たまたまご縁があって,李自力老師の特別レッスンを見学させてもらったことがありました。対象は日本を代表する女子選手たち。その折に,李老師が説かれた「気場」ということばがずっと気がかりになっていました。
かんたんに説明しておけば,気の置き所,あるいは,気を入れるポイント,というような意味であったと記憶しています。とくに,陳式などの早く力づよい動作を決めるときに強調されていたようにおもいます。が,それだけではなくて,ゆっくりとした動作の楊式などでも,一つの技が決まる動作のときには,この「気場」が大事です,と仰っていたようにおもいます。
つまり,「気」をどういうときに,どこに置くのか,その「場」をわきまえなさい,という教えなのでしょう。ということは,わたしたちが長年とりくんでいる「24式」にも該当することになります。言ってみれば,「気」をどのように遣うのか(=「気遣い」),ここがポイントになってきます。別の言い方をすれば,「めりはり」をどのようにつけるか,ということにもなるでしょう。もっと厳密に言えば,技の決めに「気」を籠めろ,ということなのでしょう。
「気」の抜けた太極拳などは,どう考えてみても,それはもはや太極拳とはいえません。むしろ,まったく逆に「気」の流れが,一つひとつの動作に表出するような太極拳こそが,理想として求められることになります。この肝心要の「気」をわがものとし,その上で,動作に合わせてどのようにしてとおすのか,あるいは,流すのか,ここが大きな課題となってきます。
こうなりますと,「気」とはなにか,という議論になってきますが,この話はいずれまた別の機会に書いてみることにします。ここでは,とりあえず,経験則にもとづく「気」の範囲という程度で理解しておいてもらえればいいとおもいます。つまり,「気分がいい」「気持ちがいい」「気合を入れる」「気が合う」「気力が充実している」「気がみなぎる」「気を鎮める」「気が滅入る」「気が狂う」「気が散る」「気が多い」「気が短い」「気がいい」「気が知れない」「気がない」,というような具合で用いられる「気」です。
しかし,これだけでは,やはり,やや片手落ちだとおもいますので,もう少しだけ補足しておくことにしましょう。「気」のもともとの意味は,天地を満たし,宇宙を構成する基本となるものの総称です。もう少しだけ踏み込んでおきますと,生命の原動力や勢いのこと,あるいは,活力の源,といったところです。なんのことはありません。これこそが太極拳の「太極」の意味そのものなのです。すなわち,混沌(老子),宇宙の本体,万物生成の根源,というわけです。
ですから,「気」はすべて万物生成の根源から発せられるものだということになります。その「気」を,わたしたちのからだで受け止め,それを太極拳でもちいる「場」,それが「気場」ということになるのでしょう。
こういう眼で,李老師の動作に注目してみますと,まさに,この「気」が全身を駆けめぐるようにして動いていくのが見えてきます。そして,それは,もはや異次元の世界を彷彿とさせるものです。なぜなら,日本を代表するような選手たちを前にしてみせる動作は,ごく簡単な動き方からして,選手たちのそれとは次元が違います。この違いはどこからくるのでしょうか。
その結論は,「気場」を,どこまでわがものとしているのか,その一点にあるとおもいます。そして,それを自由自在に駆使できるようにするための稽古の蓄積であり,同時に,こころの置き所,すなわち「気場」との一体化にある,ということだとおもいます。
道は遠く険しい。だが,歩まねばならない。
そうこころに決めて,前を向きたいとおもいます。
かんたんに説明しておけば,気の置き所,あるいは,気を入れるポイント,というような意味であったと記憶しています。とくに,陳式などの早く力づよい動作を決めるときに強調されていたようにおもいます。が,それだけではなくて,ゆっくりとした動作の楊式などでも,一つの技が決まる動作のときには,この「気場」が大事です,と仰っていたようにおもいます。
つまり,「気」をどういうときに,どこに置くのか,その「場」をわきまえなさい,という教えなのでしょう。ということは,わたしたちが長年とりくんでいる「24式」にも該当することになります。言ってみれば,「気」をどのように遣うのか(=「気遣い」),ここがポイントになってきます。別の言い方をすれば,「めりはり」をどのようにつけるか,ということにもなるでしょう。もっと厳密に言えば,技の決めに「気」を籠めろ,ということなのでしょう。
「気」の抜けた太極拳などは,どう考えてみても,それはもはや太極拳とはいえません。むしろ,まったく逆に「気」の流れが,一つひとつの動作に表出するような太極拳こそが,理想として求められることになります。この肝心要の「気」をわがものとし,その上で,動作に合わせてどのようにしてとおすのか,あるいは,流すのか,ここが大きな課題となってきます。
こうなりますと,「気」とはなにか,という議論になってきますが,この話はいずれまた別の機会に書いてみることにします。ここでは,とりあえず,経験則にもとづく「気」の範囲という程度で理解しておいてもらえればいいとおもいます。つまり,「気分がいい」「気持ちがいい」「気合を入れる」「気が合う」「気力が充実している」「気がみなぎる」「気を鎮める」「気が滅入る」「気が狂う」「気が散る」「気が多い」「気が短い」「気がいい」「気が知れない」「気がない」,というような具合で用いられる「気」です。
しかし,これだけでは,やはり,やや片手落ちだとおもいますので,もう少しだけ補足しておくことにしましょう。「気」のもともとの意味は,天地を満たし,宇宙を構成する基本となるものの総称です。もう少しだけ踏み込んでおきますと,生命の原動力や勢いのこと,あるいは,活力の源,といったところです。なんのことはありません。これこそが太極拳の「太極」の意味そのものなのです。すなわち,混沌(老子),宇宙の本体,万物生成の根源,というわけです。
ですから,「気」はすべて万物生成の根源から発せられるものだということになります。その「気」を,わたしたちのからだで受け止め,それを太極拳でもちいる「場」,それが「気場」ということになるのでしょう。
こういう眼で,李老師の動作に注目してみますと,まさに,この「気」が全身を駆けめぐるようにして動いていくのが見えてきます。そして,それは,もはや異次元の世界を彷彿とさせるものです。なぜなら,日本を代表するような選手たちを前にしてみせる動作は,ごく簡単な動き方からして,選手たちのそれとは次元が違います。この違いはどこからくるのでしょうか。
その結論は,「気場」を,どこまでわがものとしているのか,その一点にあるとおもいます。そして,それを自由自在に駆使できるようにするための稽古の蓄積であり,同時に,こころの置き所,すなわち「気場」との一体化にある,ということだとおもいます。
道は遠く険しい。だが,歩まねばならない。
そうこころに決めて,前を向きたいとおもいます。
0 件のコメント:
コメントを投稿