2015年9月3日木曜日

高い姿勢で,よいイメージを描きながら,手足は力を抜いてへらへらと動かしなさい。李自力老師語録・その58。

 久しぶりに李自力老師が稽古に顔をみせてくださいました。日中往来の超多忙のなか,貴重な時間を割いてくださり,申しわけないのひとことです。

 今日は,しばらく黙ってわたしたちの稽古をみとどけた上で,わたし個人に対してつぎのような指導をしてくださいました。

 「これは,わたしの個人的な考えですが・・・・」と前置きして,かなり厳しい口調で「高い姿勢で,よいイメージを描きながら,手足は力を抜いてへらへらと動かしなさい」「なぜならば・・・・」というお話をされました。もちろん,わたしの術後のからだのことを念頭に置いてのお話で,特例中の特例というべきかもしれません。しかし,よくよく考えてみますと,以前から何回も言われてきた「高い姿勢で,からだの力を抜いて,楽な気持ちで」という指摘と,基本的には同じことです。つまり,太極拳の「普遍」に通ずる道を指摘されたということです。

 別の言い方をすれば,世阿弥の『風姿花伝』にでてくる「時分の花」を超越した境地をめざせ,ということでもある,とわたしは理解しました。いたずらに低い姿勢をめざして,若さと競合するようなことはやめなさい,と。年齢相応に,そして,術後の「からだ」にふさわしい太極拳をめざせ,と。つまり,弱ったからだに無理を強いて,余分な負荷をかけて稽古をしてもなんの役にも立ちません,と。

 こんな李老師のお話を聞いていたら,道元のいう「修証一等」ということばが浮かんできました。修行と悟りは一つのことである,と。つまり,修行は悟りのレベルに応じて可能なのであって,無理をして修行をしてもなんの役にも立たない,と道元は『正法眼蔵』のなかで説いています。つまり,修行とは悟りの表出なのだ,と。あるいはまた,悟りとは修行そのものであって,それ以外のものではない,と。

 ここまで考えたときに,今日の李老師のことばはとても重いものだ,と気づきました。そして,最後の「とどめ」は,術後の胃(三分の二切除)と肝臓(三分の一切除)に負荷をかけてはいけません,というものでした。低い姿勢で脚に負荷がかかると,それと同じように内臓にも負荷がかかります。その負荷は術後の内臓の回復のためになりません。できるだけ,内臓に負荷をかけないで,ゆったりとした太極拳をめざしなさい。それが術後の太極拳というものです。

 からだ最優先。それに見合った太極拳をしなさい。無理は禁物。そこにもまた太極拳の新たな地平が拡がっています。と懇々と説諭されてしまいました。ここまで言われたら,もはや,返すことばもありません。それどころか,身にあまる光栄,ありがたいことです。

 この説諭のあと,「高い姿勢で,よいイメージを描きながら,手足は力を抜いてへらへらと動かす」太極拳の見本を垂範してくださいました。つまり,よいイメージを描くことに意識を集中させることを最優先にし,あとは,全身の力を抜いて「適当に」手足をへらへらと動かせば,それでいい,と。これがまた,みごとに美しいのですから,困ってしまいます。とても,あんな風にはできません。そうか,高い姿勢とはいえ,そして,力を抜いてしまっても,いや,力を抜いてしまうからこそ,そこに浮かび上がってくる表演は,また,新たな,もう一つの太極拳の醍醐味なのだ,と納得しました。

 かくなる上は,これからの太極拳はそこを目指そう,とこころに決めました。

 今日の稽古はわたしにとっては「値千金」でした。長く記憶に残る稽古になるでしょう。また,そうあらねばならない,とも感じました。ありがたいことです。謝々,李老師!

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