ,たった一回,見せていただいただけのことですので,とやかく論評できる立場にはありません。

 第一,ダンスに関しては門外漢です。ただ,人が舞い踊るということに関しては学生時代から興味をもっていましたので,以来,長い人生を生きている間に,いろいろ雑多ではありますが,かなり多くの舞踊(ダンス)をみてきました。とりわけ,人生の後半では身体論に強い興味・関心をいだきましたので,その観点から舞踊(ダンス)を,しっかりとみるようになりました。

 なかでも,竹内敏晴さんとの出会いは,いまも強烈な印象となって残っています。とくに,竹内敏晴さんを囲む会を結成して,何回にもわたって,しかも長時間にわたる座談(竹内さんの強い要望による)をさせていただきました(その内容は近日中に本になる予定)。そこでのメインのテーマは「じか」でした。つまり,「じか」に触れる,とはどういうことなのか。ことわるまでもなく,竹内さんは演劇の人ですが,野口体操を取り入れ,それに竹内流の創意工夫を加えた独特の,からだに関する理論とシステムを構築し,いわゆる「竹内レッスン」として全国各地で実践されました。

 こんな話をはじめますと,エンドレスになってしまいますので,本題に入ります。

 ごくかんたんに,わたしの受けた印象について述べておきたいとおもいます。これは,ある意味では,高橋弘子さんへのレポートでもあります。

 今回,見学させていただいて,わたしの頭のなかですっきりしたことの第一は以下のとおりです。
 コンタクト・インプロは,要するに,近代的理性による呪縛からの解放なのだ,ということでした。つまり,頭でっかちになってしまった近代人は,なにごとによらず理性に頼りきり,すべてのことがらを二項対立的に分類し,そのいずれかに身も心も委ねていくことが慣習化してしまいました。ですから,自分自身の身体についても,まずは,頭で考えられるものだけを信じ,理論的に説明のできないものは排除してきました。それが近代的理性に目覚めた近代人の理想であるかのように。しかし,近代的理性の諸矛盾がしだいに明らかになるにつれ,わたしたちの身体もまた,そんなに単純なものではない,という主張がでてくるようになりました。

 とりわけ,ポスト・モダンの運動が盛り上がってきたころの,最大の原動力はここにあった,とわたしは考えています。そして,近代的理性の呪縛を解き放ち,その外に眼を向けること,そこにはもっとのびやかな自由な時空間が広がっている,と主張する人たちが現れました。とくに,建築関係の人たちが早かったとおもいます。それと同時に,アートにかかわる人たちがつづき,やがて,アカデミズムの世界でも大きな議論となりました。コンタクト・インプロもこんな流れのなかで誕生してきた,というように記憶しています。

 ところが,当初,コンタクト・インプロをみた人は,なにが,どうなっているのか,なかなか理解に苦しみました。しかし,この面白さに気づき,のめり込んだパフォーマーにとっては,瞬間,瞬間に広がる無限の可能性がたまらない魅力となっていきました。とくに,合気道との出会い,そして,コラボレーションが大きな話題にもなりました。このあたりから,コンタクト・インプロの存在が,べつの意味で注目されるようになったとおもいます。そして,さまざまなアイディアが持ち込まれ,じつに多様な展開をはじめました。

 またまた,脱線しはじめていますので,もとにもどします。

 今回,見学させていただいて,第二に印象に残ったことは,パフォーマーの個性というものでした。自己と他者との関係性のなかで,どこまで自己が「開かれている」かどうか,その「開かれた」自己にからだがどのように反応するのか(こころとからだは表裏一体であることを承知した上で,なおかつ,このような説明の仕方をさせてもらいます),ここが最大のポイントになるのだろうとおもいます。つまり,自己からのはたらきかけに対する他者の反応,そして,他者からのはたらきかけに対して自己の応答,です。しかも,この応答が,意識が立ち現れる以前の「純粋経験」(西田幾多郎)として表出したときの自己の驚き,その驚きがまた他者にも伝わっていき,その他者もまた意識が立ち現れる以前の「純粋経験」として応答する,その連鎖反応が起きたとき,もはや,自己も他者もなくなってしまいます。

 このあたりのことは,たとえば,ジャン=リュック・ナンシーが「パルタージュ(partage)」という概念を提示して,さまざまな問題提起をしていることがらと,深いところで通底しているうよにおもいます。つまり,「接触」によって生まれる「分割/分有」という考え方です。しかも,こここそが人間の存在を確認する原点ではないか,とする「存在論」の議論につながっていくようにおもいます。

  こんなことをきっかけにして,昨夜のわたしの頭のなかは,ジョルジュ・バタイユの「非-知(non savoir)におよび,バタイユの説く動物性と人間性を分かつ「理性」の問題にとび,さらには,いま読み続けている道元の「無我」の世界とか,あるいは,「修証一等」とか「証上の修」といった考え方が駆けめぐっていました。これらの点については,いつか,チャンスがあれば,直接,お会いしてお話させていただきます。そう,福本まあやさんもご一緒だと,もっと面白いかも。

 で,そんなことを思い巡らせながらパフォーマンスを眺めていましたら,一人ひとりのパフォーマーの個性が剥き出しに表出していることに気づき,その迫力に圧倒されてしまいました。つまり,個性を善悪の二項対立で考えることの無意味さが,そこにはもののみごとに現れていたということです。こんな言い方をするとたいへん失礼かもしれませんが,それをみているわたしの方もまた,理性の呪縛から解き放たれ,ただ,みているだけなのに,わたしのこころもからだも,いつのまにかジャムセッションのなかに溶け込んでいました。

 ですから,わたしの腕が引っぱられたり,頭を押されたりしているわけです。そのうちに,みているだけなのにその人の腕を引っぱりたくなったり,いま,この瞬間にこの角度から,相手に向かってこんな風に腕を伸ばしたい・・・・と勝手に感じとりながら,すっかりジャムセッションに参加し,一体化していました。

 それにしても,たった一人として,同じ個性の人はいない,もののみごとにみんな「違う」,と感じ入っていました。しかも,これまで経験したこともない鮮明さでみえてきたことには,驚くほかありませんでした。もっと言ってしまえば,その人の内面までもが「丸見え」になっていて,こんなにも「見える」ものなのか,と驚きました。そこは,もはや日常の時空間を超越した,異次元の世界を垣間見るようなおもいがしました。

 恐るべし,コンタクト・インプロ!の初体験でした。

 その結論は,わたしが考えつづけている「動物性への回帰願望」の表出が,ここにこそ存在している,というものでした。

 以上,取り急ぎ,レポートまで。詳しくは,お会いした上で。あっ,そうだ,そのときは「カトノリ」さんも一緒だと,もっと弾けそうですね。

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